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博士論文審査要旨

論文題目:家族・ジェンダー・企業社会 ― ジェンダー・アプローチの模索 ―
著者:木本 喜美子 (KIMOTO, Kimiko)
論文審査委員:矢澤 修次郎、浜谷 正晴、渡辺 治

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 本学位請求論文は、「他の先進工業諸国に比して家族の相対的安定性がみられるのは何故か」との問題を、ジェンダー・アプローチの到達点からえられた理論を用いながら、現代日本の家族と<企業社会>の相互関連構造を解明することによって解こうとした、意欲的な労作である。本論文の構成は、以下の通りである。

はしがき ― 本論文の問題関心
第1部 「家族の危機」と家族研究
 第1章 「家族の危機」と家族社会学
 第2章 ジェンダー・アプローチによる家族研究
第2部 現代家族論の諸相
 第3章 マルクス主義フェミニズムの家族論
 第4章 「家族賃金」という観念と現代家族
 第5章 生活変動のなかの現代家族
 第6章 <主婦の誕生>と家事
補論1 家事と女と男と「愛」
第3部 家族と<企業社会>
 第7章 家族と<企業社会>という視角
 第8章 家族と<企業社会>の現在
補論2 家族の物質的生活基盤と企業内統合

 以上の構成に従って、まず本論文の概要を紹介する。

 第1部は、現代を「家族の危機」の時代ととらえ、その意味を明らかにしながら、家族研究の現代的課題を把握しようとしたものである。第1章「『家族の危機』と家族社会学」では著者は、現代日本における家族の現状を、家族の実態的変化に促されて生じる既存の支配的家族モデルに対する危機意識という視角から考察し、家族社会学研究の課題を検討した。著者によれば、欧米では、「家族の再定義」が要請される程家族の変容が進行し、従来の家族認識の枠組みと方法の革新が要請されている。これに対して日本では、欧米の現状とはかなりの距離がある。以上の現実認識を踏まえて著者は、それは、経営主導型の競争秩序が社会全体をおおっている企業中心社会=<企業社会>のもとで家族が担わなければならない役割に深くかかわっているとの仮説を立てるとともに、日本の異なる歩みかたにもかかわらず、語られ始めた日本における「家族の危機」的諸相の解明のために、家族研究の方法的革新、家族の歴史変動過程を念頭において現代家族の基本的特性を把握することが重要な課題である、との問題提起をおこなっている。

 つづいて第2章「ジェンダー・アプローチによる家族研究」において著者は、家族研究の方法的革新の中身として、フェミニズム理論に基づくジェンダーという視角の家族論への導入を提起する。ジェンダー・アプローチを用いる基本的問題意識は、既存の家族論が家族変動に対する理論的射程が狭く、家族と社会とを切り離し、女性と男性に求められるジェンダー役割を不変のものとみなしているとの認識であり、それらを根本的に克服する方途を模索することにある。

 著者は、ジェンダー・アプローチによる家族論が、家族の社会史研究をジェンダー・アプローチの立場から摂取し、展開することによって、近代家族論の内実を深めつつある様相を詳述している。すなわち、ジェンダー・アプローチによる家族論は、従来の家族論が普遍的な家族として暗黙の前提としてきた家族が、近代資本主義社会とともに成立をみた歴史的産物であることを明らかにした。また性別分業によって割り当てられた女性役割としての家事・育児という領域がいかにして成り立ち、それに端を発した固定的な女性イメージと役割規範の形成がどのように進行したのかを解明した。そしてそれらが相俟って作られる「近代家族」に固有の女性抑圧の論理と構造を摘出している。そればかりではない。その家族論は、こうした家族内の女性役割と、これをとりまく外部環境との相互作用を問題とし、女性と家族との関係の仕方を媒介とした社会的地位と処遇をめぐる男女間の不平等という問題をも見通しているのである。

 第2部は、現代家族の基本的性格を理解するために、従来の家族論を批判的に検討し、歴史的変動過程における現代家族の位置づけを試みたものである。第3章 「マルクス主義フェミニズムの家族論」は、ジェンダー・アプローチを導入しないマルクス主義家族論の弱点を明らかにし、それを克服す方向性を模索したものである。ここでは、家族を本源的な人間的共同体と把握する伝統的なマルクス主義家族論の共同体アプローチの家族論が徹底的な検討にかけられている。なかでも重要な論点は、従来のマルクス主義家族論が、エンゲルスの家族論を、家父長制が近代社会にとって不可欠の随伴物として新たに再生産されたことに対する認識が希薄であるというその弱点をも含めて継承してしまったために、近代固有の性差別の問題を視野から欠落させてしまっているのではないかとの指摘である。

 伝統的なマルクス主義の家族論は、近代家族における家父長制をも伝統的家父長制の延長線上においてのみ把握し、「ブルジュア単婚」と「プロレタリア単婚」とを区別し、後者を本源的な人間的共同体と捉え、その進歩性を主張した。それでは、性別分業を内蔵する「近代家族」が当初は中産階級の家族を担い手としながらも、そのための物質的な基盤を欠いているはずの労働者家族にも波及したという問題を解明することはできない。従って、それは現代の家族論としては不適格と言わざるを得ない。そこで著者は、マルクス主義家族論を踏襲しつつ、その欠点をジェンダー・アプローチから再構築しようとするマルクス主義フェミニズムの家族論を展開する道を選択する。そして労働者家族の内部に何故「家父長制」が内蔵され続けているのかという問いに対する回答を「家族賃金」という観念が果たした役割に求めようとする。

 第4章「『家族賃金』という観念と現代家族」は、イギリスを中心とした「家族賃金」観念をめぐる研究を詳細に検討し、この観念を媒介として中産階級の家族モデルを受容した労働者家族における矛盾の析出過程を考察したものである。著者によれば、「男性のひとりの稼ぎで家族が養われるべきである」という「家族賃金」という観念は、現実の賃金そのものというよりははるかに広い概念であって、社会諸制度と密接にかかわりあう社会意識の一形態である。そしてこれまでの歴史研究によれば、男子労働者の最低賃金が妻の扶養費をも含むという観念は、19世紀になってはじめて一般化したのであって、それは資本主義の要求であると同時に、組織労働者が自分たちの利益にかなうものとして選択、支持したものである。それにもかかわらずこの観念は、現実性に欠ける理想像であった。何故ならば、男性の単独稼得によって「家族賃金」を満たしうる賃金水準に実際に到達できたのは、労働者家族のうちの限られた階層に限定されていたからである。さらに、労働者家族の既婚女性の多くはなんらかの形で働かざるをえなかったが、労働運動における「家族賃金」キャンペーンの結果として、「低賃金」「不安定な職種」に追い込まれていった。労働者家族に生活水準の向上と性別役割分業がもたらされたのは、実質賃金が上昇した19世紀の後半以降のことであった。

 それでは、19世紀末から20世紀初頭にかけて社会通念になったこの観念が、現代社会において強力な影響を与え続けているのはどうしてなのか?この問いに対する回答を求めて著者は、欧米で展開された、その回答を労働者階級の男性が自らの利益擁護のために女性の労働市場からの排除を選択したことに帰す立場(家父長制第一主義)と、労働者家族の男女の要求に求める立場(階級第一主義)との間の論争をトレースした。その結果著者は、後者の立場にたち、その観念が歴史的事実としてどのように受け入れられ、定着してきたのかを、労働者階級と中産階級との関係をめぐって、後者の文化的ヘゲモニーが確立し、前者に受容されるプロセスとして把握しようとする。そしてその作業の具体化のために、「ブルジュア家族モデルの奨励過程」を、労働者階級の「女性の世界」という視角を導入して解明しようとしているジェーン・ルイスや、国家によるこのモデルへの誘引、正統化に着目するエリ・ザレツキーの試みを、検討している。結局のところ、著者は以上のようなプロセスの到達点に、性別分業の固定化構造と家族間の闘いにもとづく自立自助の達成とが、今日の労働者家族の肩に課せられている様を見て取っている。

 第5章「生活変動のなかの現代家族」で、著者は、生活問題研究における「世帯」から「家族」への方法的視角の転換過程を吟味しつつ、近代家族に刻印された二重の不安定性という観点から、現代社会が直面する「家族の危機」の歴史的意味を照射している。高度経済成長期の後半から低成長期に入って以降の生活問題は、貨幣的(経済的)要因のみに還元できない様相を帯びるようになり、家族運営能力や養育・扶養能力の一般的低下、生活・消費行動の個人別化の進展など、家族の内部的な構造や関係性を経由して起こる生活問題が社会階層による差異を超えてたち現れてきた。家族と個人の対立を含むこうした「個別生活単位の動揺」は、大衆消費社会の進展がもたらしたものであり、「一世帯一家計」という構造そのものが崩れてきたことを意味している。しかるに、個人別行動が拡大した現代家族にあっては、共同行動が減少することによって家族の絆の相対的弱化が起こりがちであるものの、他面では、家族員一人ひとりの自立化の契機を生かしたうえでの新たな共同的関係を形成しうる基盤が与えられつつあると考えることもできる。

 近代家族は、 経済的生活単位としての自立性が動揺しやすいという点からも、また 家族内の関係が情緒に依存しているという点からも、二重の意味で不安定性が刻印されている。現代社会にみる「家族の危機」的現象も、このような近代家族の不安定性の顕在化によって発生したものであるとすれば、「家族の危機」は、近代家族がくぐり抜けざるをえない必然的な過程であり、これを経過することによって新たな見通しを得る可能性のある転換点として、位置づけることこそ肝要なのである。

 つづく第6章「<主婦の誕生>と家事」は、家事の誕生=主婦の誕生という歴史的経過をもって、近代社会を一挙に批判し去ろうとする現代フェミニズムの論理(伝統的家父長制の過小評価)に疑問を投げかけるとともに、家事領域の歴史的形成の意義とその担い手問題とを分析的に区別してとらえる視角を提起したものである。「矛盾をかかえつつ刻まれていく歴史をトータルに把握する」という観点に立って、著者は、家事という領域の誕生は、乳幼児死亡率の上昇をくいとめ、家庭に生活文化をもたらし、衛生思想を庶民にももたらしたという点で画期的な意味を随伴していたのであり、それによって、近代以降の人間たちは、ぎりぎりの人間的生存を支える砦という家族観から、より理想的な人間的共同生活体としての結束や家族関係、それを支える生活文化と役割配分などに思いをめぐらすことが可能になった点を重視すべきであるとする。

 そのうえで著者は、<主婦の憂鬱>が顕在化し、男女の役割配分が問題意識にのぼっている現代、 女性運動が男性を含めた人間としての「自立」を探り、「個人」概念の豊富化への歩みを触発する課題を背負っていること、 <いのちと暮らし>にかかわる社会運動もまた男性の主婦役割へのめざめを促す契機を模索する段階に入ったことを示唆する。現代はまさしく、担い手問題の解決をめぐる問題意識が、ようやく現れてきた段階であり、シングル男性が主婦役割をこなすことも、近代社会が切り開いた生活文化の一ジャンルとして家事を男女ともに楽しむことも可能な時代の入口にわれわれは立っている。こうした動向がマジョリティのものとなる過程で、性別分業を組み込んで成立した都市的生活様式が唯一の「幸福な生活像」なのかという視点から問い直され、その再編成の方向性が模索されることになる。補論1はこの「せめぎあい」の現実的過程を追ったものである。

 第3部は、現代日本の家族の特殊な態様の根拠を、日本に特殊な企業社会との関係で考察を試みた部である。第7章「家族と〈企業社会〉という視角」において著者は、日本の家族が、欧米において近代家族のあり方に対する意義申し立てが続出しているのに反して、表面上安定性をもっている根拠はなにか、という問題に迫る鍵として企業社会論の成果に注目する。ここで著者は企業社会論に広狭二義のそれがあることに注目する。狭義の企業社会論とは、日本企業の特殊に強力な労働者凝集力を経営主導の競争秩序の求める議論であり、広義の企業社会論とは、そうした企業秩序が社会全体に浸透し社会を掴む結果、日本社会の特殊な相貌を成り立たせていることを主張する議論である。こうした企業社会論、とりわけ広義のそれは、日本社会の家族や子供、教育のありようの根拠を説明する議論として、大きな意義を持っていることを承認したうえで、著者は、この企業社会論が描く家族像が、もっぱら企業社会に組み込まれ、犠牲となり、解体を余儀なくされるという像として析出されていることの一面性を批判し、現代日本の家族が外見的な安定を保持していることを説明できないとする。こうした欠陥は、企業社会論がもっぱら企業社会の側からのみ家族をとらえ、家族の領域をそれとして考察することを放棄しているからだと批判する。かかる批判の上に立って、著者は、〈家族と企業社会〉というアプローチを採ることを提唱する。これは家族が、企業社会という外部環境をどう受け止め、いかなる対応をしたか、またそれは家族構成員の位置によっていかなる違いをもたらしているか、というような家族と企業社会の相互浸透を重視する視角である。

 第8章「家族と〈企業社会〉の現在」と続く補論2「家族の物質的生活基盤と企業内統合」の二つの章は、こうして著者の提示した〈家族と企業社会〉アプローチにもとづく実証研究である。両論文とも、トヨタ自動車の労働者の労働実態に関する共同研究の一部としてまとめられてものであるが、まず第8章では、トヨタの労働の特徴が、省人化体制による極端な過密労働、長時間労働、労働の不規則性の三点において指摘され、それに加えて「自主改善運動」と集団的指導力育成のための諸行事への参加を主とする労働能力育成の特殊なシステムが摘出されている。続いて、こうした企業社会の労働と家族を媒介する環として、トヨタの賃金が検討され、トヨタの相対的高賃金、とりわけ、持ち家制度を中心とした企業内福利厚生が析出される。これらが、大企業労働者の勤労意欲と競争への主体的参加を促す鍵をなすものであるが、同時に著者はこの相対的高賃金が家族の物質生活基盤を確保させ、夫=父親の長時間労働による不在の常態化を受容させる根拠となっていることを明らかにしている。すなわち著者は、トヨタ労働者からの面接調査の検討から、トヨタ家族の多数が夫=父親不在の常態化を積極・消極受け入れている様を明らかにし、それを踏まえて、日本の家族が、家族生活の物質的基盤の安定的確保と引き換えに家族一丸となって企業社会の価値規範を受容していること、その結果、夫=父親は、労働に耐えて昇進競争を勝ち抜くことに自分自身の役割を「特化」し、また家族員の方もそうした特化を受容する構造があるというのである。かくして、家族は、企業社会の論理に巻き込まれつつそれを下支えしている。これが、日本の近代家族の外見的安定性の根拠であると著者は結論する。続いて、著者は、かかる安定性を誇る家族像こそ、日本型近代家族であるとし、こうした日本型近代家族像は、第一次世界大戦後の俸給生活者層の中に芽生えながら、戦後改革を経て、企業社会成立とともに形成をみたと主張する。そして、この近代家族像を支えたのが、企業社会の採用した年功賃金制度や企業内福利であり、これが「家族賃金」観念を定着せしめた。この賃金体系と企業内福利厚生が企業社会への家族の従属化を促すとともに、これが、マイカーやマイホームに象徴される多消費型家族モデルである日本型近代家族モデルの物質的基盤となり、このモデルを浸透普遍化させる動因となったのであると。その上で著者は、かかる日本型近代家族が今後女性の労働市場への参加の増大によって徐々に近代家族を動揺させる可能性のあること、第二に企業社会が家族の質的関係をカバーしえないところから変容の可能性を指摘している。

 補論2は、トヨタ労働者の家計を素材にして、前記の分析を補完する家族の物質的基盤の内実を検討している。まず著者は、トヨタへの入職の差異によって企業内人生での昇進コースが決定的に異なることから、家族生活基盤の物質的基盤確保にも差があらわれざるを得ないことを指摘する。続いて、著者は、トヨタの若年既婚労働者家計の分析から、トヨタの相対的高賃金が、残業による超過勤務手当てに支えられているため、労働者は家計補充のため残業を拒否できないこと、また残業時間のばらつきから、妻の就労に依存せざるを得ない比率が他の大企業に比べ高いことを指摘する。続いて、著者は、マイホーム取得、子供の教育費、老後という家族の三大課題の達成を検討し、トヨタの場合、マイホーム取得の年齢の早いこと、また教育費用支出が大きいこと、そのかぎり大企業労働者家族の優位性があるが、その反面マイホームの資金借り入れの返済のための妻の労働者化の比重の高いこと、老後の備えのための貯蓄が過小であることなど、大企業労働者の家族生活の物質的基盤の形成過程における特有の構造を析出している。

 以上のように、本論文は、現代日本の家族の解明という明確な問題関心のもとに、既存の理論を網羅的に検討し、研究の方法的視座の確立をめざした、きわめて野心的な労作である。

 本論文の第一の成果は、既存の家族社会学、労働社会学、マルクス主義、フェミニズムの諸研究を批判的に検討することによって、現代家族の諸相を解明する方法を提示しえたことにある。とくに本論文が、従来の家族研究が各学問領域の接点に位置していたが故にもたざるをえなかった視野の狭隘性と限界とを明らかにし、家族を労働社会の構造との関係でトータルに解明することを目指したマルクス主義の家族論がそれを有効になしえなかった理論上の要因を析出するとともに、ジェンダーアプローチによる家族研究の再構成という方法をうちだしている点は、極めて説得的である。

 第二の成果は、変貌しつつある近代家族の成立を解明すると同時に、戦後日本における日本型近代家族の形成を解明する上でも基軸的な概念である「家族賃金」観念を析出したことである。論文が、「家族賃金」観念の形成を理論的に整理、提示する中から、「家族賃金」が、労働者家族にも浸透普及することによって近代家族が成立しえたこと、また現代日本においては、この家族賃金観念の日本的現実態としての年功賃金・企業内福利が、日本型近代家族の成立の梃子となったことを明らかにしえた点の意義は大きい。

 第三の意義は、現代日本の家族の特殊な安定性を解明する視角として、企業社会論と家族論を接合した、家族と企業社会アプローチを提唱し、一定の実証を行ったことである。これは、外的環境をブラックボックス化してしまいがちな伝統的な家族研究からも、逆に家族をブラックボックスにしてしまう企業社会論からもでてこない、家族と企業社会の構造連関の把握を目指す著者の立場から初めて生まれる成果であろう。

 もっとも著者が設定した家族と企業社会の構造連関が十全なる形で解明され尽くしたわけではない。著者は本論文においてはあくまでも近代家族に議論を限定しており、それ以前の伝統的家族とは如何なるものであり、それがいかなる要因と関連しながら、どのように近代家族へと変容していったのかに関しては論じていない。この点が論じられなければ、著者の設定した課題は完全な形では達成されないであろう。また、家族と企業社会アプローチについても、この分析の基軸が民間大企業労働者家族におかれることは当然であるにしても、労働者層の多数をなす中小企業労働者家族や農業、自営業の家族と企業社会との連関の分析も今後に待たれる。しかし、これらの諸点は、著者自身も十分に自覚している。

 このように今後に期待される課題がないわけではないが、本論文は多数の家族史、労働史、ジェンダー論、フェミニズム論関係の資料や研究書を渉猟し、また地道な実態調査をおこなって、家族と企業社会の構造連関の研究に新たな地平を切り開いた意義は高く評価することができる。よって、審査員一同は、本論文が一橋大学大学院社会学研究科における社会学博士の学位を授与するに相応しい業績と判断するものである。

最終試験の結果の要旨

1997年6月11日

 1997年6月2日、学位論文提出者、木本喜美子氏の試験および学力認定を行った。

 試験においては、提出論文「家族・ジェンダー・企業社会ージェンダー・アプローチの模索」に基づき、審査員一同から逐一疑問点について説明を求めたのにたいし、木本喜美子氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規定第四条3項に定める外国語及び専攻学術に関する学力認定においても、木本氏は十分な学力を持つことを立証した。
 以上により、審査員一同は木本喜美子氏が学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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