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博士論文審査要旨

論文題目:戦後日韓関係の展開(1945年から1965年まで)―日韓国交正常化交渉を中心にして―
著者:吉澤 文寿 (YOSHIZAWA, Fumitoshi)
論文審査委員:糟谷憲一、吉田 裕、加藤哲郎、中野 聡

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1.本論文の構成
 本論文は、1945年8月の日本敗戦から1965年の日韓基本条約・附属諸協定の調印・批准に至るまでの時期における日韓関係の展開過程を、日本の朝鮮植民地支配の清算という課題に重点を置いて考察した研究である。その構成は次のとおりである。

序 論
第1章 初期日韓会談の展開―1945年から1953年まで―
第2章 中断期の日韓関係―1954年から1960年まで―
第3章 日韓会談における対日請求権の具体的討議―第5次会談及び第6次会談を中心として―
第4章 日韓会談における請求権問題の政治的妥結―1962年3月から1962年12月までを中心として―
第5章 日韓国交正常化以前の借款交渉―1963-64年における日米韓の外交活動を中心に―
第6章 日韓国交正常化の成立―第7次会談についての考察―
第7章 韓国における日韓会談反対運動の展開―1964-65年を中心として―
第8章 日本における日韓条約反対運動―1960年代を中心に―
結 論

2.本論文の概要
 序論は、課題の設定、先行研究の整理と課題への接近方法に充てられている。
 「課題の設定」は、「「戦後日韓関係」を問い直すために」と題されている。まず、「戦後日韓関係」とは「1945年8月の日本敗戦を基点として、今日にいたるまでの、日本の植民地支配の清算という課題に向き合わざるを得ない日韓両国の関係」と定義されるものであり、日本の植民地支配の清算が終わっていないから現在も「戦後日韓関係」が継続しているとの問題意識が披瀝される。その上で、本論文の目的が、(1)「戦後日韓関係」における主要課題である財産請求権問題の展開過程を明らかにすること、(2)研究が進んでいない他の諸懸案(基本関係、漁業、在日韓国人の法的地位、文化財の問題)についてできる限りその展開過程を明らかにすること、(3)日韓会談に対する日本と韓国における反対運動について明らかにすること、であることが提示される。
 「先行研究の整理と課題への接近方法について」においては、まず、1990年代以降、日韓会談について断片的に知りうる外交文書が徐々に利用できるようになったものの、日韓会談に直接関わる案件については日韓両国の外交文書がまったく非公開であること、このような資料公開状況に大きな影響を受けて、一次資料を使用した具体的個別的研究が現れるのは1990年代以降であったことが指摘される。
 1990年代以降に現れた個別的具体的研究については、四つの部類に分けて整理検討している。第1は請求権問題の政治的妥結までのプロセス及び内容の問題性を指摘した研究であり、高崎宗司、佐々木隆爾、太田修の研究である。第2は国際政治学の立場からの「戦後日韓関係」に関する研究であり、李鍾元(米国の日韓会談政策を明らかにした)、木宮正史(朴正熙政権の輸出志向型工業化戦略と対日政策との関係を考察)、李元徳(日本政府の対韓政策を考察)、ヴィクター・D・チャ(1964~65年における米国の日韓会談に対する介入行動を分析)の研究である。第3は「戦後日韓関係」の経済的側面を考察した研究であり、木村昌人(関西財界に焦点を当てての日韓国交正常化に対する日本財界の動きを検討)、金斗昇(池田政権の対韓政策を「経済外交」と位置づけ、分析)の研究である。第4に日韓会談反対運動についての研究であり、李在五、柳永烈、権珍姫、旗田巍、畑田重夫らの研究が挙げられている。
 以上の先行研究をふまえて、課題への接近方法が提示される。第1は、財産請求権問題に関して、韓国側の請求権主張を、国家間の「賠償」および国家対個人の「補償」に近い要求と、「民事上の請求権」の三種に分けて考察することである。第2は、日韓会談の全体的展開及び日韓経済協力の進展状況と財産請求権問題との関連を明らかにすること、具体的には日韓会談をその前史を含めて「原則的対立」(1945~53年)、「人道外交」(1954~1960年)、「経済基調」(1960~1965年)の3期に区分して考察することである。第3は、日韓会談反対運動の政治的役割を明らかにし、それが日本の植民地支配の清算という課題にどのように向き合ったのかを分析することである。
 第1章は2節から構成されている。第1節「日韓会談以前の日韓関係」においては、1945年8月の日本敗戦後、日韓会談開始以前の日韓関係が、財産請求権問題に関連する動きを中心にして考察されている。主要な点は、次のとおりである。(1)在朝鮮日本人財産は1945年12月の米軍政法令第33号により米軍政庁に接収され、大韓民国成立後の1948年11月の米韓協定によって韓国政府に移譲された。(2)米ソ冷戦の激化に伴い、米国は日本の経済復興を優先し、日本の賠償を軽減する方針に転じたが、1947年8月の極東委員会決定によって、南朝鮮は連合国ではないので賠償は配分されない、日本人財産の取得で満足すべきとされた。(3)民間の対日補償要求運動を背景として、南朝鮮過渡政府及び大韓民国政府は対日賠償要求調査を行い、1949年には『対日賠償要求調査』が作成された。その内容は「賠償」という用語を使用したが、植民地支配による収奪に対する原状回復、及び植民地支配及びその終了によって生じた朝鮮人の損害に対する補償を要求するもの、植民地支配の清算を目的とするものであった。(4)日本政府は敗戦後、旧朝鮮総督府、外務省、大蔵省などが中心となって、平和条約締結の準備作業として戦後処理問題について研究を進めたが、平和条約問題研究幹事会「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」(1949年12月3日)、大蔵省管理局の附属機関である在外財産調査会の『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(1950年)は、日本政府及び日本人による植民地支配及び財産形成は国際法的見地からも人道的見地からも全く正当なものであったと主張した。(5)韓国は対日講和会議(1951年9月)への参加を求めたが、認められなかった。ダレス米国務長官の「韓国の利益を平和条約に適切に反映する」との言明に沿って、「請求権」を規定した対日平和条約第4条にb項(米国軍政府による日本人財産処理の効力を日本政府は承認する)が加えられた。これによって、韓国政府の対日賠償要求は賠償交渉ではなく、請求権交渉の場でなされることになったのである。
 第2節「初期日韓会談の展開」は、1951年10~11月の日韓予備会談から1953年10月の第3次日韓会談の決裂に至るまで展開過程が考察されている(第1~3次会談を「初期日韓会談」としている)。そのなかで注目される点の第1は、初期日韓会談の主要テーマが在日朝鮮人の法的地位の問題であったとし、国籍問題をめぐる両国の対応を考察している項である。日本側については、1950年になって在日朝鮮人に国籍選択権を与える方針から、日本国籍剥奪及び帰化奨励の方針へ転じたが、日本国籍剥奪という判断には朝鮮支配に対する反省・考慮はなく、在日朝鮮人を「厄介者」と扱ったものであると論じている。韓国側については、国籍選択権を主張しない代わりに在日朝鮮人の国籍が韓国であることを明示すべきと主張したことを指摘し、大沼保昭の研究を援用しつつ、韓国国籍法の国会審議を分析して、その国籍認識は朝鮮民主主義人民共和国のそれとも共通するものであるが、植民地期に潜在的に存在した「韓国国家」の国籍を回復したとするものであり、「1910年8月28日以前に日韓間で締結されたすべての条約及び協定の無効」(旧条約無効論)という発想と軌を一にしていると論じている。
 その第2は、第1次会談における請求権問題に関する対立の背景分析である。筆者は、日本側が対韓請求権を主張して韓国側と全面的に対立したことを述べた上で、前年の第12臨時国会(1951年10~11月)の審議を分析して、この時点で日本政府の対韓請求権の大綱ができあがっていたと考えられること、朝鮮半島北部にあった財産まで請求権の対象に含めようとしていたことを明らかにし、日本側の請求権主張は実際の補償要求というよりも韓国側の請求権に対する「交渉技術」としての性格が強いと論じている。
 その第3は、1952年に米国務省が日韓両国の駐米大使に相次いで送った請求権問題に関する見解に関する分析である。対日平和条約第4条b項の解釈に関する同見解は、韓国の対日請求権のみを認めたものとも、日韓双方が持つ請求権の相殺とも解釈できるものであり、結局その解決を当事者の協議に委ねるものであったが、その要因は日本の経済復興を優先させたこと、日韓両国における反米論調への考慮のためであったとしている。この分析は、1953年10月の久保田発言による第3次会談決裂の後、米国が調停に乗り出したものの、日本重視政策を取る米国政府への韓国側の反発を招いて失敗したという分析を説得的なものとしている。
 第2章は、2節から構成されている。第1節「「抑留者」相互釈放と日韓予備会談」は、1954年から1957年末までの時期を対象とし、韓国に抑留された日本人漁夫、大村収容所の退去強制朝鮮人の釈放に関する交渉と日韓会談再開のための予備会談が並行して展開された過程を考察している。まず1953年以降に次々と起きた李ライン海域における韓国海軍による日本漁船拿捕、釜山収容所への日本人漁夫の抑留、「退去強制対象者」とされた在日朝鮮人の大村収容所への収容とその増加が説明される。ついで、鳩山政権成立後の1955年から「抑留者」相互釈放のための交渉がおこなわれたが、鳩山政権期には相互釈放は実現しなかったこと、1955年初めに日韓交渉再開のための非公式交渉は行われたものの、社会主義体制下の近隣諸国との国交正常化を打ち出した鳩山政権の態度を李承晩政権は非難して、予備会談は開かれなかったことが述べられる。さらに、1957年2月に岸政権が成立した後、「抑留者」相互釈放問題を含めて日韓会談が重ねられ、12月31日に「抑留者」相互釈放、「久保田発言」撤回、日本側の対韓請求権の撤回、日韓会談再開からなる合意文書が調印されるまでの経過がたどられる。最後に、日本が対韓請求権を撤回する基礎とされた1957年12月31日付の米政府「口上書」の評価にふれている。すなわち、同「口上書」において、韓国政府が在朝鮮日本人財産を取得したことで、対日請求権がある程度満たされたと明言したことは、日本が「交渉技術」として韓国の請求権の規模を減殺させる充分な論拠を提供したのであり、このことに李承晩は不満を抱いて「口上書」の公表を拒否したのだと、筆者は論じている。
 第2節「第4次日韓会談と在日朝鮮人帰国事業」は、1958年4月から1960年4月の韓国4月革命に至るまで、断続的に行われた第4次日韓会談の時期における日韓関係を扱っている。第4次会談自体については、在日韓国人の法的地位問題に関して、在日韓国人の子孫の永住権問題をめぐってなされた議論の他は、第5次会談以降に継承されることはなく、国交正常化成立の可能性はなかったといえると述べている。紙数を多く割いているのは、在日朝鮮人帰国事業とそれが日韓関係に及ぼした影響についてである。この点に関しては、まず、1956年以降における在日朝鮮人帰国問題の経緯が、日朝赤十字間の在日朝鮮人帰還協定調印(1959年8月)、帰国第一船出航(1959年12月)までにわたって述べられる。ついで、帰国事業を「北送」と呼んで反対した韓国政府の行動が、(1)「北送」反対の意思表示、(2)「在日同胞北送反対国民総決起大会」(1959年2月)などの大衆動員、(3)対日貿易中断(1959年4月~1960年4月)、(4)日韓会談の再開(1959年8月)などに分類して跡づけられている。
 以上をふまえて、筆者は、この時期の日韓関係は「抑留者」の相互釈放という「人道問題」を中心に展開し、1958年からはもう一つの「人道問題」として在日朝鮮人帰国問題が浮上したと整理し、日本・韓国・朝鮮民主主義人民共和国の「人道外交」が展開した時期との理解を示している。他方で、日本政府の第一の関心は抑留日本人漁夫の帰還と在日朝鮮人問題の「解消」であり、韓国政府は日本政府の在日朝鮮人に対する処遇及び「北送」阻止に関心を持っていたのであり、「人道外交」は実に政治的性格を帯びたものであったと述べ、政治的観点からの批判の必要を指摘している。
 第3章は、2節から構成されている。第1節「韓国4月革命以後の日韓関係」は、4月革命後の許政暫定政権、1960年8月に発足した張勉政権の時期における日韓関係を考察している。まず、張勉政権が経済第一主義、日韓関係の正常化を重要施策として掲げたこと、1960年7月に池田政権が成立し、9月には小坂善太郎外相が訪韓し、日韓関係の改善に取り組む姿勢を示したこと、10月に第5次日韓会談が再開されたが容易に進展をみせなかったこと、1961年4月に日本の自由民主党内の親韓派議員が「日韓問題懇談会」が設置され、野田卯一・田中角栄ら8名の議員団が5月に訪韓したことがたどられる。筆者は、これらを整理して、日韓間には、相手方との友好関係を重視する政治家の「政治的路線」と自国政府の立場を強く打ち出す外務官僚の「実務的路線」が表れることになったと指摘している。次に、第5次会談に、韓国側は第1次会談で提示した「韓日間財産及び請求権協定要綱」(「対日請求8項目」)を修正、再提出して、韓国政府の在朝鮮日本人財産取得が対日請求権をどの程度満たしうるかという「関連」問題など、請求権の全体的性格が重要な論点となったことを指摘し、その論点を検討している。
 第2節「韓国軍事クーデター以後の日韓関係」は、1961年5月の朴正熙少将らによる軍事クーデター後、1962年3月までの日韓関係を考察している。まず、池田政権は軍事政権の合法性問題が解決するまで、日韓会談再開に慎重であったが、1961年7月にソ朝友好協力相互援助条約・中朝友好協力相互援助条約が締結され、8月に軍事政権が民政移譲スケジュールを発表するに及んで、日韓会談再開のための予備交渉が始められ、10月に第6次会談が始められたことが述べられる。ついで11月に行われた池田・朴日韓首脳会談の合意内容が検討され、それは韓国の対日請求権について充分な討議を経た後、請求権問題解決のための政治折衝をするという会談の進行方式についての合意であったと論じている。最後に、第6次会談における対日請求権をめぐる討議について、(1)個人請求権に関するもの、地金及び地銀の返還請求、朝鮮半島に本社があった法人の在日支店の財産に対する返還要求などに分けて検討し、日本側は民事上の個人請求権のうち、資料による十分な裏付けのあるものに対してのみ支払いに応じたが、植民地支配が問われる項目については植民地支配期の法律体系を持ちだして自らの正当性を主張し、韓国側の請求権を認めなかった、この具体的討議は首脳会談で合意された政治折衝をするための準備作業であったと論じている。
 第4章は4節から構成され、1962年3月から12月までの日韓会談(第6次会談の一段階)について考察している。
 第1節「日本の対韓経済協力と請求権問題~日本・米国・韓国の立場」は、請求権問題が日本の対韓経済協力によって妥結されるに至った政治的経済的背景を検討している。まず、1960年頃より米国の対韓援助削減、韓国の「自立経済」確立・日本資本導入の動き、日本政府の対米協調外交と日本財界の韓国経済「再評価」があいまって、日本の対韓経済協力が現実味を帯び始め、ここに1960年代の日韓会談が「経済基調」で展開する状況があったと指摘している。
 ついで、日本の対韓請求権に対する認識は、求償国との政治的経済的関係の強化を図った東南アジア諸国との賠償に対する認識の延長線上にあり、過去への謝罪の意味を含まない経済協力を実施しようとするものであったと論じている。さらに、韓国政府の方針について、「請求権」として受け取る金額を経済開発に使用することを明らかにしてはいたが、請求権問題では法的根拠が不確実であることなどのために日本側に対して相当に譲歩をせざるを得ないという厳しい見通しを持っており、対日請求権の「減少限度を最小限」にするために全項目に「法的根拠」を主張し、対日請求権の金額が算定できる段階までは、経済協力問題とは分離して検討する方針を堅持したと論じている。最後に米国については、ケネディ政権の「韓国特別委員会」文書の分析などをもとに、請求権問題を「植民地支配の清算」とはとらえておらず、在朝鮮日本財産によって対日請求権が満たされたとする見解を取るなど、日本政府の立場により理解を示していたということができると論じている。
 第2節「小坂・崔徳新外相会談―「官僚的攻勢」と「政治的守勢」の構図」は、1962年3月以降における請求権交渉の政治的妥結の過程は、「韓国軍事政権=政治的守勢」、「池田政権=官僚的攻勢」として理解すべきであるとの枠組みを提示しつつ、1962年3月の請求権委員会、小坂・崔徳新外相会談において双方が原則的立場をぶつけ合い、合意を得られなかったが、外相会談の場において日本側が経済協力による解決案を初めて提示したのは注目すべきことであったと述べている。
 第3節「「空白期間」における」日米間の動き」は、外相会談から8月の予備折衝に至るまでの時期を、日韓両国政府内が妥結案の内部調整に専心した「空白期」であったととらえ、金額・「請求権」の位置づけをめぐって妥結案が模索された様相を指摘している。また、7月のラスク米国務長官のライシャワー駐日大使宛電報を引いて、米国が韓国に「請求権」という名目に固執しないこと、欧米企業の韓国への関心を示唆して日本の積極的態度を喚起しようとするなど、介入政策を展開したことを指摘し、「請求権」の名目さえ放棄することを迫ったことは、日本側に「植民地支配」という課題をますます忘却させる働きかけであったと批判を加えている。
 第4節「予備折衝における議論―「実務者路線」による調整」、第5節「大平・金鍾泌会談―政治的路線による妥結」は、1962年8月の予備折衝、10月・11月の二回にわたる大平正芳外相と金鍾泌中央情報部長との会談を経て、日本側が無償3億ドル、有償2億ドルの「経済協力」という名目で資金を供与することで合意が成立するまでの経過を述べている。
 第6章は、1963~64年における日韓会談と借款交渉の過程を考察している。第1節「「大平・金」合意後の日韓会談」は、1963年からの日韓会談は漁業問題を中心として進められ、64年6月にのために中断されるまでの経過を簡潔に述べている。
 本章の大半は、第2節「1963年における借款交渉」に充てられて、次のような点が指摘されている。(1)1963年段階において日韓双方で民間借款の実施が検討されていたが、韓国政府はその借款を対日請求権と関連させるべきではないとの議論が大勢を占めていた。(2)1964年に呉定根(前国家再建最高会議最高委員)が来日し、3千万ドルの借款交渉を行ったが、立ち消えになった。(3)1964年8月に日本政府は「韓国経済の危機を救援するために」2千万ドルの緊急経済援助を決定し、12月に韓国との合意が成立した。(4)PVC(ポリ塩化ビニル)工場・第5セメント工場建設借款について、日韓は激しく論戦したが、米国の介入もあって、1964年10月には「大平・金鍾泌合意」に基づく民間借款であることが確認された。(5)以上の借款交渉と第7次日韓会談は「経済基調」の外交としてつながっており、1963~65年の日韓関係は、国交正常化に向けて両国の経済関係が緊密化するという観点からも理解する必要がある。
 第7章は、1964年12月に開始された第7次日韓会談を通じて、日韓基本条約と附属諸協定が条文化され、65年6月22日に調印されるまでの過程を考察している。
 第1節「6・3事態以後の政治状況―第7次会談の政治的背景」は、第7次会談期に日本の外相であった椎名悦三郎、首席代表となった高杉晋一、韓国の外相であった金東元、駐日大使兼首席代表となった金東祚がなぜ起用されたかについて論及している。
 第2節「「高杉発言」のもみ消し」は、1965年1月に高杉代表が外務省記者クラブでおこなった発言を、外務省のオフレコ要請で各新聞が隠し、『アカハタ』が報道するに及ぶと、金東祚代表ら韓国側交渉担当者とも協議して、もみ消しにつとめた顛末について述べ、こうした日韓の交渉担当者間の「協力関係」は1964年の対韓借款供与決定に続き、会談妥結のための基盤となったと論じている。
 第3節「椎名悦三郎外相の訪韓と日韓基本条約仮調印」は、1965年2月に椎名外相の訪韓が実現するまでの経緯、2月18日の基本関係問題実務者会議において「旧条約無効確認事項」「韓国政府の唯一合法性確認事項」について日本側が提示した最終案が外相間の最終合意となり、20日に基本条約が仮調印されるに至ったことを述べている。
 第4節「三懸案についての合意事項仮調印」は、基本条約の仮調印後、漁業問題、在日韓国人の法的地位問題、請求権及び経済協力問題に焦点が移り、4月3日に三懸案の合意事項について仮調印に至るまでの過程を考察している。そして、合意内容について検討し。次のように指摘している。(1)在日韓国人の法的地位問題における対立点となった「協定永住権者の子孫の処遇」については、協定成立後25年までは「再協議」をするとして、韓国政府の意思が盛り込まれた。(2)請求権及び経済協力問題に関して、韓国側は船舶返還問題と文化財問題を別途に扱うことを主張したが、船舶請求権の消滅と引き換えに日本は民間信用供与3千万ドルの船舶協力を行い、「請求権の解決」に文化財問題は含めないが、日本は「文化協力」として韓国文化財を引き渡すこととなった。(3)「漁業問題解決」の一環として、日本は民間信用供与9千万ドルの漁業協力を行うこととなった。(4)船舶、文化財、漁業問題はすべて経済協力で妥結が図られたが、これは諸懸案を経済的手段で押し流すものであった。
 第5節「日韓基本条約及び諸協定の調印」は、1965年4月の合意事項調印後、合意内容を条文化する作業は予定よりやや遅れたが、6月22日に基本条約及び諸協定が調印される経過を述べている。
 第6章は、1964~1965年における韓国の日韓反対運動の展開過程を検討している。1964年の反対運動については、3月以来、学生及び野党を主体とした大規模な運動が高揚したこと、6月3日の大規模デモに対し、朴政権は米国の支持の下に非常戒厳令を宣布して軍隊による鎮圧をはかったこと(「6・3事態」)、などを述べている。1965年の反対運動については、2月以来、再び野党・学生を主体として運動が起こり6月まで続いたこと、7月以降は批准反対闘争が展開したが、8月26日に衛戍令が発布されて鎮圧されたこと、などを述べている。また、反対運動勢力の主張を検討し、日韓条約の問題点を明らかにしたのは十分評価できるが、条約反対派も賛成派と同じく、「国是」としての反共の立場に立ち、請求権や在日韓国人の法的地位と深く関係する人権問題を相対的に軽視したと論じている。
 第7章は、日本における日本社会党・日本共産党・総評などを中心とする日韓会談反対運動の展開過程を、第1高揚期(1962年後半~1963年初めまで)、第2高揚期(1965年後半)と区分して跡づけている。また、主要団体の主張を検討し、次のような点を指摘している。(1)革新政治勢力(社会党・総評、共産党)の核心論理は東北アジア軍事同盟論、朝鮮南北統一阻害論、日本独占資本の対韓侵略論であったが、このような論理は日韓条約に対する日本大衆の無関心がもたらしたものであった。(2)植民地支配責任の追及という観点からみると、革新政治勢力のこの問題に関する関心は相対的に低かったが、在日朝鮮人団体や日朝友好団体、知識人はこの問題に正面から取り組んだといえる。

3.本論文の成果と問題点
 本論文の第1の成果は、植民地支配の清算こそ戦後の日韓関係における最大の課題という問題意識に立って、日韓会談を中心として、日韓条約成立までの日韓関係の展開過程を体系的に明らかにしたことである。植民地支配の責任を認めようとしない日本側の交渉態度を分析する視角は厳しく、また、日本側に有利となる形での介入を行う米国の政策についても、系統的に明らかにし、それは日本側の「植民地支配」忘却を助長させるものであったと、鋭く批判している。
 第2の成果は、請求権問題のほかに、在日韓国人の法的問題、漁業問題、文化財問題にも可能な限り言及し、その問題点を論じたことである。このことは、叙述をより複雑にした面はあるものの、日韓会談の全容を理解する上において当然に必要な作業に挑戦したものとして高く評価できる。
 第3の成果は、日韓会談の交渉過程を直接に記録した日韓の外交文書が公開されていないという史料上の大きな制約にも拘わらず、一部入手できた非公開文書、公開された日米韓の外交文書、回顧録、国会議事録、新聞などの史料を可能な限り収集、検討しており、日韓会談の交渉過程に関する実証に関しては、現在期待できる限りの水準を確保していると評価できる。
 本論文の問題点は、第1に、日韓会談、戦後日韓関係の展開を規定した要因のうち、筆者が強調する植民地支配の清算の問題以外への目配りが弱い点である。その他の要因としては、東アジアにおける冷戦体制、その一部でもある朝鮮における分断国家体制の形成と展開、韓国国家の強大な国家建設の志向と政治体制の特質などがあるが、本論文においては、これらの点に関する検討は、一部言及している点はあるものの、全体としてはなお不充分である。
 第2に、日韓間における請求権交渉問題や植民地支配の清算の問題を、他の国の賠償交渉問題や脱植民地化と比較して、より幅広い視野から考察して、その歴史的特質について分析を深める課題が残されている。
 第3に、日本における日韓会談・日韓条約反対運動の分析はやや一面的なところがあり、史料をさらに収集して再検討する必要がある。
 しかし、以上の3点は、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2004年7月14日

2004年7月 5日、学位論文提出者吉澤文寿氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「戦後日韓関係の展開(1945年から1965年まで)―日韓国交正常化交渉を中心にして―」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、吉澤文寿氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は吉澤文寿氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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