博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:薬剤と健康保険の人類学:ガーナ南部の農村地帯における生物医療的な布置についての民族誌
著者:浜田 明範 (HAMADA, Akinori)
論文審査委員:大杉 高司・春日 直樹・岡崎 彰

→論文要旨へ

Ⅰ.本論文の構成
 本論文は、ガーナ南部農村地帯の生物医療的布置を論じた、医療人類学の最新成果である。生物医療(biomedicine)は、生理学や病態生理学に焦点をあてた医療理論と医療実践であり、欧米を中心に広く世界中に普及してきた。筆者が調査を実施したガーナ南部のプランカシにおいても、ひとびとは、薬剤・ケミカルセラー・ヘルスセンター・健康保険といった生物医療の諸要素と日常的に接している。しかし、これらモノ・ヒト・制度は、緊密に結び付けられたシステムとして外在し、現地社会と向き合っているわけではない。むしろこれら複数の要素は、相互に矛盾や齟齬をはらみつつも現地社会に内在し、ひとびとの活動を複数の方向に導いている。本論文は、こうした事情を綿密に記述することで従来の生物医療観を批判し、新たな分析の視座を提示しようとする、意欲的な試みである。

 本論文の構成は以下の通り。

目次
序論:「生物医療」に抗しながら<生物医療的な布置>について書くこと
  1 「生物医療」から<生物医療的な要素>へ 
  2 <生物医療的な要素>の内在性を認めること
  3 <生物医療>の切り取り方の複数性
  4 アガンベンの装置論と<生物医療的な布置> 
  5 雑多な要素が共同で効果をもたらすこと 
  6 「要素から出発する布置」の複数の効果 
  7 まとめと本論の構成 
2章:プランカシの概要
  1 ガーナ共和国とその疾病構造
2 クワエビビリム郡とプランカシ
3 プランカシの人々の外部理解 
4 プランカシ周辺の医療施設 
5 小結 
3章:薬剤の流通をめぐるポリティクス
  1 生物医療的な要素としての薬剤 
  2 サブサハラ・アフリカにおける薬剤
    2-1 カメルーンにおける薬剤の流通 
    2-2 ガーナの薬剤流通の特徴と本章の課題
  3 ガーナ南部における薬剤の流通 
    3-1 無認可の薬剤供給者の不在 
    3-2 生物医療施設と倉庫を通じた流通 
    3-3 薬局とケミカルセラー 
    3-4 「頭脳流出」とケミカルセラーの重要性 
  4 プランカシにおける薬剤の供給 
     4-1 ケミカルセラーにおける薬剤の販売 
     4-2 ヘルスセンターにおける薬剤の処方 
     4-3 ケミカルセラーとヘルスセンターの相補性 
5 <生物医療>の切り取り方とケミカルセラーの曖昧さ 
5-1 準生物医療従事者としてのケミカルセラー 
5-2 ケミカルセラーを取り締まること 
6 小結 
4章 行為とモノの布置と医療に関する知識 
1 西アフリカにおける薬剤と治療の意味 
1-1 薬剤が使用される際の「我々」と「彼ら」の論理 
1-2 知識の可塑性を認めること 
2 モジャとアポム・ディンの複数性を考える 
2-1 モジャ・デュルからモジャを理解する 
2-2 モジャ・デュルからアポム・ディンを理解する 
3 複数性を再考する 
4 フラエの語られ方の複数性 
5 フラエの複数性を維持する行為とモノの布置 
5-1 コミュニティヘルスの対象としてのフラエ 
5-2 風邪薬によって治るモノとしてのフラエ 
5-3 処方の対象としてのフラエ 
5-4 顕微鏡検査の対象としてのフラエ 
6 小結 
5章 医療費を支払う2つの方法 
1 健康保険と医療費の支払い 
1-1 保険と相互扶助 
1-2 サブサハラ・アフリカにおける医療費の支払い 
1-3 問題の所在 
2 NHISの特徴と普及状況 
2-1 NHISの制度的特徴と匿名的な相互扶助 
2-2 Kb郡相互健康保険の普及状況とお得な加入費 
2-3 医療施設の拡大と自己責任の喚起 
3 健康保険の入り方 
3-1 カネを貯める必要と方法 
3-2 学費と健康保険 
3-3 医療費負担の個人化 
3-4 語り口としての対面的な相互扶助 
3-5 対面的な相互扶助の新領域 
4 小結 
結論:生物医療的な布置による複数の社会性の構築
1 システムとしての「生物医療」から生物医療的な布置へ 
1-1 生物医療的な要素の現地社会への内部性 
1-2 生物医療的な要素の様態と関係性の変容可能性 1
1-3 生物医療的な布置の効果の複数性 
2 生物医療的な布置と複数の社会性の構築 
2-1 生物医療的な布置によるプランカシの構築
2-2 生物医療的な布置によるプランカシと国家の構築 
2-3 生物医療的な布置を記述すること 
3 結 
補遺1 生物医療と近代医療 
補遺2 プランカシの複層性と可塑性 
1 オマーンとしてのプランカシ 
2 水道工事とオマーン・アセム 
3 オマーン・エジュマという開発形態 
4 複数のプランカシの非意図的な混同 
5 オマーンの機能低下とクロムバのゆれ 
6 概念としてのプランカシの可塑性と強靭さ
7 小結 
補遺3 王権闘争と2人の要人の死
  1 性悪なオヘマー 
  2 呪殺か暗殺か 
  3 争いのはじまり 
  4 オトフオの埋葬法 
参照文献

Ⅱ.本論文の概要
 序論で筆者は、先行研究の批判的検討を通して、本論文の記述と分析を支える理論的視座を提示する。従来、医療人類学では、構造機能主義的なシステム論に依拠した生物医療観が支配的だった。そこでは、医療行為とそれを支える知識・モノ・制度・人が、緊密に結びついた一つの総体として機能していることが前提とされてきた。筆者はまず、この生物医療システム論が抱える問題点を指摘する。第一に、それが、生物医療的な諸要素間の関係性の偏差を見えにくくしてしまう点である。諸要素は支配的見方が想定するように必ずしも一体として作用しているわけでなく、ときに各要素の間に齟齬や断絶があらわれる点にも、注意を向けなければならない。第二に、システム論が、生物医療を非生物医療的な要素から独立して外在する領域としたうえで、非生物医療的諸要素との相互作用を論ずる傾向をもっている点である。しかし、生物医療の諸要素が、たとえば家族、経済などといった要素と同じ水準で生活に内在し、人々の活動を方向づけている点を見逃してはならない。第三に、カテゴリーとしての生物医療の切り取り方の複数性への配慮が欠けている点があげられる。何が生物医療とみなされるかは、行為者―たとえば、患者、ケミカルセラー、看護師―ごとに異なりうるのであり、この点に留意した記述と分析の枠組みが要請される。これら問題点を乗り越えるために、システムの概念に代えて筆者が採用するのは、フーコーが提示する布置 (dispositif)の概念である。布置という発想のもとでは、それを構成する諸要素が共同で一定の効果をもたらす場合にも、各要素の間にシステム論が想定するような緊密な関係性や一貫性は想定されない。また、フーコーを援用して装置(dispositif)論を展開するアガンベンは、具体的モノや制度が社会に内在しつつ人々の活動や振る舞いを方向づけている点に着目している。もっとも、フーコーらの試みは、雑多な要素(アガンベンの装置)に着目しながらも、それらがもたらす効果から遡及して布置の全容をつかみだそうとする傾向があるため、どこかシステム論にも似た決定論的色彩を帯びてしまう問題点をかかえている。以上を踏まえ筆者は、〈生物医療的な布置〉の効果から諸要素へ遡るのではなく、個別要素から出発する記述と分析の戦略を採用する。すなわち、生物医療にかかわる各要素が、具体的な過程でどのように他の要素と結びつき、また切り離されるのか、そしてその同じ過程のなかでどのような非生物医療的な事項が重要な要素として加わるのかを追跡しながら、布置が人々の活動を複数の方向へ導く様相を捉えようとするのである。
 2章では、ガーナ共和国の概要、とくにその疾病構造、調査地プランカシの概要と人々の外部理解、プランカシをとりまく医療状況が紹介され、本論の続く3つの章で主題化される事象の背景が提示される。3章では、〈生物医療的布置〉を構成する要素のうち、ケミカルセラーと呼ばれる薬剤販売者の活動を出発点にして、薬剤流通をとりまくポリティクスの分析が試みられる。プランカシでは、薬剤は大変よく普及しており、その流通はケミカルセラーと呼ばれるガーナ特有の存在に担われている。彼らの数は他の薬剤提供者よりも圧倒的に多く、また、さまざまな理由から薬局、ヘルスセンター、病院に行くことができないひとびとにとって、ほぼ唯一の薬剤入手元となっている。ところが、彼らは生物医学についての体系的な教育をうけておらず、販売される薬剤が生物医学と異なる論理に従って使用される可能性は排除されていない。この意味で、薬剤の普及をシステムとしての生物医療の展開と同一視しがちな既存の生物医療観とは異なった状況がある。他方で筆者は、ガーナにおけるケミカルセラーの重要性が、生物医療従事者の資格化、生物医療従事者、薬剤という3つの要素の動態的な関係性のなかで再生産されている点に注目する。資格化は医療従事者の国外移住を促し、それが医療従事者の増加を妨げてきた。結果、医療従事者による薬剤の管理独占が保障されなくなり、ケミカルセラーの重要性が増している。そして、このケミカルセラーの存在が、薬剤と生物医学や医療従事者の関係性を変容させていくのだという。このことは、ケミカルセラーの位置づけの複数性とも密接にかかわる。薬事法上は単なる商人として生物医療の外に位置づけられる彼らは、ケミカルセラーを管轄する薬事評議会からみると人々に生物医学知識を広めることを期待された準生物医療従事者であり、また薬剤購入者からみると症状に対応した薬剤を「処方」してくれる生物医療従事者である。小結で筆者は、以上の現状を、システムとしての生物医療の断片化と捉えるべきではないと主張する。というのは、そうした見方が、要素間の関係があたかもアプリオリに与えられているかのように見誤り、部分的にではあれ要素間の関係を立ち上げようとしている人々の能動的な営みを、見逃してしまうからである。
 4章では、モノと行為の布置が医療に関する知識に与える影響が分析される。ガーナ南部でもっとも頻繁に使用される医療用語のひとつフラエ(hurae)は、英語のマラリアに翻訳可能であるとされる一方で、マラリアとは違う特徴をもつものと説明されることがある。フラエは公衆衛生教育プログラムではマラリアの訳語として扱われるが、ケミカルセラーでは発熱や風邪の症状を示すものであり、さらにヘルスセンターではマラリアと上気道感染を含意する語である。これら複数の場面での対応の違いが、「フラエとは何か?」に対する人々の回答の多様性を誘発しているのだという。同時に、筆者が注目するのは、各場面での認識が、それぞれ異なったモノと行為の布置に支えられている点である。公衆衛生教育の現場で、フラエ=マラリアの図式が維持されるためには、英語で書かれた教科書や専門雑誌のコピーが必要不可欠である。また、この図式が具体的な行為(予防行為)を誘発するためには、蚊の存在が想起され、空き缶の水や蚊帳がそこに配置されていなければならない。ケミカルセラーにおけるフラエは、彼らが販売できる解熱鎮痛剤や風邪薬が効果をおよぼすような病気として扱われている。ヘルスセンターでフラエの診断がなされる前提には、抗生物質や抗マラリア薬のほか、カルテをはじめとする大量の書類が重要な役割をはたし、近年では顕微鏡と検査機器の導入が、フラエではあるがマラリアではない病気の現実化を促している。小結で筆者は、このようなフラエのあり方をシステムとしての生物医療と現地社会の相互作用やハイブリット化の結果とみなす分析枠組みは、いささか大ざっぱすぎると指摘する。相互作用論やハイブリット化論は、生物医療と現地社会をそれぞれまとまりをもった総体と想定してしまうことで、個別場面で具体的なモノや行為の布置がひとびとの認識や行為を多様な方向に導いていく過程に目を閉ざしてしまうからである。
 5章では、国民健康保険という生物医療的な要素の導入が、ガーナ南部の生物医療的布置をどのように組み替えていったか、とりわけ、医療費負担における相互扶助のありかたをどのように変容させたのかが論じられる。保険制度を対象とする先行研究では、保険はそれまでに存在していた対面的相互扶助の存在意義を切り崩すことで、責任の個別化を促進するとされてきた。ガーナにおいても2004年の国民健康保険の導入は、一面では「医療費は個々人や世帯の責任において支払うべき」との認識を強化し、対面的相互扶助から匿名的相互扶助への移行を準備しているように見える。しかし筆者は、加入費の支払い方法や、制度の細則への対応を仔細に検討したうえで、国民健康保険の導入がむしろ対面的相互扶助の新たな領域をも作り出していることを明らかにする。まず、ひとびとは、保険加入費の支払いを、現地でススと総称される複数の形態の民間互助組織に依存している。さらに、保険への加入単位においても親族や友人関係を基礎にした相互扶助の論理がはたらく。保険制度が加入の基本単位と想定しているのは、基本的には、世帯主と配偶者そして同一世帯の未成年の子からなる「世帯」だった。しかし、細則には、ガーナの家族形態の流動性に留意した「世帯」の複数の定義があり、柔軟に運用されているのが実情だという。プランカシにおいても、複数の成人が共同で子を育てることが一般的であり、子は複数の成人のあいだを行き来しながら幼年期や少年期を過ごしている。これを背景に、たとえば、未成年の兄弟姉妹や、同居していない兄弟姉妹の子(姪や甥)とともに加入する者、さらに、経済的理由で自分が加入できない者も、加入している親族や友人に自分の子の世帯主になってくれるように頼み、自らは実子分の加入費のみ負担するなどといった事例が、頻繁に観察されるという。このように国民健康保険制度の導入は、一面では責任の個別化を促しつつも、同時に対面的相互扶助の新たな領域を作り出すという、相互に矛盾する二つの効果を発揮している。小結で筆者は、こうした現状に対しシステムとしての生物医療の進展といった目的論的な理解が妥当しないことを、確認する。
 結論では、上記三つの章の議論を踏まえて、相互に関連する次の諸点が再確認される。1)生物医療的な布置の現地社会への内在性、2)生物医療的な布置の動態性と変容可能性、3)生物医療的な布置が同時に複数の効果を持つこと、の三点である。筆者はまず、ケミカルセラーの事例研究、国民健康保険の事例研究を振り返り、ひとびとが生物医療の要素の存在を前提にして日常を組み立てていることを確認する。これら生物医療的な要素のまったく存在しない「現地社会」を想定することは不可能であり、それゆえシステムとしての生物医療の現地社会に対する外在を前提とする分析枠組みは、もはや生産性を持ちえないという。西洋社会の生物医療についてイリッチ、アガンベン、ストラザーンらが試みてきたのと同様に、ガーナのような非西洋社会においても、生物医療の布置がどのように具体的な作用をもたらすかに焦点をあてた研究が要請されるのだと、指摘する。
 しかし、このことは、生物医療の布置が西洋諸国や日本とまったく同じように作用していることを意味しない。これが、二つめの論点である。医療従事者の資格化や従事者の不足は多数のケミカルセラーを生み出し、それが生物医学と薬剤の結びつきを弱めていること、国民健康保険が想定するのとは異なる家族観のなかで健康保険が対面的な相互扶助と密接に関連するような相貌を見せていることは、要素間の関係がつくりあげる布置がいつでもどこでも同じではないことを示している。とくに国民健康保険の現状は、生物医療的要素が、非生物医療的要素によっても変化しうることを示していた。両要素の間にあらかじめ存在論的差異を想定するのではなく、それらが共同して具体的な効果を発揮していく過程を明らかにしようとするときに要請されるのが、布置という分析枠組みに他ならないのだという。
 三つ目の論点が確認するのは、この布置が発揮する効果が、必ずしも一つの方向に向けてではないということである。生物医療の布置は、同時に複数の効果を発揮し、ひとびとの認識や振る舞いを多方向に導いていた。フラエと呼ばれる病気は、公衆衛生教育、ケミカルセラー、ヘルスセンターが置かれた布置よってそれぞれ違った相貌であらわれて人々の行動を促し、国民健康保険の導入は、責任の個別化と対面的相互扶助の促進という相矛盾する効果を発揮していた。システムとして生物医療をとらえる枠組みや、ひとつの効果から遡及して布置の各要素を発見していくフーコーに代表される立場は、この複数性を見逃しがちである。筆者は、要素から出発して布置の効果を発見していく分析手法が、複数の社会性の構築過程をも明らかにしていく可能性に触れ、本論を結ぶ。
 
 
Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果として、まず何よりも、医療人類学分野への理論、実証の両面での貢献をあげることができる。これまで医療人類学は、生物医療と民俗医療、医療と社会、疾病と病いなど、さまざまに表現される二項対立図式に囚われてきた。筆者自身認めるように、この二項図式は、生物医療の限界を知らしめ、その普遍妥当性に対する批判を促した点では一定の生産性を有してきた。しかし、二項図式の支配は、この図式では整理できない事象から学知を撤退させてきたばかりか、何よりも生物医療そのものの自明性を手つかずのままに放置するという問題点を抱えてきた。この意味で筆者が、ガーナ南部農村地帯の実情にもとづいて生物医療の現地社会への内在を明らかにし、薬剤、ケミカルセラー、顕微鏡、蚊帳、国民健康保険制度といった個別要素の絡まりあいを丹念に追跡しながら、それら要素が形作る布置のなかに現代ガーナの生物医療の相貌を捉えなおしたことは、医療人類学のあらたな方向性と可能性を提示する画期的な試みであったと認めることができる。
 本論文は、非西洋社会の医療研究を通じて南北格差再生産や生権力の拡大を論ずる(ネオ)帝国主義批判の系譜とも、一線を画している。それは、こうした研究が批判を先取りして目的化するために、生物医療を、非西洋世界を包摂していく首尾一貫したシステムないしプログラムと見做してきたからである。これに対し、ガーナ南部農村地帯での丹念な実地調査をもとに筆者が説き起こすのは、生物医療を構成する諸要素の非システム的な断片性だった(システムの「断片化」ではない)。すでに概要でも触れたように、薬剤は生物医学知と必ずしも緊密な関係性を有していないし、公衆衛生教育とヘルスセンターはそれぞれ異なる布置を形作り、国民健康保険は非生物医療的な要素とむしろ緊密に結びついていた。そのうえで筆者が繰り返し強調するのは、当該地のひとびとが西欧や日本で暮らすわたしたちと同様に、それら生物医療の諸要素の存在を前提として日常生活を組み立てている点である。しかしこのことは、生物医療が時空を超えて同一性を維持していることを意味していない。それは、生物医療の各要素が、現代ガーナ特有の布置の動態のなかに置かれているからだった。生物医療の複数性と可変性を、あらかじめ差異を徴づけられた民俗医療や風習との交渉過程に訴えずして提示することに成功した本論文は、差異を語るあらたな手法を読者に喚起しているといえよう。
 本論文はまた、現代人類学の最新動向である、アクターネットワーク論の視座から眺めても、高く評価できる。人ばかりか、知識、人工物、自然、制度にアクターとしての地位を認め、相互のネットワークのあり様を探る分析姿勢は、生物医学、薬剤、顕微鏡、病気、健康保険制度や互助組織といった要素間の関係性を追跡した本論文で、たいへん効果的に活用されている。しかしながら、筆者は、けっして無批判にこの分析姿勢を採用したのではない。とりわけ、アクターネットワーク論と親和性の高いミッシェル・フーコーらの布置=装置論が、一定の効果から遡及して布置を発見していく時にみせる、半ば決定論的な論の運びに、筆者は批判的である。筆者は、むしろ、生物医療を構成するとされてきた個別要素から出発し、それが他の諸要素との関係で、どのような複数の相互に矛盾しさえする効果を発揮するかに注目している。アクターネットワーク論の代表的成果の多くが歴史研究であり、フーコーらと同じ問題点を抱えてきたことを鑑みるならば、あくまでアクターとしての個別要素にこだわり、それが他の要素と共同してどのような効果を発揮するのかを地道に追跡した本論文の意義は大きい。筆者が強調する布置の効果の複数性については、さらなる理論の精緻化をへて、理論的論争の舞台へ主要論題として投げ返されることになるだろう。
 以上、本論文は際立った成果をあげたものの、そこに問題点と課題を指摘できないわけではない。第一点目は、本論文の主要論点である、「システムとしての生物医療」と〈生物医療的な布置〉との対比に関係する。システムと布置の概念上の相違は、本論文で相当程度明確にされたものの、双方に生物医療の語が付されていることで、対比がやや不鮮明になってしまった感は否めない。もちろん、生物医療の個別要素の考察にあたる以上、先行研究がシステムの一部としてきた要素を観察と分析の出発点とすることは戦略上理解できる。しかしながら、観察と分析を経て、当初足掛かりにした〈生物医療的〉というカテゴリーそのものを脱構築していく手順がさらに踏み込んで示されていたならば、対比はより鮮明に提示されていたことだろう。第二点目として、これは主題設定上致し方ないことでもあるが、筆者がいう〈生物医療的な布置〉が、現地社会の非生物医療的要素とどのような絡まりあいを見せるのか、より一層の厚い記述が望まれることが指摘できる。たとえば、結論部で若干触れられたサッカーや葬式などの事例や、補遺で論じられた王国や王権継承の事例、さらにサブ・サハラ地域の先行研究が頻繁に取り上げてきた呪術その他の治療実践との関連性を、いっそう豊かに記述していくことが、今後の課題となろう。
 もっとも、これらの問題点ならびに課題は、論文が全体として提示する成果の学術的価値をいささかも損なうものではなかった。また、筆者も問題点を強く自覚し、今後の研究の課題としているところである。さらなる研究の進展を期待したい。

Ⅳ. 結論
審査委員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2012年1月11日

 2011年12月2日、学位請求論文提出者浜田明範氏の論文について、最終試験を実施した。
 試験において審査委員が、提出論文「薬剤と健康保険の人類学 ガーナ南部の農村地帯における生物医療的な布置についての民族誌」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、浜田明範氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

このページの一番上へ