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博士論文審査要旨

論文題目:中国の参加的労使関係―大連市の国有企業についての実証研究
著者:尹 秀娟 (YIN, Xili Juan)
論文審査委員:高田一夫、倉田良樹、林 大樹、渡辺雅男

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1.本論文の構成
本論文は、中国の国有企業における労使関係を現地で訪問調査し、公開されていない文書も閲覧した上で中国国有企業の労使関係の実態を明らかにするとともに、工会の特徴を「多機能性」に求めるという独自の視点から、中国労使関係の性格を摘出した研究である。これまでの中国労使関係研究を資料的にも理論的にも一歩前進させた研究業績として特筆に値するものである。
本論文の構成は以下の通りである。

序章 研究課題と研究対象
第1章 中国労使関係の主体――多機能性を持つ工会 
第2章 中国経済改革による労使関係の形成と企業内の諸権力関係
第3章 職代会制度――参加的労使関係を規定する法律的枠組み
第4章 参加的労使関係――大連市企業の職代会制度の実証分析
終章 結語
参考文献

附帯資料
〔1〕「中共DG社委員会公文書」(DG社委発〔2001〕3号)
       2001年党委員会工作要点
〔2〕DG社工会公文書(DG社委発〔2002〕12号)
     2002年DG社「降成本、増効益」全員建功立業競争方案

2.本論文の概要
 序章で著者は、中国労使関係研究に関連する先行研究を批判的に検討しながら、実証的分析の基礎となる理論的、概念的分析を行っている。著者によれば従来の研究は、理論的な分析に限られており、実際の企業でどのような労使関係が存在しているかを実証的に明らかにしたものはほとんどない。唯一、実態調査に基づいて書かれた研究も対象が特殊な企業であり、代表性をもつとはいえないという。
 ついで著者は、中国国有企業の労使関係を研究するための枠組みを提示している。著者の枠組みは、次のようである。すなわち、社会主義イデオロギーのもとでは中国社会は労使対立のない調和的社会である。そのため、労使関係にかかわる各主体は、全体社会を発展させるために機能を分担する。このことについて、今少し具体的に説明しておこう。社会主義イデオロギーの枠組みにおいては、党は、中国の全体的な利益の代表として位置付けられている。党はそもそも企業の利益(部分的利益)、職員・労働者(工会)の利益(部分的利益)を向上させることによって、中国の全体的な利益を向上させるという目的を実現しようとしている。この構図は労使関係の視点からみれば、労使対立のない調和的社会、いわゆる労使一体化がなされた状態ということができる。またこの構図に基づき、党は、企業に経済効率を向上させるとともに、職員・労働者の賃金と住宅、学校、病院などを含む生活諸条件を向上させる機能を与えている。また、工会には労働組合機能、行政的機能(その代表的な例は、失業者に対する各種の援助である)、経営的機能(その代表的な例は、生産性向上を目的とする労働競争の組織化である)といった多機能を持たせ、労使の一体化を図るのである。他方では、党は企業の最高経営者、企業党委員会書記、工会主席という三役を、それぞれ任命している。したがって、中国企業の労使関係は実質上、党組織内部の独立組織間の関係とみなすことができる。これは、中国企業の労使関係の最も大きな特徴である。
この社会主義イデオロギーによる労使対立のない調和的社会という論理は、中国企業が従業員に経営参加を許す根拠ともなっている。計画経済の下においては、企業、工会がそれぞれ党から与えられた機能をそのとおりに果たすことによって、このような労使一体化の考えも比較的スムーズに実現した。
ところで市場経済化の下では、中国国有企業は党から与えられた機能から離れ、純粋に経済効果を追求する資本主義企業に近づくようになった。その一方で、工会は依然として多機能性を持っており、争議権はあいかわらず持っていない。このため、労使関係は微妙に変化し始めたといえる。しかし、労使一体化という労使関係の構図を維持しようとする党の姿勢は崩れておらず、工会に争議権を持たせない代わりに、経営への参加権を与えて一体性を保持しようとした。こうしてできたのが職工代表大会である。そのため、中国企業の経営参加は、工会の独立性が弱く労働組合機能以外の機能も保持したままの工会によって担われている。このように、中国の参加的労使関係と日本、旧西ドイツなどの資本主義国の参加的労使関係とは、異なる特徴を示しているのである。それは、中国の労使協調主義すなわち経営参加は、労使対立のない調和的社会を土台としているが、日本、旧西ドイツを代表とする資本主義国の経営参加は、労働組合が独立性を有しており、労使対立の労使関係制度を有するということを土台としているからである。
 このような変化しつつある労使関係はかつての社会主義イデオロギーにもとづく理論では捉えきれなくなっている。しかし、従来の研究にはこの実態を正確にふまえた分析は求めることができない。そこで、著者は大連市にある9社の国有企業および大連市総工会の関係者に対して面接調査を行ない、その結果に基づいて、多機能性を持つ工会(第1章)、経営者、企業内党組織、企業工会、株主としての政府(国有資産管理委員会)という四者の関係(第2章)、職工代表大会制度とその運営実態(第3章)、という3つの面から中国の参加的労使関係の実態を考察する。
第1章では、中国労使関係に対する理論分析と実証分析を重ねながら、中国労使関係のひとつの主体である工会を分析する。まず第1に、工会の組織制度は強い集権制を示しており、また工会会員の範囲、役員のあり方、財政の収入などの面においても、資本主義国の労働組合とは異なる特徴が示されている。第2に、社会主義イデオロギーによって、工会は多機能性を持つ組織となっている。この多機能性とは、労働組合機能、行政的機能、経営的機能である。第3に、工会は限定的な労働組合の性格(団結権、団体交渉権)しか持っておらず、争議権を持っていないが、企業経営への参加権と監督権を持っている。これは、党・政府が中国企業の労使関係を協調的、参加的方向に導こうとしていることを表している。この場合、職工代表大会(以下職代会と略す)が経営参加制度の主要な手段となっている。これは第3章で分析される。
第2章では、労使関係の今ひとつの主体である企業に関して、経済改革の進展に伴って中国企業内の権力関係が変化している実態を分析する。まず第1に、政府の「政企分離」(政府と企業の分離)という原則に基づいた授権経営政策によって、企業はほぼ経営権を掌握し、使用者として労使関係の当事者能力を有するようになってきた。これを契機として中国企業の労使関係は、国家=企業対職員・労働者の関係から企業対職員・労働者の関係に転換するようになってきた。また、中国企業の雇用制度や賃金制度、及び社会保障制度の変化によって、職員・労働者(工会)と企業間の対立は表面化し、労働紛争も増加するようになってきた。要するに中国も資本主義的な労使対立に近づいたということである。
第2に企業内の共産党組織は力を失いつつある。市場経済化の下では、企業内の諸権力関係が変化し、最高経営者は企業の意思決定権と人事権を有し、企業内党組織は経営者の仕事を援助し、監督するという脇役となっており、経営者が中国企業の労使関係の当事者である。企業内党組織と工会との関係からみると、企業内党組織は工会主席以外の工会専従者の選任に対して一定の影響力を持っているが、企業工会の活動についてはあまり統制力を持っていないといえる。したがって、企業工会が労使関係の他方の当事者として確立しつつある。しかし、株主としての政府(国有資産管理委員会)は相変わらず、企業の最高経営人事と大規模な投資に対して決定権を持ち、企業の活動を牽制している。ここでとくに指摘しなければならないことは、企業の最高経営者(董事長=会長、または総経理、企業長=社長)、党委員会書記、工会主席という企業の三役が、同じ上級政府の共産党組織部によって任命されていることである。このことは中国企業の労使関係上、重要な意味を持っている。これは、中国企業の労使関係が実質上、党の影響範囲内における独立組織間の関係であるということを意味しているのである。
第3に、企業制度の改革は、労使紛争の増加をもたらし、企業工会の活動状況の変化を促した。企業工会は、労働競争のような生産性向上運動を依然として行なっている(経営的機能を果たしつづけている)が、福利厚生の主役から退き、教育機能(政党的機能)も弱まっており、労働組合機能を最も重要な任務とするようになってきた。しかし、中国工会は、ストライキ権を持っておらず、その特徴としての多機能性を維持している。このような状態では、工会の労働組合機能の発揮が大幅に制限され、経営参加的機能と行政的機能といった協調的な手段に頼らざるを得ない。その代表的な活動は職代会、及びリストラされた者と企業の生活困窮者に対する家庭訪問である。さらに企業工会と同じように、上級工会の活動も変化し、その中心は、労働組合機能の発揮と行政的機能の発揮に置かれるようになってきた。
ここでは労使関係の今ひとつの主体である国有企業が市場経済化され、労使対立が生まれつつある一方で、労使対立を望まない共産党の政策により参加的労使関係へと誘導されてきたことが説得的に述べられている。
第3章では、参加的労使関係の代表的手段である職代会制度をめぐるさまざまな論点が扱われる。職代会の導入された目的、法律上における職代会制度の性格や権限、職員・労働者代表の選出制度、職代会と工会の関係、そして職代会制度の適用範囲の拡大について検討されている。職代会制度は職員・労働者の経営参加の機関であり、企業の最高意思決定機関でもある。職代会制度を規定する法律・条例は、いずれも計画経済時代に制定されたものである。そのため、職代会のような民主的管理の制度を確立した基礎には、労使対立のない調和的社会という社会主義イデオロギーがあった。この職代会制度によって職員・労働者の経営参加が実現されている。職代会は不適切な管理職を罷免することもできるのである。
このような職代会制度を導入した目的は、形式化した社会主義イデオロギーの再生であった。また、職代会が持つ経営参加の機能は、1980年代の中国企業管理制度改革の主要な課題であった「党企分離」(企業内の党組織と経営との分離)の一環でもあった。社会主義イデオロギーを党からの自由によって前進させようというのであった。このように職代会制度は、二面性をもつ重要な制度である。
最近、工会側からは職代会制度の適用範囲を中国の非公有制企業に拡大するという考えが出されている。職代会制度による経営参加が今後、公有制企業以外の企業に波及していく可能性もあるのではないかと著者は結んでいる。
第4章では、聞取り調査と企業から得た資料に基づき、中国企業の職代会制度の運営実態を考察している。その結論をまとめると、以下のようである。まず第1に、職代会の取扱事項は極めて幅広く、企業の経営にかかわる事項のほとんどが含まれている。職員・労働者代表にこうした議題に対する事前討議の期間を与えている。このように、職代会が労使の意思疎通において、重要な役割を果たしている証拠である。しかし、経営者・管理者に対する大衆評価を除けば、企業工会がこうした議題に対して自ら企業と対抗する提案を作成することはなく、交渉上では、受動的な立場にあると言わざるを得ない。
第2に、経営者・管理者に対する大衆評価については、企業工会が評価基準の制定、評価活動の組織・実施に責任をもっている。このことは、企業工会が直接的に企業の経営者・管理者を監督する権利を持っているということを意味している。このように、職員・労働者代表による企業幹部の大衆評価においては、企業工会が主導的な役割を果たしている。また、評価の過程における職員・労働者代表の発言実態は、必ずしも積極的であるとはいえないものの、幾つかの要素から、この大衆評価は企業幹部に対して一定程度の制約力・影響力を持っていると考えられる。このように、職代会は、企業の人事に対して、ある程度の発言力を持っていると推測できる。
第3に、職代会の雰囲気に関しては、経済力の弱い中型企業の場合、職員・労働者代表はただ質問するだけにとどまり、ほとんど満場一致で企業の提案を採択している。これに対して、経済力を持つ大型企業の場合、職員・労働者代表がリストラ、賃金などの労働条件にかかわる議題に関して、企業の提案を否決することもあった。このように、職代会においては、完全に満場一致ですべての企業の提案が可決されるわけではない。職員・労働者代表と企業との対立が観察できる。
第4に、職代会と企業との対立は、しかし、企業の意思決定を制約するほど強くはない。リストラに関しては企業はある程度工会に譲歩した。しかし、その他の事項の場合、職代会によって否決されたにもかかわらず、企業は原案のまま実行に移したことを著者は確認している。このように、経営権は強力であり、職員・労働者代表の発言効果(あるいは職代会の意思決定力)はさして強くないと言わざるを得ない。
要するに、以上の分析結果からみれば、実態としての職代会の経営参加度は、法律上の職代会の規定程から想像される強くない。しかし、職代会は企業の経営方針、人事労務管理、福利厚生などの企業経営事項のすべてを取り扱っており、従業員が経営情報を獲得したり、労使間の意思疎通を促進するのに大きな役割を果たしているということは否定できない。このように、職代会制度は、労使双方の対立を緩和させ、中国の参加的労使関係の形成に重要な役割を果たしていると指摘できる。
しかしながら、現在、中小国有企業(集団企業)の民営化が進んでいる。今後、大型国有企業の民営化の進展も予測できる。民営化した中小国有企業(集団企業)では、職代会制度を維持しているが、その職代会の権利は大きく制限され、従業員への情報公開程度に限定されている。そのため、このような経営参加体制が今後も維持されるかどうか確実ではない。

3.本論文の成果と問題点
本研究は、一種の産業民主制研究であり、ウェッブ夫妻以来の問題関心と方法に従った正統的な研究である。著者は工会の構成を分析し、また工会と企業内党組織との関係を実証的に吟味して、工会が人事面でも一定程度共産党から独立していることを明らかにした。これは従来の見方に修正を迫る発見である。今ひとつの当事者である国有企業が使用者として自立していることも指摘して、今や中国労使関係が共産党主導から市場経済に適合したあり方へと転換しつつあることを説得的に示した。これも著者の功績である。こうした現実に対して、実質的な第3の主体である共産党が社会主義イデオロギーを維持するため、労使の一体化を担保する目的で職工代表大会に代表される経営参加制度を導入した。この経営参加が果たしてどのような実態をもっているか、これまで不明であった。著者は中国労使関係の実態に関する情報を丹念に収集し整理して、これを明らかにした。すなわち、管理職の罷免権まで持つ制度的な内容ほどには参加の程度は強いものではなく、職代会の運営もほぼ企業主導である。このような職代会の分析は画期的成果だといってよい。これまでの研究は社会主義理論から演繹した論述が多かったのに対して、社会主義イデオロギーに基づきながら労使の対立も起きている現実を浮かびあがらせるとともに、参加の実態も細部にわたって解明したからである。
こうした成果を上げられたのは、丹念な資料収集によるだけではなく、多機能性をもつ工会という基本概念が適切だったからである。多機能性は社会主義イデオロギーにもとづくものであり、中国労使関係が市場経済化しているとはいえ、なお社会主義イデオロギーに枠づけられていることを的確に分析できたのはこの概念がまさに、市場経済と社会主義イデオロギーの狭間で成り立っているからであろう。
しかし、分析がやや静態的であるため、論述が矛盾とまでは行かないが、明快でない点が散見される。たとえば、著者は中国国有企業の労使関係は広い意味で共産党という共通項でくくることができ、労使一体化が図られている、としながらも労使対立が増加しつつあるとも指摘している。こうした両面が観察できるということは事実だとしても、それを構造的、動態的、統一的に説明することには必ずしも成功していない。そのため、中国労使関係の将来についても、非国有企業への拡大の可能性を指摘する一方で、参加的労使関係の将来は不透明だとも言っている。
また、中国労使関係を世界的な視野で捉えることも十分ではない。協調的な労使関係という点で日本やドイツとどのような類似性と相違点をもっているかについてもあまり触れられていないのである。
しかし、こうした問題点は著者も自覚するところであり、本論文の学問的成果を減ずるものではない。その研究能力や着実な研究姿勢から鑑みて、今後の研究の発展の中で克服されていく課題であると期待できる。
以上のように審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく寄与するものと認め、尹秀娟氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2004年12月8日

2004年8月10日、学位請求論文提出者尹秀娟氏についての最終試験を行った。本試験において、審査委員が提出論文『中国の参加的労使関係―大連市の国有企業についての実証研究』について、逐一疑問点について説明を求めたのに対し、尹氏はいずれも十分な説明を与えた。
以上により、審査委員一同は尹秀娟氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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