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博士論文審査要旨

論文題目:都市のナチュラリスト・ゲディス ― <人間-環境>系のライフヒストリー分析試論 ―
著者:安藤 聡彦 (ANDO, Toshihiko)
論文審査委員:藤岡貞彦、関 啓子、町村敬志

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 安藤聡彦氏の学位請求論文「都市のナチュラリスト・ゲディス~<人間-環境>系のライフヒストリー分析試論~」の課題は、現代の教育世界において日本と世界を通じて一つの焦点となりつつある「環境教育」の概念と規定を明確にするために、その源流をさかのぼり、「環境教育」の出発時における原型を確認すべく、P.ゲディスの教育思想と教育実践をえがきだすところにある。

一、論文の構成

 本論文は、以下のように構成されている。

 課題と分析枠組
   第一節 先行研究の批判的レヴュウ
   第二節 本校の課題と視点
   第三節 分析の枠組
   第四節 本稿の構成
   第五節 本稿で用いた資料
・ 環境史的前提
   第一節 自然誌的研究の蓄積
   第二節 都市的環境の形成過程
   第三節 知の共有化のためのネットワーク
・ <人間-環境>系のライフヒストリー分析
 第一部 環境についての知覚
  はじめに
  第一章 非ダーウィン主義的進化論の形成過程
   第一節 非ダーウィン主義的進化論への接近
   第二節 転換期の生物学とゲディス
   第三節 進化・美・倫理
   第四節 応用生物学にむけて
  第二章 生物学から都市学へ
   第一節 基礎としての生態学的発想
   第二節 地理学的思考への接近
   第三節 応用生物学としての都市学
 第二部 環境に対する作用
  第一章 オールド・エディンバラの改造
   第一節 エディンバラ社会連合の実験
   第二節 オールド・エディンバラの再生事業
 第三部 環境認識と環境技術の共有化
  はじめに
  第一章 青年の成長と環境
   第一節 教育の目的と内容・方法
  第二章 成人の成長と環境
   第一節 スコットランドの大学拡張運動の組織化
   第二節 エディンバラの夏期集会
  第三章 子どもの成長と環境
   第一節 自然学習運動とゲディス
   第二節 ゲディス自然学習論の構造
 結論


二、本論文の課題と概要

 安藤氏がP.ゲディスを研究対象としたのは、以下の理由による。第一は、生物学者、地理学者、社会学者、都市計画学者として知られるゲディスの混沌たる研究者像を、従来の伝記的研究の中から洗い出し、「環境教育の父」としてえがき直したいという氏の「願望」からである。都市学の古典的な著作とされる『進化する都市』(1915)にいたるまでの研究歴をこの観点で再整理すると、ゲディスの在来の伝記的研究とは異なる人物像がえがきだされ、エディンバラを一つの源流とする地域研究の中に環境教育の始原がみられることを、氏は論証しようとする。第二は、『都市の文化』(1938)の著者、マンフォードが、ゲディスを唯一の師としたことへの強い「関心」からである。マンフォードの都市計画論はひろく知られている。その特徴である都市の発展の歴史的解明と、都市形成の主体たる市民の自己確立という視点は、マンフォードによれば、師ゲディスの教えに導かれた結果であった。では市民の自己形成はいかにして可能なのか。ゲディスはそこに成人教育の可能性をみた。諸科学に通じたゲディスが何故、成人の学習に注目し、大きな期待を寄せ、自らたずさわったのか。その過程を安藤氏はつぶさに精査しようとする。第三は、国際的に教育における総合学習・課題学習などの形をとったカリキュラム改革が唱導されている今日、「環境」を主題とした成長世代と成人世代双方にわたる学習の本質は、どのようにしたら解明できるのかという「探究」の志からである。環境教育への関心は、国際的にも国内的にも1960年代半ばに発するのであるが、そのほぼ60年前に、諸科学の総合としての<都市学>や<郷土教育>の中に、環境教育への志向がみられた。その際、英・米のナチュラリストたちの間に芽生えた自然認識と地域認識の中に、氏は、カリキュラムにおける「総合」の視角の原型をさぐろうとする。それは、現代日本の教育改革、とりわけカリキュラム改造を照射する視角となろう。

 もし、この「願望」と「関心」と「探究」がゲディス研究において焦点化されるなら、古きをたずねて新しい展望を今日の「環境教育」、ひいてはカリキュラム改造にもたらすことができるというのが氏の研究の見通しである。

 論文の構成にそって概要を略述しよう。

(・) 環境史的前提
(・) 環境についての知覚
(・) 環境に対する作用
(・) 子ども、青年、成人の成長と環境
 上記の四つのテーマの冒頭に氏は、「課題・分析枠組」を提示する。まず、本稿の主題として、イギリスにおける都市計画や地理学・社会学さらには環境教育の開拓者として知られるパトリック・ゲディス(1854~1932)のライフヒストリーを、とりわけ環境との関わりに注目しながら分析することが明示され、海外での先進研究として、デフリース、ボードマン、ティルィット、メレット、シュテイリー、エイブラムス、マンフォード、ライリー、カスバートらの業績を仔細に跡づけ、最近作のメラー著『パトリック・ゲディス』の評伝的研究までを概括して、その欠点としてゲディスの統一像を描くことの失敗をきびしく批判する。それは、後世の史家の分析の欠陥にのみよるものではない。ゲディスのカバーしようとした領域があまりにも広汎にすぎ、研究成果の報告が未完であるものも少なくなく、在来の都市計画史研究、地理学、生物学の研究の枠組をこえるものであるうえに、独特のゲディス自身の個性からも記述的伝記研究に自ら制約があったためでもあった。ボードマンやメラーの伝記研究を批判して、地理学者、ウィーラーが「教育の質と環境の質との密接な関係を理解した環境教育の父」と規定した時から、ゲディス研究の第二幕が開いたと安藤氏は断定する。ウィーラー解釈から、氏の研究は出発する。

 そこで本論文は、ゲディスの「環境」についての知覚をナチュラリストとしての立場からのものとみて、
A 環境についての知覚
B 環境に対する作用
C 環境について知覚された内容(環境認識)と技術(環境技術)の共有化
という三つの側面から、伝記研究を越えたゲディスの<教育と環境>の関係性を解明する方法をとる。すなわち、<人間-環境>系をゲディスのライフヒストリーの中から抽出するという作業を行おうとするのである。そこで氏は分析対象を、1880年から1905年ごろまでの、25年間にわたる<ゲディスの研究のしごとと教育のしごと>と措定することになった。

 (・) 環境史的前提では、1880年代前半のエディンバラにおける知識人の環境とのかかわりを、自然誌的研究の蓄積、都市的環境の形成過程、知の共有化のためのネットワークの三つの点から概観している。ゲディスの研究の場である当時のエディンバラは、近代都市として、経済的格差と衛生問題とアメニティ保全との三重苦をかかえていた。近代的な都市問題の発生こそ、若きゲディスにとっては、生涯の主題だったのである。1880年、エディンバラ大学実地植物学講座の助手として着任して以来、エディンバラという都市のもつ性格と都市計画--オールドタウンのスラム化と「アメニティ向上」を目標とするニュータウン建設、オールドタウンにおけるスラム・クリアランスの開始--は、ゲディスの自然志向研究を大きく規定することになった、とされる。その場合、スコットランドにおける様々なアソシエイション(たとえば、イギリス自然誌協会)が知の共有化のためのネットワークとして都市計画と市民の共同学習のためのに共同作業を行っていたことこそ、ゲディスと安藤氏がともに着目する環境教育の焦点となっていく。それこそ、イギリス成人教育史をいろどるボランタリーな成人教育団体の歴史であるとともに、環境教育の母体に発展していく芽生えであった。

 (・)「環境教育についての知覚」の過程についての叙述は、ゲディス自身の研究の展開史である。ゲディスは、研究の出発点においてハクスリーの下で生物学を学び、エディンバラ大学等で動物学を講じたあと、1888年から1919年まで、ダンディ・ユニヴァーシティ・カレッジの植物学教授であった。しかし、ゲディスは、生物学固有のフィールドを抜けだし、人文・社会科学の世界にわけ入って、地理学・社会学・都市改良から教育にいたるまで、発言するようになる。何故、植物学者ゲディスは、都市という環境とその改善に関心を有するに至ったのかを、安藤氏は克明に跡づけていく。スペンサーを介して受けたラマルク主義的進化論と産業化・都市化の中の美のあり方を探究したラスキンの文化論との影響をうけて、<生物学から社会学へ>というモチーフを模索する若きゲディスの像がそこから浮かび上がってくる。同時にゲディスは<生物学から都市学へ>をも追い求め、新しい生態学の確立に寄与しつつ、ルプレイ学派との交流の中で、地理学的な志向を発展させ、<生物学から社会学へ>という命題を、「応用社会学としての都市学」という問題提起によってこたえる境地に達する。

 (・) 「環境に対する作用」では1880年、大学助手の身分でパートナーとともに自らエディンバラのオールドタウンに移り住み、スラム化しつつあった環境の改良事業にとりくむゲディスの実践が描写される。ここでは、エディンバラのオールドタウンの建造物の装飾的な美とその下での人々の共棲を重視するゲディスのアプローチに焦点が合わされている。「環境協会」構想に発する「エディンバラ社会連合」の設立の過程と組織構造が分析され、それが、「エディンバラ社会連合、社会衛生協会」(1908)にいたるまでの小史が跡づけられている。そこには、ラスキンの思想的影響や、貧困者住宅運動のオクタビア・ヒルらとの協同がみられた。ここに、イギリスではじめて<環境保全>の実験にもとづく理論化が、行われ始めたといってもよい。ゲディスの着想が思想や政策立案にまでたかめられるには、オールド・エディンバラの再生事業という大きな実験が先行していたのである。その果てに、ゲディスの名を高らしめた「都市博物館としての展望塔」の建設(1892)という大きな事業が開始される。ゲディスの「展望塔」こそは、ウィーラーのいう<環境教育の源流>を象徴するエディンバラ城の城門に立つシンボルとなった。それは、ゲディスにとって、地理学的な展示の場であるだけでなく、「土地工学実験施設」だったのである。「土地工学」こそは、地域を認識し、協同して地域を設計し、都市計画にいたらしめる基礎的な学問であった。シカゴ大学の社会学者チューブリンは、「学校であるとともに、博物館、アトリエ、展望台である展望塔は、世界最初の社会学実験室」と高く評価していた。

 (・) 「子ども・青年・成人の成長と環境」は、本論文の白眉をなす部分(pp. 401~620)であって、「環境認識と環境技術の共有化」(本論文目次第3部)として一括されている。ゲディスは、「社会進化」や「都市の進化」の担い手を求めて、自ら培った環境認識や環境技術を高等教育や成人教育、さらには初等教育の場において伝達し共有化していこうとした。それはまことに多面的であるが、とりわけ論文の出色の成果であるエディンバラ夏期集会(1887~1899)の一次資料にもとづく、綿密な分析にみられるように、成人の学習に焦点化される。その起点は、スコットランドの大学拡張運動にあった。

 スコットランドにおいて、セント・アンドリュウス大学は抜きんでて大学拡張運動の中心になってきた。ゲディスは、大学での正規の講義の他に、大学拡張運動に挺身したことが知られている。彼は、早くも1887年には、パース、モントローズ、ダンフリーズ、ダンファームリン、スターリングに、「大学教育協会」をつくり、それは地域での大学拡張運動の中心になっていった。組織者であるとともに、講師団の中心であったゲディスは、実際に「近代植物学概論」(全12回、1889)を担当し、生態学を講じた。しかし、ゲディスは自然科学の教授にとどまることなく、しだいに「社会科学と社会生活--実践経済学入門」(セント・アンドリュウス大学公開講義)のように、受講者が自ら生活する都市空間における環境の問題を認識し、それを改良するための行動を自己形成していく実践的な知の獲得へ、視座を転換していく。<都市との関係にかかわる知の共有化>が、新しいゲディスのテーマとなっていく。

 1887年8月に「自然科学の休暇講習会」として出発した「エディンバラ夏期集会」こそは、これらの地域の諸大学教育協会の頂点に立つものであった。これが、ゲディスの自然学習運動の始原であり、ウィーラーのいう「環境教育の生誕だ」と、安藤氏はみる。

 第1期(1887~1889)の草創期を、氏は、自然学習史上名高いルイ・アガシの主導した「アンダースン自然誌学校」と対比して、その類似性を、・成人のための講座、・動物学中心のカリキュラム、・臨海実験所などの施設による「自然自身によって教える」学習、・非ダーウィン的進化論、・ベイリイにいたる自然学習の系譜、の5点にまとめて、その特徴としている。ここに、真の大学拡張事業と学問の民衆化を、氏は見だしている。

 第2期(1890~1896) 1893年に「エディンバラ夏期集会」名称が採用されたこの7年にわたる充実期に、カリキュラムはしだいに、自然・社会・人文の各領域に拡大充実していき、会場は、臨海実験所から、大学・展望塔へ移行し、海外から多数の著名な研究者たちが招かれるようになる。「高等教育における実験的学習」という性格づけがなされ、既存の大学カリキュラムへの批判と新たなカリキュラムの編成原理がつくられる。それは、小学校教育における地理教育改革とも連動し、同時に、生物学教育の改革にも裏打ちされるものであった。「現代の社会進化」が主題にせりあがり、「自然科学と社会科学」の総合がカリキュラムの中核に位置するにいたるのである。ハーバートソンによって講じられたフォース湾地域の地域地理学の講座はその一典型であった。また、1894年集会に登場した、ゲディス、ルクリュ、ハーバートソン三人による連続講座「都市の進化」こそは、後年『進化する都市』(1915)に結実するゲディス思想の体現であったろう。フランスの地理学者ルクリュとの国際的交流も、ゲディス研究に大きな意味を持つと、氏は述べている。

 こうして、中心テーマとして地域の歴史と社会現実の関係を<社会進化の研究>とまとめた夏期集会も、第10回(1896)を境に、資金援助面から縮小期を迎えて、大幅に変質し、20世紀には衰退の様相を呈するようになる。また、ゲディスの志向も、外国の研究や、『進化する都市』のまとめに傾斜していき、成人教育への集中にかげりが見えるようになっていく。

 同じ時期、子ども・青年の定型学校教育へもゲディスは深い関心を払っていたことを、本論文は述べている。とくに、小学校教育における自然学習運動への積極的な関与、ダンファームリン大学での教師の再教育のための「UCD夜間植物講座」、スコットランド各地での自然誌協会活動、アメリカ自然学習運動との出会いの中でのパーカー、デューイとの接触から、ゲディスが到達したのは、「子どもと環境」の教育への実践的介入の教育論であった。

 ・において、安藤氏は、ゲディスの教育実践が、子ども、青年、成人の全面にわたる生涯学習の原型であった点に注目して、
 (1) 「環境」という多面的な人間の生活の問題を人間の生涯にわたる学習の課題として定位したこと、
 (2) 「環境」を植物学、地理学、社会思想の三つの面から学際的にとらえる方法論を定立したこと、
 (3) 「環境」についての学習にあたって、観察・観測・調査という教育の新しい方法を探究したこと、
 (4) 「環境」学習についてのシステムを、たとえば「展望塔」を中軸とするネットワークとして構想したこと、
 (5) 「環境」問題をとりわけ都市問題の中にみいだし、都市計画という実践的、政策的な着眼点を明示したこと、
等の諸点から、環境教育の始原を開拓したパイオニアと位置づけたのである。

 結論:以上の分析によって描き出したゲディス像は次のような特徴を有している。

 第一に本稿では、ゲディスが基本的にはスペンサー主義者であると同時にラスキン主義者である存在として理解されている。通常ならば緊張をはらむそうした二人の相異なる影響を同時に彼が受容したのは、彼にとって両者は人間と環境との相互作用を重視し、しかも高度に発達した人間は環境の質を問題にするという点で同じ見解に立つ存在であると理解されたことによるものである。こうした認識は、近年の19世紀末の進化理論の捉え直しと、そこから派生する進化理論と社会理論との関係の再検討作業によって支えられたものである。

 第二に、以上のような基本的な見解に立って、これまで多くの研究者たちの共通理解となってきた「ルプレイ主義者」ゲディスの像を洗い直してみると、彼自身がルプレイやその学派の理論を重視するようになるのは、ドゥモランと頻繁に交際し始めた1890年代以降であることが明らかとなる。人間と環境との相互作用を重視するルプレイ(学派)の議論がスペンサーやラスキンと共通すると思われたのみならず、そこには後者二者にはない実証性、すなわちモノグラフィー論や地域調査論が存在していたことが、生物学の実験科学化になじめず、フィールドサイエンスとしての自然誌の伝統に固執していた彼にふさわしかったのであった。

 第三に、ゲディスは以上のような認識にもとづいて、「環境に対する作用」を行い、また「環境認識や環境技術の共有化」を試みた。とりわけ注目すべきことは、後者の作業において彼の作成するカリキュラムの中に次第に「地域調査」と「仕事の教育」、すなわち<場所-仕事-人間>というテーマが現れてくることである。

 第四に、以上のようにゲディスを分析するとき、彼が言わば<場所-仕事-人間>というシェマの3重構造になっていたことが分かる。すなわち、それは彼のライフスタイル、認識、カリキュラムという三つの位相において一貫したモチーフを形成していたのである。

 <人間-環境>系のライフヒストリー分析によるこうした新たなゲディス像によって、ヘレン・メラーの指摘したゲディスにおける「困難な葛藤」とか「ジレンマ」は、非ダーウィン主義的進化論とラスキン文化論とを基礎とし、さらにそこにルプレイ派の影響を受けた社会進化論と人間進化論とを不離不即のものとみる独特の ― しかし十分に時代の思想的コンテクストに埋め込まれた ― 思考の形であることが明らかとなった。そしてまた、同時にゲディスにあっては「環境の知覚」と「環境に対する作用」と「環境認識と環境技術の共有化」とが不可分一体のものであったと認識する我々は、「環境の知覚」と「環境に対する作用」のみならず、「教育」という人間形成の新たな様式へのコミットメントという形で表された「環境認識と環境技術の共有化」をも分析することによって、ウィーラーが提起した「ゲディスの教育に対する遺産の解説」をも十分行ったものと考える。


三、本論文の成果と評価

(1)本論文の最大の成果は、グラスゴウのストラスクライド大学に収められたゲディス文書をはじめ、先行する研究者たちがほとんど利用していない書簡や講義要綱などの一次資料を渉猟し、それらを縦横に利用することによって、日本においてはもちろん、世界的に見てもまだ十分に明らかにされていないゲディスの実像を、きわめて細密に描き出した点にある。

 とりわけ、これまで異なる分野からばらばらに切り取られてきたゲディスの学問と実践を、「環境についての知覚」「環境に対する作用」「環境認識と環境技術の共有化」という統一的な枠組みを用意することによって、一つの全体像としてまとめ上げた点は、安藤氏の卓抜した能力を十分に証明してあまりある。このことは、<人間-環境>系という切り口を設定したことの最大の成果といってよい。

(2)また、本論文は、環境教育の成立(前)史を明らかにする試みとしても、高く評価することができる。<人間-環境>系という問題設定からゲディスのライフヒストリーを捉え直す本論文の試みは、つねに現場で環境と教育の接点を考え続けたゲディス自身の取り組みに導かれながら、結果的に、環境教育を考える際に必要となる研究者・実践家のスタンスの原型を提示していると考えられる。もちろん、安藤氏はゲディスの限界を指摘することも忘れていない。たとえば、ゲディスは労働者階級と多くの対話の機会を重ねたものの、その経験を自己の思想形成の中で十分生かし切ることができなかった。こうした批判的な指摘も含め、環境教育の充実に向けた今後の取り組みに対して、本論文のもたらした成果はきわめて大きいというべきだろう。

(3)本論文の中で安藤氏は、多くの注目すべき発見を行った。アガシとゲディスの自然学習の類似性の析出も、その一例である。さらに、ゲディスとエリゼ・ルクリュとの対比も実に興味深い。両者の活動と直接的および間接的な関連とを丹念に紐解くことによって、ルクリュとのかかわりが『進化する都市』に結実するゲディスの思索の展開に弾みをつけたことが知られる。

 環境教育にかかわる研究を行う人々の間にこれまでこうした対比を試み、ある時代の研究者や活動家の世界的なつながりを明らかにした者がほとんどいなかったというだけでなく、安藤氏は同時代人の思想と活動の比較という方法によって、ゲディスの発想の特徴を浮上させるとともに、かれらの共通点の析出を通じて時代の雰囲気を伝えつつ、かつ環境教育の基底をめぐる重要な示唆を導き出すこととなった。

(4)しかし、問題点がないわけではない。第一に、本論文において安藤氏は、ゲディスのふところ深く入り込むことによって彼の思想を体系的に描き出すことに成功した反面、その思想をより広い歴史的・社会的文脈の中に批判的に位置づけていくという点では、なお若干の課題が残された。たとえば、当時の英国において<人間-環境>系じたいを再生産する上で、多大の影響をもったはずの帝国主義の位置づけなどがそれである。しかし、これらの点への言及が手薄になったのは、安藤氏の問題というよりも、むしろ第一義的にはゲディス自身の限界というべきだろう。

(5)問題点の第二としては、論文構成が結果的に多少アンバランスになったことを指摘できる。「環境についての知覚」を論じた第一部、「環境認識と環境技術の共有化」を論じた第三部のすばらしい充実ぶりと比較すると、「環境に対する作用」を論じた第二部が分析としてやや物足りないように思われる。この点は、本論文が直接対象とはしなかった1905年以降のゲディスの活動の分析と合わせ、今後の研究のなかで、さらに展開されることが期待される。

(6)しかし、こうした問題点は、本論文が最初に設定した課題をすでに越えるものであり、安藤氏自身もまた問題点の存在については十分認識している。したがって、これらの欠点は、本研究の意義をいささかも減ずるものではない。

 活動がきわめて多岐にわたり、また思想内容も難解といわれるゲディスを対象に、このような質量とも他を圧する成果をあげた安藤氏の博学さと努力には、審査員一同は率直に敬意を表したい。ゲディスの深い読み解きが、独自の、しかもこうした研究にふさわしい論調、文体を醸成することになったことも見事である。


四、結論

 審査員一同は、上記のような評価と、口述試験の結果にもとづき、本論文を学位請求論文にふさわしい学術的水準をもつものとみなし、安藤聡彦氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。

最終試験の結果の要旨

1998年3月2日

 提出論文「都市のナチュラリスト・ゲディス <人間-環境>系のライフヒストリー分析試論 」に関し、1998年2月4日、審査員は安藤聡彦氏に対する口述試験を行い、逐一疑問点について説明を求めた。安藤氏はこれらの質疑に対し審査員を納得させる回答を与えた。同日行われた外国語能力に関する口頭試験とあわせて、審査員一同は安藤聡彦氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのにふさわしい学問的能力をもち、かつ業績をあげたと判断した。

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