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博士論文審査要旨

論文題目:「ダワDAWA(くすり)」の治療的・政治的使用に関する民族誌的研究 ―東アフリカ・タンザニア海岸地帯を中心に―
著者:岩﨑 明子 (IWASAKI, Sayako)
論文審査委員:岡崎 彰、大杉 高司、児玉谷 史朗、多田 治

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Ⅰ 本論文の構成
東アフリカの海岸部地域ではスワヒリ語の「ダワ(dawa)」という語が多様な現象を説明するために用いられているが、本論文は、治療と政治の二つの側面に関わる「ダワ」について、1999年から2002年にいたる通算24ヶ月のフィールドワークに基づき、民族誌的に考察したものである。
 本論文の構成は以下の通りである。

序論
 0.1 論文の目的
 0.2 問題設定
 0.3 本論文の構成
 0.4 調査の実施期間と使用言語
 0.5 調査地概況
本論
第1章 ネワラ・ディストリクトの「ダワ」
 1.1 ネワラ・ディストリクト(Newala District)概況
1.1.1 先行研究にみるネワラ・ディストリクト
1.1.2 ネワラ・ディストリクトでの歴史語り
  1) 自治の時代からドイツ植民地支配の到来まで
  2) ドイツ植民地支配の開始
  3) ドイツ植民地支配からイギリス植民地支配への移譲
  4) イギリス植民地支配の開始
  5) 独立政府による統治
1.1.3 現代社会の語られ方
  1) 分断された社会という捉え方
  2) 「成長する言語」
 1.2 相反する教義
1.2.1 「ションデ」儀礼の衰退
  1) ミジム(mizimu)
  2) ワジム(wadimu)
  3) ミズカ(mizuka)
  4) マジニ(majini)
1.2.2 ローマ・カトリック教と「ダワ」
  1) カレマガ老の「ダワ」
  2) 「マジニ」の治療に対する否定的な見方
1.2.3 「マジニ」の治療
  1) 西洋医療で治癒しない場合――「脅すもの」がやって来る
  2) 「マジニ」の種類
  3) 「脅かすもの」が「ダワ」を見つける手助けをする――薬の発見
 1.3 相反する教義の類似性
1.3.1 「ダワ」が要請する人間関係
  1) 周囲の反対
  2) 「マジニ」の治療と人間関係
 1.3.2 錠剤としての「ダワ」と治療法としての「ダワ」
第2章 「ウチャウィ」と「ダワ」
 2.1 「ムチャウイ」と「マジニ」と「マシェタニ」
2.1.1 「ワジム」と「マジニ」の病の違い ――回復の可能性
  1) サイディ・モハメッドの小説 「シェタニでもワジムでもない」
  2) 「ワジム」との症状の類似性と明確な差異
2.1.2 「ウチャウィ」
  1) 「ウチャウィ」の症状とは何か
  2) 「ウチャウィ」と「マジニ」および「マジニの人」の関係
2.1.3 「毒のウチャウィ」と「身を守るダワ」
  1) カレマガ老の考える「ウチャウィ」の原因 ――「ウチュング」
  2) 自己の聖域化
  3) 「身を守るダワ」
 2.2 「ウチャウィ」からの回復 ――ムガンガへの相談
2.2.1 ダルエスサラーム概況
2.2.2 ムサフィリの「ダワ」
  1) 食事ができない、痩せてくる
  2) 言い争い、怒ること
  3) 「ウチャウィ」と代金の支払い
  4) 正反対の中の同質性
2.2.3 タンディーカの「ダワ」
 2.3 「ダワ」と治療
2.3.1 理解できないものにつけられた名前
2.3.2 治療の対象となる力の過剰性
第3章 マジマジの乱と「ダワ」
 3.1 「ダワ」――反乱の動機の諸説
3.1.1 欧文文献にみるマジマジの乱
  1) アイリフの研究
  2) 新たな研究動向
3.1.2 スワヒリ語文献の中のマジマジの戦争
 3.2 ネワラでのマジマジの反乱
3.2.1 植民地抵抗運動前夜
3.2.2 「ダワ」と「タビア」と「シュジャア」
  1) マチェンバの「ダワ」
  2) 話に引き込まれるナチプヤング
 3.3 「シュジャア」の流通
3.3.1 マジマジの乱の「ダワ」は「モザンビークから来た」
3.3.2 植民地解放戦争と「ダワ」
 3.4 「シュジャア」の内在化
3.4.1 「ダワ」の言及されなくなった戦争
第4章 マーシャルアーツと「ダワ」
 4.1 カラテ、カンフー、ニンジャの間の差異
4.1.1 ニンジャと「ウチャウィ」
4.1.2 カラテとカンフーの起源―東洋の植民地抵抗運動の説明
4.1.3 抑圧(kuonewa)から身を守る
 4.2 「シュジャア」を備えた自己像
4.2.1 カラテ訓練と自己防衛(kujilinda)
4.2.2 カンフー/カラテと自分の中にある力
 4.3  つけたりはずしたりできない過剰な力
4.3.1 トレーニングで得られる力
4.3.2 ダワの外在性と内在化
4.3.3 「ダワ」と近代化
結論
補論
 民族誌とその方法論
A.1 自己の「キニャゴ」化
A.2 ムガンガへの相談の顛末
A.3 人類学者の主体状況
A.4 人類学者の経験
参考文献


Ⅱ 本論文の概要
 序論では、スワヒリ語の「ダワ」という語の特徴について簡潔に紹介される。この語は通常はmedicine(くすり)と翻訳されるが、英語や日本語の範疇にないさまざまな事柄を指し、きわめて多義的であること、また多様な社会現象と関連して使われていることが指摘され、本論の目的がこのような「ダワ」の解明にあるということが表明される。特に「ダワ」が治療と政治という一見結びつかない二つの領域に関わる点に注目し、フィールドワークで収集した「ダワ」に関する会話記録を中心に取り上げて解明していくこと、そしてその資料はどのような言語状況下で得られたか、などについて明記されている。
 第1章では、タンザニア南部の海岸地帯にあるネワラ・ディストリクトにおいて収集された歴史語りが、政治と宗教、そして言語の面から分析されていく。それによって、現地の人々が置かれている現代的な状況を当事者がどのように捉えているかを明るみに出し、現在、現地社会が政治的にも宗教的にも分断された社会というイメージで捉えられていることを指摘する。そして、「ダワ」がそのような自社会の分断された状況を架橋し癒すものとして使用される傾向にあることが明らかにされる。このような歴史語りを詳細に検討する部分が本章の中心を成している。
 その前半では、ドイツ植民地支配前後から語りが始まり、第一次世界大戦を経て、イギリス植民地支配への移譲、その植民地統治下で起こった土地分割と境界設定や地方の政治体系の再編成、そしてタンガニーカの独立とザンジバルの統合などが、語り口に注意しながら検討されていく。しかし「ダワ」に関しては、ドイツ植民地支配期に起きたマジマジの乱やザンジバルの統合という特定の時代と結び付けて語られること、その際「ダワ」が社会の分断状況を克服し政治的統合を促すものとして語られていることを示唆するが、その本格的検討は第三章にとっておかれ、ここでは現代社会が「分断された社会」といわれるのに対して、「成長する言語」としてスワヒリ語が語られている点が付言されている。すなわち、社会の分断状況に対して異質性を取り込み拡大してきたものとしてスワヒリ語が語られ、異質なものをつなぐような働きをしていることに注目している。
 本章の後半部分では、異なる信仰や教義が多元的に存在する現在のネワラ地域の状況を、ションデ信仰、ローマ・カトリック、マジニの治療儀礼などの歴史的盛衰の語りを通して検討していく。ここではマシェタニ(「悪霊」)、マジニ(「憑依霊」)、ワジム(「狂気」「祖霊」)、ムチャウィ(「妖術・邪術」をするもの)などと暫定的には訳しうるマコンデ語やスワヒリ語のカテゴリーが、複数のインフォーマントとの会話記録や文献データを駆使して、多様な具体的事例にも言及しながら詳細に検討される。そしてそれぞれの信仰での「ダワ」の処方・位置づけの差異が、現地の語り口に沿って吟味されていく。具体例としてマジニに憑依されたファトゥマのケースを特にきめ細かく記述しながら、マジニによる病と西欧の「モラル・ハラスメント」のケースとの類似性と異質性が比較検討される。また別の具体例として、地元の中学校女子生徒の「不登校」という「現代」的問題をマシェタニやマジニのせいであるとした場合どのような「ダワ」を用いたらいいかという議論が検討される。そして信仰や宗教が多様化した状況の中で、「ダワ」が相反する信仰を持つ人々を一堂に会し、分断状況から現れる問題を収束させるものとして語られていることを指摘する。またこれまでの知識では理解しがたい病気や災難、理解しがたいモラルに従って行動する者、すなわち既存の知では対処できない物や者に対して働きかけるものとして「ダワ」が語られているということを指摘する。
 第2章では、人を脅かす理解しがたい存在であるマシェタニ、マジニ、ワジム、ムチャウィなどと、それに対処するために用いられる「ダワ」に関して、さらに事例を挙げながら検討されていく。特に人間関係を悪化させ分断するムチャウィ(これは、私利のため他人を利用しようと企む人物、他人に害を及ぼす人物、他人を従属させ意のままに操作する者で、いわゆる「呪術・邪術」をする者を言う)の問題に焦点をあて、それによる症状の特徴、他の理解しがたい存在との相違点、ローマ・カトリック教におけるその扱い方など、さまざまな面で検討される。また、「妖術」に関する先行研究に言及し、本論の地域における「妖術」と比較検討し、この地域でのムチャウィの特質を浮き彫りにする。このためにさまざまな事例や資料が用いられているが、そこには現地で出版された小説で描かれているマシェタニに関するものや、著者自身が、賃貸契約している大家とのもめごとに疲れて、呪医のもとを訪れ、自分を脅かしているムチャウィについて相談した際に知りえたことなども含まれている。その結果として次のような考察が述べられる。
 「妖術」によって縛られた状態や、マジニに憑依された状態を治療するためにとられる方法が「ダワ」の処方である。「ダワ」とは、外部からの過剰な力が原因で起こるトラブルを解決するものである。分からないもの、理解しがたいものは人を打ち負かし、脅威となって、人を受動化する。それを治療するためには力のバランスの是正が行われ、理解できなかったものが理解できるものに変わる必要がある。それがムチャウィの場合、治療とは、「ダワ」により他人の過剰な力と自分の力のバランスを是正する作業であるといえる。その際、人に脅威を与えている存在をいかに同定するかについては信仰や個人の考え方により違いがあるが、治療の方法としては「ダワ」を処方することで共通している。
 また、この理解し難い存在は過剰な力となって人に脅威を与える存在であるが、この過剰な力は決して当人に固有のものではなく、むしろ周囲に許容されることで当人が知らずに持ってしまう場合もありうる。例えば、著者の家賃のトラブルでは、家を二重貸しし、家賃をとり、鍵を渡さず、苦情を言うと居留守を使うといったモラル違反をする大家が、なんら社会的な批判もされずにそのままに放置されていたことで過剰な力を身に着けてしまったとされていた。また、第1章の不登校の女子生徒や子供たちの遅い帰宅、それについての言いわけも、子供たちに許容されたものになってしまったとも言うことができる。つまり、それは、他人から規制されないために持つことを許されてしまう力である。「ダワ」の治療法とは、このように許容されたために与えられてしまった力を削ぎ、その力の作用を受けてしまった患者には新たな力を加えることにより力関係の調整を行うことである。
 以上のような著者の解釈のポイントである、「ダワ」は力の過剰性を調整するために使用される、という命題は、次章の、一見極めて異質な歴史的状況で、再吟味される。
 第3章では、ネワラ・ディストリクトにおける調査から得られた歴史語り資料を基にしてマジマジの乱(1905年に起きたドイツ植民地支配に対する抵抗運動)が扱われる。この「マジ」とはスワヒリ語で「水」を指し、先行研究では、銃弾に当たっても死なない奇跡の水として反乱時に使用されていたとされるが、この「マジ」は、スワヒリ語では「ダワ」の一種とされることから、著者は「ダワ」を政治の側面から考察する一事例として、マジマジの乱の語りを検討していく。その結果次のような点が明らかになったと主張される。
 ①ネワラ・ディストリクトにおいては、マジマジの乱は、先行研究が示す解釈とは異なり、1890年代にタンザニア南部で起きたマチェンバの反乱に呼応して起きた反乱と位置づけられている。②「ダワ」は、ある抵抗の意思を示す「タビア(性格)」や「シュジャア(毅然とした態度)」などの語とほぼ重ね合わせて語られており、反乱の際に流通した「ダワ」とは、抵抗運動で活躍したこのような先人の「シュジャア」を有形、無形に伝達するものであったと解釈できる。③ローカルな政治的主従関係が「ダワ」を持つ/持たないということで説明されることがあるが、これは植民地支配者と地元民との間の主従関係をも説明するものであったと考えられる。④マジマジの乱の歴史語りに出てくる「ダワ」とは、植民地支配者と互角になる力を得て、その脅威を軽減・治療する方法であったと考えられる。
 以上のような考察に加えて著者は、旧来の「ダワ」は、他者との力関係を調整することでその過剰な力に対抗しようとしてきたが、その際「ダワ」は身につけたりはずしたりすることで力関係を調整することができたという。しかしそのような「ダワ」は、抵抗運動の終焉とともに、その時代以降の戦争をめぐる語り口には登場しなくなった、と著者は判断している。その変容過程を著者は次章で、ダルエスサラームで、マーシャルアーツと「ダワ」との関係を調査することで確認しようとする。
 第4章で著者は、タンザニア・ダルエスサラームにおけるカラテ道場でカラテを習う者たちが、三種のマーシャルアーツ(ニンジャ、カンフー、カラテ)をどのように区別しているかにまず注目する。この事例を取り上げた理由は、マジマジの乱における「ダワ」が、現代においては実際に戦闘に使用されるものではなくなったものの、彼らの語り口の中において「ダワ」の変容を表す語り口が認められたためである、と説明される。
 その変容とは、以下のようなものである。①彼らは、上達により獲得されるレベル、自己が行う「瞑想」、自己に内在的に存在する「気のパワー」といったものを、カラテの力の源泉と捉えている。②ニンジャは奇跡を行う「ダワ」に最も近い存在とイメージされ、殺人を行う国家の機関に従属するものであると受けとめられている。③カンフーとカラテは、どちらもアジアの植民地抵抗運動と関連して理解されているが、特にカンフーは武器を使い、カラテは素手で戦う、と考えられている。とくにカラテは、武器を持たずに戦う技芸であることが特徴であると認識されており、マジマジの乱の運動と相似したものと捉える発言もなされている。
 著者が本論文のテーマとの関連で重視しているのは、カラテカたちが訓練で得る力を、一旦獲得されれば永久的に自己に内在する種類の力と捉えているという点である。つまり力を個人に内在するものとする立場は、力を人から離したり付け加えたりできるという立場ではない。それは、自己に配慮し自己を訓練する、といった自己との関わりをより強める立場である。このような現代的な自己のあり方が、現在のタンザニアにおいて確立しつつあるが、それと同時に、第2章の治療に関する語りの分析からも明らかなように、「ダワ」を外在的存在と見る語りが有効な空間もあり、これは現代のタンザニア社会が過渡的状況にあるのを示していると指摘して本論文は終わる。
 しかし、本論文には補論がついている。それは単なる資料集ではなく、民族誌に関してこれまで議論されてきたことに対する著者の立場の表明の場となっている。つまり民族誌とその方法論に対する1980年代の議論を踏まえ、調査での経験から、著者がどのような立場に立つのか、どのような方法に基づいて本論文の執筆を意図したかを述べたものである。具体的には、著者の調査地での苦境を描きながら、草創期の民族誌に対してなされた批判――民族誌の個人的叙述と科学的分析の並存は、民族誌の権威の確立を意図しているという批判――を新たな角度から論じている。著者は、こうした叙述の二重性は、権威の確立を企図したものではなく、草創期の人類学者がフィールドに対して、現地社会全体を相対化することに悩み受動的な状態にあったことと、科学的分析によりその状況を能動的に克服しようとしたことを示している、と言う。そして、それは草創期の人類学者の姿そのものなのであり、権威の確立という分析は結果論でしかないと言う。著者は、当時の自分のフィールドでの苦境が、ムガンガに「ダワ」を処方してもらい、人々と互恵的関係になることで乗り越えられたと言う。これを踏まえ、人類学者は、いわゆる「客観的立場」ではなく、調査対象である当該社会内において互恵的に与えられた位置に立つべきで、民族誌はそのような視点から発信されるべきものであると論じる。それゆえ、著者は、その立場が明らかになるように、著者を含めて行われた対話とその分析を中心とした一つの民族誌の試みとして本論文を執筆したと述べている。

Ⅲ 本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、方法論に関するものである。すなわち、長期にわたるフィールドワークを通して築いていった親密な人間関係なくしては得られない資料を基に民族誌が書き上げられているという点である。そのような方法で収集されたデータは普通かなり複雑で、しばしば同一話者の語りでも矛盾に満ちており、一貫性がないかのようにみえる場合が多い。したがって、資料収集の努力のみならず、その後にそのような一筋縄ではいかない資料と格闘した苦労、そして現地語の文字化とその翻訳作業の労苦には並々ならぬものがあったと推察される。一方で、現地語に習熟する時間と努力は、「業績スピード」が求められる今の時代には、ますますないがしろにされる傾向にある。その結果、現地調査が先行研究批判や理論の議論のためだけの選択的資料収集の場になってしまいがちである。しかし、著者の場合、調査対象者(むしろパートナーというべきか)の語り口自体を重視し、寄り添うようにして記録された資料に基づいて研究を進めている点、また資料それ自体がはらむ矛盾点、疑問点、曖昧な点を切り捨てず、むしろそれを新たな着想を得て研究を深めるきっかけとしている点などを、高く評価すべきであろう。その結果、本格的フィールドワークに基づく人類学的研究ならではの論文となっているといえよう。
 第二の成果は、民族誌の中身に関するものである。それは大きく分けて「ダワ(くすり)」と「ウチャウィ(妖術)」と「マジマジの乱」に関する民族誌的および歴史的詳細だが、その各々に関する新たな民族誌的データが追加されている。そして、とくに「ダワ」に関しては、これまでにない詳しいデータが収集され提示されている点を評価したい。
 第三の成果は、民族誌記述における実験性に関するものである。「実験性」というといかにも新しい装いをした民族誌をイメージしがちだが、本論文は「新しさ」や「実験性」を声高に主張しない。だが、それでも実験的なところがある。通常の、序文での先行研究・問題・仮説の提起、本文での証拠資料の提示と議論、そして結論、という論文パターンを正確には踏んでいない。最後の補論までたどり着いて初めて、読者は、本論文が実は80年代の民族誌的権威に対する批判を著者がどう受け止め、どのような民族誌を書くべきか悩み、それを形にするために工夫して本論文を書いたことがわかる。しかもその部分が最後に補論として挿入されることで、読者は「民族誌論」としてよりも「民族誌」としてこれを読み始め、直ちに現地の世界へ連れて行かれる。そして先行研究や理論的問題には「現地で」遭遇していく。奇を衒った実験的民族誌を人類学会内部のゲームだとしたら、著者は自分(エゴ)が中心になるよりも、現地のパートナーとの互恵的関係から得られたことや考えたこと、そしてその互恵的関係そのものを描くことを民族誌の実験とした。この一見実験らしからぬ実験性を評価したい。
 第四の、そして本論文最大の成果は、「治療」と「政治」(そして「マーシャルアート」)という一見するとまるで無関係に見えるテーマを結びつけるマクロな視点と、自分の病をめぐるきわめて個人的な経験のディーテイルにこだわるというミクロな視点を併せ持った大胆で稀有な論文であるという点である。しかしこれは大胆ではあるが決して大胆さを演じたものではない。むしろ、現地で経験した独特の思考と実践と語り口のモードを生かして民族誌を書いていくうちに、こうなったともいえる。もちろんそこには最終的に何をどう生かして書くかという著者の選択があってはじめてこうなったわけだが、いずれにしても、マクロとミクロの視点を併せ持つ論文であるという点は高く評価したい。
 もちろん本論文に関し、問題点が指摘できないわけではない。
第一点は、各章、各節間のつながりがわかりにくく、著者の議論展開が把握しにくいという点である。事例の記述は豊富だが、それが前後の議論とどう関連するのか十分説明されていない、あるいは記述だけで終わっているところが何箇所かあった。これでは読者は途方に暮れるだろう。
第二は、「ダワ」の力と権力との関係の議論が不十分で、「治療」と「政治」を同時に論じるという本論のねらいが十分達成されていない点である。また「力」の概念自体に対してさらに注意深くあってほしかった。たとえば「過剰な力」という概念は現地にもあるのか、自分の結論としての「力」を現象の説明に使ってしまっていないか、力は実在していると見られているのか、それとも道具主義的な説明として用いられているだけという場合はないのか、などさらに注意すべき点がある。
第三に、歴史に関する部分で問題点がある。まず、歴史の語られ方にだけ注目すると、現在の解釈だけを無批判に受け入れてしまうことにならないか。現代の歴史語り自体、もっと歴史化して提示すべきではないか。マジマジの乱の先行研究者であるアイリフの記述を批判する場合も、彼の研究していた時代を歴史化してからすべきだったのではないか。また過去のことを聞く相手として、少数の、しかも比較的有力者と見られるインフォーマントに頼りすぎているところがある。論文全体の歴史に関する視点は主として発展史観であり、これに関してももっと注意深くあるべきであろう。
もっとも、これらの問題点は、本論文の研究成果を損なうものではないし、また論文提出者も問題点を強く自覚し、今後の研究の課題としているところである。これからの研究の進展を期待したい。

最終試験の結果の要旨

2009年2月18日

 2009年1月29日、学位論文提出者岩崎明子氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「『ダワDAWA(くすり)』の治療的・政治的使用に関する民族誌的研究―東アフリカ・タンザニア海岸地帯を中心に―」に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対して、岩崎明子氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、岩崎明子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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