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博士論文審査要旨

論文題目:厚生年金基金制度の形成と衰退-雇用慣行の史的展開に則して-
著者:大竹 晴佳 (OTAKE, Haruka)
論文審査委員:藤田伍一、渡辺雅男、林 大樹、倉田良樹

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〔本論文の構成〕
本論文の構成は以下の通りである。

序章
 第1節 問題関心
 第2節 本稿の課題と構成
 補:  制度概要 
第1章 雇用慣行の定着と厚生年金基金の創設
 第1節 はじめに
 第2節 調整を求める企業の論理
 第3節 労働組合の対応
 第4節 厚生年金基金の創設
 第5節 高度経済成長下における年金の公私関係
 第6節 小括  
第2章 雇用調整の展開と企業年金の普及
 第1節 はじめに
 第2節 労務管理再編をめぐる労使関係
 第3節 中高年層の処遇の変容
 第4節 企業年金の普及
 第5節 政策の動向
 第6節 小括 
第3章 長期雇用の持続と厚生年金基金の拡充
 第1節 はじめに
 第2節 85年改正
 第3節 日本的雇用慣行の持続
 第4節 89年改正:厚生年金基金の拡充
 第5節 小括
第4章 雇用流動化と厚生年金基金の衰退
 第1節 はじめに
 第2節 94年公的年金改正
 第3節 企業年金改革 
 第4節 小括 
終章  
 第1節 日本的雇用慣行の変容と厚生年金基金の衰退
 第2節 長期雇用の効率性とその変化
 第3節 厚生年金基金がもたらした公的年金への影響
参考・引用文献

 〔本論文の内容要旨〕
 本論文はわが国の「厚生年金基金(以下、厚年基金と略称)」の成立・発展・衰退を雇用慣行の史的展開に則して分析するというものであって、諸外国には見られない特異なシステムを機能面から分析するという視座に支えられている。
 まず、著者は考察の枠組みとなる「日本的雇用慣行」について、次のような説明を行っている。「毎年同じ時期に新規学卒者が一括採用され、若いうちは低い賃金でOJTやジョブ・ローテーションを通じて企業内で通用する技能を身につけ、勤続年数と人事考課に基づく能力評価によって昇給する。労働者は年齢とライフサイクルに見合った賃金と福利厚生を享受しながら、原則として定年まで勤務を継続する。このような諸要素が互いに密接不可分な関係を持ちながら、企業の生産性向上に寄与するよう構築されている点が日本に独自であるため、日本的雇用慣行と呼ばれている」と。
 次に、構成にしたがって本論文の概容を見ておきたい。
 第1章「雇用慣行の定着と厚生年金基金の創設」では、第2次大戦後に日本的雇用慣行が定着した50年代と「厚生年金基金」が創設・導入された60年代が考察の対象となっている。厚生年金そのものは戦前の41年に労働者年金として成立しているが、戦後のインフレ経済のもとで実質的な機能を失っていた。また、企業は大企業中心に「日本的経営を採用し始めており、長期雇用慣行を定着させるために、厚生年金とは別に退職一時金制度を拡充していった。
 他方、厚生年金についていえば、50年代の特需ブームに支えられて戦後復興が軌道に乗り、また53年から10年年金の支給開始が予定されていたことから、厚生省は52年に「厚生年金保険法改正試案」を公表して給付改善に乗り出した。これに対して日経連を中心に企業サイドはコスト負担増を理由に厚生年金の給付改善に反対した。すなわち、企業は退職金負担と並行して厚生年金の保険料の負担増加は無理であるとしたのである。厚生年金の54年改正においては、定額部分と報酬比例部分からなる2階建て年金の仕組みが採られることになったが、この時は退職金と厚生年金の調整までには至らなかった。
 61年に日経連は「退職金制度と厚生年金制度の調整についての試案」を発表した。調整の形態については、厚生年金と同等以上の内容をもつ企業年金について厚生年金の一部を「適用除外」にするというイギリス流のコントラクト・アウト方式を提案した。これに対して労働者(被保険者)側委員は退職金と厚生年金との改善は別に考えるべきだとしてこれに反対した。
 経済の高度成長とともに厚生年金の給付水準も引き上げられていき、それにともなって企業の負担も上昇することとなった。そのため、公的年金と私的年金のコスト調整が改めて課題とされた。また、長期雇用体制をとる上でも企業福祉の一元的運用が好ましいと判断された。そこで、厚生省の斡旋もあって、65年に「代行方式」による厚年基金が開設されることになったのである。
 第2章「雇用調整の展開と企業年金の普及」では、73年のオイルショック後から80年代初頭を対象に分析している。70年代を通して年金水準の改善が見られたが、同時に経済成長の屈折的低下から年金財政の悪化が懸念され始めた。その過程で著者は大企業が労務管理体制の下で、厚年基金をどのように見ていたかを検討している。
 日本経済はオイルショック後の74年から78年頃までは不況に陥っており、この過程で企業は経営の合理化・スリム化を迫られることになった。日経連は「生産性基準原理」を掲げて賃上げの抑制に乗り出した。雇用面については、不況の初期には中高年層の解雇をともなうハードな雇用調整をおこなったが、まだ長期雇用慣行そのものを見直すまでには至らなかった。
 著者は労務構成の高齢化がもたらすコスト増を抑制しようとする企業サイドの意向と、退職後をも含めた生活安定を求める労働者サイドの意向が交差した時期と捉えている。ここから、従来の長期的雇用慣行を強めることで双方の利害が合致したと見ている。中高年労働力の転籍・出向を軸とする労働力流動化を促進する一方で、60歳に定年を延長する方策が同時に求められ、その方向が定着することとなった。
 またこの時期には、ライフサイクル論の観点から大企業を中心に退職給付の拡充傾向が見られた。とくに鉄鋼などの大労組を中心に定年延長を前提にした退職給付に大きな変化が認められた。雇用延長や賃金上昇がそのまま退職金に跳ね返らない措置が講じられると共に、退職一時金の年金化が進められたのである。このような形で退職給付は企業の労務管理の一環として明確に位置づけられることになった。
 第3章「長期雇用の持続と厚生年金基金の拡充」では、まず85年の公的年金の再編過程が検討されている。分立している公的年金について「基礎年金」をベースに再編したのであるが、同時に拠出期間を40年に延長して本格的な高齢社会に備えて年金財政の梃入れが図られた。
 労働市場では産業構造の三次化を受けてパートタイマーなどの非正規雇用者が着実に増加しつつあったが、85年の年金改革は未だそれを視野に入れたものではなく、人口高齢化への財政対策が主であった。むしろ公的年金の後退的再編によって企業年金の比重が増したと著者は見ている。厚年基金の開設数は伸びていないものの、補完的役割が増大したのである。
 第4章「雇用流動化と厚生年金基金の衰退」では、90年代後半から顕在化してきた厚年基金の衰退過程を取り上げている。90年代はバブル経済の崩壊に始まって「失われた10年」といわれる未曾有の長期不況がこれに続いた。バブルが投資先のない過剰資本によって生み出されたために、その崩壊による不況の下では一層資本の過剰が深刻となっていった。政策当局がゼロ金利政策を採用したのも不良債権の整理を意識したとはいえ、本質的に資本の過剰を反映したものであった。厚年基金のファンド運用については低金利時代を映して利差損を拡大させていた。資産全体の利回りは92年以降、予定利率の5.5%を下回って、積立不足の基金が続出することになった。母体企業の業績も悪化したケースが多く、基金の積立不足は累積し、大型化していったのである。
 94年11月に日本紡績業厚生年金基金が解散に追い込まれた。95年には兵庫県繊維産業厚生年金基金、96年に愛知羊毛紡績業厚生年金基金と、繊維産業を中心に基金の解散が相次いだ。産業構造の変化による新規加入者の減少と年金受給者の増加が急速であったことから年金財政が急激に悪化したのである。厚年基金によっては、財政悪化を喰い止めるために合併や特例掛け金の徴収、福祉施設事業の廃止などに踏み切った。また将来の財政悪化が見込まれる基金では解散に踏み切るところも出てきた。債務が資産を超過すると解散もできなくなることに基づいた予防措置であった。こうして02年8月までに解散した基金数は172件にのぼったのである。
 96年から97年にかけて厚年基金の大幅な改革が行われた。5.5%に固定されていた予定利率が弾力化され、個別に変更設定できることになった。また経営状態に合わせて給付水準の途中変更も認められることになった。また厚年基金の解散認可基準も明確化され、解散が認可される事由が列挙され、解散手続きの仕方も明示された。
 98年には政府・自民党が経営者サイドの要請を受けて確定拠出型年金の創設について検討することを明らかにした。そして12月に「確定拠出型年金の導入について」を公表して改革の方向を鮮明にした。他方、連合は厚年基金の代行方式を廃止することに賛成しており、企業年金の改革方向は確定給付型年金から確定拠出型年金への流れとして固まってきた。かくして、01年には企業年金二法が成立し、厚年基金の機能的解体の方向が確定したのであった。
 終章では、それまでの行論を要約するとともに、財務的分析に加えて労働市場との関係を再確認している。長期雇用を支える厚年基金は60年代に日本的雇用慣行、すなわち長期雇用慣行の定着とともに始まった。そして70年代のオイルショックによる不況を凌ぎ、また80年代には労働市場構造の大きな転換期を迎えたものの、制度の弾力化によって乗り切った。しかし短期雇用がはっきり主流と映った90年代後半において、それまでの長期雇用を支える役割を終えることになったと結論している。

 〔本論文の評価と課題〕
 厚年基金は、厚生年金の報酬比例部分の一部を企業年金が「代行」するという形で公的年金と私的年金の調整を図った日本独自の制度である。65年の導入開始以後、大企業を中心に発展してきた。しかし、90年代後半から、財務面と雇用面の両方で厚年基金の存在理由が問われ、機能的解体に追い込まれていく。著者は厚年基金の創設時からの展開を跡付け、直接的には財務的要因が強く作用したと見ているが、背後には長期雇用慣行が存在し、これを支える企業福祉制度として厚年基金が機能したと考えている。したがって雇用の流動化とともに長期雇用慣行が崩れてくると厚年基金の基底的意義も失われたと理解するのである。
 さて、厚年基金の成立から衰退(機能的解体)までを通史的に扱った研究はこれまで皆無であった。また労働市場との関係を中心に厚年基金を考察した研究も未見であった。本論文はそういった未開拓の領域に分け入って先鞭をつけた労作であり、その開拓的意義をまず積極的に評価したい。さらに、そこに見られる問題関心は近年、政治学や社会学の領域で注目されている福祉レジームの国際比較研究とも通底するものであって、新たな研究領域の可能性をも窺わせるものである。
 本論文の内容に則して言えば、70年代から80年代にかけて内部労働市場の限界を意識しながら労使双方が内部労働市場を中間的労働市場(=ネットワーク型労働市場)に拡大する中で定年の延長を図り、ライフサイクル論に立って従業員の老後生活を確保しようとするが、この点について長期雇用慣行の再編強化で労使の利害が一致し、両者の共同戦線が組まれたとする点は興味深い。著者のオリジナリティとして高く評価できよう。
 さらに資料面では、これまで使用されてこなかった審議会・研究会の配付資料や議事録を発掘しており、これをもとにした丁寧な論証は全体的な説得力を増していると評価できる。
 反面で、本研究にはいくつかの課題も残されている。本論文において厚年基金の成立・展開は財務的要因と労働市場的要因の両面から理解できるとしているが、企業経営において企業年金はどのような位置づけにあるのか、さらにはその位置づけの中で二要因の比較優位性について立ち入った分析が欲しいように思われる。
 また、90年代後半から顕著となる長期的雇用慣行の崩れを促した要因の本格的分析も今後の課題となろう。これは、今後、厚年基金が全面的に解体していくのか、あるいは部分的な修正にとどまるのかを見定めるためにも必要な作業となろう。
 だが、課題をとりまく環境はまだ流動的であって、分析の条件が整うには今しばらくの時間が必要である。それに、以上の課題は著者自身も十分に自覚している点であって、本質的に本論文の価値を損なうものではないことを付言しておきたい。
 本論文の審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献していることを認め、大竹晴佳氏に対して、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。 

最終試験の結果の要旨

2004年7月14日

平成16年6月15日、学位論文提出者大竹晴佳氏の論文について最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「厚生年金基金制度の形成と衰退-雇用慣行の史的展開に則して-」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、大竹晴佳氏はいずれも充分な説明を与えた。以上により、審査委員一同は大竹晴佳氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有すると認定した。

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