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博士論文審査要旨

論文題目:中国の環境教育に関する研究 ―緑色学校の分析および日本との比較研究を通して―
著者:李 全鵬 (LI, Quanpeng)
論文審査委員:関 啓子・御代川 貴久夫・木村 元・岩佐 茂

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1.本論文の構成

 本論文は、環境教育の国際的動向の考察と日中の比較研究を介して、中国における環境教育の特徴と課題を解明したもので、とりわけ環境教育の実施校として注目される緑色学校の日常生活を活写し、そこでの環境教育の問題点を浮上させ、問題解決の手掛かりを提起した意欲作である。

 本論文の構成は、次の通りである。

序章
1、問題意識
2、先行研究
3、課題と方法
4、論文の構成
第一章 国際環境教育の歩み 
1、国連人間環境会議
2、ベオグラード会議
3、トビリシ環境教育政府間会議
4、ESDの展開
5、小括
第二章 日本の環境教育
1、自然保護教育
2、公害教育
3、環境教育への展開
4、環境教育からESDへ
5、小括
第三章 中国の初等中等教育における環境教育の成立と展開
1、環境問題と教育制度
2、初等中等教育における環境教育の三つの段階
3、学校における環境教育
4、小括
第四章 中国の緑色学校の展開
1、環境教育財団(FEE)のエコスクール
2、中国の緑色学校をめぐる政策の展開
3、中国の緑色学校プログラム
4、緑色学校の位置づけ
5、小括
第五章 大連市実験小学校における緑色学校作り
1、緑色学校作りにむけて
2、実験小学校における緑色学校作りの取り組み
3、緑色学校の資格認定と行政の役割   
4、小括
第六章 中国の素質教育における緑色学校の可能性
1、素質教育論の展開
2、受験教育からみる素質教育の本質
3、素質教育における緑色学校の可能性
4、緑色学校の可能性に対する制約要因
5、小結
終章
1、各章の総括
2、結論
3、今後の課題

2.本論文の概要
 序章では、次のように課題設定について論じられる。中国における環境教育への取り組みは比較的早かった。しかも、学校における環境教育は政策的に重視されているにもかかわらず、環境問題は深刻になるばかりである。いったいなぜなのか。こうした根本的な問いを発した筆者は、環境教育を制限する要因の究明に取りかかる。先行研究は、中国の環境教育の歴史と現状を総括したうえで、主に教師研修の不足、課外活動の不十分さ、法律の未整備などの問題点を指摘しているが、筆者はこれに満足せず、これらの問題は表面的な要因にすぎないとする。近年、大型建設工事への反対運動を取り上げ、環境権の兆しを読み込む研究なども現れたが、学校の環境教育が環境問題に取り組む主体の形成に資するかどうかについての根本的な究明はいまだにない。そこで、筆者は、中国の環境教育を制約する根本的な要因を探るために、次の三つの課題を立てた。
 第一に、中国における環境教育についての歴史と現状を整理する。その際、国際的潮流との連動に着目する。先行研究に基づき中国の環境教育の生成発展の歴史を段階ごとに見直し、環境教育の問題状況の発生を読み解く。日中の環境教育の比較考察によって、中国の環境教育の特質をより鮮明に浮き彫りにする。
 第二に、中国の環境教育の特徴である国際化を象徴する緑色学校について分析する。1996年から展開されている緑色学校プロジェクトを規定する政策と現状を精査し、その取り組みの教育的意義と問題点を考察する。先行研究では、緑色学校の展開過程が軽視され、その質より数が重視されるという問題点が指摘されているが、しかしその背景や問題の所在がまだ明らかにされていないので、問題状況の核心に迫るべく厳しく考察する。具体的には、中国大連市の実験小学校における緑色学校作りの取り組みを現場調査で詳細に描き出す。
 第三に、素質教育にとっての緑色学校の意義を考察する。現在、中国の教育事情を語る際には、素質教育に触れざるをえない。素質教育は1980年代に受験教育のオルターナティブとして提起されたが、その実現の道は混沌としていて険しい。受験教育と素質教育とのせめぎ合い中で、緑色学校はどういう意味を持ちうるのかを考察する。
 中国では受験教育が学校の最重要テーマとなっている以上、環境教育が重視され、生徒が活動主体となるのは難しい。環境教育における生徒の主体性の形成には、素質教育の実施が欠かせない。素質教育は人間の全面的発達のための教育形態であり、生徒は一人ひとり自身の発達を追求できる教育モデルとされている。しかし、緑色学校のプログラムと素質教育とをどのように関連付けて実践できるかを論じる先行研究は見当たらない。そこで、素質教育と緑色学校とのかかわりについても触れる必要がある、とされる。
 筆者は第一章で環境教育に関する国際的な動向を整理する。ベオグラード会議、トビリシ環境教育政府間会議など、国連をはじめとする一連の国際会議を経て、ESD(Education for Sustainable Development:持続可能な開発のための教育)にいたる
政治的合意形成の過程が描かれ、これらの会議において主張された環境教育の要点が説明される。環境問題に対する気づき・知識・技能・態度・意欲・遂行力を身につけることが環境教育の目的として挙げられ、環境教育の実践をめぐる理論的基礎が築かれたことが記述される。筆者は、こうした過程を経て環境教育の内容は充実し、ESDに至ったとする。しかし、筆者は、現在の到達点であるESDの意義を認めつつも、日増しに深刻化している環境問題や南北の格差を背景にした環境問題の輸出という現状を前にして、ESDにも批判的考察を加えざるをえない、という。持続的発展(開発)という目的のもとで、多く課題を抱え込み焦点が曖昧になり、自然破壊をくい止め環境問題を解決することに貢献できない環境教育の現状が問題視され、環境教育の理論的かつ実践的な刷新の必要が示唆される。
 第二章で、日本における環境教育の歴史を振り返り、日本の環境教育の源流にある自然保護教育と公害教育について考察する。戦後に始まった自然保護教育は、人間と自然との関係を根本的に再考するには至らなかったが、そこには実践性が貫かれていたとし、それは今日の学校の環境教育にとっても不可欠な要素であると指摘する。日本の環境教育のもう一つの源流である公害教育は、高度経済成長期の反公害運動の中で取り組まれ、環境問題の考察によって人間社会のあり方と発展についての問い直しを行った、とされる。筆者は、これら二つの源流を考察し、身近なところに着目するという要素および担い手が市民であるという要素に注目し、日本の環境教育の特徴として実践性と行動性を挙げた。筆者は、日本における環境教育の法制化・制度化の流れを追い、その主な担い手がかつてのような自然破壊や公害に対する強い危機意識を持つ市民ではなくなりつつあることを指摘し、ESDの導入や解釈が行政をはじめとする社会の指導層に任されがちになりはしないかと危惧している。以上を踏まえ筆者の掲げる課題は、日本における自然保護教育と公害教育が残した遺産をESDの中にどのように活かすか、である。
 第三章では、中国の環境教育の成立と展開の歴史および現状がまとめられる。中国の環境教育は、1972年のストックホルム国連人間環境会議を受けて、1973年に北京で開催された第一回全国環境会議を機に取り組まれるようになった。国連人間環境会議の決議に学んで、環境教育に盛り込まれる環境知識が組み立てられた。中国の環境教育は、スタート時から国際的な会議で合意された内容を反映するものであった。
 筆者は環境教育の発展段階をめぐる王民の説に基づき、環境教育の実態を紹介・整理する。まず、1973年からの環境教育の開始期は、教科重視の段階と性格づけられる。教科教育の中で環境汚染と自然生態系の基礎知識が触れられる程度であった。1983年からの発展期は、開始期を基礎にしながら、ベオグラード憲章とトビリシ会議の勧告の精神を取り入れた。環境教育の内容に、環境汚染や自然保護に加え、人口、資源、エネルギーなどの問題も含められ、「教学大綱」の中にその要求、任務、目的が明記された。数こそ少なかったが、生徒が参加できる課外活動が開発され、環境保護試験中学校が設立されるなど、知識教授中心の教科教育から、生徒の体験を重視する環境教育への展開が見られた。1992年からの新発展期の特徴は、環境教育がESDに軸を移したところにある。それを具体的に示しているのが、ヨーロッパから導入され緑色学校プロジェクトである。また、開始期や発展期の環境教育は主に中国国内の環境問題に着目したのに対して、新発展期にあっては人類やグローバルな視点で環境問題を考える能力を生徒たちに育もうとするようになった。つまり、環境教育をめぐる国際的なパラダイム・シフトが中国でも起きたのである。
 環境知識は、自然科学と人文・社会科学で構成するとされるものの、実際には学校では主に「地理」、「自然」(生態学)、「物理」、「化学」などの教科において伝達される。これらの教科による環境教育は重要であるが、生徒に現在の環境問題を技術の発達で解決するという思考様式を助長しかねないと憂慮する筆者は、つぎのように批判的考察を加えている。経済の発展や技術の発達に環境問題の解決を期待する傾向(いわば単なる技術型の環境教育)は、常に環境問題の後を追う形で進むことになり、問題を未然に防ごうとするという生徒の思考や環境保護のレジームの形成につながりにくい。したがって、上記の教科のほかに「語文」(国語)や「公民」(社会)などといった教科のカリキュラムの再編を通して、古来より蓄積された自然観、環境文化、智慧なども生徒に伝え、現在の過ちやひずみに対しても複眼的・批判的に見る眼を養うことを意図すべきである。
 第四章では、中国で展開されている緑色学校の全体的状況を整理し、その意義と問題の所在を探った。学校の環境教育は現実問題と乖離していることや、実践活動が不足していることなどが問題視されるなか、その対策の一環として、1996年から、ヨーロッパにある環境教育財団(FEE)の事業であるエコスクールをモデルにした緑色学校というプログラムが中国に導入された。中国の緑色学校プログラムは、FEEが設定した七つのステップ、すなわちエコ教育委員会の設立・環境調査・行動計画・監督と評価・カリキュラムの改善・公表と関与・行動規範に基づいて実施されるから、ヨーロッパのエコスクールと同様の手順で展開されている。本章では緑色学校の設立と運営が詳しく説明されるとともに、問題点と意義が論述される。
 問題点のひとつは、緑色学校の評価の点数化に基づいている。生徒の全員参加が理念上は重視されているのに、生徒の全員参加への配点は高くはなく、したがって、生徒参加が不十分でも、総合点は合格ラインに達してしまうというのである。批判的考察によって生徒参加が最大の課題として浮上する。
 緑色学校の意義として、筆者は、緑色学校プログラムの三つの総合性を指摘する。総合性のひとつは、自然科学と人文・社会科学の総合である。1975年のベオグラード憲章によって求められた環境教育の要点であり、環境倫理を始めとする人文科学や社会科学の分野にも重点が置かれるようになった。環境知識と実践活動との結びつきが、第二の総合性である。緑色学校のプログラムは、それぞれの教科を関連付け、生徒に環境知識を伝達し、学校の環境管理活動への生徒参加を促し、生徒が知識を活動に活かす実践の場が確保される。それと同時に、環境についての学習と活動が学校の日常管理にも織り込まれている。これは、緑色学校ならではの第三の総合性である。つまり、従来の学校運営、日常管理も、環境教育的意義を持つように設計されている。
 第五章では、緑色学校の実態が詳細に描かれる。調査対象として選択されたのは、緑色学校の比率の高い大連市にある実験小学校である。大連市では、2007年までに83校が緑色学校として登録された。その割合は、全市の初等中等学校の大よそ7.2%に達しており、全国平均の4%を上回っている。大連市実験小学校は2005年9月から緑色学校作りに取り組み始め、およそ1年半を経て緑色学校として正式に登録された。当校は、ほかの緑色学校と同様のステップを踏んでプログラムを展開している。本校におけるプログラムの展開過程を丁寧に追い、緑色学校プログラムの環境教育的な意義と問題点を析出する。
 本章では、聞き取り調査と文献資料によって緑色学校作りの過程が明らかにされるとともに、学校の日常生活が活写される。緑色学校における環境教育の三つの特徴が析出される。特徴とは第一に、学校システム全体にエコロジー的関心が浸透していることである。当校は、緑色委員会が組織されてから、各教科の教師に対して環境知識の習得を求め、職員に対しては学校の節電や節水、ゴミ削減と衛生などの環境管理の改善を求めた。環境活動への生徒の全員参加も、緑色学校プログラムのキー概念である。この全員参加が、第二の特徴である。プログラムの展開につれて、環境に関連する生徒組織が立ち上げられ、多様な課外活動・社会活動が計画され、すべての生徒が参加できるようになった。
 一般学校と緑色学校とは、教育内容に持続可能な発展という概念を取り入れる点では、異ならない。しかし、学校調査を行うと、緑色学校と一般学校の違いが大きいことが明らかになる。大きな違いの一つは、カリキュラムなどの改善の持続性である。緑色学校は持続的改善を意図するものでもあり、カリキュラムは絶えず刷新され、日常の環境管理も改善される。常に問題を見出して改善していく過程が持続するところに、緑色学校における環境教育の第三の特徴がある。
 緑色学校における環境教育のダイナミズムはある程度確認されたが、問題もある、と筆者は指摘する。そのひとつは次の事態である。緑色学校作りの各ステップに生徒は参加し、生徒が主体となって活動していくことが大原則であり、役割の分担や合意形成の仕方なども、生徒の活躍が期待されているが、それにもかかわらず、実際には「成功」を目指して、教師が往々にして先頭に立ち、生徒の参画を阻む場合が少なくない。
 第六章で筆者は、緑色学校が素質教育の実現に資する可能性について論じている。素質教育とは何か。中国では多様な学習であると安易に解釈されることもある、という。素質教育が人間の全面的発達という理念に由来していることから、生徒のあらゆる学習を含みこむ概念として使われることもある。筆者は、素質教育が取り入れられる背景となった受験教育の弊害を明かし、人間の自立を追求することに、教育の最重要な責務があり、それが素質教育の本質である、とした。
 素質教育の実現を困難にしている歴史的要因(科挙制度など)と現行の政策的方向付けの考察を踏まえ、この困難を打開する可能性を緑色学校は帯びているとされる。緑色学校プログラムは、生徒が主体的に緑色学校という空間で環境改善に関して計画作りや実施、見直しといったプロセスを歩むことで、素質教育が求める人間本位の教育を実施するための基礎づくりとなるのではないか、と筆者は論じている。緑色学校プログラムの各段階で生徒は活動によって自分の存在価値を見出し、他者とかかわりながら、自立への道を歩む力を獲得するのだから、個性に富んだ自立した人間の育成を目的とする素質教育の実現に資する可能性を緑色学校は有していると結論される。
 終章では環境教育の機能を制限している要因とそれら要因の克服について叙述されている。筆者によれば、中国の環境教育は行政と国際的な潮流との結合によって産出されたとされる。行政主導による環境教育であったために、一方では速やかな制度化と政策化が実現したが、他方では環境教育が均質化された。グローバリゼーションのもとで、環境教育をめぐる国際的な政治合意が環境教育のメインストリームを形作るなか、中国ではそれが受容され、環境教育の均質化傾向が強まった。これでは異なる地域での個別の環境問題に応じた多様な環境教育の実施は難しい。環境教育が集中的な行政主導から脱却し、個別地域の多様な環境問題の解決に取り組む主体形成を助け促す方向に舵を切るときを迎えつつあるとされる。
 中国では国際的な環境教育の流れから理念や制度、プログラムを次々と取り入れてきた。結果、現在、「地理」や「物理」、「化学」などの教科を中心に環境教育が実施されているが、中国の人々になじんできた環境に関する自然観や文化などが環境教育においてあまりあつかわれることはない。この点を指摘し、筆者は国際的な環境教育と継承されてきた自然観との融合が、環境教育の普及と浸透に必要であることを示唆している。
 また、現行の受験教育体制は、上級学校に生徒を送り込むことを教育の目的とする教育モデルであり、受験の点数や進学率が教育の質の基準とされ、学校における課外活動の展開や副読本の取り入れの阻害要因となっている。そのため、学校は社会の状況に素早く対応しがたく、内発的な環境教育の発展や多様な展開も困難な状況にある。
 緑色学校プロジェクトは、学校の環境に対する負荷をできる限り小さくすることを目標に、学校の教育活動、日常管理、環境改善活動などを有機的に結合し、生徒の主体的な参加を特徴としているが、この生徒参加が十分に実現されていない。環境教育を進展させるには、中国における教育システムそのものを再考し、国際的に典型的な環境知識の伝達ばかりでなく、中国の生活世界に蓄積された環境思想や自然観あるいは環境への負荷を少なくする智慧も活かし、多様な環境問題の解決に取り組む市民の形成に資する教育のありようを創り出す必要がある。このような課題が筆者により提起されている。
 
3.本論文の成果と問題点
 本論文の成果は、第一に、中国の環境教育の特徴を、国際的な動向とのかかわりの考察と日中の比較研究によって、説得的に論じたことである。中国における環境教育の発展過程についての先行研究はあるが、その過程が環境教育をめぐる国際的な動向と密接にかかわっていたことを、環境教育の内容の変化に照らして解明したことの学問的意味は小さくない。また、日中の環境教育の比較研究では、両国の相違点が鋭く分析されている。日本における環境教育の源流についての考察は的確であり、日本の環境教育研究に反省を促すような指摘が含まれていることも、注目に値する。歴史的考察と比較研究とから浮き彫りになる、ESDをめぐる辛口の研究課題は、日中のこれからの研究交流の重要なテーマになりうるものであり、本論文は日中両国の環境教育研究者に刺激的であると思われる。
 第二に、緑色学校研究として学問的に貢献している。緑色学校の存在は注目され、紹介論文はあるものの、それをめぐる本格的な研究は少ない。政策的に奨励され、学校数が増加しており、しっかりした研究が求められていた。筆者は、緑色学校の原点になっているエコスクールを調べた上で、エコスクールの中国における独自の形態である緑色学校を詳細に研究した。緑色学校の法的な位置づけを洗い出し、あるべき姿を文献資料によって明らかにした。さらに、緑色学校の比率が高い大連市で教育調査を行い、緑色学校の実像に迫った。参与観察と教師・校長のインタビューを行い、緑色学校の日常生活を描き出した。教室内のことや教科教育に傾斜した先行研究に対して、筆者は緑色学校の特徴をよく踏まえ、環境管理のありようにもフォーカスを当てている。もちろん、時間割などの学校生活を秩序付ける規則などについても丁寧な目配りがなされ、重要な資料が論文に載せられている。
 第三に、子どもたちと教師の日々の営みとして、緑色学校の日常世界を活写することを可能にした調査・研究の手法を高く評価したい。論稿全体を通して、緑色学校と一般学校との相違がくっきりと浮上してくる。既存の量的な調査も活用し、多様な資料を収集し、緑色学校の特徴、課題、可能性を浮き彫りにすることに成功したフィールドワークは評価に値する。
 以上のように、本論文は確かな成果を挙げたが、問題がないわけではない。第一に、緑色学校におけるカリキュラム研究は十分とはいえない。環境教育カリキュラムについて具体的に記述されているが、緑色学校のカリキュラムの独特な構成原理の解明には至らなかった。それは筆者が今後の課題としたこととかかわっているが、カリキュラム論がもっと精緻であれば、内からの環境教育の刷新の可能性をめぐる叙述がいっそう説得力を帯びたであろうと思われる。
 第二に、素質教育についての論述が一般的で、深みに乏しいことである。筆者が素質教育と緑色学校との関係を論じ、緑色学校の意味を教育政策全体のなかに位置づけたことは本論文の長所でもあるので、素質教育についての記述が説明的で厳しい考察を欠いていたことは残念であった。
 
 しかし上記の問題点については、筆者自身も十分自覚しているところであり、審査委員もまたそれらは筆者の今後の研究において克服されるであろうと期待している。
 よって審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に十分に寄与するものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定した。

最終試験の結果の要旨

2010年7月14日

 2010年6月23日、学位請求論文提出者、李全鵬氏についての最終試験をおこなった。本試験においては、審査委員が提出論文「中国の環境教育に関する研究―緑色学校の分析および日本との比較研究を通して―」について、逐一疑問点に関して説明を求めたのにたいし、李全鵬氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は、李全鵬氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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