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博士論文審査要旨

論文題目:難民との友情―冷戦体制が作り出した難民保護レジーム―
著者:山岡 健次郎 (YAMAOKA, Kenjiro)
論文審査委員:伊豫谷 登士翁、加藤 哲郎、足羽 與志子、小井土 彰宏

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Ⅰ.本論文の構成

 本論文は、冷戦体制において構築された難民保護レジームを、政治思想の観点から捉え返したものである。難民に関わる研究の多くが、国際法の枠組みを前提として理解してきたのにたいして、国民国家間体制の構築との関わりから難民を位置づけるとともに、冷戦体制が生み出した難民のおかれた政治的地位に焦点を当てることによって、これまでの研究によって可視化されなかった政治思想からの問題性を明らかにした意欲的な論考である。本論文の構成は以下の通りである。

序章 友情という展望
 はじめに
 本論の目的
 アレントと難民
 アレントをどのように読むか
 友情について
 おわりに
第2章 国民と難民 ―難民の存在論的起源を問う
 はじめに
 国家と国民
 国家と難民
 国民と難民
第3章 冷戦と難民 ―あたらしく難民を定義する
 後向きで取り組む
 移行期の難民
 これまでの難民定義
 あたらしく難民を定義する
 結語
第4章 難民という「事業」
 「帰国」の夢を抱いて
 北朝鮮への「帰国事業」
 難民という事業
 おわりに
第5章 移民と難民
 はじめに
 難民研究の発展
 移民と難民
 主権と難民
 おわりに
終章

Ⅱ.本論文の要旨
 1980年代以降、欧米先進諸国における広い意味での移民政策のなかで、いわゆる不法移民と難民は大きな争点として浮上してきた。それに呼応して、難民に関わる研究は、人の移動に関わる研究だけでなく、人権の問題として、紛争解決や開発、環境など幅広い問題領域において行われ、近年では強制移動研究という枠組みから取り上げられるようになってきている。本論では、難民を国際的な体制として受け入れるようになった冷戦期を転機として、難民の地位、ならびに難民と国民社会に生きる私たちとの関係性が、決定的に変容したと捉える。これまでの難民に関する研究の多くは、国際法などの法制度を前提とし、難民の政治的次元が問題化されることは少なかった。ここで問題化されているのは、法制度上の地位や配分的正義の問題ではなく、すぐれて政治的な徳目であるところの「友情」という関係性である。本論の政治思想的な視座は、「難民との友情」という問題を提起することによって、難民を保護すべき存在として対処するのではなく、「友情」に値する存在とみなすための展望を切り開くことにある。以下、各章の概要である。

序章 友情という展望
 難民の政治性を捉える基本枠組みとして、ハンナ・アレント『全体主義の起源』第二巻「帝国主義」の最終章において展開した論稿(「国民国家の没落と人権の終焉」)を手がかりとして、20世紀前半における難民と後半の冷戦期における難民のあり様の差異が対照される。アレントが論じた20世紀前半において、難民という存在は、いまだその地位が未決の状況であったことが強調され、地位は身分化されておらず、認識も自然化されていなかった。言い換えるならば、難民は、他のさまざまな移民と厳然と区別される存在ではなかったということになる。アレントにとって、難民とは無国籍者の問題でもあったが、無国籍者がそのまま難民となるのではなく、無国籍であることが国民社会からの切り離しを意味するようになったとき、難民性に帰結する、と言う。しかし、冷戦期に東からの難民の人権を保護するという名目で構築されるようになった難民保護体制は、国民社会の切り離しによって難民の基本的原理を隠すものである、と捉えられる。すなわち、アレントの議論を導入することによって、難民とは所与のものではなく、国民社会における認識の変容が問題であることが確認される。国民社会との切り離しとは、難民と人々との接触空間がどのように存在しうるかという点にあり、その鍵を構成する概念として「友情」が持ち込まれる。難民との政治的な関係性を「友情」という政治的徳目の重要性において捉え返し、戦後の難民保護体制の構築をめぐる事態の進展は、難民に対する保護を拡張していく過程であったのと同時に、そうした政治的徳目としての「友情」を疎外する過程でもあったのではないか、という問題提起がなされる。

第2章 国民と難民 ―難民の政治的存在論
 本章では、避難民が難民になるという契機について、国民国家という政治的組織化原理と難民発生とが不可分の関係性にあることが論証される。主権国家間関係の成立が難民という存在を生み出し、19世紀以降の国家と国民の関係が難民の無権利状態を招来してきた歴史を、国家・難民・国民の三様の関係性から論じられる。ヨーロッパにおける近代国家形成は、一方での移動の自由を掲げながらも、他方では国民の移動を領域に限定し、越境する移動を管理する過程であった。そしてその国家が国民国家として組織化されていく過程は、難民を無国籍者として析出していく過程でもある。国民国家という政治的共同体の組織化原理に媒介されてはじめて、避難民は、国民社会からの切り離しという契機を通して、難民として現出することが確認される。こうした近代ヨーロッパ世界における難民に対する認識が、冷戦期の東から「自由」を求める難民の保護体制をもたらしたのであるが、この「難民」に対する規定がより大きな問題として現れるのは、歴史的文脈の異なる脱植民地化以後の第三世界へと移植されたときに生じる「難民危機」であることが指摘される。そこでは、いわゆる難民保護を正当化する原理として、「自由」を求める難民の「人権」保護から、紛争から脱出してきた貧しい人々の「人道」保護への移行であることが、明らかにされるのである。

第3章 冷戦と難民 ―あたらしく難民を定義する
 本章では、難民という存在に対する認識の変化と冷戦体制下における難民という地位の確立とが深く相関していることが確認され、難民という存在の再定義が試みられる。戦後に発展した難民保護レジームにおいて、難民は、国家的な暴力による迫害によって国外に追放され、そして保護されるべき規範的な地位を獲得することになった。しかしながら、難民が一定の地位を得るということは、国民国家や国民社会との関係において抱え込むはずであった、難民の原理的な困難は隠蔽され、対処可能な存在へと変容したことを意味する、と捉えられる。それゆえに、難民条約における難民の定義にしても、あるいは条約難民を批判したかたちで提出されるより拡張的な難民の定義にしても、いずれも難民を対処可能な実体的な存在であるとみなしていることになる。ここで主張されるのは、人権や人道といった難民を保護するために動員される理念が国家間の権力関係に持ち込まれたさいに、必然的に難民と国民社会との切り離す機制として機能するということであり、「難民保護レジームによって身分化される」ことになる。山岡氏が主張するのは、難民の実体的な定義を行うことにあるのではなく、難民をある特定の身分として囲い込む身分化の前提を問題化し、戦後の難民保護レジームを分析するための道具立てを問い直すことにある。
 
第4章 「難民」という事業
 戦後の日本において、インドシナ難民がボート・ピープルとしてやって来るまでは、いわゆる「難民問題」は存在しないと言われてきた。しかし本章では、日本における難民研究が看過してきた在日朝鮮人の北朝鮮への「帰国事業」を「難民問題」として取り上げて分析される。短期間に何万人もの人々を「帰国」させるという、大規模な「帰国事業」が組織化可能であったのは、確かに、日本国内の在日朝鮮人の置かれた厳しい状況とともに、日本・北朝鮮・韓国ならびに米ソの各国の利害と思惑が交差し、国際赤十字が動いたことによる。しかし、テッサ・モーリス=スズキ等による研究によりながらも、「帰国事業」が大規模に展開し始めた1958年の8月以降に、「帰国事業」への人々の認識は大きく変化し、そのことが「難民問題」の発生の契機となったと捉えられる。すなわち、「事業」に取り込まれたときにはじめて、在日朝鮮人の人たちは日本社会から切り離されて、その存在は難民となる。難民は、「事業」が企図される以前からあらかじめ実在しているのではない。「事業」以前と以後とで存在の様式は変容している。その意味において、「事業」が始まる前までは、私たちと「難民」とは繋がっていたのであり、相互に外部にあって対峙していたのではない。しかし、そうした繋がりは、「事業」の開始という日本社会の認識の変容によって隠蔽され、国民社会と「難民」とは隔離された存在へと移し替えられた、と論じられる。

第5章 移民と難民
 本章では、1980年代以降の難民研究の展開を跡づけながら、移民とは区別される難民の地位の変容過程が論じられる。冷戦体制下における難民は「東」から逃れてくる政治的避難民であったが、80年代以降の「南」からの難民キャンプの避難民たちの増大は、高度成長の終焉を迎えた先進各国の公的な場において、移民受け入れの限界という文脈で政治化されてきた。学問分野としての難民研究の体系化がはじまるのは、この時期である。本章では、移民研究の代表的な雑誌であるIMR(International Migration Review)における1981年の『特集号』、88年のJRS(Journal of Refugee Studies)の創刊号から『十周年記念号』までの代表的な難民研究雑誌を素材として、難民研究がどのように展開され、難民の捉え方がいかに変化してきたのかを辿るとともに、移民と政治との関係性をJ.ホリフィールド等の議論を参照しながら論じ、移民と難民との原理的な区別を企図し、国民社会の中で生活する移民と、主権的な領域に連れ去られる難民という区別を指摘した。こうした議論を踏まえて、難民という存在は、主権の衰退ではなく、「主権の過剰」の函数として捉え返される。すなわち、主権の過剰が浸透した現象として、難民という存在を考えることができるのではないか、と問題が提起される。主権の過剰とは、結局、支配の原理であり、民主的な原理と背反することが起こりうる。主権の過剰な介入によって、難民と国民社会との隔絶がもたらされたことによって、民主的な回路が閉ざされ、難民との「友情」は困難に陥ってしまった、と結論づけられる。

終章
 難民の地位の変容過程を政治の問題に持ち込み、認識の位相から説き明かすことによって、「難民問題」における問題の所在というのは、難民自身にあるのではなく、「私たち」の側にあるということが、確認される。戦後の難民保護レジームが確立される過程において、「難民問題」の解決を主権的な領分に引き渡してしまったことが、私たちと難民との間に決定的な断絶を作り出してしまった。山岡氏は、難民に関わるさまざまな研究が果たした役割の重要性を確認しつつも、そのことが難民を保護する対象へと置くことになり、客体化してきたことを問題視し、それは一方においては「保護」を可能にしてきたが、他方において「友情」を疎外する過程でもあった、と結論するのである。



Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として、以下の諸点があげられる。
 第一には、難民の政治学を企図したことである。難民研究は、強制移動研究を含めて数多く行われてきたが、その多くは紛争と具体的な難民の状況、そして人権や人道をめぐる国際法的な適用の問題として行われてきた。本稿は、これらの難民研究が行われてきた前提条件を問い直し、政治の次元から捉え直すことによって、主権行為の委譲が社会に引き起こした認識の変容の観点から問題点を析出した。近代国家において人の移動は、さまざまな法制度によって国家的に管理されてきた。難民という範疇も、最初からあったわけではなく、歴史的な局面においてある特定の地位として作り出されたものであり、諸局面によって変化する。本稿は、難民と呼ばれてきた存在が所与としてあるのではなく、国境あるいは境界を越えるさまざまな人の移動から区別されて、国際的な法制度のなかで一定の身分として扱われるようになったことを明らかにした。そして国際的な法制度上の難民の地位・身分の制度化が、難民と呼ばれる人たちの社会からの隔離として進められ、そのことが難民と国民との関係性を遮断してきた点が明らかにされる。
 第二は、移民から難民が切り離されることによって、難民にかかわる言説が抱え込まざるを得なくなった論点を提示したことである。難民は、しばしば、移民問題の延長上で捉えられてきた。とくに1980年代以降、南からの大規模な移動は、移民研究に転換をもたらすとともに、難民研究の制度化を引き起こしてきた。本稿では代表的な移民研究、難民研究の国際的研究雑誌の内容を丹念に辿ることによって、難民問題の焦点が転移し、論点が大きく変化してきたことを跡づけた。難民という地位の歴史的な変容過程は、しばしば国際法の発展の歴史として理解され、これまでの難民に関わる研究では、国際法の人権や人道といった理念の発展、ならびにそれに対する各国政府間の利害対立が取り上げられてきた。本論文は、そうした認識の前提となる難民の定義・概念自体を問題として摘出し、難民問題と言われる具体的問題群のなかで不可視化されてきた前提の陥穽を明らかにした点である。そしてこうした前提ができあがったのは、冷戦体制の過程であり、冷戦体制の確立過程において、難民と国民社会との関係性が決定的に変化したことを指摘した。
 第三は、東西冷戦体制が生み出した国際的な統治のひとつとして難民保護レジームを位置づけ、そのことを帝国主義および植民地体制崩壊の延長上に歴史化しようとしたことである。帝国主義は国民的な領域への分割の過程であり、多くの難民を生み出してきたが、植民地体制の崩壊は、それをはるかに上回る難民の析出過程であった。東西の冷戦体制は、そうした難民析出を覆い隠す制度として、国民社会からの難民の切り離しが行われ、東西冷戦期において難民保護の国際的な体制が構築されることになった。本稿は、冷戦体制という特有の国民国家の時代に、一方から他方への越境者が難民として囲い込まれる、いわゆる難民レジームの歴史的な側面を明らかにしたのである。しかしながら、冷戦によって確立した難民レジームは、冷戦体制が揺らぎいわゆる地域紛争が拡大するなかで、「南」からの大規模な「難民」に直面し、これまでの人権から人道へと変質を遂げる。
 この難民保護レジームは、東から西だけでなく、西から東へも起こりえた。さらに、植民地主義の解体は戦後の難民を捉える鍵であり、日本においてもその例外ではあり得ない。その事例として日本からの朝鮮「帰還者」と旧植民地からの「引き揚げ者」がある。本稿の大きな成果のひとつとして、北朝鮮への「帰国事業」を「難民」として捉えたことをあげることができるであろう。日本において「引き揚げ者」や「帰国事業」を難民と捉えたものは、一部の在日朝鮮人研究者を除いて、希であった。本論文では、「帰国事業」に携わった人へのインタビューを試みることによって、「帰国事業」が国家的な社会との切り離しとして「事業」化されてきた過程が、描き出されている。本稿は、日本における難民問題の基点が、インドシナ難民の受け入れではなく、在日朝鮮人問題にあることを明らかにしたと評価できる。

 しかしながら、難民に関わる研究の前提を問い直そうとする本論文の研究成果は両義的であり、さまざまな脆うさを抱えるものである。まず第一には、難民認識における近代の歴史的な変容に関わる論点に関してである。国境を越える人の移動を難民という存在に置いてきたのは、国家と国民ならびに国民国家間関係の歴史的な展開過程であり、また難民の国際的な保護体制を構築したのは戦後冷戦期の国際政治の力関係であったが、それとともに、人の移動を対象としてきた研究者たちの作為でもあった。もしそうであるなら、本論文で企図された難民認識の変容という観点も、山岡氏自身の作為であり、そのことが自覚的に論文のなかに生かされたとは言い難い。そのことは、本稿で取り上げられる難民の歴史的な地位の変容として取り上げられる事例が限定的であるとともに、主として難民研究の中心を担ってきた西ヨーロッパに限られていることに示される。
 さらに、現実の過酷な状況にある「難民」を想起するときに、難民の存在論を問う本稿にリアリティが欠けているのは、そのことが課題でないことは承知しながらも、問題を残すことになる。また、難民研究を難民史研究といかに結びつけるのかは難しい問題であるが、難民認識の変容を問題化するならば、もう少し幅広い難民の歴史への言及があってもよかったであろう。
 第二に、難民を他のさまざまな国境を越える人の移動の諸形態から抽出したことによって、逆に「移民」とともに、いわゆる「不法移民」、「亡命」などを含めて他者化されてきたさまざまな国境を越える人の移動と共通して抱える課題が不可視化されてしまったことである。さまざまな形態の国境を越える移動が、ディアスポラ研究やポストコロニアル研究などを含めて、大きな関心を集めるようになってきている。難民が国際政治の中核的な課題となったのは、現代史特有の出来事ではあるが、それと同時代的に、たとえば「不法移民」が「移民問題」の中心的なテーマとして浮上してきたのであり、人々の存在論的認識を問うのであれば、他者として外国人を排除し、受け入れてきた国民社会と国民社会から隔離した難民との関わりについて、こうした課題との関わりを意識的に言及されてしかるべきだと思われる。
 第三は、難民に対する「友情」という本論文の鍵をなす議論に関してである。「難民」との「友情」を築けるような関係をいかに構築できるかが、本論文のテーマであったが、それではそうした関係がどのようなものであったのか、難民の歴史的な考察があってしかるべきであろう。本論文で言う難民に対する「友情」は、何よりも政治思想のパラダイムにおける枠組みであり、それは具体的な難民の歴史を対象にしたものではない。難民史がテーマでないとはいえ、迫害などによって追われた人々を受け入れてきた都市の研究など、「友情」といわれるものに関して取り上げられてきた歴史研究などを含めて、結論部において、より詳細な分析が求められる。さらに、国民国家と難民という関係性は、西ヨーロッパ的な国民国家と東欧諸国、さらに、「移民の国」を自認してきたアメリカ合衆国では異なる。山岡氏自身が自覚的であるように、「友情」という概念は西ヨーロッパ的であり、それが他の地域に転移させるときの手続きには、いくつかの留保と媒介項が必要であろう。
 最後に、難民研究そのものの前提を問い直した本稿の作業に関わるものである。難民研究は、国民国家的な利害から自由ではあり得ず、各国の政治的な利害を反映して行われてきた。本稿で取り上げたイギリスの難民研究所も、西側諸国の対外戦略あるいは関心に規定されてきた。この点で、移民研究と同じく、難民研究も、きわめて政策科学へと傾斜した学問分野であり、そこから現れる難民に関わる像は、各時代の国家政策や国際関係を反映したものである。本論文が前提を問い直す企図のもとに展開してきた難民研究も、基本的には、こうした政策科学化した難民研究であり、そうであるとするならば、難民研究の政策科学化を問う作業へと向かう必要があるであろうし、こうした枠組みに入らない難民研究がいかにすれば可能であるか、その方向を示すべきであった。また、方法としての難民、難民の政治思想として展開したことによって、現実の難民問題が持つリアリティが背景に退き、難民研究の再構築への展望を閉ざしてしまった面がある。本論文が直接的には難民論あるいは難民研究を目的とするものではないとはいえ、難民認識にたいして重要な問題提起をした以上は、こうした問いに答える社会的な責任を負うものであることは自覚的であるべきだろう。

 本論文はこうした課題を残しつつも、これらは本人のすでに自覚するところでもあり、審査員一同は、本論文が政治思想の観点からの難民認識に大いに刺激を与え、寄与しうる成果を確実に挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2009年7月8日

 2009年6月12日、学位論文提出者山岡健次郎氏の論文について最終試験を行なった。試験においては、提出論文「難民との友情―冷戦体制が作り出した難民保護レジーム―」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、山岡健次郎氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、山岡健次郎氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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