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博士論文審査要旨

論文題目:日本近世における「闇斎学」の受容と展開
著者:綱川 歩美 (TSUNAKAWA, Ayumi)
論文審査委員:若尾 政希、渡辺 尚志、池 享、糟谷 憲一

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1.本論文の構成
 日本の近世のなかでも、一七世紀末から一八世紀前半にかけての時代は、国内の秩序という点でも、さらには東アジア国際秩序という点でも安定した「泰平の世」であった。本論文は、この「泰平の世」を生きた人びとに着目し、彼らがどのような思想をいかに受容して思想形成をしたのか、その過程を解明しようとしたものである。具体的には、山崎闇斎(1618~1682)を創始者とする「闇斎学」を受容した家禄二五〇〇石の大身の旗本跡部良顕(1658~1729)の思想形成の過程に焦点をあてる。その過程を明らかにすることによって、「闇斎学」なるものの歴史的役割を考察し、あわせて「泰平の世」の歴史的特質にも迫ろうとした意欲的な論考である。
 本論文の構成は以下の通りである。
序章
 一、泰平の世の思想
 二、受容史という視角
 三、「闇斎学」の研究史と課題設定
 四、対象と構成
第一章 跡部良顕の思想形成―その儒学受容をめぐって―
 はじめに
 一、青年期までの学習内容と契機
 (一)跡部家の概要と学習環境 (二)青年期の学習
 二、学問的葛藤と佐藤直方との出会い
 (一)学問の自覚  (二)直方の指摘
 三、直方の静坐と主静存養
 四、学問の目的と武士としての主体形成
 おわりに
第二章 跡部良顕の「闇斎学」と武士意識
 はじめに
 一、朱子学的生成論をめぐって
 (一)佐藤直方の太極講義  (二)良顕の生成論理解
 二、十七世紀後半~十八世紀初頭の江戸都市文化空間
 (一)『玉山講義附録』について  (二)知識と書物
 三、武士階級の身分意識と垂加神道
 (一)保科正之に結ぶ理想像  (二)「妙契」論  (三)神儒一致と「武門」
 おわりに
第三章 垂加神道と出版―跡部良顕を中心に―
 はじめに
 一、『垂加文集』の出版について
 (一)『垂加文集』の内容と出版の経緯  (二)出版の意図  (三)出版の背景
 二、『垂加文集』出版の影響
 (一)出版の反応  (二)出版をめぐる論争
 三、『光海筆録』の成立
 (一)『光海筆録』について  (二)伝授内容と順番
 (三)『光海筆録』における諸学の集約
 四、教化本の出版
 (一)光海霊社の勧請  (二)神道教化本の出版
 おわりに
第四章 鹿島神宮における垂加神道の受容―神体勧請をめぐって―
 はじめに
 一、大宮司定則と当禰宜家
 (一)職制と支配状況  (二)物忌跡目一件  (三)寺社奉行の諮問と判断
 二、鹿島神宮の学問的動向と垂加神道
 (一)定則の学問的環境  (二)『中臣祓』の註釈をめぐって
 三、鹿島神宮への垂加神道の深化
 (一)良顕と定則  (二)垂加神道の日少宮説  (三)鹿島神宮の垂加神道受容
 おわりに
第五章 垂加神道と北野天神社―栗原家の由緒をめぐる意識―
 はじめに
 一、武蔵国北野天神社と栗原家
 (一)武蔵国北野天神社の概要(二)栗原正名・正精父子(三)地域の中の神社と神職
 二、江戸垂加派と栗原家
 (一)栗原正名(白鴎軒)・正精の接点  (二)江戸垂加派の構成員
 (三)江戸垂加派の思想的特徴
三、栗原正精の意識と行動
 (一)栗原家の由緒形成と構造  (二)八重垣霊社勧請に際して
 (三)地域社会における位置と課題の中で
 おわりに
補論一 十八世紀前半の学問受容と闇斎学派の役割
       ―佐藤直方とその門人の活動を通じて―
 はじめに
 一、佐藤直方と門人たち
 (一)手紙のあて先の門人たち  (二)直方の動向―書状の背景―
 二、書状からみる教導のありかた
 (一)講釈の形態と場  (二)直方の〈教え〉の内容と反応  
 三、「学者」の位相
 (一)門人の出仕と長島藩  (二)増山正任の場合―直方の対正任『孟子』講義―
 (三)山中剛勝と天木時中の場合
 おわりに
補論二 近世武士の学問受容と社会意識―尾張藩士・平岩元珍の主体形成をめぐって―
 はじめに―『盍徹問答』について―
 一、『盍徹録・盍徹録付考』にみる平岩元珍の意識
 (一)平岩元珍の『盍徹録・盍徹録付考』
 (二)『盍徹問答』の入手から『盍徹録・盍徹録付考』の成立
 (三)『盍徹録』にみえる元珍の思想
 二、天明改革以降の尾張藩家中―特に寛政期以降―
 (一)寛政五(一七九三)年「伊藤直之進上書」
 (二)家中拝借金制度の弊害と士風
 (三)儒者(儒学)主導による政治否定と明倫堂の学問風潮
 三、楽と儒学と士風改善
 (一)平岩元珍と楽  (二)元珍の学問論 
 おわりに―元珍にとっての『盍徹問答』
結論と展望
 一、結論
 二、課題と展望

2.本論文の要旨
 序章では、まず「泰平の世」を謳歌した一七世紀末から一八世紀前半にかけての思想史を描きたいという著者の問題意識を述べる。具体的には、山崎闇斎を創始者とする「闇斎学」を受容していった人びとに着目して、彼らが闇斎学の何に共鳴してそれを選び取っていったのか、その思想形成のプロセスを著者は問題にする。
 山崎闇斎は日本近世において本格的に朱子学を受容した人物として知られ、闇斎に始まる儒学の道統は崎門儒学と呼ばれる。一方で闇斎は、神儒一致の垂加神道を唱導した人物として著名で、すでに弟子の世代において、儒学のみを重視する者、垂加神道のみを信奉する者、神儒兼修を説く者に三分された。よって、これまでの研究でも、崎門儒学研究、垂加神道研究に分かれて、別個に研究成果が蓄積されてきた。これに対し、著者は、儒学と神道とを含めた山崎闇斎の学問の全体の意味で「闇斎学」という言葉を使用する。なぜなら本稿で中心的に取り上げ跡部良顕その人が、儒学は崎門、神道は垂加というようには区別していないからだという。良顕の認識を基準に、両方の学問分野に関わる場合は、「闇斎学」の表記を使い、分析概念としてそれぞれを個別に指すときは、崎門儒学、垂加神道を用いることとする、と著者は述べる。
 序章で著書がもう一つ強調するのは、受容史という研究視角の重要性である。従来の思想史研究では、新たな思想を唱導した思想家(いわゆる頂点的思想家。山崎闇斎はその一人)の思想には光を当てられたが、その思想を受容した人びとについては、たんなる再生産、亜流とみなされ、主たる研究の対象とはなって来なかった。それに対し、著者は、受容史を研究することの意義を述べる。すなわち一個人が闇斎学を受け取り、咀嚼して、自らの信念として発信するという一連のプロセスに着目することにより、思想の社会的機能や存在形態を考察することができるし、新たな近世社会像の叙述にもつながるはずだ、と。
 本論は第一章から第三章までと、第四章・第五章の二つの部分から成り、前者では、闇斎学の受容主体である跡部良顕の思想形成の過程を明らかにしている。
 第一章では、まず良顕が晩年に自らの学習過程を振り返った『光海筆録』という史料を(史料批判をしつつ)読み込むことによって、幼年期から青年期にいたる学習過程を追い、また良顕の学問的環境についても考察する。続けて、1700年、数え四三歳で、闇斎の高弟であった佐藤直方(1650~1719)に出会った良顕が、直方から崎門儒学を学ぶことによって、自己形成を果たしたことを著者は明らかにしている。著者は、この良顕の自己形成に、江戸に住む武士としての主体の形成の一つの典型を見いだすとともに、そこに日本近世における「都市知識人層」の成立を読み取る。
 第二章では、良顕の思想が、崎門儒学を深く学んでいくなかで、いわば崎門儒学を越えて垂加神道へと拡大していく過程を考察している。それは、1704年1月、山崎闇斎編纂の『玉山講義附録』に関する佐藤直方の講義が終わった直後であった。直方から「太極講義」を受け朱子学の宇宙生成論に話が及んだときに、「ハツトヲドロキ感発」した。すなわち朱子学の根本をすっかり理解したという境地に達したのである。この体験を契機にして、良顕は、闇斎が創始した垂加神道を深く学ぶようになり、闇斎の説いた「神儒妙契」を確信し、師直方と義絶することとなった。
 第三章では、垂加神道の正しさを確信した良顕が行った、神道書の出版をとりあげる。良顕は闇斎の文集や神道教化本を出版していくが、出版の是非をめぐって垂加神道家内で対立が起きた。京都の公家である正親町公通(1653~1733)の周辺にあった垂加派の人々(京都垂加派)は、垂加神道は師から弟子へと秘伝として伝授されるべきものであるとして、秘伝とされた知識を出版して公開することを批判したのである。本章では、両者の考え方の相違を明らかにした。
 本論の後半部にあたる第四章と第五章では、良顕の闇斎学が、江戸及びその周辺にどのように広がりをもつものとなってくるのか、その様相を考察している。
 第四章では、良顕に直接師事した鹿島神宮の大宮司・鹿島定則の垂加神道受容の有り様を明らかにする。鹿島定則は、山崎闇斎を祀った垂加霊社と、跡部良顕の生御霊(良顕は生きたまま神様になっている)を祀った光海霊社とを、鹿島神宮に勧請している。この垂加流に則った儀式が定則と鹿島神宮にもたらした意味を、近世神社組織が抱える問題との関わりで明らかにする。
 鹿島定則だけでなく、高禄の旗本や地域の神職の間に、良顕の闇斎学に共感を持ち受容する人びとが出てくるようになった。第五章は、このような受容の実態を、武蔵国入間郡北野村(現在の所沢市)に鎮座する北野天神社の大宮司・栗原正名と正精父子の神道伝授を題材に検討したものである。一八世紀前半の北野社と大宮司がどのような問題意識をもって、良顕の闇斎学を学び、その神道伝授を受けようとしたのかを分析している。
 補論一では、佐藤直方の学問的活動に焦点をあて、直方が江戸で、主に武士身分を対象に講義を行ったことの意味を考察した。補論二では、闇斎作と仮託される『盍徹問答』をもとに崎門儒学を受容し、政治や学問への自覚を形成していく十八世紀後半以降の一藩士を取り上げた。
 終章では、残された課題と今後の展望を述べ、本稿をまとめている。

3.本論文の成果と問題点
 本論文で著者がとりあげる跡部良顕は、家録二五〇〇石の大身の旗本で、書院番を務めた人物だが、山崎闇斎の高弟であった佐藤直方の儒学にひかれ直方を招聘して崎門儒学(朱子学)を学び始める。ところが数年にして、垂加神道に接近し、それに心酔し、師直方と絶縁することとなった。著者は、日本全国に散在する、良顕の著作や文章の写本を可能な限り収集し、それらを丹念に読み込み、忍耐強く著作の年代比定を行い、それぞれの著作がいつ何のために作成されたのかを確定する作業を行った。そのような緻密な分析によって、劇的な思想展開を遂げた良顕の思想形成の過程を解明した。これが本論文の第一の成果である。
第二に、受容史という視角の提起は重要である。確かに著者がいうように、これまでの研究では、新たな思想を唱導した思想家にのみ光が当てられ、その思想の受容者は主たる研究の対象となって来なかった。著者が、あえて闇斎学を受容し咀嚼した人びとの思想的営為に着目したことは、研究史上大きな意味があろう。
 第三に、受容史に着目したことにより、著者は、思想の社会的機能や存在形態を考察することに成功している。著者は、良顕の思想形成に典型的に見えるように、闇斎学は(良顕のような)武士身分の道徳的な自己確立の方法として成立し機能していたと論じる。さらに鹿島神宮や北野天神社の闇斎学受容のあり方から、社会的受容という意味では闇斎学が、実は良顕の時代に確立したと言えるのではないかと論じる。新鮮な提起である。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。著者は良顕の思想形成のありようから、「都市知識人層」という概念を提起し、一八世紀初頭に「都市知識人層」が形成されたと論じるが、本論文では提起にとどまり、それが後の時代にどのように展開していくのかが描かれていない。また、闇斎学(特に垂加神道)にある尊皇的思想が(それは良顕の思想にも濃厚にみえるのだが)、一七世紀~一八世紀の時代のなかでどのような位置にあるのかについて、本論文では論述されていない。もちろんそうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、綱川歩美氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2012年2月8日

 2011年12月26日、学位論文提出者綱川歩美氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「日本近世おける「闇斎学」の受容と展開」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、綱川歩美氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は綱川歩美氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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