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博士論文審査要旨

論文題目:近代中国政治統合の研究-立憲・地方自治・地域エリート-
著者:田中比呂志 (TANAKA, Hiroshi)
論文審査委員:三谷 孝、糟谷 憲一、坂元 ひろ子

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   一、論文の構成
 本論文は、19世紀後半から1920年代に至る期間に行われた、清朝末期の立憲制の試行・辛亥革命と国会議員選挙・袁世凱政権の集権化政策・民国初期の地方自治制度の再編という一連の近代国家建設のための制度改革に、江蘇省の地域エリートがどのように対応してその地方自治の実現・充実のために活動したのかを解明することを課題とした実証的論文であり、著者が1990年から2007年にかけて一貫した構想にもとづいて発表した11本の論文をもとに新たに執筆した1章を加えて、全体をまとめ直したもので、400字詰原稿用紙に換算して約1110余枚からなっている。

 その構成は以下のとおりである。

序 章
第一節 問題の所在と本論文の課題
第二節 本論文の構成
第Ⅰ部 清末地方政治の展開と地域社会の変容
第一章 清末民初における地域エリートと社会管理の進展
      -江蘇省宝山県地域社会を例として-
第一節 宝山県の設置と地域エリートらの共同性
第二節 地域エリートらのネットワークの外的拡大
第三節 地域エリートによる社会管理の進展
第二章 諮議局の設置と地域エリートの政治参加 
第一節 諮議局設置の端緒と地域エリート
第二節 社団の設立と地域エリート
第三節 諮議局籌辧所の設置と地域エリート
第四節 選挙の調査と実施
第三章 清末の地方自治の実施と地域エリートの活動
第一節 「試辧」自治の経過
第二節 江蘇省下の自治の展開
第三節 地方自治の展開と地域エリート
第四章 清末民初の地方政治構造とその変化
第一節 地域エリートの政治参加と地域エリート層の形成
第二節 知県と地域エリートの衝突
第三節 「光復」後の政治組織の再編
第Ⅱ部 立憲制の展開と政治統合
第五章 清末の立憲運動の展開と責任内閣制論
第一節 預備立憲の宣布・進展と責任内閣制論
第二節 責任内閣制論の展開
第三節 軍機大臣の弾劾と新内閣の成立
第六章 地域エリートの立憲構想と地方自治論
第一節 自治活動参画への契機
第二節 初期立憲論・自治論の展開
第三節 日本訪問
第四節 立憲活動の展開と地方自治論
第七章 議会政治の展開と権力闘争
第一節 袁世凱政権への参加
第二節 国民党の結成
第三節 戦略の構築と挫折
第八章 第一回国会議員選挙と国民党
第一節 選挙制度の制定
第二節 国民党の成立とその組織
第三節 選挙の展開
第九章 民初における中央政治の変容
第一節 正式国会の開会と憲法起草委員会の成立
第二節 第二革命前における諸政治勢力の憲法制定に対する姿勢
第三節 大総統の選出
第四節 天壇憲法草案の起草と議会制度の「終焉」
第Ⅲ部 地方自治の再編と地域社会
第十章 民初における地方自治制度の再編と地域社会
第一節 清末の自治制度の性格とその継承
第二節 地方自治の停止と再編
第三節 模範自治の策定と試行
第四節 地方自治制の変動と地域社会
第十一章 清末民初における新県設置と地域社会
第一節 外沙の沿革と請願の発議
第二節 分県をめぐる議論
第三節 議論の展開
第四節 分県の挫折と実現
第十二章 1920年代における地方自治と地域エリート-蘇社を中心として
第一節 江蘇省政の変遷と地域エリート
第二節 蘇社の結成
第三節 蘇社の組織・理念・活動
終章

註釈
引用史料・文献リスト
あとがき

   二、論文の概要

 序章では、まず本論文の課題が提示される。1970年代までの中国近現代史研究はいわゆる「革命史観」の枠組みに即して論じられることが多く、清末民初の時期に関しても革命派の武装蜂起・辛亥革命と中華民国の成立・袁世凱政権による反動といった善悪二元論的視角が前提とされていた。このような問題点を克服するために、著者は、伝統社会をリードしつつ清末の国家建設に積極的に関与していった地域エリートの存在に着目する。そこでは、①清末における地域エリートの登場と地域社会のリーダーシップの掌握・近代的国家建設への関与の過程がいかなるものであったのかといういわばミクロ的な問題と、②清末民初の変動期において、専制政治の否定と清朝版図の維持という二つの問題がどのように絡み合いながら展開していったのかというマクロ的な問題が、解明すべき課題として提示される。
 なお、本論文作成に際して、主として利用されている史料は、①中国第二歴史档案館(南京)所蔵の清朝政府関係の档案、②上海図書館・国家図書館・南通市図書館所蔵の地方団体・議会・県政府の档案・公報・報告書、③江蘇省各県の地方志、④『中華民国史档案資料匯編』『蘇州商会档案叢編』『清末籌備立憲档案資料』『湖北省諮議局文献資料匯編』等の公刊資料集、⑤『憲政雑誌』『憲法新聞』『申報』『東方雑誌』『盛京時報』『民立報』等の新聞・雑誌類、⑥張謇・蔡鍔等の文集・日記、『辛亥革命回憶録』等の回想録類である。
 第Ⅰ部「清末地方政治の展開と地域社会の変容」では、地域社会における構造的変動を背景とした地方政治の展開とその波及作用について分析が行われる。
 第一章「清末民初における地域エリートと社会管理の進展」では、江南地域における地域エリート台頭と、彼らによる地域社会のリーダーシップ掌握の具体的過程について検討される。本章でとりあげられた江蘇省宝山県では、道光年間(1821-1850)に「経董」という肩書きをもった人々が、善堂(慈善組織)の管理運営を担当することを通して地域社会に影響力をもち、地域エリートとしての役割を担い始めていたが、その後、地域防衛(団練の整備)を通してそのネットワークを拡大していった。そして、19世紀最末期になると近代的教育を受け留学経験を有する、従来とは異なったタイプの地域エリートが登場したが、彼らこそがその後の地方自治の担い手となり、立憲制をその基盤において支える存在になっていく。こうした新エリートは、地域固有の問題である土地所有をめぐる混乱した状況を解決するために「清丈」(土地測量と台帳の作成)に着手し、その過程で様々な地域情報(宗教・塾・土地所有・経済状況等)を入手して記録に残し蓄積していった。こうして地域エリートの関心は、地域社会の「陋俗」の改良と「文明化」に向けられるようになり、社会管理への進出が進展していったとされる。
 第二章「諮議局の設置と地域エリートの政治参加」では、地方議会に相当する諮議局の設置を担った人々とその動機及び準備過程について、江蘇省を事例として具体的に検討される。江蘇省では清朝の命を承けて、上海の12の社会団体が招集され、諮議局の設置についての議論が行われた。著者は、これらの団体とそのメンバーについて詳細に検討した結果、これらの団体が商会の董事・教育者・各地域の区董董事(地方自治執行機関の職員)・善堂の董事等各種の組織においてリーダーシップをとる人々から構成されていたこと、各団体には重複した構成員も多く見られたことを明らかにした。地方自治が全国に波及すると、張謇等によって江蘇諮議局研究会が結成されるとともに、「公正明達な官紳」によって構成された二つの諮議局準備所が設立され、諮議局設置に向けて具体的な作業が進められていった。諮議局議員選出のためには戸口調査等の各種調査が必須の前提になるが、各地域の区董や図董・士紳らの動員によって有権者名簿が作成されるに至る。
 第三章「清末の地方自治の実施と地域エリートの活動」では、全国的実施に先行して試験的に実施が試みられた江南地域における地方自治において地域エリートの果たした役割が検討される。天津での地方自治実施にならって開始された江南の試験的自治は当初は官僚主導で始められたが、やがて民間もこれに呼応して地域社会に地方自治推進のための組織が形成されていった。1908年に清朝の改革全体の計画(「逐年籌備事宜」)が、ついで二つの地方自治章程が策定されて、地方自治は全国的実施の段階へと移行する。地方自治実施に関与した官僚・地域エリートらにとって、地方自治の実施は、①立憲制と一対をなす地方自治すなわち「上下の一体化」「君民の一体化」を実現するための官治補助的な地方自治、②地域社会を維持・発展させるものとしての地方自治、の両面をもつものであった。地方自治の前提としての戸口調査が実施されると、それが徴兵や増税につながるという「謡言」が流布されて「地方自治風潮」と呼ばれる民衆暴動が各地で続発した。暴動の主体であった民衆は官僚・紳士等はともに自分たちを虐げる存在と見なしていた。地域エリートはここで、地域社会の模範的存在であるべきであるとされる伝統的紳士像と、地方自治の知識を習得し私的な利権意識を排除して「公」意識に基づいて地方自治の実現に当たるべきことを求められる存在、との間において微妙な政治的な位置に立たせられることになったとされる。
 第四章「清末民初の地方政治構造とその変化」では、地方自治の実施が地方の政治構造や地域エリートの人的ネットワークにいかなる変化を及ぼすことになったのかが宝山県の事例について検討される。清末新政時以降、教育分野から政治分野へと参入して活動領域を拡げていった地域エリートは、学校の建設や管理運営の過程で、官僚との協力関係を維持しつつ、地域エリート同士の関係を拡大・緊密化させていったが、さらに清丈事業の推進・地方自治機関の設立を契機として「県エリート」へと成長していった。こうした地域エリート等の強力な結合のあり方は、徴税という官僚の専権事項をめぐって引き起こされた知県との二度にわたる摩擦の際に、自らの掲げる要求を官僚に認めさせるに到った結果からもうかがい知ることができる。そうした力量の増大を背景に、辛亥革命の際には宝山県のいわゆる「県人治県」が実現したのである。これは自治的傾向の強い地方自治であったが、結果的には袁世凱政権による地方自治停止命令によって停止されるにいたる。
 第Ⅱ部「立憲制の展開と政治統合」では、立憲制の導入とその展開について、その導入が辛亥革命、そして中華民国の成立とどのように関わったのか、袁世凱政権の成立・民国初期の政治統合といかなる関わりを持ったのかが考察される。
 第五章「清末の立憲運動の展開と責任内閣制論」では、清朝の立憲推進に呼応して展開した地域社会における立憲運動について、それが広範な政治勢力を結集した運動となって、最終的には革命運動と合流して、清朝の政策目的とは異なる結果をもたらしていく経過が考察される。清朝当局が意図していた責任内閣とは皇帝に対して責任を負うというものであり、内閣の設置が国会開設よりも優先的に考えられていたが、この構想には地方官僚からも異論が提起されて、政権内部でも責任の対象について一致した理解が得られていないことが露呈された。「逐年籌備事宜」が公布されると、国会の早期開設と責任内閣の設置を請願する要求が各地域の利害を主張する動きを超えて提出され、広範な支持を獲得していった。また、国会こそが内閣を監督し内閣に責任を問い、専制と立憲とを区別する最も重要な存在とされ、内閣と国会の同時設置が求められるに至った。こうした広範な運動に押されて清朝政府も、当初の計画より早く1914年に国会を開設することを決定したとされる。
 第六章「地域エリートの立憲構想と地方自治論」では、江南地域の地域エリートの代表的存在であった張謇の思想と行動を手がかりとして、彼らが地方自治と立憲政治とをどのように関連づけてとらえていたのか、地方自治は新国家建設といかなる関わりをもつものだったのかが検討される。郷里の南通で地域社会の発展のために尽力していた張謇は、清朝が立憲準備を宣言すると、清朝の立憲国家への再生を論じた「変法平義」を著し、さらには視察のために日本を訪問する等、立憲制の実現に向けて本格的に取り組むに至った。張謇が最終的な目標としたのは「上下の一体化」を実現して専制を克服することであり、そのために上下を媒介すべき役割を担う士大夫・郷紳らの責務を意識し、また国民を育成する教育の振興に努力を傾注していく。当時張謇は、「亡国」の危機に瀕する清朝を保全することよりも中国全体・中華民族全体を保全することを優先する考えに立っていたことから、武昌蜂起後に清朝政権を見限り、中華民国成立へ向けての行動にいち早く転換することができたのである。地方自治が立憲の基礎であると認識する張謇は、地方自治の根幹を「村落主義」と称していた。彼は晩年になって議員の腐敗や人々の道徳的堕落に失望して地域での活動に回帰していったのであるが、これには彼の世界観と深い関わりがあった。それは個人の道徳を起点とし、地域から省、そして国家全体に同心円状に拡大していくという世界観であり、その核心部分を構成するのが「村落主義」であったとされる。
 第七章「議会政治の展開と権力闘争」では、宋教仁の思想・行動を中心に、民国成立後の議会政治の実現をめぐる権力闘争について、多様な政治勢力がそれぞれの主張を掲げて政治統合を模索する中で、二つの大きな課題(専制の否定と版図の継承)がどのように解決されようとしていたのかが検討される。宋は民国成立後に同盟会を秘密結社から議会政党へと改造すること、そして責任内閣を実現することに最大限の努力を傾注した。そして民国初期の頻繁な内閣の交替に見られる政治的不安定状況を克服し、宋の考える責任内閣を実現するためのステップになるはずであったのが、民国元年末から翌年はじめにかけて実施された国会議員選挙であった。この中国史上最初の選挙において宋の率いる国民党は多数の議席を獲得し、宋自身の理想とする責任内閣=政党内閣は実現されるかに見えたが、袁世凱の配下による宋の暗殺によって挫折するに至る。
 第八章「第一回国会議員選挙と国民党」では、第一回国会議員選挙に勝利した国民党の運動や地域組織の形成、その活動が検討される。1912年8月、宋教仁らの努力によって結成された国民党は本格的な組織形成を進め、来るべき選挙に備えて準備を進めた。国民党の地盤でない地域に、同党の組織的拡大を可能にしたのは、地域の有力者のもつ人的ネットワークであった。それらは都市部では新聞社の社長や主筆・勧学員、農村部では教育会長・地域の董事・校長などの人々であった。政党は地域社会に対する貢献(学校建設・銀行経営)等を行って党員の獲得に努力したが、こうした活動によって国民党は地域社会での支持を拡大して選挙での勝利に結び付けていったとされる。
 第九章「民初における中央政治の変容」では、第一回国会議員選挙・宋教仁暗殺事件後の憲法制定・大総統選出をめぐって展開した政治闘争の過程とその帰趨が検討される。第一回国会議員選挙後の最も主要な課題は、中華民国臨時約法および臨時大総統に代えて正式な憲法を起草・制定して大総統を選出し、中華民国の基礎を構築することにあった。1913年6月、憲法起草委員会が設立されて起草作業が進められたが、国会議員選挙における国民党の優勢を背景にして、この委員会でも国民党議員が多数を占めたため国民党優位の議論が展開すると思われた。そこでの議論は、行政に対する議会の拘束が比較的強い中華民国臨時約法の性格を継承する方向で進められたが、同時期に発生した第二革命での国民党系都督の敗北の結果が、この制定作業に重大な影響を及ぼすことになった。委員会では、憲法制定を先にするのか、大総統の選出を先にするのかをめぐって議論が戦わされたが、第二革命の結果大総統の選出を先行することになり、袁世凱が初代の大総統に選出された。袁は国民党を解散して国会を機能停止に追い込み、国家の統一を優先させる自己の政策に基づいて集権化を進めようとしたとされる。
 第Ⅲ部「地方自治の再編と地域社会」では、中央政治の枠組みや方向性が変容していく中で、地方自治がどのように変わっていったのかが、地域社会の変容との関連の下に考察される。
 第十章「民初における地方自治制度の再編と地域社会」では、袁世凱政権の権限強化が進展する中で、地方自治や地方統治がどのように進められようとしたかが考察される。袁世凱政権の集権化政策は地方自治にも及び、1914年2月の大総統令をもって地方自治は停止された。袁世凱政権にとっては「県人治県」と呼ばれるような状況は官僚統治・行政を阻害するものとされ、再び清末の官治補助的自治に回帰して、社会の末端まで官僚統治が浸透するような自治制度に改めようとしたのであるが、この構想は袁世凱政権の崩壊によって頓挫し、地方自治も停止されたままに各種の組織の管理のみが地域社会に委ねられる形となった。こうした状況に対応して、江蘇省では各県で地域エリート等を中心として県自治復活の気運が高まり、様々な団体によって運動が広範に展開された。その過程において人材や社会発展の程度・地域経済等各県の抱える様々な問題も明らかになっていく。
 第十一章「清末民初における新県設置と地域社会」では、江蘇省啓東県の設置をめぐる地域エリートの動向と民国初期の地方自治運動とが考察される。啓東県は長江の最下流の北岸に位置する江蘇省でもっとも新しく県となった地域で、それ以前は(崇明)外沙と呼ばれて崇明県に所属していた。清末に地方自治が開始されると、地域発展をめぐる利害対立が顕在化して、外沙の地域エリートらは崇明県からの分離・新県設置を求めて運動を展開した。崇明県の地域エリートらはこれに反対を表明し、双方は張謇ら江蘇の地域エリート・江蘇省当局や江蘇省議会及び北京政府内務部に働きかけを行い、分県の是非をめぐって激しく綱引きが展開された。それらの議論から、外沙の土地所有者が内沙(崇明島)の人々であったこと、分県した場合に内沙の地方自治経費が大幅に減少してしまうこと等の事情が明らかになった。この問題は容易には決着しなかったが、国民党南京政権が成立した後の1928年になって最終的に分県が実現されるに至る。
 第十二章「1920年代における地方自治と地域エリート」では、北京政府期において中央権力が地域社会に浸透を果たそうとするなかで、地域社会がそれにどのように対応しつつ、地方自治を獲得していこうとしたのかが検討される。袁世凱死後の1920年代に軍閥の統治下に置かれていた江蘇省の地域エリートは「軍民分治」の実現を梃子として「蘇人治蘇」によって中央の介入を最小限度に止めようと図った。本章では、1920年に張謇らの江蘇省の地域エリートによって結成された蘇社の地方自治論を中心にその具体的過程が明らかにされている。
 終章では、以上の各章が要約されるとともに、今後に残された課題が述べられている。




   三、成果と問題点
 
 1911年に発生した辛亥革命は、2000年続いた帝政を倒したことで中国史の重要な画期をなしている。そのため辛亥革命についての研究もこれまでに数多く蓄積されてきたが、その成果の大半は、清朝滅亡の直接の契機となった民衆運動・革命派の武装蜂起、またその指導者であった孫文の思想と行動に関するものであった。こうした研究動向には、人民の武装暴動や革命闘争の意義を高く評価する中華人民共和国における近代史研究の強い影響が見られるのであるが、「革命」と「反革命」の対立を基本とするその評価の基準に照らして区分されると「中間派」や「改良派」に属することになる集団・結社の実態とその活動とが実態に即して本格的に研究されることはなかった。したがって、帝政が崩壊したことの意義についても、江蘇省の佃戸が主張したとされる「朝代已に換わる、此の田は復た故主の所有に非らず」といった片言隻句の引用をもって民衆の意識面におけるその影響が示唆的に論じられることが多かった。
 本論文は、著者も序章で述べているように「辛亥革命論」でもあり、なぜ武昌という一地方都市に発生した武装蜂起が短期間に中国のほとんど全土に波及・影響していったのか、各省で革命や独立を担った勢力はいかなるものか、国会開設のための選挙はどのように行われたのか等の重要な諸問題に、一つの回答を与えたものである。そうした意味からいえば、本論文の最大の成果は、清朝の崩壊が、19世紀末以来、中央政府と地域社会、国家官僚と地域エリート、行政組織と自治的団体、の相互関係に発生していた構造的な変動の結果であったことを、江蘇省の事例にもとづいて実証的に明らかにしたことにあるといえる。
 本論文の具体的成果として以下の点をあげることができよう。
 第一に、19世紀後半から1920年代に至る期間、すなわち清末の諸改革・辛亥革命・袁世凱政府の集権化政策・北洋軍閥諸派の内戦・国共合作による国民革命へと展開する政治変動期に、江蘇省の地域エリートが中央政府の時々の政策と政治情勢に対応しながら、どのようにその力量を蓄積し、紆余曲折をはらみながらも「地方自治」の実現のために活動を続けてきたかを、断代史的枠組みを超えて歴史的・体系的に考察している点である。
 第二に、清末の立憲改革を担う中心組織として設置された諮議局の果たした役割についての議論はこれまでも行われてきたが、その際にも諮議局の実態については必ずしも明らかにされてはこなかった。著者は、江蘇省の場合について、諮議局設置準備のために招集された各種の社会団体それぞれの特徴とその構成員、諮議局議員選挙実施の経緯、その前提としての戸口調査について丹念な史料収集・分析にもとづいて詳細に明らかにしている。
 第三に、江蘇省における辛亥革命、すなわち清朝からの独立が、武昌蜂起の波及の結果として突然訪れたものではなく、同省における清末以降の地域エリートの台頭・立憲準備のための諸団体の結成・諮議局の設置とその活動等を通して模索されてきた「地方自治」に関する広範な諸活動の基盤の上に発生したものであることを具体的・実証的に明らかにしている。
 第四に、辛亥革命後に実施された最初の国会議員選挙は、有権者率が10%程度の制限選挙ではあったが、中国史上最初の選挙として知られている。しかし、その結果のみ論じられることが多く、その実態についてはこれまでほとんど明らかにされてこなかったが、著者は各種新聞記事等を広く渉猟して、選挙の実態と地方における国民党の組織拡大と同党が勝利するに至った要因を具体的に明らかにしている。
 しかし、とりあげた問題が広範囲・長期間にわたるものだけに今後に残された問題もいくつか見られる。
 第一に、著者が本論文で検討の中心的な対象としてとりあげたのは江蘇省であるが、同省は江南と称される中国でもっとも経済的な先進地域に属しており、科挙等に示される教育レベルも中国有数の高さを有し、西洋文明の流入口である上海と近接した地域として、武昌蜂起の発生した湖北省、革命が波及しなかった華北・東北の各省とは相当に歴史的条件が異なっている。今後他の地域の事例等も視野に収めた比較的考察が望まれる。
 第二に、著者は、「地域エリートの行動を支えた行動原理・動機・世界観の構造」について解明にあたることを論文の序章で述べているが、全集や伝記が公刊されている張謇の場合を除くと、その課題に関わる部分は示唆的な叙述にとどまっているといわざるを得ない。史料的な制約もあるものと思われるが、今後に課題を残している。
 第三に、本論文の最終部分では、1920年代の蘇社の「蘇人治蘇」を求める活動が検討の対象となっているが、1910年代まで期間についての緻密な検討に比較すると概説的な叙述になっている。上海周辺における1924年の江浙戦争の際に「自治運動」が展開されたことは先行研究で明らかにされていることでもあり、また南京に国民政府が樹立されて独裁政党としての国民党が地域社会の基層にまで支配力を及ぼそうと努めるに至る1927年後半以降の時期についても当然地域エリートがどのように対応したのかが問題になるはずであるので、さらに対象とする時期を延長して本格的に検討することが望まれる。
 しかしこのような問題点の多くは著者も自覚するところであり、その研究能力や着実に研究成果を積み重ねてきた従来の実績からみても、将来これらの点についてもより説得的な成果を達成しうる可能性は大きく、今後の研究に期待したい。
   四、結論

 審査員一同は、上記のような評価と、12月8日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2009年1月14日

 2008年12月8日、学位論文提出者田中比呂志氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「近代中国政治統合の研究-立憲・地方自治・地域エリート-」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、田中比呂志氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語及び専攻学術に関する学力認定においても、田中比呂志氏は十分な学力をもつことを証明した。
 よって審査委員会は田中比呂志氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。


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