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博士論文審査要旨

論文題目:越境の以前と今をつなげるライフストーリーの構築 ― ニューカマーの子どもの回復と年少者日本語教育の可能性 ―
著者:田仲 正江 (TANAKA, Masae)
論文審査委員:久冨 善之、関 啓子、中田 康彦、小井土 彰宏

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1、論文の構成

 本論文は、ニューカマーの子どもたちの「越境」後の困難状況の中心を「アイデンティティの切断」にあるととらえ、その「切断」の回復課題にとり組んだ著者自身の実践と、その実践の過程を対象化して、そこにある限界や回復局面や課題について、事例のエスノグラフィックな記述を通して理論的・実践的に意味づけしたものである。
 こうした切断・回復の実践の軸には、第二言語である日本語によって「ライフストーリー」を自ら語り直すことで、そこに切断以前の一つの「とり戻し」と、当面する状況の中での自己への「つなぎ」とがなされていくというプロセスがある。したがって、本論文はそのような再構築されるライフストーリーについての支援実践、その過程のていねいな記述と、その意味の考察であり、またその過程が「年少者日本語教育」とどのように相互に関係するのか、についての一つの提起にもなっている。
 その構成は以下の通りである。

序章 
 第1節 問題意識 
 第2節 先行研究 
  1.学校への受け入れや教育についての研究
  2.第二言語習得理論研究
  3.年少者日本語教育の研究
 第3節 研究対象とその方法 
  1.研究対象とその特徴  
  2.研究者の位置と特徴  
  3.研究方法 
 第4節 本論文の構成 
第1章 子どもの<交歓>が起動する学校という場 
 第1節 越境による日常の切断的状況-憧れと現実の葛藤 
  1.爆発的行為―Aの場合 
  2.爆発的行為―Bの場合
  3.寡黙―Cの場合
 第2節 子どもの<交歓>による第二言語の自発と限界
  1.識字としての限界―Dの場合
  2.独り立ちに向かう自己認識への限界―Bの場合
  3.相互行為を妨げるもの―Eの場合
  4.弱者という明示―Fの場合
 第3節 教科教育が促す「思考と言語の交差」
  1.内発的発展と二言語の関係
  2.母語を媒介とした学習場面での実際
  3.教科教育が促す「思考と言語の交差」
  4.第二言語と母語の役割
  5.再び<交歓>からのヒント
 第4節 小括
  1.「切断」と「回復の起動」
  2.双方向的な関係構築
  3.基盤となる生活言語上の困難さとその支援
第2章 越境の物語から将来に向かう思考言語への促し
 第1節 「閉じた問い」から「開いた問い」へ
  1.Q&Aによる自発的発話と双方向的行為
  2.越境の以前と今を語る
  3.「閉じた問い」から「開いた問い」
  4.自己を開く会話
 第2節 自己物語を通して切断をつなげ生まれた「私」
  1.自己を物語ること
  2.切断からつなぎへの模索
 第3節 進路選択の中で子どもが語る現状と願い
  1.マリアさんの願い
  2.ボランティアの関わり方とその実態
  3.日本語教育の変遷と外国人児童生徒の実態
 第4節 小括
  1.ナラティブ・アプローチの取り組みと補足的示唆
  2.関係から生み出される自己
第3章 他者としてなる自己へ 
 第1節 回復の基底となる関係性
  1.関係性の中の自己へ
  2.事例の再検討
 第2節 第二言語を学ぶ主体 
  1.第二言語習得を自己につなげる
  2.年少者日本語教育のあり方 
 第3節 第二言語から第一言語への挑戦 
  1.自己資源に転換する第一言語 
  2.公的場面における第一言語での「自己についての語り」
 第4節 小括 
  1.よりよい生き方への方向付け 
  2.第二言語の学習の意味付けと言語運用の主体
  3.自己資源の開拓とその機会
終章 
 1.課題とその解決の模索
 2.具体的な提示
 3.今後の課題


2、論文の概要

 「序章」では、問題の背景、先行研究、研究対象・方法とそこにおける著者の位置が説明されている。
 近年、公立小中学校に編入学するニューカマーの子どもが増加し、国による施策として、子どものための日本語教育テキスト作成や、学校教育の教科のことばや学習内容を日本語指導に位置づけ習得させるためのJSL(Japanese as a second language:第二言語としての日本語)カリキュラム構築や教員研修などが行われるようになっている。
 とりわけ、例えば1校に5名以上の外国人児童生徒の在籍がある場合「国際教室」や「日本語学級」を学校に設置したりセンター校を設定し拠点式に場を設けたりして、そこに加配教員を配置し日本語指導や適応指導を行うための予算措置がなされる。特にニューカマーの集住地域では、自治体によって子どもの母語に通じる人材を雇用し、母語によるケアや通訳による適応指導や日本語指導、教科学習支援という教育支援も行われている。また、ニューカマー住民による母語教室設置と子どもの母語保持や習得活動を行っている地域もある。
 一方、全国には日本語教育支援を要する子どもの在籍校全体の約8割に施策提供の条件に満たない数の子ども達がいて、予算措置や人材起用もなく、母語によるケアも難しく、学級担任にゆだねられ、地域日本語教室のボランティアが主に日本語指導を担っているという現状にある。関わるボランティアは、専門教育者でも母語に通じているわけでもない一般地域住民の場合が多い。このように受入れ体制が十分でない中では、ニューカマーの子ども達は、言語も通じないまま教室にいて「勉強ができないのは日本語がわからないから」という思いと重ねて、自分がいま日本にいることじしんの意味を見いだせずに自分も周りも否定的に捉えるようなある種のアイデンティティの危機に陥ることになる。著者は先行研究の対象が集住地域に片寄っており、このような散在地域の状況と課題を浮かび上がらせることができていない点を本論文で乗り越えようとしている。
 じっさい著者がとり上げる対象は、著者がエスノグラフィックな分析を深めた10ケース中の8ケースが「母親の日本人との結婚による<呼び寄せ>」であることにも示されているように、集住地域とは異なる「不十分な支援状況」の中の地域であり、そこでの小・中学生である。著者は、まさに「地域日本語教室のボランティアが主に日本語指導を担って」いるその一人としてボランティア実践にとり組みながら、本論文のエスノグラフィックな記述も行っている。
 そのような日本語指導の中で、①その子どもたちに起こっていることがらは何なのか、その実際の困難状況をつかみだすことがまず著者の課題である。②その日本語指導の中に、子どもたちの成長とその支援へのどのような可能性や限界・課題が展開しているのか、これを各ケースの進行過程に即して考察し意味づけるのが論文の本題である。③そしてそこで見出された「アイデンティティの切断とその回復への営み」というテーマが、単に「条件が不十分な地域」というだけに止まらない、「越境する子どもたち」とその「第二言語教育」一般についても広がる意味を持つ点を考察するのが、本論文のもう一つのポイントとなっている。

 「第1章」では、A~Fの6人の小・中学生の事例がそれぞれとり上げられて、彼ら/彼女らが、どのような状況と体制の中に置かれ、そこに何が起きているのかがていねいに記述されている。
 それによれば、ニューカマーの子どもが越境し来日したときに直面する現実は、それまでの日常の「切断」であり、とりわけ日本の学校の中でのできごとは、自分と周りとを否定的に受け取らせるものである。学級で「ばか」などの侮蔑的呼び方をされて、我慢できずに「爆発的行為」(椅子を投げるなど)に至るAやB、そのことで学級内において(「越境」前には受けることのなかった)「乱暴者・評価」を受けることになる状況がある。そこに生じる状況と個々の子どもたちのパフォーマンスは、それぞれの来日事情や支援体制や子どもの個性が重なって、千差万別であるのだが、著者は、本章でそこに以下の諸点を読み取っている。
 ①、「越境」によって、子どもには「切断」というものがいくつもの側面で生じてしまう。たとえばそれまでの家族生活、学校生活、友人関係、言語使用、コミュニケーション関係、自己イメージ、などなど。それは、学校生活の中では、何もわからないまま授業時間を過ごし、マジョリティからの視線にさらされ、新しい交友関係を築くのが難しいまま、関係悪化に追い込まれる事態につながるものである。
 ②、そのような中でも、子ども自身はやはり同年齢の子どもたちとの交流を強く求めており、子ども同士の<交歓>関係というものが、なんらかの形で起動していく面がある。そこに子どもの交流を通しての初歩的な第二言語習得もある。
 ③、<交歓>関係を基盤とする第二言語使用は、表面的な交流を可能にするが、それだけでは深まらない場合が多く、親しい友人のできる例もある一方で、簡単な交流は可能でも孤立したままの子どもがいる。
 そこから著者は、単なる「<交歓>関係」だけでは人間形成上で限界があることを指摘する。と同時に、「言語が思考と交差する」という段階へ向かう第二言語習得とその意欲への可能性を理論的に検討して、次章につなげようとしている。
 以上のような状況そのものの把握は、単なる観察によってなされたのではなく、各ケースに関わった日本語支援者としての著者の実践が媒介項となっている点も、この章の特徴である。一人ひとりの子どもたちに寄り添い、その思いをゆっくりと聞き取り、受け止め、見守り、励ましを送っている著者の支援実践を通じて、そこに困難の性格や可能性も浮かび上がり、新しい交流への後押しもなされている。
 
 「第2章」では、1章で記述した「切断」を、基本的には「アイデンティティの切断」であるととらえ、越境前の自分と越境後の今の自分とをつなげた「自己物語」を、現在の直面する状況の中で第二言語で語ることの重要な働きについて事例的に確認しながら、それを理論的に意味づける作業を行っている。
 著者がここで実践している「日本語学習支援」は(1章の事例の場合もそうだったのだが)、その初期指導から口頭による「Q&A」という活動である。これは日本語学習の簡単なアクティビティであり、日本語を使った練習の一つである。例えば、「あなたは、マリアさんですか?」というように、日本語学習者の子どもに関わる具体的な事柄を質問(Q)としそれに沿って子どもが「はい、私はマリアです」という答え(A)を発話する。不自然な会話ではあるものの、「日本語で話す話し方を無理なく把握できる」、「どのように話をすればいいかがわかる」、「話すことになれる」(p.80)とされている。その「Q&A」の一つひとつを積み重ねて行くと次第に意味が広がる対話になり、また学習者による日本語を使った語りへと進んで行くことが、論文収録のいくつもの実践記録に実感される記述となっている。そこには「理解や受容の表明」、「確認・念押し」、「訂正・矯正機能」など、さまざまな手法とその働きが観察される。
 このQ&Aでは子どもの体験や日記的な事柄も扱うことから、子どもの来日前と来日後の両方に共通する話題が現れてくる。筆者は意識的にその点に注目し、その両者を比較する手法によって、①そこに「越境・切断」を見ることで、来日し日常の切断的な状況にある子どもが、越境前と越境後に横たわる亀裂を抱えており、子どもの人間形成の停滞という状態にあることの困難への理解・共感と受容の関係を「Q&A」を通じて形成している。②それだけでなく、来日前の自分の生活や趣味や願いを、今日の生活の中に意味あるものとしてとり戻す可能性を、子ども自身が日本語で語れるように励ましている。そして(事例B・G・Nなどでは)③その意味あるとり戻しを通して亀裂を埋め合わせ、越境前と越境後をつなぐアイデンティティの再構築をその子ども自身が模索することにつながっている。④その模索は、越境社会でどう生きていくのかという自己の進路に対する意識を、越境した社会での営みとして可能とするようになる、という過程として意味づけられる。
 筆者はこのような実践展開記述に並行して、K.ガーゲンの社会構成主義の「自己についての語り=自己物語」理論を読み解き、その「自己物語」の構造や条件について細かく整理している。そして結論として、「セルフストーリー」が他者にむけて伝えると共に自分にも披露することになるものであること、他者の承認によって成立しアイデンティティ形成となるという点にとりわけ着目している。そのような自他関係では、他者からの要求に自己も応える必要がある。つまり、越境したニューカマーの子どもにとって、日本語による「自己についての語り」が他者との関係をつけ、自己にも披露し、アイデンティティ形成に繋がるとすれば、それは、自己も他者を承認することを通すような相互作用関係から生まれるという点に注目している。
 著者はそのような理解から、著者と支援対象の子どもとが、日本語学習の練習で行っている「Q&A」は、①日本語での「自己についての語り」を遂行していることとなり、②しかも、越境以前と越境後に共通することがらを比較して、行ったり来たりする過程であり、③そのことで子ども自身が、越境により生じた亀裂をまたぐ形で行き来する、④この対話的営みが、亀裂を埋め、越境の以前と今をつなげ、越境以前の自己を意味を持って取り戻しつつ、自己を越境先に立ち上げることになるのではないだろうか、という実践への意味づけを行っている。そこでは、対話に過去、現在、そして将来が描かれ、切断された過去を意味的に回復し現在の自己を承認し、将来、つまり独り立ちへの展望が意識された自己アイデンティティが再構築されていることになる。
 越境社会におけるある関係性の中で第二言語によって「自己についての語り=自己物語」を語ることは、第二言語で表現された自己が、越境社会を展望的に生きる自己の回復への可能性を示した姿として意味づけられている。
 またそのような自己物語と展望的志向においてこそ、じつは第二言語獲得への積極的意欲と、そこにおける関係性に平行した「思考と言語の交差」も得られるものだと考察されている。したがって、これまでの年少者日本語教育とその研究が引き取ってきた第二言語習得理論のメインストリームから外れてしまう、この地域のようなローカルな場における年少者日本語教育の実践を通じて浮かび上がってきた「自己物語の第二言語による語りを通じた自己アイデンティティの再構築」というテーマは、年少者第二言語教育の一般に対する提起性を持つ、というのがここでの著者の主張である。

 「第3章」では、関係性の中での互恵的アイデンティティ構成論から、1章と2章での越境の物語を再検討し、そこに越境・切断からの回復の基底となる関係性がどのように存在したか、しなかったかを再検討している。またそのような関係性の中で、越境前の経験や言語能力が新しい自己構成の資源となる点に注目している。
 ここで著者は再び、ガーゲンが提示する社会構成主義から、自己を関係性の中の存在として理解し、「自己物語」じしんが関係性の中でこそ達成されるものと考える。そして「互恵的アイデンティティのネットワーク」というガーゲンの概念から、ニューカマーの子どもたちが、越境社会でアイデンティティを構成するという課題を、2章で展開した「Q&A」実践の文脈の中だけでなく、彼ら/彼女らをとり巻く社会関係の中に、どのような社会的互恵関係を見出したか、作り出し得たか、ということがらと関連させて考察している。つまりニューカマーの子どもが自己を他者によって承認されて維持すると共に、ニューカマーの子どもも他者に承認を与えるように求められる社会生活が互恵的アイデンティティのネットワークとしてどのように形成されたのか、という観点である。
 事例再検討の中では、そのような互恵関係が狭く限定されたと思われる例や、互恵関係から外れたと思われる例もあるが、かなりの例ではそれなりの居場所と自己存在を互恵関係の中に構成しながら進行していることが浮かび上がっている。そこでは、越境物語が悲劇のヒロイン物語に転化する事例や、越境前の自己ドミナントストーリーが新しい関係の中で再構成され、そこに第二言語を通じた「思考と言語の交差」が確かめられる事例もある。また公的場所での「自己の語り」が、思考と内省とを促しているという事例分析もされている。
 それに加えてこの章では、そうした互恵的関係を背景にして、第一言語能力が「自己資源に転換する」展望が大学進学先で確認される例、また地域での「第一言語ボランティア」としての活躍で自覚されてくる例、などが登場して、この実践が「単なる奪文化」ではない点も主張されている。

 「終章」では、これまで本論文で展開してきた第二言語で越境を語ることの意味が改めて提示され、それに続く今後の課題が述べられている。
 ①第二言語で越境を語ることは、ニューカマーの子どもが越境によって揺らぐ今の「私」に越境以前に生まれて育ってきた「私」をつなげ、ライフストーリーを語ることであること、②その語りは同時に、今までの「私」から今の「私」に連なる過程を自ら意味づける第二言語による「思考と言語の交差」を目指す活動であること、③それはまた、ニューカマーの子どもが学校という場においてさまざまな活動を通し自己と日本人の子どもとの相互行為の中で、越境先の社会でどう生きていくのかを獲得し自己認識をする関係を構成して行く過程であること。
 そこから著者は、アイデンティティの再構築を起動させることが、日本語教育のあり方のテーマとなる点を主張することになる。そのことで著者は、子ども達の語りとその歩みの一端を構築し表明する年少者日本語教育の可能性を主張している。
 なお今後の課題として、法学者ミノウの「関係性の権利」という概念に注目し、本論で展開した問題を、多文化時代の「子どもの関係性権利」問題として再構成することをテーマとして挙げている。


3、成果と問題点

 以上のような内容の本論文が達成した成果をまとめると、
①、ニューカマーの子どもの散在・少数地域という条件の中で、「日本語支援」のあり方の一つの姿を、著者自身の実践としても、そのエスノグラフィックな記述としても、分厚さをもって描き出したこと。
②、この子どもたちにとって来日は、「越境」であるだけでなく、生活と意識の多くの側面での「切断」であり、そこに彼ら/彼女らの特有の困難・苦悩があることを、その支援実践を通じながら、リアルに描き出したこと。とりわけその「切断」は、詰まるところ「アイデンティティ」の切断であり、自分がなぜここにいるのか、ここにいて何をすればいいのかが見えない状態に追いやられていることであることを明らかにしたこと。
③、日本語教育のアクティビティである「Q&A」活動を通じて、支援者と子どもとの対話関係を形成するだけでなく、越境前の自分と、越境後の自分とのいろんな面での比較を通じながら、越境前の自分の経験や願いを越境後の関係の中にとり戻すことを目指した「第二言語での自己についての語り」実践が、越境をまたいでその亀裂をつなぐ可能性があることを、実践とその記述を通じて提示して見せたこと。
④、そのような回復を、K.ガーゲンの構成主義アイデンティティ論の読みこなしを下敷きにして「自己物語」論として意味づけ、そうした回復過程が、互恵性の中でこそ関係的に達成されるという課題を、ニューカマーの子どもたちの事例の具体的な姿で提示したこと。
⑤、この越境アイデンティティの回復への起動が、第二言語の習得への意欲や、第二言語を通じた「思考と言語の交差」につながる事実を見出すことで、本論の「切断から回復」論が、年少者第二言語教育一般への広がりを持つ点を提起したこと。
などである。
 なお残る課題を挙げるとするならば、以下の4点である。
(1)「交歓」や「思考と言語の交差」といった中心的概念について、より理論的理解を深めることで、実践・観察過程のどの部分が、どのような点で、そのような意味づけが与えられるのかについて、実践者の実感に依拠するだけではない、理論的整理が必要と思われた。
(2)言語教育における第二言語習得論についても、実践事例批判に主として依拠するだけでなく、理論そのものとしてより深く考察することができれば、本論の中心的成果である③・④が、⑤の中でどのように生きるのかを、より的確に提示できるだろう。
(3)互恵的アイデンティティ論はその通りだとして、そのような互恵関係から排除されて周縁化されている、またその可能性の大きな人々について、ある実践的成果や事例的展開だけでは不十分な面のある点への視野も持つ必要があるだろう。
(4)これら事例に近い「アイデンティティ切断」は、ニューカマーに限らず他にも存在するだろうが、そのような状況とどこが実際に違って、こうした事例に独特の特有性があるのかは、一定の比較も必要な課題であり、そのような視野もまた求められるだろう。

 しかし、これらの課題は著者も自覚するところであり、今後これらの問題についても持続的に追究を続けて一層の解明と改善の努力が払われることを期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2009年2月18日

2009年2月2日、学位論文提出者田仲正江氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「越境の以前と今をつなげるライフストーリーの構築 ― ニューカマーの子どもの回復と年少者日本語教育の可能性 ― 」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、田仲氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は田仲正江氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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