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博士論文審査要旨

論文題目:近代日本陸軍動員計画策定史研究-近代日本の戦争計画の成立-
著者:遠藤 芳信 (ENDO,Yoshinobu)
論文審査委員:吉田裕・坂上康博・石居人也

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一、 本論文の構成

 本論文は、戦時編制概念を中心にしながら、近代日本における戦争計画の歴史的成立を主として軍制史的側面から解明したA4×700枚を超える大作である。論文構成は次の通り。
 
  序論 本論文の目的と研究主題

  第一部 平時編制の成立と兵役制度

 第1章 鎮台設置下の平時編制の第一次的成立
 第2章 1873年徴兵令の成立―徴兵制の過渡期的施行(1)―
 第3章 西南戦争前後の壮兵の召集・募集と解隊―徴兵制の過渡期的施行(2)―
 第4章 1880年代の徴兵制と地方兵事事務体制―1889年徴兵令改正と中央集権化―

  第二部 対外戦争開始と戦時業務計画―出師・帷幄・軍令概念の形成と統帥権の集中化開始―

 第1章 台湾出兵事件前後における戦時業務と出師概念の成熟
 第2章 1878年参謀本部体制の成立
 第3章 西南戦争後の陸軍会計経理の攻防と軍備増強策
 第4章 1882年朝鮮国壬午事件と日本陸軍の動員計画―壬午事件に対する陸軍省・参謀本部・監軍本部・鎮台の基本的対応―
 第5章 軍備拡張と出師準備管理体制の成立萌芽
 補論 1889年内閣官制の成立と「帷幄上奏」

  第三部 戦時編制の成立と出師準備管理体制

 第1章 1885年の鎮台体制の完成―出師準備管理体制の第一次的成立―
 第2章 戦時編制概念の転換と1888年師団体制の成立―出師準備管理体制の第二次的成立から第三次的成立へ―
 第3章 1893年戦時編制と1894年戦時大本営編制の成立―戦時編制概念の第二次的転換と動員計画管理体制の第一次的成立―
第4章 動員実施と1894年兵站体制構築―兵站勤務令の成立と日清戦争開戦前までの兵站体制構築―

  第四部 軍事負担体制の成立

 第1章 徴発制度の成立
 第2章 軍機保護法の成立と軍事情報統制
 第3章 要塞地帯法の成立と治安体制強化
 補論 近代日本の要塞防禦戦闘計画の策定―1910年要塞防禦教令の成立過程を中心に―

  結論 本論文のまとめと課題

二、本論文の概要

 第一部は、戦時編制の基礎となる広義の平時編制の成立について、1871年設置の鎮台を中心に考察したものである。第1章では、非常時における地方行政機関の自主的武装の禁止、銃砲管理統制政策の強化などを明らかにしつつ、鎮台の兵力の算定基準が歩兵内務書の規定に準拠していることを論証している。第2章では、徴兵事務に必要な費用(徴兵入費)の負担をめぐる陸軍省・大蔵省・内務省間の対立に注目し、配賦徴員の送り届けが自治体の自己責任にされてゆく過程を明らかにしている。同時に、徴兵入費の民費負担は徴兵の基礎となる徴兵連名簿の作成に際して、郡区町村の側が実質的には大きな権限を与えられることを意味し、結果的には帳簿上の徴集可能人員数の過少化という事態をもたらし、徴兵事務を混乱させたとする。第3章は、初期徴兵制の過渡的性格を示す事例として、和歌山県を取りあげ、西南戦争前後における壮兵の募集問題を分析している。第4章では、1880年代の徴兵制と地方兵事事務体制の関係を解明するため、末端自治体における戸籍の調製・管理と徴兵関係の名簿調製との関係などに焦点をあわせて、徴兵入費が官費化される過程を克明に論証している。筆者によれば、「天皇の軍隊」を支える地方兵事行政体制が完成するのは、1889年の徴兵令改正によってであった。
 第二部は、対外戦争を支える戦時業務計画の成立過程を跡づけながら、統帥権が強化される一方で、出師・帷幄・軍令など、動員計画策定にかかわる諸概念が萌芽的に形成されることを明らかにしている。ただし、この段階では、戦時業務は平時業務の延長線上に位置付けられており、動員計画や戦時編制などの概念は未だ明確ではないとされる。具体的にみてみると、第1章は、1874年の台湾出兵、1875年の江華島事件などへの対応を通じて、「天皇帷幕」という概念や大本営構想が出現し、あわせて1877年頃までには、戦時会計経理体制も整備されていったことを明らかにしている。第2章は、1878年の参謀本部設置、1879年の鎮台条例改正、1881年の戦時編制概則の制定などを通じて、出師・軍令・帷幕の概念が形成される過程の分析にあてられている。第3章では、西南戦争後の緊縮財政下における東京湾防禦砲台建築問題が取りあげられる。1881年制定の会計法によって、陸軍の会計経理も国家の会計法体制の中に組み入れられるが、その枠組みから自立しようとする動きが陸軍の中からしだいに現われてくる。本章は、砲台建設問題をめぐる陸軍省と大蔵省の攻防を中心にこの問題を考察している。第4章は、1882年の壬午事件に関する、動員という視点からの分析である。この事件では、準戦時大本営的体制が立ち上げられるとともに、第六軍管下では、予備軍の召集と旅団編成が行われた。また、新聞報道の統制が実施され、日本人死亡者は「戦死者」として靖国神社に合祀された。第5章は、1882年から始まる軍備拡張期の考察である。この時期は、軍備の量的拡大が行われただけでなく、戦時を想定して軍隊が改編され、出師準備管理体制が萌芽的に形成された時期でもあった。戦時6個師団編成体制の整備、1884年の鎮台出師準備書の制定、各鎮台における出師準備計画の策定等々である。最後の補論では、1878年の参謀本部の独立問題が取りあげられ、これが直ちに「兵政分離」や「統帥権の独立」を意味するものではないとされる。
 第三部は、1893年の戦時編制(令達文書)制定、1894年の戦時大本営編制の制定に象徴されるように、この時期に、戦時を「正格」とし平時を「変格」とする戦時編制概念の転換が行われたことを明らかにしたものである。第1章は、1885年の鎮台条例改正に関する考察である。この改正によって、鎮台は、出師準備をも視野に入れた各軍管の「鎮台司令部」としての性格を明確にした。また、同年には参謀本部に出師計画を主管する第一局が設置されるなど、出師準備管理体制が本格的に整備された。第2章は、師団制への移行に関する分析である。1888年の鎮台の廃止と師団制への移行は、戦時編制概念の転換を伴うものだった。すなわち、戦時編制とそれを充足する兵員数を基礎にして、平時兵員数を算出し平時編制を策定するという論理への転換である。また、この時期、1890年の徴発事務条例改正や、1891年の野外要務令の制定などによって、出師準備管理体制は一段と強化された。さらに、日清戦争前の一連の法令改正によって、陸軍が軍備維持経費と出師準備品に関して、委任経理を含む特例的な会計経理を認められたことも、軍の自立化という点で大きな意味を持った。第3章は、1893年の戦時編制制定と1894年の戦時大本営編制制定に関する考察である。それは、すでに述べたように、戦時編制概念の転換を象徴する出来事であると同時に、「帝国全軍構想化路線」が本格化したことを意味していた。筆者によれば、「帝国全軍構想化路線」とは、天皇中心の復古的な「中央集権体制のもとに、陸海両軍の統帥系統を陸軍主導のもとに一つにまとめて立ち上げられる全軍統帥を構想化」する路線である。第4章は、日清戦争の開戦までの時期に一応の整備が進んだ陸軍の兵站体制に関する分析だが、その体制の基本を定めたのが開戦直前に制定された兵站勤務令である。筆者は動員実施の過程をも視野に入れながら、陸軍の兵站体制の特質を浮き彫りにしている。
 第四部は、国家が国家主権による公法上の義務として、一般の国民に強いる軍事負担についての考察である。第1章は、1882年に制定された徴発令の分析にあてられている。同令制定の過程を追いながら、筆者は、日本の徴発令は、封建的な賦役の性格が色濃く、近代的な財産権・所有権に対する認識が希薄であったと結論づけている。第2章は、軍機保護法(1899年制定)に関する分析である。制定の前史にも目を配りながら、同法制定の背景には、軍による軍事情報の独占という思想が根強く存在したとする。その結果、一般の国民も軍事に関する正確な情報や知識を持つことができず、戦争や軍隊に対する冷静で批判的な分析が困難になった。第3章は、1899年制定の要塞地帯法の分析を中心にして、要塞建設の軍事史的分析だけでなく、要塞の建設が国民に強いる軍事負担の諸相を多面的に明らかにしたものである。とりわけ、要塞地帯法が、軍事負担だけでなく思想的義務負担をも国民に強いるものであったことを明らかにしている点は興味深い。なお、第四部の補論では、近代日本における要塞防禦戦闘計画の歴史と特質が詳細に分析されている。


三、本論文の成果と問題点

本論文の成果は次の通りである。第一に、軍事関係公文書の保存・保管体制が整備される以前の膨大な量の陸軍省大日記の中から、動員(出師)や戦時編制に関する重要史料を収集・分析した労作である。明治初期の雑然とした史料群から、特定の史料を探し出すのは、至難の業であり、三十数年にわたって、ひたすら陸軍省大日記の分析に取り組んできた筆者にして、初めて可能な研究である。また、『太政類典』などの国立公文書館所蔵史料、国立国会図書館憲政資料室所蔵の政治家・軍人の個人文書などにも幅広く目を通していることに、あらためて驚かされる。第二に、戦時編制の概念が明確でなかった明治前半期に焦点を合わせて、戦時編制概念の形成過程を追跡し、1888年の鎮台制から師団制への移行期に、ようやく戦時編制の概念が明確化・体系化されたこと、それは、平時編制の延長線上に戦時編制を構想するものではなく、戦時編制を本則として、平時編制のあり方を構想するという軍事行政上の転換を伴うものであったこと、を実証的に明らかにした。近代日本の戦争計画に関する研究が、日清・日露戦争以降の時期に集中していることを考えるならば、研究史の大きな空白を埋める重要な研究であるといえよう。同時にこの時期は、日露戦争後に独自の政治勢力として台頭してくる軍部が萌芽的に形成された時期でもあるが、その基盤の一つとして、陸軍独自の会計経理制度の形成過程を明らかにしている点も極めてユニークである。第三に、戦時編制概念が明確化される以前の時期の徴兵制にも分析のメスを入れ、近世の村請制の延長線上にあり賦役的性格の色濃かった徴兵制が、徴兵入費の官費支給によって、近代的な徴兵制に移行していく歴史過程を丹念に分析していることである。このことは、郡区町村の自治の問題を徴兵や軍事の視点からとらえ直していることを意味してもいる。さらに、地方の兵事行政組織がかかえる諸矛盾を、徴兵関係の諸名簿の調製過程まで視野に入れて、緻密に分析した本論文は徴兵制の歴史に関する研究としても重要な意義を持つ。第四に、明治前半期の陸軍省大日記を体系的に分析した研究は、他に存在しないため、随所に筆者ならではの新たな知見が見いだされる。平時の機関・官衙としての鎮台の位置付け、参謀本部独立の意味、内閣官制と帷幄上奏との関係、徴発令の制定過程、要塞地帯における近隣住民への負担と規制等々、である。これらの点も高い評価に値する。
 それにもかかわらず、若干の問題点を指摘することができる。第一は、「出師準備管理体制の第一次的成立」、「戦時編制概念の第一次的転換」、「会計経理体制の第一次的整備」、「帝国全軍構想化路線の第一次的変容」などの諸概念が錯綜し、理解に困難を伴う叙述が散見される。諸概念をもっと整理し、相互の関係性を明確にすべきだろう。第二に、筆者は、国内での戦争を主として想定した陸軍主導の作戦指導体制=「帝国全軍構想化路線」が、1893年から1894年にかけて挫折すると位置付けている。しかし、よく知られているように、日露戦後には軍部が成立し、中国大陸での戦争を想定した攻勢主義的な作戦計画が日本の国防方針の基本となる。本論文の対象とする時期から外れているとは言え、「帝国全軍構想化路線」の挫折から軍部の成立に至る歴史過程を筆者がどのように理解しているのかが、本論文からは十分読みとることはできない。第三に、徴兵検査受検者の名字や、年齢の起算表記あるいは記年法の問題など、徴兵制が民衆の生活世界との間に様々な矛盾を抱え軋轢を引き起こしていることが、叙述の中に見いだされる。民衆史、社会史の側からすれば、これらはきわめて興味深い歴史事実であり、軍事行政史を軍事行政史として完結させるのではなく、社会史・民衆史との接点を意識的に探るべきではないだろうか。
 とはいえ、こうした問題点は、筆者自身も明確に認識し、今後の研究課題として位置付けているところであって、本論文の学術的価値を損うものではない。審査員一同、筆者の研究の一層の発展に期待したいと思う。

最終試験の結果の要旨

2013年1月16日

2012年11月27日、学位請求論文提出者、遠藤芳信氏の論文について最終試験を行った。試験において、審査委員が提出論文「近代日本陸軍動員計画策定史研究―近代日本の戦争計画の成立―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、遠藤芳信氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮し、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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