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博士論文審査要旨

論文題目:中国朝鮮族の形成に関する歴史的研究-中華人民共和国建国期を中心に(1945年8月~1955年末)-
著者:李 海燕 (LI, Hai Yan)
論文審査委員:三谷 孝、糟谷 憲一、加藤 哲郎、中野 聡

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   一、論文の構成
 本論文は、日本の敗戦・「満州国」の崩壊(1945年8月)から、国共内戦・中華人民共和国樹立を経て、朝鮮族自治州の設置(1955年12月)に至るまでの十年余りの期間に、中国東北地区の朝鮮人が「満州国臣民」から「中国朝鮮族」へと移行していく過程を、中国共産党の政策と朝鮮族内部の動向に焦点を当てて、実証的に解明するとともに現在に続く歴史的意義を考察した論文であり、その構成は以下の通りである。

序 章
 第1節 研究課題
 第2節 研究史の整理
 第3節 史料
第4節 研究方法について
第1章 ソ連軍占領期(1945年秋~1946年春)
 第1節 無秩序社会と東北地区居住朝鮮人排斥
 第2節 引揚げの実態と残留の背景
 第3節 中国共産党の東北地区居住朝鮮人地域への進出
第2章 国共内戦期Ⅰ(1946年夏~1947年春)
 第1節 中国共産党の延辺における土地改革
 第2節 国民政府の韓僑政策およびその実態
第3章 国共内戦期Ⅱ(1947年夏~1949年夏)
 第1節 延辺の政治構図の変化
 第2節 国籍の確認
第3節 延辺における民族区域自治政策の決定
第4章 中華人民共和国建国初期(1949年秋~1955年末)
第1節 朝鮮族部隊の北朝鮮への引渡し
 第2節 朝鮮戦争の勃発と朝鮮族社会
第3節 「祖国」とは-中国共産党の「愛国主義」教育
第4節 中国朝鮮族自治州の成立
終章
第1節 研究の到達点
 第2節 今後の展望
文献目録
図表リスト
地図

   二、論文の概要

 まず序章では、研究史と方法について説明される。著者は、本論文の研究課題が、中華人民共和国史・中国の少数民族政策・戦後における満州からの引き揚げ問題・在日朝鮮人問題の研究等の東北アジア研究と密接に関連する重要な問題であるにもかかわらず、主として政治的・史料的制約という要因からこれまで実証的研究が遅れていたこと、そのために「満州国」崩壊直後における中国居住朝鮮人の動向・朝鮮への引揚げ問題・中国国籍が確定する政治過程・国民政府の朝鮮人政策・朝鮮戦争と朝鮮族社会の関係等の基本的な問題について、まずその実態を解明することの必要性を指摘する。
 本論文が対象とする時期の東北では、「満州国」崩壊後の混乱・国共内戦・中華人民共和国の建国・朝鮮戦争という一連の重大な事態が展開した。著者は、そこで本論文の研究課題である中国朝鮮族の形成過程を解明するには、政治史的アプローチが必要であるとして、国共内戦の勝利で執権党となる中国共産党(以下中共と略記)の東北地区居住朝鮮人に対する政策の変遷という第一の流れと、中国居住朝鮮人内部の動きという第二の流れを、土地・国籍・自治という重要問題を機軸にして統一的に捉えることで、この研究課題全体にわたる問題を把握することが可能になるとする。
 また、それに関連して、著者は本論文の対象とする時期を、①ソ連軍占領期(1945年秋―1946年春)、②国共内戦期Ⅰ(1946年夏―1947年春)、③国共内戦期Ⅱ(1947年夏―1949年夏)、④中華人民共和国建国初期(1949年秋―1955年末)の四時期に区分し、それぞれ各章を立てて論じている。
 第1章では、「満州国」の崩壊後、ソ連軍が東北地区に進駐した1945年秋から1946年春までの戦後混乱期が対象とされる。当時200万人といわれた中国居住朝鮮人は東北・華北各地で「解放」と同時に大混乱の状況下に置かれることとなった。著者は、開拓農民が朝鮮人の多数を占めた北満州、分散居住している南満州、人口の80%を占めた延辺の3地区に分けて、「土匪」やそれに扇動された中国農民が、朝鮮人を「二鬼子(日本の手先)」として襲撃した事例等迫害の実態を明らかにする。次に、こうした緊迫した状況下で、朝鮮人の朝鮮半島への大規模な引揚げが行われたが、公的機関の支援はいっさい得られなかったこと、そしてその経路と推定人数、引揚げと残留の社会背景が説明される。さらに、無政府状態の中で各地に林立した朝鮮人有力者(「満州国」時代の官僚・朝鮮人元共産主義者・元大韓民国臨時政府関係者等)による各種多様な政治団体の動向を、延辺・吉林と長春・ハルビンの各地区について分析するとともに、戦中に華北で抗日活動を行っていた八路軍指揮下の朝鮮義勇軍が東北に進出して、東北居住朝鮮人を吸収して編成した朝鮮義勇軍の各支隊の実態を考察した。最後に、中共が東北地区居住朝鮮人の集住地域である延辺で政権(延辺行政督察専員公署)を樹立した経過を述べ、それが「民族団結」政策をとって当時民族的対立が露呈寸前の状況にあった中国人と朝鮮人の関係を調整したこと及び朝鮮人政治団体と各部隊へ具体的な対応措置を論じている。
 第2章は、1946年3月(ソ連軍の東北からの撤退開始)から1947年春までの国共内戦期前半期における国共両党の朝鮮人に関連する政策の特徴とその変化をとりあげている。内戦が開始されたこの時期には、国民党の軍事的優位は明らかであった。東北地区は国民党占領区と中共占領区に分裂し、両党はそれぞれの占領区で独自の政策を実施した。中共はその占領区で「反奸闘争」と「漢奸」の土地の分配を開始するが、延辺では「満州国」時代に朝鮮人が耕作していた自作農用地の処分をめぐって、一定の金額を納入することによって朝鮮人農民の既得権を認める中共延辺地区委員会の方針に不満を抱く中国人農民と朝鮮人農民との間で民族対立が発生した。そして、中共が延辺で実施した「五四指示」以降の曲折した土地改革の展開を叙述するとともに中共が朝鮮人農民の利益に配慮する政策をとったことを明らかにする。そして本章後半では、国民政府の朝鮮人政策(韓僑政策)をとりあげる。「満州国」崩壊直後、国民党は接収のため、華北地区と東北地区へ軍隊を進駐させたが、華北と東北ではそれぞれに進駐した国民政府軍によって、朝鮮人に対して相異なる政策が実施された。華北の朝鮮人は対日協力者が多数を占めたとの理由から、同地の国民政府軍は彼らの資産を接収し集中管理・一括送還の方針をとって、1946年春からの一年余りの間に7万余人を韓国に送還した。それに対して東北では、司令長官の幕僚であった朝鮮人の金弘壱が東北韓僑事務処の処長に任命されたことから、華北のような強制送還の方針はとられず韓僑の生活に理解を示す対応が行われた。さらに1945年11月に成立した「大韓民国臨時政府駐華代表団」が一括送還政策に強く抗議し続けたことから国民政府の韓僑政策も見直しが行われ、1946年6月には「韓僑処理弁法大綱」が制定されて、「善良で正当な職業を有する」韓僑の財産は保護されることになる。
 第3章では、内戦で中共が優勢に転じる1947年夏から中華人民共和国樹立前夜の1949年夏までの国共内戦期後半の問題が検討される。軍事的に優勢に立った中共は、全国政権の樹立をにらんで、朝鮮人政策を転換していく。1947年4月龍井に召喚された115人の朝鮮人幹部は「高級幹部研究班」(「龍井高幹班」)において、その経歴を厳しく審査された結果、積極的な活動家の殆どが党活動から排除されることとなった。同時に、中共は新党員を大量に育成しはじめ、1948年には延辺の区レベルの幹部ポストは全員新党員で占められることになる。次に、東北居住朝鮮人の国籍が決定されるまでの過程が分析される。1947年10月の「中国土地法大綱」の公布によって土地改革は新たな段階に進んだが、土地所有権の付与という問題をめぐって朝鮮人の国籍問題が提起されるに至る。当時中共延辺地区委員会は東北居住朝鮮人を中国と朝鮮の「二重国籍」を持つ存在と認定してこの問題の一時的解決を図った。そして、東北における中共の勝利が確定的となった1948年8月、延辺地区委員会は延辺居住朝鮮人の中国少数民族としての地位を公式に確認し、中国の「公民」と「僑民」の厳格な線引きが開始される。また、戦後初期には「連邦制」を基盤とする政権構想が提示されることがあったが、朝鮮民主主義人民共和国の樹立(1948年9月)によって惹起された民族感情の高揚は中共に警戒感を抱かせるに至り、1949年1月に開催された「民族工作座談会」においては、延辺の分離と朝鮮への帰属、ソ連のような加盟共和国の樹立、自治の三案が議論の対象となり、最終的には朱徳海の提起した自治案が採用された。そして、同年9月の政治協商会議において中共独自の「民族区域自治」が少数民族問題の根本方針として決定されることになる。
 最後の第4章では、中華人民共和国の建国初期である1949年秋から1955年末までの時期の中共の朝鮮人政策が検討される。この時期には朝鮮族の中国に対する「愛国主義」教育が開始され、朝鮮族に中国公民としての忠誠心が求められるようになる。中国居住朝鮮人は、土地を分配され、中国公民に認定されても、朝鮮民族の母国である朝鮮に対する愛着は深く、国籍が変更になったことも日常生活においては重要な意味をもたなかった。しかし、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、「祖国」朝鮮の防衛のために朝鮮族の中から入隊志願者が続出して、大量の朝鮮族兵士・支援者が朝鮮の戦場へ向かうこととなった。中共は当初入隊動員のためにこの動向を黙認していたが、戦局が膠着状態になった1951年春以降になると、朝鮮族の「祖国観」を問題視し、抗米援朝キャンペーン等を通じて新中国に対する「愛国主義」教育を強化した。本章ではこの過程での朝鮮族の内部の動きと中国共産党のそれに対する対応の変化及び朝鮮戦争が朝鮮族社会に及ぼした影響などを論じている。一方、人民解放軍のチベット進駐を機に、1952年8月に中華人民共和国政府によって、民族区域自治政策を制度化した「民族区域自治実施綱要」が発布され、同年9月にはそれに準拠した延辺朝鮮民族自治区が成立した。同時に、新中国政府は建国初期において、精力的に「民族識別」工作を行い、1953年までに27個のエスニック・グループに新たに「民族」として認定した。この間、朱徳海ら朝鮮族のリーダーは省レベルの自治区の設立についての提案を中央政府に対して再三行ったが回答を得られなかったばかりか、行政ランクも自治区から市レベルに相当する自治州に格下げされた結果、1955年12月に「延辺朝鮮民族自治区」から「延辺朝鮮族自治州」へと公式名称も変更され、今日に至っている。このような朝鮮族の地位の低下の背景には、朝鮮族中堅幹部層に対する粛清にみられるような中共中央の指導・統制の強化、朝鮮戦争勃発直前に朝鮮族の部隊4~5万人が北朝鮮に引渡された結果朝鮮族独自の軍事力が失われたという現実があったものと説明される。
 終章では、これまでの本論の論点が整理されるとともに、今後の課題として、①現状では公開されていない北朝鮮等の史料の収集、②北朝鮮の朝鮮族政策、③対象とする時期を「文化大革命」終了時期まで延長することの3点があげられている。

   三、成果と問題点

 中国東北地区(旧満州)に朝鮮人多数が移住し、そこに居住して生活し始めた19世紀後半以降、当該時期の中国政府と日本政府の勢力の狭間に置かれた朝鮮人が両国政府の各種の圧力の下で、土地所有権・国籍・教育と言語をめぐって、厳しい状況の中で抵抗・不服従の活動を継続したことは、近年の研究で明らかにされつつある。しかし、日本の敗戦によって「満州国」が崩壊して以降中共による全国政権が樹立される前後に至る時期の東北居住朝鮮人の動向に関する研究はまだその緒に就いたばかりの状況にあるといえる。この時期の研究が遅れた原因としては、現在に続く中国と北朝鮮との政府間の、また朝鮮族の自治をめぐる中国政府との軋轢等複雑な政治的関係に抵触する問題を含んでいるために、中国側の史料の公開に厳しい制約が存在していること及び朝鮮族研究者には研究の遂行・公表面において政治的重圧がかけられていること、さらには北朝鮮の史料が参照できないこと等が考えられる。著者は、朝鮮族出身の研究者として自身にとっても切実な問題を含む上記の研究課題を設定して、こうした制約の中で日本・中国・台湾の各研究機関に赴いて史料収集に努め、本論文を完成した。
 本論文の作成に利用されている主要な資料は、①中国延辺朝鮮族自治州档案館と国史館(台北)等の公文書館に保存されている会議記録・決議・報告等の档案史料、②『人民日報』『東北日報』『延辺日報』『漢城日報』等の当時中国・韓国で公刊されていた新聞雑誌類、③中国で刊行されている『文史資料』等の各種資料集及び各県志等の地方志類、④『朱徳海一生』『激情歳月・文正一同志回憶録』等関係者の伝記・回顧録、⑤2003年夏に著者自身が黒龍江省で16人の関係者を対象として行った聞き取り及びアンケート調査、である。
 本論文の成果は、なによりも研究史の空白になっている領域において多くの重要な問題を発掘・解明したことにあるが、主たる成果は以下の諸点として整理することができよう。
 第一に、中国共産党の東北居住朝鮮人に対する政策の変遷とその政治的背景を、朝鮮人(族)内部の動向との関連の下に統一的・全体的に問題を把握するために、土地・国籍・自治という三つの問題に焦点を当てて検討するという方法を提起して、意図した成果をあげていることにある。
 第二に、戦後の中共の朝鮮人政策はその時々の政治・軍事的情勢の推移につれて変化したこと、すなわち、国共内戦の初期には朝鮮人の権利・立場に配慮した政策がとられたが、中共が軍事的に優勢となった1947年春を転機として、朝鮮族幹部の粛清にみられるような独自の動きを抑制する政策が実施されるようになり、これにともなって朝鮮族の地位の低下がみられるようになる経過を、実証的に明らかにしている。
 第三に、その他、これまでの研究で論じられていない次のような諸問題の実情を明かにしている。
(1)戦後の混乱期、東北居住朝鮮人が東北各地で現地の中国人や国民政府軍からどのような迫害を被ったのか、また苛酷な環境の下でどのような経路をたどって朝鮮半島に引揚げたのか、具体的に明らかにした。これは、同時期の日本人の引揚げ記録にも中国側回想録にも殆ど触れられてこなかった重要な問題を新たに提起したという意義ももっている。
(2)東北居住朝鮮人が、便宜的に付与された「二重国籍」から、中国「公民」と「僑民」の区分が行われて、中国少数民族としての国籍が確定するまでの政治過程を実証的に明らかにした。
(3)これまで研究されることのなかった中国国民政府の「韓僑政策」の特徴とその変化の過程を、台北の国史館に所蔵されている一次史料等を利用して解明している。
(4)朝鮮戦争の勃発後に、東北、とくに延辺の朝鮮族がどのように参軍・支援活動を展開したか、当時の新聞・雑誌記事と回想録に基づいてその主要な動向を明らかにした。
 しかし、このように多くの成果をあげたものの、なお今後に残された課題として次の諸点をあげることができる。
 まず、第一に、北朝鮮の朝鮮族政策はその動向を左右する重要な要因の一つに数えることができるが、主として史料的制約からとりあげられていない。
 第二に、「龍井高幹班」の事件にみられるような朝鮮人幹部の粛清問題は、断片的な記録からその外形的な動向は明らかにされているものの、実情についてはなお不明な点が多く見られる。
 第三に、同時期に少数民族に認定される中国国内の他の民族(モンゴル族・ウィグル族等)の動向との比較研究の視点をもつことが望まれる。
 しかし、これらの課題は著者も自覚するところであり、今後これらの問題についても持続的に追究を続けて一層の解明と改善の努力が払われることを期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2007年7月11日

2007年6月20日、学位論文提出者李海燕氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「中国朝鮮族の形成に関する歴史的研究―中華人民共和国建国期を中心に(1945年8月~1955年末)」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、李氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は李海燕氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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