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博士論文審査要旨

論文題目:中国東北延辺地区の農村社会と朝鮮人の教育 ―吉林省延吉県楊城村の事例を中心として(1930-1949)―
著者:金 美花 (JIN, Mei Hua)
論文審査委員:三谷 孝、糟谷憲一、坂元ひろ子、木村 元

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一、論文の構成
 本論文は、旧満州国時期から中華人民共和国樹立に至る時期の中国東北延辺地区における朝鮮人の教育と土地問題の歴史について、「楊城村」という一農村の事例を中心として実証的に明らかにするとともにその特徴を考察した論文であり、400字詰原稿用紙にして約1010枚からなっている。
 その構成は以下のとおりである。

序 論 
 第1節 研究課題
 第2節 楊城村を取り上げる理由及び楊城村の位置づけ
 第3節 関連研究
第4節 研究方法
第1章 楊城村の沿革と概況
 第1節 楊城村の名称と行政区画の沿革
 第2節 『農村実態調査報告書』所収「延吉県楊城村」について
 第3節 楊城村の現在の概況
第4節 楊城村を見つけるまでの経緯
第2章 満州国期以前の間島朝鮮人社会と教育
 第1節 朝鮮人の移住と生活状況
 第2節 朝鮮人の教育機関
第3節 朝鮮人私立学校の実態
第4節 朝鮮人の教育熱意の高まりと中学校の設立
第5節 1930~1932年の共産主義運動と農民運動
第6節 小結
第3章 満州国期における間島朝鮮人社会と教育
 第1節 間島における朝鮮人の社会
 第2節 楊城村の土地所有状況と朝鮮人の生活
第3節 間島、楊城村付近における学校の変遷
第4節 日本の総力戦体制下での村人の生活と教育
第4章 国共内戦期における土地改革と朝鮮人の教育
第1節 土地改革
 第2節 朝鮮人たちの自主的教育の展開
終章 おわりに
付録
表1 聞き取り調査一覧
表2 延吉県楊城村A屯家族構成その1
表3 延吉県楊城村A屯家族構成その2
表5 延吉県楊城村B屯家族構成その1
表6 延吉県楊城村B屯家族構成その2
地図1 間島省地図(1933年)
地図2 延吉県要図(1936年)
地図3 延吉県各種学校位置図(1935年)
地図4 楊城村地図(1936年)
地図5 楊城村とその周辺の地図(1947年)
地図5 現在の楊城村地図
図1 楊城村周辺初等学校沿革図 
関連年表
参考文献

二、論文の概要
 序論では、まず本論文の課題として、延辺における朝鮮人の教育の展開過程を「村のレベルに視点を据えて土地問題を中心とする生活実態との関連において追究する」という趣旨の問題提起がなされ、対象とする時期を、①満州国成立以前(1930~1932年)、②満州国時期(1932~1945年)、③中華人民共和国成立に至る時期(1945~1949年)に時期区分する。本論文の第2章~第4章は①から③のそれぞれの時期に照応している。ついで、「楊城村」という村をとりあげたのは、満州国国務院実業部臨時産業調査局の『農村実態調査報告書』(1936年)に、この村に関する当時の詳細な社会経済的統計資料が残されていることで、その後の社会変動の起点にあたる時期のこの村の社会経済状況を具体的に把握できるという理由によるものであることが説明される。
 さらに、本論文の課題に関連する研究として、満州国時期の東北地域の朝鮮人の教育を「奴隷化教育」として捉えてその実態の暴露に重点を置いた中国の朴奎燦『延辺朝鮮族教育史稿』(1986年)等の研究と、日本の植民地教育史研究の一環として満州国における近代教育制度の編成過程の実態究明を主たる目的とする竹中憲一『「満州」における教育の基礎的研究』(2000年)等の研究が紹介され、本論文ではこれまでの関連研究では取り上げられていない、朝鮮人の教育史をその家庭や村の社会経済的状況との関連で検討すること及び個別村レベルでの朝鮮人農村教育の実態を明らかにするものとされる。その際に資料として用いられるものは、①前記『農村実態調査報告書』、②東北各地の档案館及び日本の外交史料館所蔵の一次史料、③著者の実施した村民等の関係者からの聞き取り調査資料、④満州国政府関係資料・地方志・文史資料等の文献資料、⑤1945年以後に延辺で出版されたハングル教科書等である。
 第1章では、まず「楊城村」という村の探索の過程が延べられる。『農村実態調査報告書』に見られる「楊城村」(80戸[内漢族12戸]、人口518人)は5つの自然村から構成されていた村落であるが、「楊城村」という名称が行政機関によって使用された時期は2年余りにすぎず、現在その付近に住む住民でも「楊城村」の名を知っていたのは、著者がインタビューした100人程の関係者の中でも3人だけであり、現地の地方志研究者もそれが現在のどこの村に位置する集落かを特定できなかった。著者は4回の現地調査によって、「楊城村」が1937年以降「南平屯(村)」、ついで「広新村」へと改称され、それぞれの集落の消長変化を経ながら現在の広新村に含まれる2つの自然村が1936年の「楊城村」に相当する村落であることをつきとめる。そして、中朝国境付近に位置して人口の流動の激しいこの地域の特徴が、こうした村名と境域のめまぐるしい変遷にも見られると説明した上で、広新村の現況(240戸[内漢族1戸]、人口878人)を紹介する。
 第2章では、満州国設立以前の延辺(間島)における朝鮮人の移住と定着の過程の概略が述べられた上で、そこに形成された朝鮮人社会での教育活動の展開が具体的に論じられている。移住の初期には、朝鮮人の集落に儒教教育を内容とする「書堂」「旧学堂」が設立されて子女の教育にあたったが、20世紀に入ると朝鮮本国での愛国啓蒙運動の影響を受けて、朝鮮人の有志・知識人等によって「新式教育」が導入され、1906年には独立運動家によって「楊城村」の東方に位置する龍井村に「瑞甸書塾」が設立される。日本の韓国「併合」以後、朝鮮人私立学校の教育は、朝鮮の光栄ある歴史や文化の紹介等を内容とする教科書に見られるように民族主義的傾向の強いものとなり、また儒教的な内容のものから近代的科学知識に基づくものへと教材も変化していった。こうして、この地域には明東学校(1910年、明東村)等の学校が次々に設立された。一方この地域の中国の公立学校に通う朝鮮人児童は少なかったが、朝鮮人の中国への同化の促進を図る中国の地方政府は、1910年代後半から1920年代にかけて、朝鮮人私立学校を中華民国の学制の下に置いてそれに従うよう圧力をかけたために、相当数の朝鮮人学校は中国の県立学校へと編成替えされた。また、「併合」後に韓国政府経営の普通学校を継承した日本側の経営による5校の普通学校に通う朝鮮人児童もあった。
 1919年3月13日には「3・1独立運動」の波及の結果として龍井村でも独立を求める集会が開かれた。この運動自体は日本軍によって鎮圧されるが、1920年から26年にかけて龍井村には6校の朝鮮人私立中学校が設立され、朝鮮人教育を体系的に整備する努力がなされた。これらの中学校の多くはその後社会主義運動の拠点となって、卒業生の中には独立運動・革命運動の指導的立場に立って活躍する者も多かった。1930年から32年にかけて中国共産党の指導下に小作争議等の朝鮮人による農民運動が展開したが、これに参加した多くの教員・学生が検挙されることになり、多くの学校が休業となった。
 第3章では、満州国統治下の間島における朝鮮人社会と教育の変動の状況が検討される。満州国政府は、中国人地主の土地を買い上げて朝鮮人小作人に払い下げる自作農創定政策を実施するとともに集団部落を建設して朝鮮人農民に対する統制を強化した。また、「9・18事変」後には、中国の公立学校に編入されていた朝鮮人学校は減少して、日本側の経営による学校が増加した。そして、1938年に実施された満州国の新学制によって朝鮮人私立学校の存続は認められなくなり、既設の朝鮮人学校は満州国の管轄下に入り、小規模の学校は統合された。それ以後、そこでの教育内容も強い統制下に置かれて、日本語が主要な使用言語とされて、1940年以降には朝鮮語は学校で学習することはできなくなった。高等教育機関へ進学できるかどうか、より収入の多い職業に就けるかどうかも日本語の習得如何にかかっていた。さらに、著者は、1940年以降の総力戦体制下での「楊城村」における勤労奉仕・軍隊教育・物資の供出と配給制・日本語の強制・「皇民化教育」・「創氏改名」等の政策を村民がどのように受けとめたのかを多くの村民の証言をもとに紹介して、そこでの面従腹背的な抵抗・不服従の実情を明らかにしている。
 第4章では、まず延辺及び「楊城村」(当時は南坪村)の国共内戦期における土地改革の経緯が説明される。延辺の土地改革は1946年7月に開始され、第一段階(~1947年6月)には満州国時期の漢奸の土地を没収する「反奸清算」から第一次の土地分配の運動が、第二段階(~1947年10月)には「隠し財を暴く」運動が、第三段階(~1948年4月)には「大復査・隊伍の整理・土地均分」の運動が行われた。この過程で、漢奸や地主・富農の土地が没収されて貧雇農に分配され、政治的にも農会の指導権を握った貧雇農が優位に立つに至った。この間南坪村でも貧雇農団(朝鮮人30人・中国人3人)が組織され、地主打倒の運動が行われたが、運動が大衆化するとともに打撃面も拡大して、第二段階には糾弾の対象が中農にまで及び、殴殺・銃殺される者・自殺する者も多数生じた。闘争対象を確定するための階級基準の適用は、村における具体的な社会状況と人間関係に沿って行われたため、主観的な偏差・偏向を伴うものとなった。
 一方、龍井小学校等の朝鮮人の学校は1945年9月頃から再開され、「教育同盟」「ハングル研究会」等の団体を組織した延辺の知識人が指導的立場に立った。それらの学校では、解放戦争と土地改革を中心とする政治教育と幹部養成が重要な課題とされた。また、内戦期の農村では農民の経費負担による民営学校が多数創立されて子女の教育にあたり、ハングルによる教育が実施された。そうした教育事業再建の努力の頂点として1949年3月には延辺大学が創立されることになる。

三、成果と問題点
 延辺地域は、中朝国境付近に位置することからそこに移住した朝鮮人は、中国の地方政府から土地所有権の取得と引き替えに「同化」の圧力をかけられる等の差別的な処遇を甘受してきた。19世紀末から20世紀初頭にかけて日本の勢力がこの地域に及んだことで状況は一層複雑化したが、朝鮮人は日中両勢力の狭間で朝鮮語による朝鮮の歴史・文化についての教育を重視しこれを次世代に伝える努力を続けた。こうした問題について日本でも現地調査に基づく資料発掘の努力が開始されているが、著者はそうしたプロジェクトのいくつかに参加して関係者からの聞き取り調査と当時の教科書の収集等の作業にあたってきた第一線の研究者といえる。本論文は、著者がこれまでの実績を踏まえて、この地域の農村地帯で朝鮮人がどのように生計を立て、どのように次世代に教育を受けさせてきたかを、具体的に明らかにした論文である。
 本論文の作成に利用されている主要な資料は、2000年5月・2000年8月・2001年2月・2001年8月・2002年12月~2003年1月の5回にわたって著者が延辺地区を中心とする東北各地と「楊城村」周辺農村で実施した現地調査の成果である。著者は、高齢の村民・教育関係者等を対象として聞き取り調査(100人を対象に延べ115人)を実施し、また、県・郷の地方志研究者からその地域の歴史・地理について教示を得るとともに、現地档案館の資料や文献等と外交史料館所蔵の日本領事館関係の資料を閲覧・収集している。こうした立場の相違する多様な資料を広く利用したことで、朝鮮人農民の生活と教育の実態をより鮮明に明らかすることが可能となった。
 本論文の最大の成果は、このように現地で収集した档案資料と聞き取り調査の成果である大量の証言に基づいて「楊城村」とその周辺の朝鮮人農民の生活と教育の状況を実証的に明らかにしたことにあるが、その成果として具体的に次の4つをあげることができる。
 第一に、「楊城村」という地図からも現地農民の記憶からも消えた村を「発見」したこと。これは、この地域の農村社会が、人の動きの激しい流動的な特徴をもつものであったこととともに東北地域におけるめまぐるしい政治変動に由来する農村の名称と行政区画の変更がそこで実際に生活する農民にとっては重要な意味をもっていなかったことを示すものとして興味深い。
 第二に、中国の地方政府と日本領事館の二重の統制の下に置かれた朝鮮人の教育が、その両勢力の矛盾・間隙を利用して独自の民族教育を実施・継続する状況も具体的に説明されている。また、総力戦体制下で日本側の統制が強化された状況の中でも、家族や近隣の村人仲間以外には知られることのない、行動には表れない抵抗と不服従の実情が明らかにされている。
 第三に、朝鮮人農家の生計と子女の教育との関係を具体的に明らかにしたことである。たとえば「楊城村」の学齢男子の就学率が70%を超えているという事実は、貧しい家計の中から教育費を捻出して村の学校を維持するとともに子女を学校に通わせようという農民の強い意欲を示すものといえる。 第四に、延辺地域及び「楊城村」(南坪村)の土地改革の実情を、一部の内部文書(土地改革関係の档案資料)と農民からの聞き取り調査によって明らかにしている。ここで注目すべき指摘は、地主や富農と想定される人物が実際にどのように処分されるかは、そこの村民との「関係」やその「人柄」、すなわち村民の多数がこれまでの付き合いからその人物に対してどのような「感情」を抱いていたかによって決められていったことである。
 しかし、このように多くの問題について具体的な実情を明らかにした著者の努力は評価できるものの、今後に残された問題も少なくない。
 まず、第一に、特定の村に関連する教育と農民生活の問題の追究に主眼が置かれたため、検討される問題についての視野が狭くなっていて、全体的な状況との関連が十分に論じられていない点である。たとえば当該時期の満州国政府の教育制度・農村教育の全般的方針・教員人事等とこの地域の農村での教育実態との関連の追究が不十分に終わっている。
 第二に、他地域との比較の視点が欠けているために、この地域での問題の特徴が十分には明らかになっていない。たとえば、中共の土地改革の全体的方針と華北等各地域での実際の展開と比較してこの地域での土地改革がどのような特徴をもつものなのか説明されていない。また、満州の他地域の朝鮮人の教育との比較等も触れられていないことなどは今後に課題を残している。
 しかし、これらの問題点の多くは著者も自覚するところであり、今後これらの問題についても持続的に追究を続けて一層の解明と改善の努力が払われることを期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2005年3月9日

2005年2月24日、学位論文提出者金美花氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「中国東北延辺地区の農村社会と朝鮮人の教育―吉林省延吉県楊城村の事例を中心として(1930-1949)」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、金氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は金美花氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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