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博士論文審査要旨

論文題目:近代ドイツにおける都市の電化プロセス―フランクフルト・アム・マイン 1886-1933年―
著者:森 宜人 (MORI, Takahito)
論文審査委員:土肥恒之、藤田幸一郎、上野卓郎、ジョナサン・ルイス

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本論文の構成
 1871年に成立したドイツ帝国はその目覚しい社会経済的発展によってヨーロッパの大国として政治的な発言力を強めたことは広く知られている。プロイセン主導によるこの第二帝政下にあっても各地域はその独自性を維持したが、他方で中世に遡る自治の伝統を持つ諸都市もまた国際的な水準から見ても先進的な社会資本の整備をすすめた。つまり水道、ガス、電力などを始めとする近代的な「給付行政」において都市自治体が果たした役割はきわめて大きなものがあった。本論文はそうしたドイツ諸都市のなかでもとりわけ先進的な「給付行政」を実現したフランクフルト・アム・マインを対象として、特に都市電力事業の展開を「行財政の自律性」との関わりという観点の下に全面的に分析したものである。本論文はそれ自体きわめてレヴェルの高い社会経済史的実証研究であるとともに、「動態的なドイツ近代都市像」の形成のための新しい試みでもある。本論文の構成は以下の通りである。

序論 本研究の課題と研究史
第一節 ドイツ近代都市と電力
第二節 研究史の整理
第三節 本研究の課題と視角
第四節 本研究の構成
第五節 近代フランクフルト史の概観
第一章 フランクフルト国際電気技術博覧会とその帰結
第一節 システム論争―直流対交流―
第二節 電力事業導入の準備局面
第三節 フランクフルト国際電気技術博覧会
第四節 発電所建設計画の完成
第五節 フランクフルトの試行的性格
第二章 第二帝政期における都市の電化
第一節 公設民営時代と発電所の公営化
第二節 公営化以後の市電力ネットワークの拡充
第三節 市街鉄道の公営化と電化
第四節 第二帝政期の市財政と電力事業
第三章 世紀転換期の合併と電力網の拡張
第一節 ニーダーラート
第二節 エッシャーハイムとヘッデルンハイム
第三節 シュヴァンハイム
第四節 小括
第四章 広域発電網への対抗
第一節 ヴァイマル期における広域発電網の発展
第二節 発電所の拡張と三相交流システムへの切替え
第三節 ライヒ、ヘッセン両政府との共同事業
第四節 プロイセンエレクトラとの契約改定
第五章 ヴァイマル期における都市の電化
第一節 電力消費構造の変動
第二節 「光の祭典」
第三節 電力料金政策と一般家庭への電力普及
第四節 完全電化住宅の実験―レーマーシュタット団地―
終章 「都市社会化」としての都市の電化プロセス
史料・文献目録

2 本論文の要旨
 序論では冒頭で1903年に開催されたドイツ都市博覧会を記念して出版された『大都市』のなかの歴史派経済学者K.ビュッヒャーの論文を手がかりにして、当時の都市問題の広がりと重要性について注意を喚起した後で、研究史の整理と課題の設定がおこなわれる。まず「都市化」と「都市社会化」について次のように整理される。つまり「都市化」が総人口に占める都市人口の比率の増加、人口稠密地帯における都市群の形成などの量的な変化を指して用いられるのに対して、「都市社会化」は都市的な生活スタイルの形成と変化、人間関係やコミュニティーの変容のような質的な変化を指して用いられている。「都市社会化」に焦点を合わせる著者によると、19世紀後半以降ドイツの諸都市は「給付行政」によって近代的な社会資本を整備していくが、近代都市のイメージ、つまり「都市性」の形成に決定的だったのは「都市の夜を昼に変えた」電灯であり、広く電力事業である。従来の研究においては、都市自治体での発電が支配的な「都市発電所の時代」、そして第一次大戦後の発電所の大型化と広域発電システムの時代という区分に立って、都市の自治権が強く自主的な財政運営が可能であった第二帝政期に関心を集中させてきた。その反面ヴァイマル期の都市電力事業についてはきわめて手薄となっている。確かにヴァイマル期には行財政の中央集権化が進み、都市の自律性も大きく損なわれた。だが反面財政に占める公益事業収入はより重視されることになり、この点で電力の貢献はきわめて大きいものがあった。以上のような展望から、著者は対象とする時期を第二帝政だけでなく、ヴァイマル期まで延ばすことで、電力事業と都市自治体との関わりと変化をより明確に捉えるべきとする。
 次に著者は、従来の「給付行政」研究が行政・制度史と財政史に偏っていて、社会経済史の実態分析が欠けていたと批判する。この点で各都市の社会経済史的特質の違いに留意しながらも、都市電力ネットワークの形成の社会史的帰結を明らかにしたD.ショットの考察に注目するが、彼の場合も基本的に第二帝政期に限定されている。以上のような研究史の批判的な検討から、著者はフランクフルト・アム・マインに即して、その電力事業をヴァイマル期を含めて「連続的に」捉えること、そして都市に導入された電力が当初の「奢侈品的消費財」から「必需的消費財」へと移行するプロセスを「都市の電化プロセス」として捉え、そこに焦点を合わせて実態を解明することを課題として設定している。
 第一章では1891年にフランクフルトで開催された国際電気技術博覧会の計画と実施、そして都市への電力導入過程が分析されている。フランクフルトでの電力導入問題は1887年の委員会の立ち上げに始まるが、市議会でも市内照明はガス灯で十分であり、「電気による照明は贅沢」というのが全体の空気であった。また都市全域に給電を可能にするためには様々な技術的な問題があったが、1889年初めには電力事業を公営として実施するという基本方針が確立された。L.ゾンネマンを中心としたフランクフルト市民が原動力となって開催された国際電気技術博覧会では、「三相交流システム」による遠距離送電実験を成功させることによって「交流システムの優位」が証明された。かくて電力導入に向けての動きが活発化し、都市発電所建設計画が日程に上るのである。
 当初の計画では、電力事業は照明用電力の供給に限られていたが、計画の策定が進むにつれて、市街鉄道の電化と動力用電力も加えられた。つまり電力事業は都市計画における重要な要素と位置づけられたのである。他方で電力システムについては、博覧会での「交流の優位」という印象にも拘らず、信頼性と簡明性という観点から「単相交流による一元的システム」が選択された。市は技術的なリスクを回避したのである。また事業経営についても民間会社に委託されたが、5年後には無償で公営化することが契約されていた。この事業に対する市の監督権が重視されたのである。
 第二章ではフランクフルトにおける電力事業の公営化と市街鉄道の電化が扱われる。電力事業が開始され収益性が明らかになると、市は収益の増大を図るべく発電所の公営化に踏み切った。それとともに電力ネットワークの拡充に努め、その結果第一次大戦前夜には、市内域はもとより、郊外にまで電力が供給されるようになったのである。もとより重要なのは料金である。照明用電力についてはデパート、ホテル、レストランなどの大口利用者に有利な「従量料金」体系が維持され、収益の拡大がはかられたが、小規模な小売店では電灯の利用はきわめて困難であった。また住宅での電灯利用もごく一部の上層市民の家庭に限られていた。1910年の時点でフランクフルトには9万1762の住宅があったが、市営発電所から照明用電力の供給を受けていた戸数は5800、つまり6.32パーセントにすぎなかった。したがって照明用電力は第二帝政期を通して「奢侈品的消費財」であり、街路照明を含めて、照明の主体はいぜんとしてガス灯であったのである。
 他方で市はそれまで私的資本の経営に委ねていた市街鉄道の公営化とともに、その効率的な運営のために電化に踏み切った。市街鉄道事業の主眼は公共交通機関としてより多くの住民の利用に供することにあったが、周辺自治体との合併などを含む都市計画を円滑にすすめる上でも欠かせないものであった。従来の馬車鉄道に比べると、速度、馬の購入・維持に要する費用、また衛生面から見ても市街電車の利点は明らかであった。1899年4月から2年ほどで既存の馬車鉄道路線の電化がすべて終わり、さらに郊外の「貴族の温泉地」バートホンブルクなどとも結ばれるなど、市電路線は拡充されていった。大戦前夜までに路線数は27を数え、近代フランクフルトの市街鉄道網の原型はほぼ完成したのである。市街鉄道は、特に1903年に導入された「年収2000マルク以下の労働者」のための割安な月極め定期券の導入にみられる社会政策的な料金政策のために、第一次大戦前夜までに広範な住民の利用するところとなった。つまり人々の日常的な「足」として都市生活に定着したのであり、都市の電化はまず市街鉄道の領域において実現されたのである。
 第三章ではフランクフルトから周辺自治体への電力網の拡張の過程が、自治体合併問題との関連で明らかにされる。ここで取り上げられる周辺自治体とはニーダーラート、エッシャーハイム、ヘッデルンハイム、シュヴァンハイムの4市だが、中心都市フランクフルトへの編入によって財政的に困難な電力供給事業を実現したいというこれらの自治体の希望は必ずしも実現に至らなかった。つまりフランクフルト市当局は一貫して事業の収益性を追及していた。電力ネットワークの拡張は潜在的な需要を見極めながら実施される方針が確立されており、郊外そして合併予定の自治体への電力ネットワークの拡張についてもこの方針が堅持されたのである。またフランクフルトには市域全体を自己の電力ネットワークで一括カバーすること、つまり電力供給の独占権を確保しようとする強い意図があった。このために周辺自治体は中心都市フランクフルトとの合併によってすぐに電力供給が果たされたわけではなかったことが明らかにされる。
 第四、五章では第一次大戦後のヴァイマル期におけるフランクフルトの電力問題が扱われる。すでに指摘されたように、ヴァイマル期は発電所の大型化と広域発電システムの時代になり、フランクフルトにとってはいかにして電力事業の自律性を守るかが重要な課題であった。もとより市営発電所による発電を停止して、私的資本からの電力供給に全面的に依存するという選択肢がないわけではなかった。だがフランクフルトは市営発電所の出力増大を図り、外部からの電力購入はあくまでも二義的なものとみなした。つまり自律性を守る方向で問題を解決しようとしたのであり、その背景としてはエルツベルガーの財政改革、つまり中央集権化による都市財源の縮小のなかにあって電力事業は公益事業収入全体の70パーセントを越えていたという財政的な事情もあった。第四章はこうした論点に関して、きわめて具体的かつ説得的に議論が展開されている。
まずライン・ルール地方で独占的な地位を確立していた広域発電企業であるライン・ヴェストファーレン電力会社(RWE)そして国有企業であるプロイセンエレクトラ株式会社の動向について概観した後に、フランクフルトの具体的な対応が明らかにされる。つまり市は当面の電力需要の増大をカバーするためにプロイセン発電所オーバーヴェーザー株式会社(PKO)との契約を結ぶが、それは飽くまで暫定的な措置でしかなかった。クリンベンベルク・プランに沿って市営発電所の拡張そして配電網の「三相交流システム」への切り替えが決定されたのである。さらにライヒ、ヘッセン両政府との共同プロジェクトの推進がなされる。著者はこれらのプロジェクトを子細に検討するとともに、1933年の段階で電力需要の約60パーセントを市内での発電によっていたことを明らかにしている。たしかに1920年代後半から外部電力への依存度が高まり、電力事業経営に大きな制約が加えられたが、第二帝政期以来の基本方針を堅持することが出来たというのが著者の結論である。
第五章では、同じくヴァイマル期のフランクフルトにおける電化と電力消費の問題が分析されている。この時期の特徴は私的照明セクターにおける消費電力量の著しい増大である。つまり第二帝政期とヴァイマル期における消費電力量のそれぞれのピークである1913年度と1930年度を比較すると、約5倍の増加が記録されたが、この急成長を支えたのは一般家庭であった。第二帝政期には電力ネットワークに接続していた市内住宅はわずか10パーセントであったのに対して、1920年代末には70,80パーセントが接続していたのである。かくて照明用電力はもはや一部の富裕な市民層だけが享受する「贅沢な灯り」ではなく、一般的な照明エネルギーとなった。言い換えると「奢侈品的消費財」から「必需的消費財」への転換が生まれたわけである。このような動向を確認した上で、著者は具体的に電力利用における宣伝活動と料金政策を取り上げている。
宣伝活動については1927年12月にフランクフルトで開催された「光の祭典」が詳しく分析される。これは商店のショーウィンドー照明利用を啓発するために企画されたものだが、当時いぜんとして電灯の利用が「贅沢」として認識されていたこと、「光の祭典」はそうした「贅沢」観を払拭する契機となったことなど絵葉書大のポスターカードなどを使いながら明らかにしている。「光の祭典」はドイツ全土で反響を呼び、翌年には各都市で同様の催しが開かれたのである。もとよりより効果的なのは料金政策で、フランクフルトでは小住宅に有利な料金体系が導入されることによって、照明用電力の平均価格は帝政期の三分の一にまで低下した。つまり電灯の普及に大きく貢献したのは何よりも料金政策であった。さらに著者は「完全に電化された住宅」という実験的な団地レーマーシュタットを取り上げて、家電製品を備えた新しい都市型生活スタイルの誕生を紹介している。

本論文の成果と問題点
 本論文は近代ドイツの諸都市のなかでも先進的な「給付行政」の実施したことで知られるフランクフルト・アム・マインによる電力事業の導入の全過程、つまり計画作成の段階から実験的な試行、本格的な稼動と定着に至るまでを市の文書館史料によって明らかにした本格的な実証研究である。焦点は照明用電力と市街鉄道の二つに絞られてはいるが、わが国はもとよりドイツ本国でも欠けている分野であり、本論文の成果はこの点に求められるだろう。著者はまず徹底した史料調査と蒐集によって、電力事業計画の作成の段階から最終段階に至るまで、市議会や電力委員会の議事録を逐一検討する。またその内容を漏れなく点検するなかで、付随するさまざまな問題にも注意を怠ることなく、議論の主筋を明らかにしている。これらの作業は歴史研究において当然の手続きとはいえ、著者の豊かな資質を窺わせるものである。また本論文はフランクフルトという一都市についての個別のケース・スタディではあるが、当時のさまざまな統計史資料を駆使して、ドイツ諸都市のなかのフランクフルトの位置付けについても十分に意を用いている。本論文は、したがってドイツの他の諸都市について同様な問題を扱う場合にも確かな準拠となるだろう。
具体的な成果としては、まずフランクフルトの電力事業を第二帝政期とヴァイマル期を連続的に捉えて両時期の特質を比較するという方法によって、電力事業と「都市の自律性」という理念の関わり並びにその変化がきわめて具体的かつ鮮明に描きだされた点に求められる。特にヴァイマル期におけるプロイセン政府との密接な関係が事業の自律性を維持するうえで不可欠な条件であったことが説得的に明らかにされている。また第二帝政期にすでに市街電車が住民の「足」として定着したこと、さらにヴァイマル期には割安な料金政策によってほとんど全ての住宅で電灯が利用されたことがさまざまな史料を駆使して明らかにされている。具体的には馬車鉄道よりもはるかに優れた市電についての当時の啓蒙的パンフ、あるいはショーウィンドー照明啓蒙用ポストカード、更には「光の祭典」についての写真などの図版史料が利用された。これらはきわめて有効で説得的なものとして評価できるが、もちろん著者による「発見」であった。こうして著者はドイツ史学における「自治体給付行政」の方法を前提としながらも、社会史的アプローチによって新しい要素を盛り込むことに成功していると言えるだろう。
以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。まず各階層の都市市民についてしばしば言及されているが、全体的な見取り図が欠けていることは問題をあいまいなままに残す結果となっている。「手工業層に対する社会政策的配慮」「年収200マルク以下の労働者」、あるいは「一部の上層市民」と「中間層以下の一般家庭」などが意味する階層が具体的に見えてこない憾みがあり、概括的にでもフランクフルト市民の社会経済的な構成と変化について示されるべきであった。またドイツの社会経済史学が提起し、著者が依拠する「都市社会化」の概念についてもさほど明瞭ではないように思われる。その他にも電力という「技術と社会システム」に関る興味深い論点についてもより積極的に論じてほしい気もするが、そうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、森宜人氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2005年2月9日

2005年1月21日、 学位論文提出者森宜人氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「近代ドイツにおける都市の電化プロセス フランクフルト・アム・マイン1886-1933年」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、森宜人氏はいずれも十分な説明を与えた。
以上により、審査員一同は森宜人氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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