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博士論文審査要旨

論文題目:「韓国併合」前後の間島問題―「間島協約(1909)」の適用をめぐって―
著者:小林 玲子 (KOBAYASHI, Reiko)
論文審査委員:糟谷憲一、三谷 孝、坂元ひろ子、吉田 裕

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本論文の構成
 本論文は、1909年9月4日、日清両国の間に「間島ニ関スル協約」(以下、間島協約と略す)が調印された後、日本が1915年8月23日に同年5月25日調印の「南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約}(以下、南満東蒙条約と略す)を適用するに至るまでの時期を対象として、同協約の規定が実際にはどのように適用されたかに注目しつつ、中国側が間島在住朝鮮人に対する支配をどのようにして確立しようとしたか、これに対して朝鮮民族独立運動の取締を重要課題とした日本の間島政策はどのように展開したのか、これら両者の対抗の下で間島在住朝鮮人はどのような地位に置かれたかを、詳細に跡づけて、「間島協約」の歴史的意義を再検討した研究である。その構成は次のとおりである。

序 論
第1章 日本の間島及び豆満江沿岸警備体制の成立
 前史
 第1節 統監府臨時間島派出所撤退後の間島と豆満江沿岸の対策
 第2節 間島協約後の日清関係
 第3節 日本による間島と豆満江の防備
第2章 清国の間島朝鮮人に対する「帰化強制」と日本による義兵および民族独立運動家の逮捕
 第1節 清国の間島朝鮮人に対する「帰化強制」
 第2節 韓国併合後における清国の警察の状況
 第3節 間島における日本の義兵および民族独立運動家に対する取締
第3章 間島協約後における間島領事官の権利行使の限界と朝鮮総督府による間島への勢力拡張
 第1節 中国地方行政機構の機能低下と朝鮮総督府による間島への介入の深まり
 第2節 中国による雑居地外区域も中国の管轄下という方針の明示
 第3節 中国官憲と義兵の関係と日本領事館付警察官への耶蘇教村の反抗
結 章  
 第1節 日本の間島政策の限界
 第2節 「南満東蒙条約」の妥結と間島への適用
 第3節 結論

2.本論文の概要
 序章では、まず1909年の間島協約の条項を説明し、間島朝鮮人に対する裁判管轄権をめぐって日本と中国の間に新たな争いがもたらされ、対立が深まっていったことを指摘して、間島協約下での間島の実態を究明することの重要性を提起している。そして、本論文の課題が、(1)間島協約において中国人の間島在住朝鮮人への支配はどのように展開したのか、(2)義兵や民族独立運動家の取締を中心とした日本による間島政策はどのように展開したのか、(3)日中が対抗関係にあった間島において朝鮮人の生活はどのようであったのか、朝鮮人の権利はどのように「保護」されていたのか、あるいは、されていなかったのかを究明することにあることが示されている。
 次に、1973年に発表された井上学「日本帝国主義と間島問題―1910年代・20年代前半」以降の先行研究を検討している。これらの先行研究は、中国が日本の勢力を排除し、対抗するためにとった政策の実態、中国側が間島協約に規定された日本の権利を極力制限しようとしたことについて論じていないと指摘し、新たな研究の地平を開くために、裁判管轄権問題を中心にして間島協約後の間島問題を考察する点が、本論文の独自性であると論じている。
 序章の最後に、史料としては、刊行史料のほかに、未刊行史料である日本外務省外交史料館所蔵「外務省記録」のうちの間島関係史料に多くを依拠することを述べている。
 第1章の「前史」では、間島協約調印までの間島の歴史について述べている。豆満江北岸の間島(ほぼ現在の吉林省延辺朝鮮族自治州に当たる)に朝鮮哲宗(在位1849~1863
の末年以降、朝鮮人が大量に流入したことから始まって、日本が韓国を保護国にした後、1907年8月に統監府臨時間島派出所を設置して裁判管轄権の行使をはかったが、「満洲に関する諸懸案」を優先させて、間島在住朝鮮人に対する裁判管轄権を放棄した間島協約を調印するまでの経緯が、簡潔に明らかにされている。
 第1節では、まず、間島協約の調印によって、統監府臨時間島派出所は撤退したが、日本は代わって間島総領事館と4領事分館を設置し、61名の領事館警察官を配置したこと、そのうち間島総領事館付警察官は42名に及び、清国に置かれた領事館警察の中では最大規模であったことを指摘している。次に、統監府臨時間島派出所の撤退とともに、韓国駐箚憲兵隊間島分隊も撤退したのに対応して、日本軍は豆満江対岸の咸鏡北道に憲兵隊鏡城分隊を新設し、間島との国境沿いに憲兵分遣・派遣所を増加し、配備人員も増やして、ロシア・清国領からの義兵の攻撃に対する防御、義兵や民族独立運動家への内偵をはかったことを明らかにしている。
 第2節では、まず、統監府臨時間島派出所の設置に対抗して、清国が、1907年8月に間島の行政を担当する辺務督弁公署を設置して以降、1910年2月に同公署が財政難によって廃止され、東南路兵備道が代わって間島の行政を担当するようになるまでの地方行政機構の変遷について述べている。
 次に1910年1月に、龍井村〔間島総領事館所在地〕の商埠地(龍井村・局子街などの開市地)居住の朝鮮人が起こした傷害事件をめぐる日清間の争いを分析している。これは、当該朝鮮人を清国官憲が拘引し、局子街の審判庁(裁判所)へ送致したのに対して、日本領事館側が抗議すると、清国側が商埠居住者であっても、雑居地〔朝鮮人に居住、土地所有等を許した地域〕に土地を所有している場合には清国に裁判管轄権があると主張した事例である。分析を進めるに当たって、著者は、間島在住朝鮮人は、間島協約に従うと商埠地居住朝鮮人、雑居地居住朝鮮人(雑居地の範囲は、延吉・和龍両県と汪清県の?呀江以西、安図県のうち白頭山方面)、雑居地外居住朝鮮人(汪清県の?呀江以東と琿春県)に区分され、この区分に従って法的地位も異なっていることを指摘しており、以後の分析でも、この区分を有効に活かしている。そして、この事件を通じて間島協約の交渉時における伊集院彦吉清国駐箚日本公使の発言で、清国側に有利に利用できる点を書き留めた「条約善後」なる文書を清国側が持っていることが明らかにされたことを指摘し、「条約善後」の内容の検討・分析を行なっている。筆者は、(1)清国側は、雑居地居住朝鮮人に対する清国による裁判に日本が立ち会う権利を非常に限定的なものにとどめようとしていたことがわかり、(2)間島協約では、雑居地外居住朝鮮人に対する清国の法権〔裁判管轄権〕が確定せず、日本が韓国を併合した場合、1896年の日清通商航海条約の「被告主義」を雑居地外居住朝鮮人に適用することを主張するようになることを避けたかったと思われる、などの点を指摘している。
また、1910年1月の事件については、2月に伊集院公使が、清国の主張は条理に照らして大いに諒とすべきで、「抗議の余地なし」と述べたことを明らかにし、事件は伊集院公使の言葉どおりに収束していったようであるとしている。
 第三に、間島協約成立後も、日清官憲(清国警察と日本領事館警察)との衝突が絶えなかったことが、事例を挙げて述べられている。
 第四に、間島在住朝鮮人が殺人・強盗などの被害にあった1910年のいくつかの事例の分析をもとに、雑居地内で日本側が裁判に立ち会うことはすでに制限されているようであり、「人命犯」(殺人犯)の裁判に立ち会っている例がみられるのみであること、雑居地外では清国官憲が朝鮮人の生活を脅かしている事例があることを、指摘している。
 第五に、1910年7月13日の頭道溝在勤副領事の報告に基づいて、朝鮮人同士の事件は地域の朝鮮人「名望家」が解決している事例もあったことを指摘している。
 第三節では、まず、1910年3月に清国側要求に沿って領事館警察の減員が行なわれたこと、1910年の時点では清国側は義兵の取締に積極的に取り組み、日本側もその取締能力を認めていたことが指摘される。ついで、統監府は義兵の活動を理由に憲兵を間島に派遣することを主張し、1910年7月に憲兵が派遣され、9月には領事館警察の中には、従来の領事館警察署系の他に、朝鮮総督府から派遣の憲兵将校の指揮を受ける朝鮮総督府系が分立するようになったことが指摘される。
第2章では、第1節に入る前にまず、韓国併合(1910年8月29日)後の間島在住朝鮮人の法的地位が検討されている。その結果、(1)日本は、間島在住朝鮮人の国籍が日本になっても、日本の法権下に入ったとして裁判権を行使していくことを方針としていたわけではなかったこと、(2)その理由としては、①雑居地居住の朝鮮人を「治外法権」の下に置くと、雑居地外居住の朝鮮人も同様の取扱を与えなければならないが、それには特別の条約を必要とするので他日の機会に譲ることにしたという日本政府による説明の他に、②朝鮮人が商埠地以外に居住し生業を営み、土地を所有しているのであれば、清国の法権に服従するのが当然の「道理」であるという認識を日本が持っていたこと、③「広大ナ不開地域」の居住者に「治外法権」を保有することは、清国と各国との間の条約でも前例がないことであり、列強の反発を招くことになるので、避けるべきと日本が判断したこと、を挙げられるとしている。
 第1節では、韓国併合後、清国が間島朝鮮人に対して辮髪及び清国式の服装に改めて
(「薙髪易服」)、帰化することを強制した過程を検討している。筆者は、雑居地では、社長・甲長や学校生徒が「薙髪易服」に応じたが、一般の居住者には厳しく強制されなかったのに対して、雑居地外では「帰化強制」が厳しく行なわれたことを明らかにするとともに、後者の動きには、間島協約によっては在住朝鮮人に対する清国の法権が明確ではなかった雑居地外では、「帰化強制」して清国の法権に服せしめ、雑居地外にも法権を及ぼそうとした意図が示されていると論じている。また、日ごとに朝鮮から間島へ通って農業を営む「越江朝鮮人農民」(筆者の命名)に対しても、雑居地外では「帰化強制」が行なわれた事例もあることが明らかにされている。
 第2節では、まず、第1章第2節における叙述を受けて、韓国併合直後の時期にも商埠地では日清両国の警察官の衝突が起きたこと、これを日本領事館と清国の間島行政機関との間の「取り引き」などで解決する慣行が成立していたことが明らかにされている。
 ついで、1911年前半期に吉林省は財政難に陥り、警察組織が縮小される一方、困窮した下級官吏や警察官、巡防隊〔地方兵部隊〕兵卒が朝鮮人から金銭を奪うなどの不法行為を及ぼすようになったことを指摘している。
 第3節では、(1)義兵の取締などをめぐって、独自の密偵活動を行なう朝鮮総督府系警察官に対する間島総領事が不満を強めたこと、1911年中に間島で義兵及び民族独立運動家が逮捕された事例を検討して、領事館警察が逮捕し、朝鮮の憲兵隊に押送する事例があるが、これは朝鮮の植民地支配上「危険な」朝鮮人に対しては、清国側の管轄権を度外視してでも日本側で取り締まるという方針を採り始めたことと判断されること、(3)1911年4月以降には清国警察は義兵の取締に消極的となるが、これは財政難の影響であると判断されること、などの点が指摘されている。
 第3章第1節では、まず、1912年に入って間島における中国地方行政機構の機能が低下し、警察官や巡防兵が税関監視所日本人所員らを襲撃したり、「馬賊」化して強盗を働く事例が起きるなど、治安が悪化したことが指摘される。
 ついで寺内正毅朝鮮総督の提案に従って、1912年11月26日公布の〔日本〕勅令(1912年3月に実施)で、間島領事官を朝鮮総督府の高等官(書記官・事務官)を兼任させ、朝鮮総督府が間島に居一層介入できる制度ができあがった経緯、間島の領事館には朝鮮総督府のやり方に反発を示す者もいたことが明らかにされている。
 さらに、1913年2月6日に局子街において中国巡防兵が指揮官を殺害して暴動を起こした事件に際しての日本側の対応(①領事館の要請により朝鮮から間島へ憲兵40名を派遣したこと、②寺内朝鮮総督は北部朝鮮の陸軍部隊を派遣しようとしたが、外務省側はそれを制したこと、③朝鮮の会寧から工兵隊を派遣して局子街―龍井村に野戦電話線を架設しようとしたが、中国側の要請を受けた領事館側の動きで取りやめになったこと)が明らかにされている。筆者は、この経緯を分析して、間島の領事館と朝鮮総督府との間には、①のような連携と、②③のような対立の側面があったこと、また、中国側と交渉することなく電話線を架設しようとした「急進的な」朝鮮総督府に対して、外務省・領事館側は間島への出動は必要な範囲に留め、主導権は外務省が握るべきとしたところに両者の対立点があったことを論じている。
 第2節では、第一に、間島協約第4条に規定された雑居地居住朝鮮人の関わる裁判への日本側の立会が、清国側によって「人命」に関係する裁判に限定されたことを指摘している。
 第二に、1911年12月に局子街で逮捕された雑居地外居住朝鮮人からなる強盗団が、中国側に引き渡され、中国側は1912年5月に日本に紹介しないまま判決を言い渡した経緯を明らかにし、これによって雑居地外朝鮮人に対する裁判管轄権を行使する先例が作られたと論じている。また、永瀧久吉間島総領事は中国側の管轄権を認めていたが、1912年5月に外務大臣内田康哉が日清通商航海条約第20条の規定により日本が裁判管轄権を有すると回訓し、現地の領事と外務大臣の間で見解の相違が生じたことを明らかにしている。
 第三に、1913年11月18日付けの間島総領事代理の報告によって、北京政府が雑居地外区域において耕地を耕作する朝鮮人の裁判管轄権は中国が保有する旨の訓令が出されたことを明らかにしている。また、中国側は、豆満江北岸一帯は、雑居地外でも、そこの耕作地に居住している朝鮮人に対する裁判管轄権があるという、間島協約の「新解釈」を打ち出したことも明らかにされている。
 第四に、1912~13年に雑居地居住で帰化していない朝鮮人の土地所有権を否認する判決を中国の地方審判庁が下しこと、この裁判は日本の領事官に照会されず、朝鮮人を救済するために、裁判に対する日本の領事館の権利が十分に認められなかったことが明らかにされている。
 第3節では、第一に、1912~1913年における中国官憲と朝鮮の義兵・民族独立運動との関係を考察している。(1)長白府においては、洪範道らの義兵を長白知府が「援助」しているとの情報を咸興憲兵隊長がつかんでいたこと、(2)汪清県においては、元義兵からなる「砲手営」が組織され、中国官憲から銃器・弾薬を支給されて「馬賊」討伐に従事したこと、(3)1913年2月に頭道溝領事分館付巡査らが延吉県二道溝付近の耶蘇教村にて殴打・監禁される事件が起きたが、中国の地方審判庁は巡査らを殴打・監禁した朝鮮人には軽い刑に処する判決を下したこと、などの事例が明らかにされている。筆者は、これらは日本側が中国側に義兵を取り締まることを期待できなくなったことを示すものであると論じている。
 第二に、1914年4月に間島総領事代理がとりまとめて報告した、間島における中国側の「不法裁判事例」に収録された11の事例を逐一検討して、朝鮮人と中国人が対立した事例では朝鮮人の言い分や証拠を取り入れず、中国人が有利な結果となっていることを指摘している。
 以上の3節を受けて第3章の小結というべき部分があるが、そこではまず第一に、1912年3月における間島領事官の朝鮮総督府高等官兼任制の成立は、寺内朝鮮総督が推進した「鮮満一体化政策」の一つであったことが主張される。第二に、中国側が間島在住朝鮮人に対する裁判管轄権、支配権を確立する政策を系統的に推し進めた結果、日本は雑居地内・雑居地外のどちらの朝鮮人に対しても、間島協約下での裁判を通じた「保護」という名目の支配すら、ほぼできない状態になり、また日本に対する反抗心が強い朝鮮人の存在が表面化し、支配の限界を認識せざるを得なくなったと論じている。
 結章の第1節では、1914年の事例を検討して、商埠地居住で商埠地外に土地を所有する朝鮮人、雑居地外区域で耕作している越江朝鮮人農民に対して、中国側が裁判管轄権を着々と確立しつつあったと論じている。
 第2節では、「二十一ヵ条の要求」の結果、1915年5月25日に調印された「南満東蒙条約」が、8月13日の日本政府の閣議決定によって間島に適用されるに至った経緯が考察される。この閣議決定によって、南満東蒙条約第5条第2項に規定された、「日本国臣民」に対する「被告主義」による領事裁判権を、日本は間島でも行使することになった。筆者は、(1)この適用決定は、寺内朝鮮総督が主導したものであったこと、(2)しかし、領事裁判権を行使しようとしても、それを裏打ちする警察権がなく、また経費も不足したこと、間島在住朝鮮人の多くはこれまでどおり中国の審判庁に訴えることを選択したこと、中国警察との衝突を招来したことなどにより、間島朝鮮人に日本の法権に服するように仕向けることは非常に困難であったことを、明らかにしている。
 結論は、第1章から以上の部分までの要約である。

3.本論文の成果と問題点
本論文の第1の成果は、「間島協約」調印後から日本による「南満東蒙条約」の間島への適用にいたる時期(1909~15年)において、「間島協約」の諸規定、とくに中国側の、日本側の裁判立会権等が実際にはどのように適用されたかを克明に跡付け、もって当該時期の間島をめぐる日中両国の対抗の様相、性格を具体的に明らかにしたことである。本論文によって、中国側が、日本側が雑居地居住の朝鮮人に関わる裁判への立会を限定し、また裁判自体を通知しないなどの措置を取ることによって、日本側が裁判に関与する権利を制限しつつ、雑居地外居住朝鮮人や越江朝鮮人農民に対するものも含めて、着々と裁判管轄権を確立していった過程、すなわち間島協約が中国側に有利に運用されるようになった過程が具体的に明らかにされた意義は大きい。
 第2の成果は、間島在住朝鮮人の法的地位を、商埠地居住者、雑居地居住者、雑居地外居住者に区分して考察することの必要性を提起し、このことが中国側の裁判管轄権の確立過程、朝鮮人に対する「帰化強制」の度合いが雑居地と雑居地外とでが異なっていたこと、あるいは間島をめぐる日中の対抗関係を分析する上で、有効に活かされていることである。
 第3の成果は、1912年3月の在間島領事官の朝鮮総督高等官兼任制の成立や1913年2月の局子街中国巡防兵暴動事件への日本側の対応の検討を通じて、間島への支配をめぐっての日本外務省・間島領事館と朝鮮総督府との連携と対立の様相、朝鮮総督府が間島への介入強化の過程を具体的に跡づけたことである。
 第4の成果は、間島協約が中国側に有利に運用され、日本側にとっては間島に対する支配の限界を認識させるようになったことを指摘して、日本が「南満東蒙条約」を間島に適用しようとした要因を明らかにしたことである。
 第5の成果は、刊行史料のみならず、外交史料館所蔵の間島関係史料を広く閲読、検討しており、主として日本史料に依拠した研究としては、実証上、高度の水準を確保していることである。
 本論文の問題点は、第1に、時期を限定しているためによることではあるが、日本による「南満東蒙条約」適用決定後に間島問題がどのように展開していくのか、その見通しは充分には明きらかにされていないことである。
 第2に、中国側の史料は、日本史料に訳載されたものを使用してはいるが、オリジナルな史料は用いていないので、今後、中国史料を収集・検討する課題が残されている。
 しかし、以上の2点は、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2005年3月9日

2005年2月24日、 学位論文提出者小林玲子氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「「韓国併合」前後の間島問題―「間島協約(1909)」の適用をめぐって―」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、小林玲子氏はいずれも適切な説明を与えた。
以上により、審査員一同は小林玲子氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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