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博士論文審査要旨

論文題目:低出生体重による脳性まひ児の言語発達:「指示詞」、「否定表現」と「自―他の分化」との関連から
著者:平林 あゆ子 (HIRABAYASHI, Ayuko)
論文審査委員:湊 博昭、関 啓子、松岡 弘、石黒 圭

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本論文は、 著者が東京近郊の通所施設において、 言語発達訓練のスピーチ・セラピストとしてかかわった1000グラム以下の低体重出生児を対象として、 障害児の言語発達についての指標を得ようとしたものである。 主要な治療的観察期間は約3年間で、 その後は学童期に入ってから経過を追っている。 これまで健常児の言語発達の記録や、 知的障害児の言語発達の観察記録は見られるが、 低出生体重児の研究において見るべきものは少ない。  
低体重出生児は、 呼吸障害により脳性まひと知的障害が合併することが多く、 知的障害や運動機能の障害としてのみ個別に捉えられ、 運動能力と言語発達の関連からの研究は不十分であった。 一種の実験的状況であり、 運動機能障害という変数が、 言語発達にどう関与するかの解明は、 障害児の言語発達研究としてのみでなく、 健常幼児の言語発達と身体の運動機能の関係についての研究としても重要である。 言語臨床の場に従事するセラピストが、 言語学の今日的成果を取り入れ、 これまでの個体能力の向上を重視する立場から、 関係発達の促進を視野に入れるという展開に到達するに至ったものである。 障害論から発達心理学や言語学的論考を含むという意味で極めて学際的な分野の研究である。

本研究の構成は以下のようになっている。
Ⅰ。  序論
1。 幼児の言語発達:言語障害児の事例からの考察
2。 指示詞の発達
3。 否定表現と自己の発達
4. 低出生体重による脳性まひ児
5. 人物画の発達とその意味
Ⅱ。 本論
1。 目的
2。 対象と方法
3。 A児の指示詞の発達
4。 A児の否定表現の発達
5。 A児の「自―他」の関係の言語化の発展と「自―他」の分化
6。 A児とB児の人物画の発達
7。 乳幼児言語発達尺度 (平林試案)
Ⅲ。  結び
Ⅳ。  今後の課題
文献
資料目次 
資料
(原著では、 より深い項立てがなされているが、 省略した)


本論文の要旨
 第Ⅰ章は序論であり、 先行研究の文献的総括をして、 障害をもった乳幼児の精神と言語の発達についての時系列を追った研究の重要性を強調し、 「参与しながらの観察」という治療的関係の中で、 記述することの意義について述べている。
 先行研究と著者の言語臨床の経験から、 指示詞、 否定表現自他関係の言語化、 人物画の発達の四項目を調査している。 言語表現の発達と運動障害や自―他の分化の関連を解析し、 健常児と比較検討し障害児の言語発達の特徴を記載しようというものである。
 まず序論では、 指示詞について以下のように述べている。 乳幼児の言語発達過程において、 指示詞は、 自己との関連から出発して、 乳幼児が世界を空間的・時間的にどのように把握し理解して行くかを知る上で重要な手がかりを提供する。 すなわち、 指示詞を言語運用力の発達過程の指標の一つと捉え、 低出生体重による脳性まひ児における指示詞の変化過程を追跡調査することが必要であると主張している。
 次に否定的な表現については「他者からの欲求不満的状況が消失して欲求充足することを学んでいく中で、 他者の存在についての感覚とそれに対抗する自己についての感覚を獲得していく」ことや「自己の要求を表現し、 他者の要求を拒否する行動の中から自他の分化が生起する」ことから、 自-他の関係が否定的な表現にどのように関与するのかが重要であると説く。
 さらに、 「Aクンモ」のような自分の名前を使っての発話や「家族の呼称」から「他の子どもの呼称」への言語化の場面を調査し、 発話状況・他者や「もの」への関心・運動スキルとの関連の中で記載しようというものである。 これにより、 自己の位置づけの指標として、 自己呼称の展開を記載し、 自―他の関係の発達を把握することにある。 いかなる体験が「自他関係の言語化の発展」の前提となるかを明らかしようとするものである。 ここでは「参与しながらの観察」が陥りやすい恣意的な感情移入により、 過剰な心理的解釈が入りうる余地がないとはいえないが、 ビデオ記録や養育者からの聞き取りなどによって総合的な把握し多方面の言語資料を使用することで、 検証可能性が保たれていると考えられる。
自己定点指示を示す「わたし、 いま、 ここ」の出現過程の特徴を捉えることで、 運動機能や定点としての自己の確立と世界との関係が捉えられるのだと主張している。
第Ⅱ章の本論の1。 2節では低出生体重の脳性まひ児の「自―他」の分化という観点から、 出生後強制的な母子の空間的分離期間の長い低出生体重児で1000g未満のA児を中心に、 比較考察の対象として1500g未満の極低出生体重の脳性まひ児B児の事例も併せて検討している。 対象の選択は知的機能の遅れがないことと語彙カテゴリーテストでは健常児と差がないということで選択された。 A児の何らかの遅れは、 主として長期のNICU(新生児集中治療ユニット)収容と運動機能によるものであると判断しても差し支えはないと考えられる。
第3節で指示詞の獲得過程を詳細に検討している。 観察開始時のA児(1:11)(年齢年;月 出生は早産であること補正している)は、 母親と共生関係にあり完全に癒着していたが、 母親を「ママ」と呼ぶようになる(2:2)など、 次第に自己以外の他者として母親を認識し同時に自分自身を「Aクン」と呼称し(2:4)、 あるいは自分の所在する領域を「ココ」と発話(2:5)するなど、 他者の視点と変換可能な「ボク」(3:9)という呼称を獲得する過程を記録している。 健常児と比較するとこれらのことばの発語開始時期には、 その他の語彙の発達の遅滞は無いにもかかわらず、 いずれもおよそ10ヶ月の遅滞が見られ、 その遅れは他の指示詞と比較しても際立っていて、 自他関係の発達の遅れの反映があるのだと著者は主張する。
A児、 B児において、 他の指示詞の出現時期と比べて、 自分自身の立脚点の自他関係と空間的時間的位置を示す「ボク」、 「ココ」、 「イマ」の開始時期が遅い。 幼児の語彙報告は、 ある時点での通過率を見ているもので、 本研究のような単語の初発発語状況まで記録した研究は少なく、 記録としても貴重なものである。 A児の「イマ」の開始の発話状況は、 外界に興味をもち「イマの音、 何の音?」などで始まった。 「イマ」の開始には外界の状況への関心が重要であると著者は考えている。 健常児が最も早く開始する「ココ」の開始時期が特に遅い。 「ココ」は全ての指示詞の基準となるべく自分の居る定点の意識を表すものであり、 A児の場合「自己の位置の定位」が遅れているのだと主張する。
「自―他」関係の発達過程と関連して、 固有名詞「Aちゃん」を経て「私」を使用する段階に至る指示詞の獲得過程は、 「ヒトが自分自身をone of themとして見る観点」の獲得であり、 自己認識のはじまりである。 健常児の場合、 指示詞の中でも母親呼称を最も先に獲得するが、 A児は、 自分から近い「もの」への指示「コレ」が先行し母親呼称が後に出現する。 この現象は、 健常児と比較しそれだけ母親の個人空間からの分離が遅いことを意味すると著者は解釈する。 つまり原初的な「自己、 もの、 他者」の未分化な状態から、 母親呼称の出現時期と「A児―母親」の距離との関連は、 母親との物理的距離がとれることにより、 母親呼称が開始されたということである。 この母親呼称の開始こそ、 母親の個人空間の中に一体的にいる共生ー密着状態から脱し始めた指標となると著者は考える。 子どもの視野から母親が消失しても母親の存在イメージを保持できることが、 母親の空間の中での密着的状態から脱し、 原点指示に関わる「ココ」、 「ボク」の出現の前提となると考えている。 自己と母親が密着状態にある場合「ママ」と呼ぶ必要がなく、 言語表現としては手に入れたい「対もの」という分化が先行するということを意味すると考えるのである。
一方で、 発語に於ける「コレ」「アレ」など「もの」次元の指示詞の出現時期は、 わずかに健常児より2、 3ヶ月遅いだけである。 健常児においてはまず自分以外の他者の認識が先行するが、 A児においては「もの」次元の「コレ」が先行するのは、 物への関心の増大、 手伸ばし行動など運動スキルの向上に伴って、 この指示詞が多用されること記録している。 このような「話し手の操作可能領域の拡大と言語の発達」という視点からみて、 対象指示の明確化が語彙量の増加に重要な役割を果たしているのである。 運動障害を主症状とする脳性まひ児に対する従来の治療的方法は、 運動スキルの向上のみをめざし、 また言語聴覚士は語彙量の増加を図ることに専念しがちであったという著者の実践的反省がある。 A児のような障害児の言語能力の発達には、 このような「そこに生きる」「世界」そのものを拡大発展させることが重要である。 自己意識の発達に基礎を置き、 「もの」「人」「運動スキル」に支えられた、 今、 ここにいる世界の拡大が不可欠であるという関係重視の立場にたつといえよう。
 ソ系の出現が困難であったが、 その理由としては、 ソ系が聞き手の領域を意識した発語であり、 他者の視点をとる高次元の能力を必要とするからであると考える。 ソ系の語の出現は、 健常児ではおよそ2歳5ヶ月であるが、 A児は5歳時にも見られず、 B児の「ソレ」は3歳11ヶ月で遅い開始となっている。 対面関係で出現しやすいソ系は、 運動障害のあるA児、 B児の母子の心理的接近および物理的接近のために出現が遅いことが想定できる。 つまり「ソ」の出現には心理的にも物理的にも個と個が離れて向き合って存在する場面が必要であり、 「ソ」での指示には、 話し手が聞き手を今行われているコミュニケーションの相手として十分認識することが要件であるという。 ソ系は、 「他者としての聞き手」という対象認識があって初めて出現するものであり、 ソ系の出現には他者への明確な意識化、 自―他の関係の明確な分化が前提となる。 すなわち自―他の物理的距離と対人関係の発達がソ系の出現に影響していると思われる。
 第4節では否定表現について述べている。 本論文でいう否定表現とは、 拒否、 否認、 非存在の、 禁止などの言語的な否定の形式ばかりではなく、 状況的に捉えた否定的意味表現も含む。 「泣き」による拒否も否定的表現としてその後の言語行為への発端として捉えている。 「泣き」による拒否から発展し、 母親に対し「イヤ」と発語することに至り拒否が言語的に表現され、 次に「名詞+シナイ」という形で多くの否定表現を造るようになる。 様々な場面で様々な大人に対してこれらを使用するに至る。 大人ばかりでなく、 禁止の「ダメ」(3:7:21)が他の子どもたちに対して使用され始め、 他の子ども達を明確に他者として認識・意識した上での意志表示として展開されることが観察された。 「ダメ」は自分と他者との関係を意識し、 他者に向かっての自分の明確な意志の表現である。 それ以前は他の子どもとの玩具の取り合いという行動は示しても、 発話での禁止は出なかった。 他の子どもに自分の大事な玩具をとられそうになるというA児にとって重大事態が起こって「ダメ!(これは自分のものだ)」と主張することが見られた。 健常児の場合では1歳6ヶ月から2歳まで開始される。 A児のこの遅れは障害をもつ子どもに合わせる配慮的に関わる優しい大人の存在ばかりではなく、 様々な子どもの関わりが重要であることを主張している。
第5節でA児の「自―他」の関係の言語化の発展と「自―他」の分化を記載している。 A児の「自―他」の関係の言語化は、 他者との関わりを意識して自分の名前を言っての発話に「Aクンモ」があり、 また、 家族の呼称に次いで園児の名前の使用が見られた。 また、 自分の名前は自分の存在の象徴となるものであり一貫性と独自性を与えるものである。 運動スキルの発達から介助を嫌がり「ジブンデ」という表現に移行することが観察された。
6節において、 音声的言語表現ではない人物画の発達経過を自己イメージの投影指標として追跡し、 運動障害児に特徴的な自己像を明らかにし、 自―他の関係の発達との関連を補足的に分析している。 A児では、 麻痺のために精緻な使用が困難である脚や腕の描写の出現が遅いことが示された。
第7節で、 言語理解と言語表現と自他関係を一覧にした発達尺度をモデル化して、 検討している。 他の症例でも時間軸での一致点が多く、 発達指標としては有効に機能することが期待される。
第Ⅲ章において、 本研究を次のように総括している。
脳性まひ児A、 Bを対象に、 自―他の分化や運動障害と指示詞、 否定表現の発達との関連について調査した。
(1)指差しや体幹の安定など運動の洗練が、 対象指示を明確化し「コレ」の使用に影響した。 (2)先行的に獲得する指示詞は、 A児では「コレ」で、 健常児は母親呼称である。 母親呼称の開始には、 母親からの物理的・心理的距離が必要と思われる
(3)自分自身の立脚点を示す「ココ」、 「イマ」、 「ボク」や聞き手の領域を意識したソ系の出現がA、 Bともに遅れた。
(4)「泣き」による拒否から発展し否表現が明確になりはじめ、 やがて「名詞+シナイ」という形で多くの否定表現をつくるようになり、 様々な場面で大人に対してこれらを使用するに至る。 大人ばかりでなく、 禁止の「ダメ」が他の園児に対して意志表示として展開されるなど、 否定表現の対象が拡がり、 発話に自他関係の発達の関連が明らかになった。
以上から、 運動障害を主症状とする脳性まひ児にとっては、 言語発達を母子関係や自―他の関係の発達を支援することが重要な治療方法であると主張する。 本論文における調査を通じて脳性まひ児Aは、 彼の周りに親しい大人の存在や身近な他の子どもの存在、 さらに彼らとの関わりにより自分を他の人の中の一人として位置づけることができるようになり、 それに伴う言語の出現を確認し、 言語発達を支えるコミュニケーション環境が如何に重要であるかが示された。 自―他の関係の発達段階も同時に評価できる乳幼児言語発達尺度を提示しより広範なデータ蓄積が可能となった。

本論文の成果と問題点
著者が治療的に関与した低出生体重の脳性まひ児を対象とした言語発達と自他関係についての、健常児との比較研究である。 比較は専ら出現の遅れを取り出すことで論じられている。 治療実践的経験からの反省でもあるが、 障害児の教育が個体能力発達からコミュニケーションとしての相互の関係の発達へという展開点に至っていることにも対応している。
「ココ」、 「イマ」、 「ボク」や聞き手の領域を意識したソ系の出現がA、 Bともに遅れることが示された。 観察による結果の解釈は妥当であると考えられるが、 ヒトは障害をもちながらも、 世界との関係を求める存在であることを示したという意味で、 A児やB児の姿は感動的でもあるが、 観察結果自体は予想外の結果とはいえない。 それは、 すでにわれわれが、 直感的には関係論的視点を持っているからである。 3年にわたる観察と多方面の記録を逐次照合して、 恣意性を排除して発語場面から障害児の発達の根拠に迫ろうという本論文のような実証的研究は関係性の重要性を示す貴重なものである。
本論文は以下のことを明らかにしたと考えられる。 第一に、 身体運動機能が、 コレなどの指示詞の発達の前提となることを示した。 第二に母親呼称が出現するには、 母を他者として認知する空間的分離が必要であることを示した。 第三には、 自己の立脚点の今、 ここで私という語の出現が、 知的能力が健常であるにも関わらず遅れていることが示され、 母親呼称の遅れとともに、 自己という主体の確立の障害が見られることが示された。 第4に否定的表現は、 泣くという動作から「ダメ」にいたる系列として捉えられ、 言語表現行為は身体表現から連続するものとみなされる。 この考察に示される拒否という形で自己主張できる自己の確立という観点の導入は重要である。
以上の他にも本論文の成果は少なくないが、 もとより不十分な点がないわけではない。 まず対象が2例であることで、 運動機能障害児一般に適応が可能といえるのかという点である。 ビデオ映像を含めた緻密な記録により、 根拠を示そうという努力がなされている。 ピアジュや「やまだようこ」らの研究も育児中の自子を対象とした研究であったことを考慮すれば、 少数の一回性の記録ではあるが、 運動障害児の言語表現行為の特質には迫り得たと判断できよう。
  否定表現が首振りなどの身振りをも含むこと、 著者のいう指示詞なども言語学的定義より広くとられているなどの言語学分野での対話を困難にするおそれがある。 著者はコミュニケーション行為として、 指差しなどの運動行為から言語表現行為を連続的なコミュニケーションとして捉えているのであるが、 それにはより詳細なデータ分析が必要であろう。 また、 対他的関係が言語発達に重要であることを力説するが、 言語臨床の場でどのような実践につながるかは必ずしも明確ではない。 もとよりそうした問題点については著者もよく自覚しており、 乳幼児言語発達尺度を作成して公開し、 多施設で発達指標を用いた記録の集積を試みている。 また、 コミュニケーション補助具を使用して健常児の集団に障害児を参加させる活動がなされているなど、 これらの問題点は、 今後の実践と研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査委員一同は、 本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、 平林あゆ子氏に対し、 一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2005年3月9日

2005年2月10日、 学位論文提出者平林あゆ子氏の論文について最終試験を行った。 試験においては、 提出論文「低出生体重による脳性まひ児の言語発達:「指示詞」、「否定表現」と「自―他の分化」との関連から」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、 平林あゆ子氏はいずれも十分な説明を与えた。
以上により、 審査委員一同は平林あゆ子氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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