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博士論文審査要旨

論文題目:中国国民政府統治区における農村建設の研究 -郷村建設運動及び国民政府の土地政策を中心に-
著者:山本 真 (YAMAMOTO, Makoto)
論文審査委員:三谷 孝、糟谷憲一、江夏由樹

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一、論文の構成
 本論文は、1930~1940年代に中国国民政府統治区において展開された農村建設について、その理念と実態を明らかにすることを課題とした実証的論文であり、著者が1996年から2004年にかけて一貫した構想に沿って発表した15本の論文をもとにしてまとめ直したもので、400字詰原稿用紙に換算して約1470枚からなっている。
 その構成は以下のとおりである。

序 章 問題の所在と本稿の構成
 第1節 本稿の課題と問題意識
 第2節 農村建設の時代的背景
 第3節 農村問題認識とその解決策
 第4節 研究史
 第5節 本稿の構成と各章の内容
第1部 中国国民政府統治地区における「郷村建設運動」
第1章 1930年代前半、中華平民教育促進会と河北省定県における県政改革の実験
 第1節 中華平民教育促進会の経歴と基本理念
 第2節 中華平民教育促進会の財政基盤とアメリカとの関係
 第3節 定県における「郷村建設運動」の開始
 第4節 定県における県行政制度改革
 第5節 平民学校「同学会」を通じた民衆組織化の試み
 第6節 経済機構を通じた民衆組織化の試み
第2章 「郷村建設運動」諸団体の組織化とその挫折-郷村工作討論会と華北農村建設協進会を中心に
 第1節 主要団体・機関の事業概要
 第2節 郷村工作討論会の成立
 第3節 ロックフェラー財団による対中国援助と華北農村建設協進会
第3章 日中戦争初期、郷村基層建設と民衆動員-中華平民教育促進会の湖南省における活動を中心に
 第1節 中華平民教育促進会の湖南への移転と農民抗戦教育団の設立
 第2節 湖南省政府民衆訓練指導処による民衆訓練
第4章 日中戦争初期、四川省における県政改革と郷村基層建設-新都実験県に対する一考察-
 第1節 新都県における実験県の成立と県政改革
 第2節 新都事件発生当時の四川政局
 第3節 県城包囲事件と県政改革の挫折
第5章 日中戦争中期から戦後内戦期にかけての「郷村建設運動」-中華平民教育促進会郷村建設学院を中心として
 第1節 郷村建設学院の設立過程
 第2節 郷村建設学院における教育内容と学生生活
第2部 国民政府地政官僚による土地政策と「自作農創設」
第6章 日中戦争期から戦後内戦期にかけての国民政府の土地行政-地籍整理・人員・機構-
 第1節 地籍整理
 第2節 土地行政人員
 第3節 土地行政機構
第7章 日中戦争時期、四川省北碚における「自作農創設」の実験
 第1節 「自作農創設」の実施までの政策決定過程
 第2節 北碚管理局の沿革と同地における地権の集中状況
 第3節 北碚における「自作農創設」の過程・問題及び成果
 第4節 合作農場の創設とその経営
第8章 共産党旧●西革命根拠地の回復と土地問題の処理-福建省龍巖県の事例-
 第1節 龍巖県における社会・経済状況-「農地改革」の政治・経済的背景
 第2節 共産党●西革命根拠地における「分田」-1929年~1932年
 第3節 第十九路軍と●西善後委員会による「計口授田」
 第4節 国民政府による統治の回復
 第5節 国民政府による「自作農創設」の実施
第9章 日中戦争時期、西北地区における水利潅漑建設と「自作農創設」-甘粛省湟恵渠潅漑区を中心にして- 第1節 甘粛省の農業環境と土地問題
 第2節 戦時甘粛省経済建設と甘粛省水利林牧公司の設立
 第3節 湟恵渠建設の過程
 第4節 湟恵渠における自作農創設事業
 第5節 戦時甘粛省農業建設の成果と問題点
 第6節 抗戦の終結と甘粛省経済建設の停滞
第10章 戦後内戦期、全国的土地改革の試みとその挫折-1948年の「農地改革法草案」をめぐる一考察 第1節 国民政府による戦後構想と「農地改革」
 第2節 全国的「農地改革」案の成立と各界の反応
 第3節 「農地改革法草案」の立法院への提出とその挫折
第3部 中国農村復興聨合委員会による農村建設
第11章 中国農村復興聨合委員会の成立とその農村建設(1948-1949)-中華平民教育促進会華西実験区への援助を中心として
 第1節 晏陽初によるロビー活動とアメリカの対中国農村援助条項の成立
 第2節 中米農業技術合作団と『中国農村復興計画書』
 第3節 中国農村復興聨合委員会初期の組織・人員と農村建設計画
 第4節 中国農村復興聨合委員会の大陸での活動 その1
 第5節 中国農村復興聨合委員会の大陸での活動 その2
第12章 戦後内戦期、中国農村復興聨合委員会と西南軍政公署による「二五減租」政策-四川省の事例を中心にして
 第1節 戦後内戦期における「二五減租」の実施
 第2節 中国農村復興聨合委員会とその援助による四川省「二五減租」
 第3節 四川省北碚管理局における「二五減租」の状況
 第4節 四川省各地における「二五減租」実施上の問題
第13章 戦後内戦期、中国農村復興聨合委員会と華中軍政公署による広西省「減租・限田」政策
 第1節 広西省における土地問題と小作問題
 第2節 1930年代~1940年代にかけての広西派による省政建設
 第3節 戦後「減租・限田」政策の実施状況(1945年度~1948年度)
 第4節 中国農村復興聨合委員会と華中軍政公署による「減租・限田」
終章
 第1節 中国農村復興聨合委員会の台湾への撤退
 第2節 各章における考察の総括
結論
付録資料1 元中国地政研究所所長兼中国土地改革協会理事長李鴻毅氏訪問記録
付録資料2 元龍巖土地改革実験県長林詩旦氏訪問記録
文献目録

   二、論文の概要
 まず、「序章」では、本論文の課題と問題意識及び関連分野の研究史が論じられ、本論で使用される用語について、たとえば、「郷村建設運動」・「農地改革」・「地政官僚」等の含意が説明される。
 第1部の5つの章では、中華平民教育促進会(平教会)の改革計画と実績が検討される。平教会は、1920年代から1940年代末まで一貫して「郷村建設運動」を展開した希有の団体であり、その指導者の晏陽初を通して国民政府首脳やアメリカの社会団体ともつながりをもち、政府の協力を得ながら各地で農村建設を進めた重要な民間団体である。
 第1章では、中国研究者の間では実験県として名高い河北省定県における県行政制度改革及び農村建設の実態が検討される。そこでは、まず当時の国民政府による県行政制度改革とそれが地域社会に与えた影響、定県における共産党の活動や日本の華北侵略の影響等の諸点が検討される。ついで、1933年に始まるこの県政改革に協力した平教会による平民学校「同学会」と合作社という教育と経済の組織を通して実施された社会変革の実態が説明される。しかし、この改革も伝統的秩序を重んじる地域有力者層の抵抗と平教会の組織力の弱さ・日本の侵略といった内的・外的な諸条件に大きく左右されてわずか3年ほどで挫折することになる。
 第2章では、日中戦争開始前後までの「郷村建設運動」諸団体による相互連携の動向と国民政府との関係が検討の対象となる。1933年以降3年にわたって、主要な郷村建設団体の意見交換の場としての郷村工作討論会が開催されるが、参加各団体間の相異なる政治的思惑・指導者間の確執等によってさしたる成果をあげることができないまま日中戦争勃発によって中断に至ること、1936年にロックフェラー財団の資金援助を得た平教会と燕京大学等5大学とによって結成された華北農村建設協進会の農村建設のための人材育成事業も戦争勃発によって縮小を余儀なくされて、最終的には再び平教会に一本化されていく過程が明らかにされている。
 第3章では、1936年に本部を湖南省長沙に移転した平教会が、抗戦体制確立を目指す湖南省政府の委託を受けて結成した農民抗戦教育団や省政府民衆訓練指導処における民衆訓練の実態を現地で収集した一次史料によって明らかにしている。農民抗戦教育団の活動は「実験的試み」の範囲を出るものではなかったが、その後省主席の張治中によって全省的規模で実施されて少なくとも24万人の民衆が訓練を受けることになる。著者は、こうした抗戦のための民衆訓練を通じてナショナリズムが次第に地方社会に民衆の間に浸透していったものとする。
 第4章では、1937年4月以降38年11月間での期間、四川省政府と平教会の合作によって実施された成都近郊の新都県における戦時県行政制度改革が直面した諸問題が検討される。四川省主席の劉湘は、晏陽初を招請して、行政改革の実験県に選定した成都近郊の新都県の改革を平教会に委託した。晏は同郷の後輩で中央政治学校出身の陳開泗を県長に抜擢し、中央政府との協力関係をも重視しつつ、戦時を睨んだ県行政制度の確立を模索した。その改革の内容は、県行政機構の効率化・戸籍制度の整備と徴兵制度の確立・土地税制の改革などであった。しかし、劉湘の急死後、改革に反対する勢力による哥老会を中心とする民衆武装暴動が発生し(新都事件、1938年11月)、県政改革は挫折をよぎなくされた。
 第5章では、日中戦争中期から戦後内戦時期までの平教会の活動を、郷村建設学院における人材養成を中心に検討している。1938年末から翌年にかけて、平教会は湖南省や四川省新都県での地盤を追われることとなった。存亡の危機に直面した平教会は、事業規模を縮小して農村建設の人材教育に余力を集中した。そこで、平教会は有力な支援者であった張群(当時重慶行轅主任)や盧作孚(民生公司理事長)などの協力を得て、重慶付近の四川省巴県に郷村建設学院(1940年)を設立して、戦後における「郷村建設運動」の再開のための人材を育成に努めることとなった。
 第2部の5つの章では、国民政府の地政官僚による土地政策、とりわけ「農地改革」への取り組みの実態が検討されている。
 第6章では、日中戦争時期から戦後内戦期にかけての国民政府による土地行政の展開を、その理念・「土地法」に関する法的整備・地籍整理事業の進展状況・土地行政機構の整備や技術官僚の登用状況の諸側面から検討している。国民政府による土地行政の理念は、孫文の提唱した「平均地権」や「耕者有其田」(自作農創設)を起源とするが、具体的には1930年に公布された「土地法」に基礎を置くものであった。しかし、土地法は成立当初、観念的に過ぎ、実際に施行するには困難がともなった。そこで、地政官僚は1930年代半ばから土地法の改良を検討し、日中戦争時期には、その不備を補う単行法規や政令を公布していった。その結果、農村部における土地測量・土地登記の実施は遅滞したものの、都市部においては土地測量・土地登記に基づく「平均地権」税制の導入も初歩的成果をみせることとなった。また、政策を実施する地政機関も整備されて、戦後内戦期には地政専門教育を受けた官僚層によって占められることとなった。
 第7章~第9章では、戦時期の国民政府による「自作農創設」が試みられた事例が各地域ごとに検討される。
 まず、四川省北碚実験区は戦時首都重慶の郊外に位置し、1930年代から「郷村建設運動」の模範区でもあった。北碚での「自作農創設」は、地籍整理の厳密な実施と地主の土地の徴収・中国農民銀行からの土地徴収費用が貸し出し・合作社による経営指導の実施という諸措置がなされており、単なる土地の分配に止まらない農業生産力の上昇が重視されていた、ことが明らかにされている(第7章)。
 つぎにとりあげられた福建省龍巖県は、1920年代末から30年代初頭にかけて共産党根拠地の一部となり、またその後には、蒋介石系中央政府と一線を画す国民革命軍第十九路軍が同地区を占領して、「計口授田」(人口割での土地分配)を実施した地域であった。このため、旧来の土地権利関係や小作制度が徹底的に破壊され、国民政府中央が龍巖県の統治を回復してからも、土地の権利や小作料納入をめぐる紛糾が長く続き、田賦の徴収も困難を極めていた。こうした錯綜した土地権利関係を一旦白紙に戻し、政府の管理の下で土地秩序を回復するために、龍巖県における「自作農創設」が実施されたとされる(第8章)。
 つぎには、水利灌漑設備の完成後に「自作農創設」が試みられた甘粛省湟恵渠灌漑区の事例が検討されている。戦時期の甘粛省では、西北地区の経済建設を重視した国民政府の後援を得て農業水利の整備が精力的に推し進められた。しかし、土地生産力の向上は、土地投機による地権の集中をもたらすことになったため、湟恵渠灌漑区では、水利灌漑設備の建設と「自作農創設」の実施とが、同時に追求されるべき複合的な課題として位置付けられたのであった(第9章)。
 第10章では、戦後内戦期における地政官僚による全国的「農地改革」実施へ向けての模索を、1948年に立法院に提出された「農地改革法草案」をめぐる政治過程の分析を中心として検討している。内戦による戦局が悪化するにつれて、国民政府内の地政官僚は、共産党の土地改革に対抗するためには、全国的な「農地改革」を早急に実施しなければならないとの認識を深めた。そして、地政官僚の指導者で立法院委員でもあった蕭錚は、1948年9月に立法院に「農地改革法草案」を提出した。同法案は有償での地主の土地の収用と小作農への廉価での分配を骨子とするものであったが、立法院内での激しい議論の末、保守派の抵抗により審議未了の結果廃案とされてしまったため、全国的な「農地改革」の機会は失われることとなった。
 第3部の3つの章では、第1部・第2部で検討された二つの流れが合流して、戦後内戦期末期に結成された中国農村復興連合委員会(農復会)による「農地改革」と農村建設の実態が検討されている。  第11章では、中国農村復興聯合委員会の成立過程と華西郷村建設実験区での農村建設の実施状況が検討されている。戦後内戦期、晏陽初は平教会の事業拡大のため、アメリカの政府と国民に援助を訴え、それに応えたアメリカ政府によって1948年4月に成立した対中国経済援助法案の中には農村復興援助条項が含められることとなった。これを受けて、国民政府とアメリカ政府は、農村建設政策の最高設計機関である農復会を設立し、中国・アメリカ双方から委員を派遣することを決定した。1948年10月に発足した農復会は、アメリカからの豊富な資金と専門技術人員を多数擁した機関であり、共産党勢力の農村への浸透を排除するために、四川省・広西省・台湾省において農村復興事業を展開し、華西郷村建設実験区でも合作社の組織とそれを通した土地の買収が企図された内戦によって頓挫することとなった。
 第12章では、1949年に農復会の資金・技術的援助によって行われた四川省の「二五減租」の実施過程を検討している。同省では国民政府の「二五減租」命令(1945年)に従って1948年度から「二五減租」を開始していたが、1949年夏以降は農復会の資金援助と技術的指導、さらに西南軍政長官公署という政治的・軍事的支援を背景として、急速に「二五減租」が進められた。共産党勢力の農村への浸透を予防することが、国民政府の最後の拠点四川省を防衛するために不可欠な政治的課題であるという認識が、政府上層にもようやく共有されたのである。しかし、農復会と西南軍政長官公署・四川省政府による「二五減租」は初歩的成果を収めたものの、国民政府の軍事的敗北により最後まで遂行されることはなく、農復会は大陸での事業を放棄して台湾に撤退することとなった。
 第13章では、農復会の援助の下、戦後内戦期に広西省で実施された「減租・限田」(小作料減額と土地所有面積の制限)政策を検討している。広西省は蒋介石の中央政府とは一線を画した独立的態度を保持し続ける広西派(李宗仁・白崇禧を指導者とする)の本拠地であった。本章では、1930年代以来の広西派による土地行政の実施状況を概観した上で、戦後内戦期に広西省で実施された一種の「農地改革」である「減租・限田」政策の理念と実態が分析されている。この政策は、広西派政権の生き残りをかけた華中軍政長官白崇禧による「総力戦戦術」と関連して、1949年度の農復会援助下において実施されたものであったが、地域社会の有力者の抵抗等によって十分な効果をあげることはなかった。
 終章では、まず第1節で、中国農村復興聯合委員会の台湾への撤退過程が説明され、ついで大陸で形成された農村建設の方法論が、どのように台湾に移植されていったのかが概観されている。第2節では、各章で検討されてきた農村建設の意図と実態を再整理し、その到達点と問題点とが述べられている。そして第3節では、最終的に国民政府統治区において実践された農村建設の特徴が総括されている。

   三、成果と問題点
 20世紀中国における農村変革といえば、1970年代まではほとんどの研究者は中国共産党の指導下で行われた土地革命・土地改革のことだけを念頭に置いていた。1920年代以降に国民党や各種の民間団体によって試みられた農村改革の努力については十分に検討されることなく放置されてきた。それは、1949年の国共の政権交代期に、自らの腐敗と無策によって自壊していったという国民政府の惨憺たるイメージとは対照的に、インフレの克服と土地改革の達成に示されたように共産党が思想・組織・政策のあらゆる面において国民党を凌駕していたとされるその優越性が多くの研究者に強く印象づけられたことによっている。国民党が主張した「耕者有其田」というスローガンは、ただ孫文の遺訓を継承している口先だけでまったく実現する見込みのない空念仏のように受け取られてきた。また、各種の民間団体による改革の試みも、共産党の土地革命に対抗するための欺瞞的な改良主義に基づくものとされて本格的に論じられることはなかった。このような中国共産党中心の革命史観の呪縛から離脱して、国民党・国民政府の諸政策を実証的に検討しようという動きは、大陸における文革と経済の停滞、台湾における高度経済成長と民主化の進展という現実の動きを背景に起こってきた。1980年代半ば以降、日本においても「中華民国史」の研究が提唱され、国民党の外交政策や幣制改革・合作社運動等の経済建設についての実証的研究が発表されるようになった。その傾向を加速したのが、中国における民国時期関連出版物の増加と史料公開の進展、外国人による本格的な現地調査の開始等の事情の変化である。こうして1990年代には、中国や台湾での関係者からの聴き取り調査の実施と各地の档案館における一次史料の閲覧が可能になったことによって、公刊文書史料や新聞・雑誌記事を主たる史料としてきた従来よりもはるかに実証的密度の高い研究が進められるようになった。1993年に本論文のテーマに関わる研究を開始した著者は、このような条件を生かして精力的に中国・台湾各地を訪問して調査・研究を進めた。そのおよそ10年間の研究成果が本論文である。
 大陸時期の中国国民政府の農業政策の研究としてまとまった形で刊行された成果としては、金徳群主編『中国国民党土地政策研究(1905-1949)』(1991年)・笹川裕史『中華民国期農村土地行政史の研究』(2002年)等をあげることができるが、前者は従来の中共中心の政治的評価に基づいて書かれた書物で、「農地改革」についても簡単に触れられているに過ぎない。笹川氏の研究は、南京国民政府の「首都圏」ともいえる江蘇・浙江両省と中華ソビエト政権(瑞金政権)崩壊後に収復活動が行われた江西省における土地税制の改革の事例をとりあげて、その進展は「国家による地域社会のより直接的で確実な掌握」のための努力を示すものであったが、日中戦争の勃発によって挫折に終わった過程を明らかにしている。このように笹川氏の研究が、主として日中戦争以前の東南地域を検討の対象にしているのに対して、本論文の重点は日中戦争から戦後内戦期の西南部の内陸地域の事例に置かれている。 
 本論文の成果として以下の点をあげることができよう。
 第一に、国民政府の農村建設の系譜を戦後の台湾の土地改革までを視野に入れて歴史的・体系的に考察している点である。政府に協力して1920年代初頭から30年近くにわたって「郷村建設運動」を展開した晏陽初をリーダーとする平教会、国民政府の土地政策を立案した地政官僚、その両者の合流の下にアメリカの援助を得て戦後の農村復興政策を立案・推進した農復会、組織・人脈と政策面で深いかかわりをもつこの3つの団体・機関を検討の対象として選んだことも適切な判断といえる。そして、戦後に台湾での土地改革の計画立案に当たったのが農復会のメンバーであり、それが大陸での経験を踏まえて計画されたものであることを具体的に明らかにしたことは本論文の重要な成果といえる。この系譜をたどることによって、それぞれの団体・機関が、周到な計画と準備の下に農村改革を実施したこと、そしてそれは決して形ばかり改革ではなかったことを実証している。
 第二に、各章においては、それぞれの時期の政策や計画の内容・計画立案の主体とその政治的背景・政策執行の主体・政策実施による効果等の問題が総合的に検討しようという姿勢が貫かれている。もちろん、史料的制約等の事情によって十分に解明できていない問題も残されているが、第1章の定県実験県の改革に関する先行研究があるだけで、その他の章で検討された問題はいずれも著者が初めて明らかにした貴重な成果と評価できる。
 第三に、著者は、本論文で取り上げた地域については、甘粛省以外はすべて現地に赴いて調査し関連史料を収集している。また、現地調査実施時期には健在であった地政官僚等の関係者からの聴き取り調査も実施している。そうした努力により、多くの新事実を明らかにしている。たとえば、第13章で論じられている広西省における「減租・限田」政策が具体的にどのような効果をもたらしたのか等を論じた部分は、広西自治区档案館で著者が収集した同区民政庁の档案史料によって裏付けられたものである。 第四に、その改革が実施された地域社会の実情についても視野に入れて検討を進めている。国家による「伝統的社会」への介入を意味する農村諸改革はそれが実施される地域社会の地元紳士層の既得権を脅かすものであったことから各地で強い抵抗を惹き起こして、それが改革を挫折させていくことになるが、本論文ではその過程についても論じられている。
 しかし、とりあげた問題が広範囲にわたるものだけに今後に残された問題も少なくない。
 第一に、著者が取り上げた改革の事例は、その多くが戦時下の四川・広西・甘粛省等の省で行われたものである。当時の四川は、国民政府の臨時首都重慶の所在地であって、四川軍閥の弱体化を図るとともに中央化を推進しようとする動きと切り離してこの地域の農村改革を検討することはできないし、内戦における共産党の優勢が広西派に緊急の改革を促したといえるように、それぞれの改革が当時の政治情勢に密接に関連した独自の思惑の下に展開されている。そして、いずれの地域も、蒋介石から見れば「傍系の軍閥」の支配する地域であったという事情は軽視することができない。要するに、本論文で対象とされている改革は、戦後の台湾も含めて、蒋介石政権と地域社会の既得権益との関係の希薄な地域において実施されているに過ぎない。第10章で明らかにされているように、全国的規模での「農地改革」を目指して立法院に提出された「農地改革法草案」が廃案になったことも考慮に入れた上で、国民政府統治下の農村改革のあり方をより全体的に論じるためには、本論文で取り上げられていない、特徴を異にする地域についてさらに具体的な検討が必要となるだろう。
 第二に、政策を受容する地域社会の実情については解明が不十分な箇所があり、今後に課題が残る。たとえば第4章で述べられている新都県での改革は、四川省での政権交代の間隙を利用した地方勢力の武装暴動によって挫折したとされるが、襲撃の主力を担った哥老会と地方勢力の関係等、著者のいう「基層への統治の浸透」を阻む「伝統的社会構造」については、今後さらに一層の検討が要請される。 しかし、このような問題点は著者も自覚するところであり、その研究能力や着実に研究成果を積み重ねてきた従来の実績からみても、将来これらの点についてもより説得的な成果を達成しうる可能性は大きく、今後の研究に期待したい。
   四、結論

 審査員一同は、上記のような評価と、9月17日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2004年10月13日

2004年9月17日、学位論文提出者山本真氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「中国国民政府統治区における農村建設の研究-郷村建設運動及び国民政府の土地政策を中心に-」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、山本真氏はいずれも十分な説明を与えた。 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語及び専攻学術に関する学力認定においても、山本真氏は十分な学力をもつことを証明した。

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