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博士論文審査要旨

論文題目:心的事実と社会的事実の形而上学 -クオリアと道徳の相対主義的実在論の試み-
著者:水本 正晴 (MIZUMOTO, Masaharu)
論文審査委員:平子友長、岩佐 茂、嶋崎 隆

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1. 本論文の構成
 本論文の構成は、以下の通りである。

序論   物理主義と形而上学の再構築
第1部  心の哲学:社会的・歴史的実在論
第1章  心を巡って
第2章  工学的観点から
第3章  形而上学的観点から
第4章  民間心理学的観点から
第5章  社会的観点から
第6章  クオリアの実在性

第2部  認識論:内在的実在論
第7章  懐疑論への形而上学的解答?
第8章  知識と真理の単調性
第9章  道徳的実在論と規則遵守問題
第10章 二次元様相論理と中心を持つ世界

第3部  形而上学:相対主義的実在論
第11章 スピノザ的存在論
第12章 全体論的存在論

文献目録

2. 本論文の概要
 著者は、分析哲学(科学哲学を含む)の歴史を回顧しつつ、分析哲学の成立を促した基本的モティーフが反形而上学と反心理主義であったことを確認している。反形而上学の立場からは、哲学の課題を科学方法論に限定し、存在論(存在それ自体の探求)については判断を保留するという方向が帰結し、反心理主義の立場からは人間の認識や言語の意味を個々の主体の主観的心理過程から独立した客観的なものとして把握する方向が帰結した。言語分析は、この両者の要求を充足する格好の領域であったため、分析哲学は言語分析に最大の関心と努力を捧げてきた。しかし分析哲学は、存在論には関わらないという言明にもかかわらず、事実上は、暗黙のうちにある種の存在論的立場にコミットしていた。それは、社会的、心的、生物的、生理的等々の現実は、「層化された世界」を構成し、ある層の実在性はより一段下位の層によって保証され、究極的には、物理学によって記述される現実に還元されるという実在についての了解であった。著者はこれを「物理主義」と呼ぶ。
 著者によれば、分析哲学は、1970年代末以降、言語分析から心の哲学へと重心を移動させてきた。それは、一方では、言語分析の限界が多くの分析哲学者たちに認識されてきた事の結果であるが、他方では、人工知能、大脳生理学などの急速な発展が新しい知的領野を提供した事の結果でもあった。第一部において著者は、ここ20年余にわたる分析哲学内部における心の哲学を巡る諸論争を5章に分けて詳細に紹介し、最後の6章において著者自身の内在主義的実在論の立場を展開している。
 物理的現実だけが実在するという立場は、心の存在を巡る議論においてその矛盾を露呈する。分析哲学および科学哲学の中では、人間の心も脳の生理学的過程に還元され、従って心は存在しないという消去主義が立てられる一方、心を自然過程から切り離して独立の実在として承認するデカルト的二元論が主張され、両者はしばしば二者択一の関係に置かれた。著者は、本論文において、消去主義的物理主義(一元論)か神秘的心身二元論かの二者択一に陥る理論枠組みそれ自体を問題として、それの克服を形而上学の再構築として試みる。ここで形而上学とは、世界や存在それ自体の有り様について主題的に考察する哲学を意味する。
 第1章「心を巡って」においては、考察の出発点として、「心」についての歴史的、概念的整理が行われる。著者は、分析哲学の起源を19世紀後半のドイツ哲学界における「反心理主義」運動に求め、同時期に成立した科学的心理学(ヴィルヘルム・ヴント、ウィリアム・ジェームズなどによる)と哲学の関係を素描する。著者は、心を意識(または現象)と志向性(または表象)の両契機から構成されるものとして概念的に分析する。
 第2章「工学的観点から」においては、心をコンピュータ、人工知能といった工学的研究の文脈に位置づけ、そこで前提とされている「機械としての心」という捉え方についての楽観的見解と悲観的見解との対立、さらに工学的モデルとしての記号操作主義とコネクショニズムの対立が、それらが生じてきた経緯を含めて描き出される。
 第3章「形而上学的観点から」においては、心の哲学が「自然主義」の復権によって再び形而上学的問題を正面から論じるようになった経緯が解説され、現代の心の哲学において広く共有されている物理主義の様々なヴァリエーション(行動主義、同一説、機能主義など)が検討される。次に、心身二元論、創発主義、汎心論などの様々な反物理主義の立場を概観した後、反物理主義を支持する有力な議論としてクリプキの様相論法、ジャクソンの知識論法、チャルマーズのゾンビ論法などが紹介される。それにより、クオリアがいかに物理主義にとって大きな問題として浮かび上がってくるかが示される。
 第4章「民間心理学的観点から」においては、コネクショニズムモデルが消去主義(心的実在の否定)を導くと考えられる背景には、心を「理論」として捉える見方があることが指摘される。コネクショニズムの代表的な考え方によれば、心についての素朴な理解と説明の枠組みは民間心理学と呼ばれ、それは心についてのある種の「理論」を構成していると見なされる。そのような理論は、将来の理想的な科学的心理学・神経生理学の観点から見れば多くの点で「誤った」ものであると考えられ、それゆえそこから消去主義という形而上学的見解がしばしば引き出されることになるのである。これは物理主義の立場の典型的な帰結である。また理由がまた原因でもあるためには、すなわち心的なものが因果的効力を持つためには、心は「内的」なものでなければならないということが前提されていることが確認される。
 第5章「社会的観点から」においては、前章の「心は内的なものである」という前提に対し現代分析哲学の諸議論が提出している様々な疑念が、パットナムの議論、ウィトゲンシュタインの議論、セラーズ=マクダウェルの「理由の空間」という概念、およびスワンプマン問題などを紹介しつつ考察される。これらの諸議論は全体として、心的事実はむしろ「理由の空間」を構成する社会的事実であるということを示唆している。
 第6章「クオリアの実在性」においては、社会的事実に還元不可能な心的要素と見なされがちなクオリアがいかにして世界の中に内在的存在論的に位置づけられるかが考察される。クオリアとは、「感覚質」と訳されることが多いが、一般に人間の感覚器官によって喚起される色、音、臭い、痛みなどを指す用語であり、クオリアが存在する事実は多くの人間によって共有可能であるが、それ自体としては、例えば痛みは、それを経験している本人にしか分からない。そのためクオリアの実在性の論証には、独特の困難が伴っている。
 著者はそのためにまず、「経験内容Pは、それが正しければ事実Pである」という直接的実在論の観点から、クオリアが経験的信念内容を構成することを認め、クオリアの事実を理由の空間の正当な構成要素として認める。その時もはやクオリアについての形而上学的な「謎」は存在しない。それにもかかわらずクオリアの存在性格について様々な「謎」が生まれる理由は、著者によれば、我々がある事物について直接経験することなしに、言語的に学習することが可能であるからである。すなわち我々は、特定のクオリア(例えば赤い色)を経験することなしに、それについての概念を言語的に学習することができる(例えば盲人の場合)。それゆえにクオリアは物理主義的世界像にとって余分なものとして取り扱われることになる。著者は、物理学をはじめとする自然科学および社会科学の「理論」一般を人間の認識能力の拡張と捉えることにより、「層化された世界」観を前提したとしても、「より下位のものがよりリアルである」というテーゼはもはや導かれず、物理学の形而上学的特権性は否定されることを主張している。こうしてクオリアを含む心的事実、さらにそれを含む社会的事実は、我々の拡張された認識能力によって捉えられる事実として、物理的事実と同等の実在性を持つことが認められる。
 第一部において検討された諸議論は、物理主義も含め世界についての何らかの実在論が前提とされていた。しかし世界の実在は人間の認識能力によって媒介される以上、この認識能力について批判的に吟味することなしに、世界の実在を素朴に前提することは許されない。そこで著者は第二部においては、逆に、実在についての懐疑論を物理的事実の認識能力にまで徹底し、そこから物理的事実の実在性をいかに救うことができるか、という問題を検討している。第二部は、実在についての懐疑論の枠組みを前提して、そこから実在論的論理をいかにして構築することが出来るのかという問題の考察に充てられている。
 この問題に答えるために著者は、我々がいかなる時に「知っている」と言えるのかを、世界の側の事実を前提することなしに説明する理論を与えることを試みる。そして形而上学的概念である「事実」を、そこで定義された知識によって「知られたもの」または「知られうるもの」として捉えることにより、「内在主義的実在論」と呼べる形而上学を提示する。そこではクオリアの事実にも、また心的事実一般が還元されるところの社会的事実にも、「知られうる」限りにおいて物理的事実と何ら劣らない実在性を認めることができる。残された問題は、それが内在主義的理論であるため、世界の諸事実の実在性は、我々の信念の「収束」に依存しているように思われることである。
 第7章「懐疑論への形而上学的回答?」は、デーヴィッド・チャルマーズによる懐疑論への回答を検討することから始まる。チャルマーズの議論は基本的に、「懐疑論者の提示するシナリオがたとえ正しいとしても、我々はそれまでの世界をリアルと見なし続けるだろう」というものであるが、この回答は、世界の存在についての懐疑に対しては有効であるが、「我々は世界についてほとんど何も知らない」とう知識についての伝統的懐疑に対しては解決となるか疑わしいことが示される。
 第8章「知識と真理と単調性」において著者は、チャルマーズの実在についてのアプローチを知識についての考察に応用して、懐疑論に陥らない知識の分析を、「他の真理に対し単調な信念」として提案する。すなわち通常の合理的人間の自然な信念変化のパターンを前提した上で、「後でどのような真なる信念を獲得しても、我々がΦという信念を撤回しないならば、我々はΦを知っている」と見なす。この知識概念はまた、個人の知識を超えて集団(「我々」)の知識へも適用され、それに基づいて規範や慣習についての知識が説明されると共に、そこから規範や慣習の実在性を擁護する道が示される。
 第9章「道徳的実在論と規則遵守問題」においては、前章で残された問題として、単なる信念の収束に終わらない道徳の、そして規範や慣習一般の事実をいかに擁護するかという問題について考察される。
 社会的事実は規範的事実であるが、規範的事実をこのように信念の収束を手がかりに実在論的に擁護しようとするのが道徳実在論であると言える。著者は、ウィトゲンシュタインの「アスペクト」概念に着目し、この概念を用いて道徳実在論を再構成する。これは主に知覚的なモデルに依存する、いわゆる直接的実在論の一種であると言えるが、著者はこれを非知覚的な信念にまで一般化することにより、「アスペクト」、信念、およびそれらを支える人間の自然な認識能力と信念変化の能力に基づく実在論を、自然主義的に展開する。
 第10章「二次元様相論理と中心を持つ世界」においては、前章のアスペクト概念に基づく説明を非実在論的に解釈する投射主義の挑戦を真剣に受け止め、それを二次元様相論理の意味論、特にその一次命題の概念を用いて前章の説明を再構成することによって実在論の擁護が試みられる。すなわち著者は、「真なる道徳的判断の一次命題を、そのまま事実である」と見なす立場に立つが、この時、一次命題を二次命題に劣らぬ実在性を持つと考えることが根拠となる。その際著者は、真なる一次命題から成る「中心を持つ世界」が「中心を持たない世界」と同等の実在性を持つばかりか、前者の世界こそがむしろ「中心を持たない世界」より根源的であり、それゆえより実在的なものであると主張している。
 第三部において著者は、第一部の心の分析の形而上学的帰結と第二部の知識の分析の形而上学的帰結とを「中心を持つ世界」という概念によって総合することを目指す。
 第二部までで論じられた内在的実在論は、道徳やクオリアの実在性を論じる文脈においては説得力があるとしても、世界全体についての形而上学の体系としては不完全なものであった。「中心を持つ世界」という概念が持ち出されるのはこのためであるが、この概念に基づく形而上学は、相対主義的なものにならざるを得ず、それを実在論的なものと考えるのは一見困難であるように思われる。そのためには特に、視点相対性(ある人にとっては存在し、別の人にとっては存在しない)と文脈相対性(ある文脈においては存在すると言えるのに、文脈が変われば存在すると言えなくなる)という、二つの相対性を克服する必要がある。両者ともよく知られた事実であるが、それは普通「見え」の問題として主観主義的(非実在論的)に説明される。著者は、それに対し、これらの相対性をそのまま実在論的に説明する形而上学、すなわち相対主義的実在論と呼ぶべきものを提案する。クオリアの事実や道徳の事実はここで初めて「中心を持つ世界」に内在する事実として、十全な存在論的規定を受け取ることになる。
 第11章「スピノザ的存在論」においては、前章で考察した「中心を持つ世界」の多層的な存在構成が主題とされる。
 この世界においては、ある個人にとって、その個人を含む様々なレベルの「我々」を中心とする、階層を成す「我々の世界」が存在し、「私の世界」はその最下層に位置する。この世界の内部において道徳的事実のような社会的事実は「(あるレベルの)我々の世界の事実」として、またクオリアの事実は「私の世界」の事実として捉えられることになる。この理論は、世界そのものが様々なアスペクトを持ち、それらが同等に実在的であることを主張する点で、スピノザ的存在論と呼ばれる。
 この立場によれば、事実とは常に、誰か「にとって」の事実であるにもかかわらず、その事実は正当に実在するものとされる。この主張は、そのままでは独我論あるいは人間中心主義へと陥ってしまうが、そうならないために著者は、「我々の世界の外部」をいかに捉えるべきかという考察を通し、「誤り」を有意味に語ることを可能とすることを試みる。そのような「外部」およびそれによって有意味となる客観的「誤り」の事実は、時間についてのダイナミックな捉え方によって内在主義的立場から逸脱することなく説明可能であることが示される。
 第12章「全体論的存在論」において著者は、(1)世界は存在する、(2)ビッグバン以降存在論的追加はあった、(3)進化論は(神に訴えずに)存在論的追加を説明する理論である、という三つのテーゼを擁護して、前章までに考察してきた心的事実の存在論を進化論的観点から自然主義的に説明することを試みる。他方で、物理主義が存在論的問いに対しては本質的に無力な方法論的テーゼであることを改めて論じている。さらに「事実」は本来、要素的に存在するものではなく、全体論的に存在していることが主張される。事実の「全体論的存在論」の例証として著者は、「選言的事実」の実在性を提起する。選言的事実(p∨q)は、下位のミクロな事実(p,q)に付随はしてもそれに還元することはできないことが示されるが、そのような選言的事実から成る世界は全体論的ネットワークを形成する一つの全体として理解できるばかりでなく、我々が経験する世界の全体論的ダイナミズムを説明することをも可能にする枠組みである。

3.本論文の成果と問題点
 本論文の成果は、以下の点である。
 現代の分析哲学および科学哲学の心的事実をめぐる諸議論を内在的に批判しつつ、心的事実の形而上学を正面から論じ、しかもその結論において、きわめて独創的な見解を打ち出すことに成功していることが、本論文の最大の成果である。これをもう少し細かく見て行くと以下の四点が挙げられる。
 第一に、著者は本論文において、1970年代以降、現代分析哲学の関心が言語分析から心の哲学に重点を移動させてきた事実に着目し、分析哲学内部における心の哲学を巡る諸論争とその展開を詳細に跡づけている。このことも本論文の評価すべき点である。
 第二に、ヴィトゲンシュタインの「取り囲み」、「アスペクト」などの概念を駆使して、心の現象を脳に局所化させることから解放し、人々の社会生活の中における生活形式に媒介された「社会的事実」として把握したことである。
 第三に、物理主義とそれが前提としているアトミズムを批判して、全体論的見地に基づくアスペクト論的存在論を打ち出していることである。クワインらの仕事によって、全体論的把握も意味論および信念論のレベルでは、分析哲学内部においてある程度の市民権を得てきたとは言えるが、この全体論的立場を存在論のレベルにまで拡張しているのは、著者だけの独創といえる。
 第四に、著者の提起する全体論的・相対主義的・内在主義的形而上学の理論は、アトミズムや反形而上学の強固な伝統を背景に持つ分析哲学の内部においてはある意味で異端的な理論であるといえるが、しかし著者が分析哲学によって開発された諸概念、理論枠組みを活用しつつ上記の理論を構築したことによって、分析哲学以外の哲学諸潮流との対話可能性の地平が一挙に拡大されたことの意義は、極めて大きい。著者の立場は、著者自身が「スピノザ的存在論」と自己規定しているようにいわゆる大陸ヨーロッパで展開された哲学史との強い親和性を示しており、内容的にも、ヘーゲルの弁証法的哲学、マルクスの唯物史観、ハイデガーの「世界内存在」論などと重なる議論を豊富に展開している。これらの点は、分析哲学が反ヘーゲルを旗印にして展開されてきた経緯を考慮する時、注目に値する。
 以上示したように、本論文は何よりも独創的見解に満ちた研究であり、今後著者の提起する緒論点が、分析哲学内部で真剣に議論され、その影響力が次第に拡大されることが期待される。
 しかし本論文には、以下のような問題点が見出される。
 第一の問題点は、使用する概念や手続き、理論枠組みを説明するための形式的議論が前面に出ているために、知識やクオリアが社会的事実に媒介されて成立することの指摘はあっても、それの具体的展開の記述が手薄になっていることである。科学的認識が現実的に形成されてくる具体的過程を記述しつつ、そこで現れてくる認識論的諸問題についての立ち入った考察がなされることを、今後期待したい。
 第二の問題点は、道徳的事実の実在論的基礎付けが不十分である点である。著者は、道徳的事実の実在性に対する有力な懐疑である規則遵守問題に対しては多くの紙数をさいて、懐疑論の反駁に努めているが、道徳的事実の社会的事実としての積極的基礎付けの作業は、本論文の9,10章においてその見取り図のようなものが示された水準に留まっている。
 以上二点の問題点は、実は、著者個人の研究能力に由来する限界というよりは、分析哲学および科学哲学の手法を使って全体論的実在論を展開するという課題それ自体の困難さに関わっている。
 すなわちこうした手法は、分析的であり、要素主義やアトミズムに親和的である。また科学方法論に著しく傾斜した理論枠組みからは、知識や信念が社会的事実として実在論的に形成されてくる過程を記述することに大きな制約が課されている。その意味では、従来の分析哲学の内部で開発されてきた分析装置や理論枠組みに内在しつつ、全体論的実在論を展開するという著者の試みは、分析哲学の従来の概念装置の側から大きな限界が画されていた。つまり著者の理論をさらに説得的に展開するためには、分析哲学の従来の概念装置、論証装置それ自体を革新する作業が同時に要求されているといえる。
 以上指摘した問題点は、しかしながら上記の本論文の成果を損なうものではなく、次の課題として著者に期待される仕事を述べたものであり、この作業の重要性はなによりも著者自身が深く自覚する所である。

 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと認め、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2004年11月17日

2004年9月15日、学位論文提出者水本正晴氏の試験及び学力認定を行った。
試験においては、提出論文「心的事実と社会的事実の形而上学-クオリアと道徳の相対主義的実在論の試み-」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、水本正晴氏はいずれも十分な説明を与えた。
また、本学学位規程第4条3項に定める外国語及び専攻学術に関する学力認定においても、水本正晴氏は十分な学力を持つことを立証した。
 以上により、審査員一同は水本正晴氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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