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博士論文審査要旨

論文題目:漢語の影響下におけるモンゴル語近代語彙の形成 ― 中国領内のモンゴル語定期刊行物発達史に沿って ―
著者:フフバートル (Huhbator)
論文審査委員:田中克彦、糟谷啓介、糟谷憲一、中島由美

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1.本論文の構成
 アジアのモンゴル語地域(ヨーロッパのカルムク語地域は除く)は、その地理的連続性にもかかわらず、17世紀以来、露清の間で、内・外・ブリヤートの三地域に分割されたために、言語的メトロポリスをもつことができず、したがって統一文章語を生み出し発展させることができなかった。それにもかかわらず、それぞれの地域の外来支配言語、すなわち、中国語、ロシア語、日本語の影響を受けつつ、近代社会の需要に応ずるための語彙を、自前の材料を用いて生みだしてきた。1921年のモンゴル人民共和国の成立によって、外モンゴルでは近代語の形成は統一的な国家的事業として成功をおさめたが、中国領内にとどまった内モンゴルでは、政策浸透を図る方策として、それぞれの支配者側がモンゴル語定期刊行物を発行し、またモンゴル人自身もこの作業に参加していくなかで、近代語彙が創り出された。本論文はその過程を明らかにするために、それら多種多様な定期刊行物の発行地である、北京、南京、瀋陽、長春、張家口の各地を調査し、さらに日本に所蔵されているものを補って、ほぼ完璧に近いリストを作った。これによって従来中国で知られていた74種という数字は、この論文によって110種と訂正された。このような徹底した書誌学的調査は世界嚆矢であり、この基礎にもとづいて本論文は書かれた。

 本論文は序論と三部九章と資料篇からなる。

序論  本研究の基本姿勢とモンゴル語近代語彙
第一部
 第一章 モンゴル語定期刊行物の登場とその文化的背景
 第二章 モンゴル語近代語彙登場の母体 ― 『蒙話報』
 第三章 『蒙話報』モンゴル語近代語彙研究
第二部
 第四章 中国の共和制とモンゴル語近代語彙の発展
 第五章 南京政府「蒙蔵語文研究会」とモンゴル語術語
 第六章 「満州国」のモンゴル語近代語彙と日本語の影響
 第七章 「蒙彊政府」の新語と青年作家の語彙
第三部
 第八章 モンゴル語定期刊行物の統合と民族の言語的統一
 第九章 定期刊行物の名称の変遷プロセスに見るモンゴル語近代語彙形成パターン
資料篇 中国領内発行[の]古いモンゴル語定期刊行物(1908~1950)カタログ


2.本論文の概要

 序論では、まず近代語彙が登場する舞台となった清朝末期から、中華人民共和国成立期の1950年までの定期刊行物の全体が展望される。期間がこのように限定されたわけは、その半世紀のうちに、これら定期刊行物にあらわれた近代語彙が、中国内のモンゴル語の近代語彙の基礎を形成したという見解にもとづいている。それらは1950年以降、モンゴル人民共和国で作られた近代語彙の影響を受けて変化して行くことになるが、50年までは、もっぱら漢語と、一時的には日本語もしくは日本漢語の影響によって作られた。

 この時期の定期刊行物を、直接今日につながる1950年後の刊行物と区別して、本論文では「古いモンゴル語定期刊行物」と呼ぶ。この「古い」刊行物は発行主体によって四つに大別される。第一は清朝政府とそれに続く中華民国で発行されたもの、第二は帝政ロシア側を代弁してハルビンで発行されたもの、第三は日本を代弁した蒙彊政府、満州国で出されたもの、そして第四は日本敗退後、内モンゴルの民族主義者によるものである。これらの刊行物は、それぞれの政治的背景だけでなく、広大な内モンゴルの地域性を代表している点で資料的価値が高い。

 この「古いモンゴル語定期刊行物」のうち、1908年から1910年まで清朝が発行した月刊誌『蒙話報』(モンゴル・ウスギーン・ボドロル)から、著者は849の近代語彙を抽出し、これを「近代語彙の母体」と位置づけ、後続の刊行物に現われる近代語彙との比較の基準として用いる、という方法がとられる。

 第一章では、『蒙話報』に先行する、19世紀末の、最初のモンゴル語定期刊行物がとり扱われる。たとえば、ロシア領のチタで1895年から1897年まで450号を刊行したとされる「ドルノト・ヒャズガーリン・アミドラル」(東方辺境の生活)や内モンゴルのハラチン右旗の旗長グンセンノロブのもとで、1905年から7、8年間にわたって刊行されたとされる「ニャルハ・セトグール」(嬰報)が紹介され、発行者グンセンノロブの文武に通じていた人物とともに、ハラチン右旗を中心とする一帯が、文化的な伝統の豊かな地域であって、こうした刊行物が現われる背景についての説明がある。たとえば、ハラチン王府には明治36年(1903年)に河原操子が教師として招かれていたという有名な事実があり、著者は、この河原の滞在記をも用いて、ハラチン王府の言語生活を再現しようと試みる。グンセンノロブは、「漢詩韻文」を中心とするものでありながら、ローマ字によるモンゴル語新聞をも発行したということなどを、著者は二次的資料を援用しながら述べているが、その現物は確認されていない。

 グンセンノロブは河原操子の協力を得て、八人の留学生を日本に送る。このなかには、帰国後、内モンゴルで初めてのモンゴル語活字を作り、北京に最初のモンゴル語出版社を創設したテムゲトや、1930年代の蒙彊政府において要職についたアルタンオチルなど、内モンゴルの政治・文化史に残る人物が含まれていたことが述べられる。

 次いで、著者が実際に利用することのできた『蒙話報』にもとづきながら、清末の対モンゴル言語政策の実態についてふれられる。そこでは、法令上は理藩院の統治政策にもとづいて、モンゴル人に、漢語による命名は禁じられ、モンゴル語の教育が奨励されたが、実際には漢化が激しく進行していた。このことが、モンゴル語で定期刊行物を刊行しようとするときに、著しい言語的制約を与えていた。

 第二章は、著者が「近代語彙登場の母体」となったとして重視してやまない『蒙話報』の全貌が描き出される。すなわち、『蒙話報』発行の目的は、まず吉林調査局、ついで吉林蒙務処という政府機関が、清朝政府の政策をモンゴル人に周知徹底させるための官報的性格のものであった。発行部数は600から700であった。『蒙話報』は、サンクトペテルブルク東洋学研究所に数号が所蔵されているという情報が研究書にあるが、著者はこれを確認できなかったこと、また、奇妙なことに、中国ではカードに登録されてさえおらず、実際に所蔵されているのは25号だけであること、最も豊富に所蔵しているのは、日本の東洋文庫であり、著者のこの研究は、東洋文庫所蔵のものを用いてはじめて可能になったことなどが述べられる。書誌的な記述に続いて、その内容がどのようなものであったかは、第25号によって例示される。

 『蒙話報』のモンゴル語テキストが誰によって、どのように作られたかは次のように推定される。すなわち、あらかじめ吉林省当局が作った漢語のテキストをモンゴル語に翻訳した。この翻訳の必要から生まれたのが、いわゆる「近代語彙」であって、その翻訳にあたったメンバーとして、ソロンボー、イフターチュン、シャンユン、ユンチョンなどの名があげられ、それぞれの翻訳分担が示される。

 基本的に漢語との対訳として生まれたモンゴル語テキストは、漢語の文字をそれぞれ対応のモンゴル語に置きかえた「字訳」であって、漢語の「原典と照合しなければ意味が掴めない」ような人工的で自立しないモンゴル語であった。

 第三章は、『蒙話報』に現われたモンゴル語の近代語彙そのものが扱われる。その方法は以下の如くである。利用しうる『蒙話報』23冊1755ページから、「近代的」と思われる漢語の「二字複合語」を基準に、849語をとり出して、それを政治・経済・社会等々の九分野とその他に分類する。この849語を『蒙話報』とほぼ同時代の漢蒙辞典『蒙漢合璧五方元音』とを比較すると、両者で共通するのは21語だけである。この21語が、両者でどのようなモンゴル語に訳されているかを見ると、完全に一致する語彙は8つしかない。これは、『蒙話報』中の0.9%にしかすぎない。このことによって『蒙話報』の近代語彙は全く新しく作られたものであると見なされる。

 次いでこれらの新語がその後どれだけ定着したかを見るために、三十数年を隔てて刊行された『蒙訳名辞選輯』の見出し語とが対比される。両者に共通する漢語の見出し語は337語であるから、それは『蒙話報』の849語の40%となり、その一語一語について、モンゴル語訳語が対比される。そのうち一致する106語は『蒙話報』に現われた近代語彙の12.7%にあたると算定される。

 次に同様の方法で、1982年刊行の『漢蒙詞典』の漢語見出し語に対する訳語と比較してみると、『蒙話報』の近代語彙の9.3%だけが一致する。このことから、1908年当時のモンゴル語新語は「大量に淘汰」されたとする。その原因は、1950年代にモンゴル人民共和国からおびただしい新語が導入され、それによって置きかえられたためであるというのが著者の見解である。

 第四章では、辛亥革命がモンゴル語の発展におよぼした影響について述べられる。まず、外モンゴルの独立宣言に対処して、内モンゴルの諸侯、僧侶の歓心を買うために、民国政府は宣伝の具として、相次いで五種類のモンゴル語雑誌を刊行した。その大部分が「蒙漢合璧」となっていたことは、モンゴル諸侯の多くが漢語をよくしていたこと、また同時代のできごとを報ずる言語としては、内モンゴルのモンゴル語がまだ近代言語として自立していなかったことを示していると著者は解釈する。一方、独立宣言を発した当の外モンゴルでも、ロシア公使コロストヴェツとブリヤート人ジャムツァラーノが協力して、外モンゴル初の新聞を発行した。この時期は、内外モンゴルが共に、同じ文字による文語を使っていたため、内モンゴルで作られた共和制中国の政治用語がすぐさま外モンゴルにも影響をあたえることによって、内外モンゴル共通の近代語彙の基盤が作られたことを著者は強調している。また、この期の雑誌の一つが『蒙古白話報』と名づけられていることは、中国の白話運動を反映しており、たしかに漢語のテキストは白話文になってはいても、それがモンゴル語の文体には影響をあたえてはいない。ちなみに、この『蒙古白話報』1~18号までを完全な形で所蔵しているのは日本の天理大学である。ここでは共和制体下に現われた『白話報』に特有の近代語彙の一覧表が添えられている。

 第五章では、従来、学界で一度も扱われたことのない国民党の南京政府下での近代語彙の創出について述べられる。ここでは、対モンゴル・チベット政策を念頭に置いた「蒙蔵語文研究会」が設けられ、約2000の術語が作られた。「研究会」の組織が述べられ、その「蒙古語文組」のスタッフには、白雲梯(セレンドンロブ)をはじめ、ハラチン出身の内蒙古人民革命党右派と見られる人物が結集していた。かれらはグンセンノロブの影響下に教育を受けた人たちであり、そのなかの一人イデーチンは1906年に日本の陸軍士官学校予備科に留学し、帰国してから内蒙古人民革命党の創立に加わった。

 かれらが作った政治組織、党機関の呼称、経済用語は、孫文の著作のなかの漢語から選ばれた。これらの新語を用いて、モンゴル語に翻訳された国民党政治文献の約40タイトルが挙げられている。「研究会」によって発表された術語は1273であったが、そのなかで今日も引きつづいて使われているのは50足らずにすぎない。その理由は、前章で述べられたように、やはり第二次世界大戦後、モンゴル人民共和国の新語によって駆逐されたと著者は見る。

 第六章では、こんどは「満州国」時代に、日本語の影響下に作られた新語がとりあげられる。日本の支配は短期間であったが、漢語の影響よりはるかに強かったと著者は見る。「満州国」時代に刊行された雑誌、新聞あわせて八点が知られている。これらの発行地はすべて新京であったが、これらとは別に開魯で、「オラーン・バルス」(赤虎・丙寅)が、蒙文学会の機関誌として1926年頃から、日本の敗退直前まで刊行された。この月刊雑誌を主宰した人物ブフヘシグは、ナイマン旗出身のモンゴル人で、1935年に「満州国教育会日本視察団」の一員として来日した経験があり、オーエン・ラティモアはこの人からモンゴル語を学び、かつモンゴルのナショナリストたちと知りあったことが、ラティモアの回想録のなかに見出される。

 ブフヘシグは満州国官僚でありながら、今日も存命である、コミンテルンの協力者であったダワーオソルとも知己であった。ブフヘシグは1943年に死亡したが、その死因について、日本軍による毒殺説が有力であるが、著者はダワーオソルとのインタビューに成功し、それを否定する話をエピソードとして加えている。蒙文学会は1941年にブフヘシグの監修のもと、日本語からモンゴル語に翻訳した『新名辞字典』を刊行した。その字典には「オラーン・バルス」誌には欠けていて、新たに新語が追加されており、そのリストが示される。また「蒙文学会」が系統的に審議した1066語のリストが添えられている。

 第七章では、日本の支援のもとに、徳王の主導によって成立した蒙彊聯合自治政府、通称蒙彊政府下で創出された新語が扱われる。背景には日本語があるにもかかわらず、創られた新語は、満州国の新語とは必ずしも一致しない。日本敗退に至るこの短期間に11種の新聞雑誌が刊行された。

 この11の新聞のうちの一つ、「モンゴリーン・ソニン・セトグール」紙は、1942年4月23日号が見られるだけであるが、そこには「新語解説」のコラムがあって、501から516の通し番号のついた15の新語の解説が行われている。この残存した号を手がかりに、蒙彊政府の新語作成の状態が推定されている。

 蒙彊政府のもとでの新語製作の様子は、常に新聞、雑誌によるのみでなく、日本の東洋大学に留学させられたサインチョクト(サイチンガ)の文学活動に著者は特に関心を寄せ、その作品の中に、日本語の影響下に作られたらしい単語を見出している。「乗車券」「運動会」「赤帽」などは、当時の日本を舞台にした作品を書くばあいに、欠かせない語彙であった。

 第八章では、1945年の日本敗退後から、1947年の内蒙古自治政府樹立までの一年九ヶ月に、20点の新聞・雑誌が現われたことが確認される。これらは、モンゴルの政治的運命を決定した重要な歴史的時期を反映している。すなわち、従来の国民党と日本勢力のほかに、中国共産党、内蒙古人民革命党、東蒙古人民自治政府など、多様な勢力が入り乱れて、これらの新聞・雑誌を刊行したのである。次いで、1947年5月の内蒙古自治政府成立から1951年までの刊行された十数種の新聞雑誌が確認される。

 1945年以降の注目すべき現象は、進駐してきたソビエト赤軍がブリヤート人などの編集スタッフの協力をえて発行した刊行物である。これらの刊行物は、ソビエト軍の宣伝に奉仕したものであると同時に、内モンゴル人から見てより先進的な達成をなしとげた、同族のモンゴル人民共和国の言語変化へのあこがれと、それとの一体化への願望によって支えられていたため、外モンゴル製の近代語彙が急速かつ大量に流入してきた。モンゴル人民共和国のモンゴル標準語を学ぶためのキリル文字学習欄も設けられていたことに、その雰囲気が現われている。この状態は1950年代末に、キリル文字採用の方針が撤回されるまで続いた。この十年ほどの間に内モンゴルの近代語彙は一新され、漢語の「字訳」による不自然で人工的な新語は駆逐された。この過程を可能にしたのは、中ソ「蜜月」時代であった。

 第九章は、ここまで述べられてきた新語の推移の過程を、具体的に定期刊行物を呼ぶ名称変化のなかに追っている。すなわち、「新聞」「雑誌」を表わす四つの語を扱った具体篇、応用篇と呼ぶべき内容のものである。「ボドロル」「セトグール」「ダロマル」「ソニン」が発行主体と発行時期によってどのように用いられてきたかが検討される。

 巻末には、1908年から1950年にかけて刊行された、いわゆる「古いモンゴル語定期刊行物一覧」が50ページにわたって示され、確認されたその所蔵地、所蔵機関が克明に示してある。


3.本論文の成果と評価

 この論文は二つの目的をもっている。第一は、今世紀の初頭から半世紀にわたる波瀾に富んだ政治状況のなかで誕生した、中国におけるモンゴル語定期刊行物の所在を確かめ、その完璧なカタログを作ることにより、モンゴル語定期刊行物発展史の全貌を描きだすことである。第二は、これら定期刊行物に現われた「近代語彙」の総体と、その生成の過程を明らかにすることである。

 第一の目的について言えば、この点においては詳細を極めた本論文は、中国自体においてきわめて不充分にしか行われていないため、空白のまま残された部分を明らかにした点で、前人未踏の驚嘆すべき偉業として賞賛を惜しまない。とりわけ、南京の国民党政府のもとで、モンゴル語による新語づくりが行われていたことの指摘は、従来知られていなかった、新しい知見である。今後、世界のモンゴル研究は、この堅固に築かれた書誌学的研究を土台にしなければ前に進めないであろう。

 しかし、第二の目的については数多くの不満が指摘され、本格的な研究はこれからという感を強くする。その理由はまず第一に、「近代語彙」の創出が、単にその場の必要に応じてのスポラディックな現象として外的にしかとらえられていないことである。それは本論文でとられた方法からの避けられない帰結であろう。すなわち、モンゴル語の近代語彙は、漢語における近代語彙の一方的な翻訳によって生まれたとする観点である。それは、この期の定期刊行物のテキストの性格からしてやむをえなかった面もあり、それ故に「漢語の影響下における」と限定をつけた著者はこのことを十分に意識しているはずであるが、将来克服しなければならない問題点である。

 第二に、近代語彙の意味論的側面についてはほとんどふれらていない点である。すなわち、著者の言う「字訳」によって生じたいわば異物と、語彙体系全体との関係である。近代語彙は、ただそれだけで孤立した閉鎖領域をなすだけでなく、意味論的領域全体にゆさぶりをかけ、文体にまで変化をひき起こすものというのが言語学の認識だからである。もしこの研究が、前もってそのような見通しと構えをもって出発していたならば、モンゴル語を材料にした研究でありながら他の同様の運命をもった諸言語についても参考となる普遍性を得ていただろう。

 第三に、外モンゴル製の近代語彙が、なぜ内モンゴルの近代語彙を駆逐して行ったかを、著者は、外モンゴルの先進的文化というプレステージという外的要因に帰するにとどまっている。この際にも欠けているのは、語彙・造語の体系性という観点であろう。ロシア語からのカルク(calque)によるだけではなく、より内発的に作られたと思われる外モンゴルの新語とを単に対照するだけでなく、その構造分析が試みられるべきであった。著者はこの論文の範囲内では、モンゴル語の近代語彙を一方的に漢語に依存した「翻訳」だと見ているために、モンゴル語自体の内発的な新語生成の原動力のようなものを明らかにしないまま終わっている。


4.結論

 以上のような欠点があるにもかかわらず、本論文はモンゴル語出版史、語彙史の研究において、今後欠かすことのできない、重要な貢献をなした点で、本学大学院博士学位論文として十分な水準に達しているものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと考える。

最終試験の結果の要旨

1998年2月22日

 1998年2月13日、学位論文提出者フフバートルの試験及び学力認定を行った。試験においては、提出論文「漢語の影響下におけるモンゴル語近代語彙の形成 ― 中国領内のモンゴル語定期刊行物発達史に沿って」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、フフバートル氏はいずれも十分な説明をあたえた。よって審査員一同はフフバートル氏が一橋大学博士(社会学)を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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