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博士論文要旨

論文題目:M・K・ガーンディーの「宗教政治」思想―セクシュアリティ認識の変容とナショナリズム運動の展開―
著者:間 永次郎 (HAZAMA, Eijiro)
博士号取得年月日:2017年3月21日

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インド独立運動史の一大事件として知られるチャウリー・チャウラー暴動と第一次非協力運動の緊急停止(1922)、周囲の予想を裏切って世界中の耳目を一点に集めた「塩の行進」(1930)、独立前後の時期から突如主張され始めた「世俗主義」の原則など、しばしばガーンディーの政治行動は理解が困難で「不可解」なものと考えられてきた。これに対して、本稿では先行研究において充分に扱われることがなかった「ブラフマチャルヤの実験」、すなわち、ガーンディーの政治行動とは無関係であると考えられていた彼のセクシュアリティ認識の変容過程を分析することで、これら一連の「不可解」とされていた政治行動の背後には、ある一貫した「合理的」な思考秩序の構造が見出されることを明らかにした。
本稿では、ガーンディーの政治生涯をサッティヤーグラハ闘争が開始された南アフリカ滞在期(1893-1914)と、全国的ナショナリズム運動が展開したインド帰国後の時期(1915年-1948)の二つに分け、それぞれに3章を割り当てて時系列な分析を加えた。これに序章と終章を加えた章立ては以下の通りである。


序章 「狂気」の背後にある合理的政治心理の構造
 0.序論:本研究の目的
 1.「ブラフマチャルヤ」はなぜ研究されなかったか?
 2.いくつかの先行研究
 3.本研究の方法・史料・構成
 3−1.方法
 3−2.史料
 3−3.構成

第1部 南アフリカ滞在期(1893-1914)
第1章 サッティヤーグラハ闘争の誕生/発生:誓い(ヴラット)・精液(ヴィールヤ)・霊力(シャクティ)
 0.序論
 1.サッティヤーグラハ闘争の「誕生(ジャヌム)」:宣誓の両義性
 1-1.素朴な問い
 1-2.エンパイア劇場の演説(1906年9月11日)
 1-3.サッティヤーグラハの宣誓に至る心理的過程
 2.サッティヤーグラハ闘争の「発生(ウトパッティ)」:誓い(ヴラット)の両義性
 2-1.AKとの比較:“Utpatti”概念に着目して
 2-2.「認識」に先行する体験
 2-3.ブラフマチャルヤの誓いに至る心理的過程
 3.1913年の「秘密の章」:精液(ヴィールヤ)の両義性
 3-1.精液結集と心身のシャクティ
 3-2.精液結集と性欲
 4.結語

第2章 精液概念の形成:ラージチャンドラ、トルストイ、ヴィヴェーカナンダからの交錯する影響
 0.序論
 1.シュリーマッド・ラージチャンドラからの影響
 1-1.シュリーマッド・ラージチャンドラとは?
 1-2.HSに与えた影響
 1-2-1.慈悲(ダヤー)
 1-2-2.魂(アートマー)
 1-2-3.真理(サッティヤ)
 1-3.ラージチャンドラからの警告
 2.レフ・トルストイからの影響
 2-1.内的完全性と外的完全性
 2-2.HSに与えた影響
 2-3.トルストイからの称賛

 3.スヴァーミー・ヴィヴェーカナンダからの影響
 3-1.ヴィヴェーカナンダの『ラージャ・ヨーガ』(1896)
 3-2.HSに与えた影響
 3-3.トルストイとの交錯する影響
 3-4.ラージチャンドラとの交錯する影響
 4.結語

第3章 乳汁と蛇:南アフリカにおけるブラフマチャルヤの実験
 0.序論
 1.ヘルマン・カレンバッハとの実験(1):乳汁放棄の誓い
 1-1.DASIの記述
 1-2.AKの記述
 1-3.カレンバッハとの同棲生活
 1-4.プーンカーの隠れた意味
 2.ヘルマン・カレンバッハとの実験(2):蛇の殺生(ヒンサー)
 2-1.DASIの記述
 2-2.蛇の両義性
 2-3.乳汁放棄との関係
 3.結語

第2部 インド帰国から暗殺まで(1915-1948)
第4章 インド・ナショナリズム運動の展開:暴力(ヒンサー)と非暴力(アヒンサー)の間で
 0.序論
 1.「ヒンサーの中のアヒンサー」と生殖器官の「禁圧」
 1-1.用語の変換:「慈悲」から「アヒンサー」へ
 1-2.マガンラール・ガーンディー宛ての書簡(1918年)
 2.乳汁放棄の断念とローラット法の発布
 2-1.AK第5部・第29章の構成
 2-2.山羊の乳汁とローラット法
 3.非暴力の教義と外国製衣服焼却運動
 3-1.ナショナリズム運動の開始
 3-2.「剣の教義」(1920年)
 3-3.「歴史的集会」(1921年)
 4.チャウリー・チャウラー事件と実験の「限界」
 5.結語

第5章 蛇の力:近代タントラ学からの影響
 0.序論
 1.刑務所出獄後(1924年以降)のブラフマチャルヤの実験
 1-1.アートマ・シャクティ
 1-2.女性性
 1-3.ウールドヴァレーター
 2.近代タントラ学からの影響
 2-1.ジョン・ウッドロフ卿/アーサー・アヴァロン
 2-2.『シャクティとシャークタ』(1918/1920年)
 2-3.『蛇の力』(1919年)
 3.塩の行進とブラフマチャルヤの実験
 4.新たなジレンマ:供儀
 4-1.ウッドロフのジレンマ
 4-2.ガーンディーのジレンマ
 4.結語

第6章 供儀(ヤッギャ)と独立(スヴァタントラター):晩年のブラフマチャルヤの実験
 0.序論
 1.1933年の神秘体験
 1-1.断食の目的
 1-2.「声」
 1-3.ビハール大地震と「神の懲罰」
 2.政治的個人化の哲学的基礎
 2-1.スレンドラナート宛ての覚書
 2-2.ヴャクティ概念とサーンキヤ哲学
 3.晩年のブラフマチャルヤの実験(大供(マハーヤッ)儀(ギャ))
 3-1.実験開始の政治的背景
 3-2.二人の秘書の記録
 3-3.大供儀の目的
 4.供儀と独立
 4-1.実験の公表
 4-2.独立インドに向けた新たな政治構想
 5.結語

終章 真理の両義性


 以下では、序章を除く各章の要約を記す。
(第1章)ガーンディーのサッティヤーグラハ闘争は、1906年9月11日に、南アフリカ・ヨハネスブルグにあるエンパイア劇場で開催された「アジア人登録法」に反対する3000人の抗議集会をもって開始した。第1章では最初にこの集会で行われたガーンディーの演説をグジャラーティー語の原文から分析した。これによって、これまでしばしば考えられていたように、ガーンディーのサッティヤーグラハ闘争の開始を告げるものは、集会の中で決議された運動の平和的(≒非暴力的)抗議形態という「戦略」ではなく、その決議が行われる「過程」の中にあったことを示した。ガーンディーは「神を証人として置いた宣誓(Īśvarne sākṣī rākhī karelī pratijñā)」を立てる決意に至る過程で、激しい「混乱/恐れ/動揺(gabhrāmṇo)」を体験した。そして、このような混乱状態にある中で自身の内側から突如「シャクティ(śakti)」が生じたことを後に回想している。この時に体験されたガーンディーの一連の心理的過程は、ガーンディーによって「全く新しい/革新的なもの(navīn)」と呼ばれ、この体験をもって、ガーンディーは自身のサッティヤーグラハ闘争が誕生したと考えた。第1章の後半部では、南アフリカ滞在期のブラフマチャルヤの実験の中で最も重視されていた「精液結集(vīryasaṅgrah)」(=射精を防ぎ、精液を体内に蓄える実践)が、上記したサッティヤーグラハ闘争における「シャクティ」の発生といかなる関係にあったのかを探究した。この分析によって、サッティヤーグラハ闘争とブラフマチャルヤの実験(=精液結集)とが密接に関わることを直感的に感じていたと同時に、ガーンディーが両者の間に充分に意識化されていない両義的理解を有していたことを示した。それは、ガーンディーの精液結集がサッティヤーグラハ闘争に必要不可欠な「シャクティ」を生じさせる重要な身体実践であったと同時に、サッティヤーグラハの最も有害な妨害物とされる「性欲(viṣay, vikār)」を生じさせる危険な実践と看做されていたという両義的理解(=「ジレンマ(dharmasaṅkaṭ)」)であった。
 (第2章)ガーンディーのサッティヤーグラハ闘争とブラフマチャルヤの実験(=精液結集)との間に見出される「ジレンマ」は、シュリーマッド・ラージチャンドラ、レフ・トルストイ、スヴァーミー・ヴィヴェーカナンダという三人の人物からの交錯する思想的影響下で起こった。ガーンディーの『インドの自治(Hind Svarāj)』(1909年)に最も顕著に窺われるように、南アフリカ滞在期のガーンディーのブラフマチャルヤ思想は、ヴィヴェーカナンダの『ラージャ・ヨーガ』(1896)で説かれる「サイキック・プラーナ」の思想から強く影響を受けるものであった。それは性エネルギーの根元である「精液」を「霊力」へと変換する方法を教えるものであった。しかしながら、ガーンディーが生涯を通して尊敬していたトルストイの文献の中で、ヴィヴェーカナンダの思想が「古い宗教的迷信」として批判されていたことから、ガーンディーはヴィヴェーカナンダの思想を部分的にしか受容できなかった。代わりに、ガーンディーは自身のブラフマチャルヤ思想を極めて禁欲主義的なラージチャンドラのジャイナ教的ブラフマチャルヤ思想(=精液が性欲を必然的に生み出す誘因物と看做す因果論的理解;以下「精液=性欲」と表記)によって意識的に基礎付けようとした。これによって、ガーンディーの精液結集の思想には、心身のシャクティと性欲の発生をめぐるジレンマが生じるようになっていった。
(第3章)ガーンディーの精液結集をめぐるジレンマは、南アフリカ滞在期にユダヤ系ドイツ人のヘルマン・カレンバッハという男性との間で行われたブラフマチャルヤの実験において最も顕著に見出されるものであった。ガーンディーは自著の『南アフリカのサッティヤーグラハのイティハース(Dakṣaṇ Āphrikānā Satyāgrahano Itihās)』(1924)(以下、『サッティヤーグラハ』)の第2部・第11章の中で、カレンバッハとの「様々な実験」について詳しく書いている。そして、ガーンディーは、それらの実験がサッティヤーグラハ闘争にとって必要不可欠なブラフマチャルヤの実験の一環であることを語っていた。しかしながら、この章に書かれてあるカレンバッハとの実験は、一見何らブラフマチャルヤの実験と関係がないもののように見える。具体的には、11章の中では、1912年にガーンディーが「プーンカー」と呼ばれる雌牛に対する強制的な搾乳の「残虐な」現実を知って、カレンバッハと乳汁を飲むことを放棄したことが記されている。だが、この実験がなぜセクシュアリティの問題が関係するブラフマチャルヤの実験と看做されていたのか、ガーンディーは何ら説明をしていない。本章では、この『サッティヤーグラハ』の第2部・第11章の内容を、ガーンディーとカレンバッハとの間に交わされた一連の書簡を分析することで、乳汁放棄の実験がガーンディーとカレンバッハとの間に芽生えていたホモエロティシズムの問題と密接に絡むものであったことを明らかにした。ガーンディーは乳汁放棄を交わす以前の時期に、カレンバッハと二人で約2年間に亘る同棲生活を行っていた。この時期に、ガーンディーとカレンバッハは「カップル」を思わせる激しい「感情(ras)」を抱くようになっていた。だが、この感情が「性的」な感情であると、時代的制約もあり二人はなかなか認めることができなかった。しかしながら、次のような経緯からガーンディーはそのことに対して「呪術的/驚異的(camatkārī)」自覚を抱くようになった。南アフリカ滞在期にガーンディーは、(1)ラージチャンドラから乳汁が精液を生み出し、精液が性欲を増加するという因果論的理解を学んでいた。さらに、(2)ラージチャンドラとヴィヴェーカナンダの影響下で自己の情欲(=「自己浄化」の達成度)と外的な現実(=非暴力的現実の実現度)が対応関係にあるとする世界理解(本稿では、これを「主客一致のコスモロジー」と呼ぶ)を持つようになっていた。これによってガーンディーは、1912年に知った「プーンカー」という雌牛に対する残虐な仕打ちが行われている暴力的現実が、まさに乳汁を飲むことによって高まったガーンディー自身の情欲を反映するものであることを確信したのであった。この後、二人はすぐに乳汁放棄を誓った。
 第4章からは第2部(インド帰国後の時期)に入る。
 (第4章)1915年にインドに帰国して以降、ガーンディーは死を予期させる大病を患った。そして、病気の回復のためにカレンバッハと交わした誓いを断念して、乳汁を飲まなければならないとの医師の診断を受けた。ガーンディーは死を選んで誓いを貫徹すべきか否か迷った挙句、最終的に医師の診断を条件付き(=雌牛ではなく山羊の乳汁にした)で受け入れた。だがこれによって、ガーンディーは精液=性欲の急速な増加を懸念するようになった。そして、病気が回復した直後に開始された全国的ナショナリズム運動においては、精液結集の「禁圧(roke)」という抑圧的なブラフマチャルヤの方法が声高に唱えるようになった。この抑圧的方法においては、精液結集によって男性的シャクティ(闘争性、「男らしさ」、身体的強健性、クシャトリヤ性)を得ることの重要性が説かれながらも、性欲の増加の問題に向けた具体的な対応策を示せなかったことで、専ら性欲の「抑圧(dābī)」や「自己否定(self-denial)」が主張された。そして、ガーンディーは断固としてこのような抑圧的方法によって増加する自身の性欲が性欲であることを認めるようとしなかった。この精液=性欲に対する自己欺瞞的理解が、暴力が発生している現実を非暴力であると主張する逆説的な非暴力ナショナリズム思想(「暴力の中の非暴力(hiṃsāmāṃ ahiṃsā)」)へと結実していった。有名な1920年の「剣の教義」や1921年の「歴史的集会」の演説は、このような逆説的非暴力思想を如実に反映するものであった。しかしながら、ガーンディーは自身の抑圧的方法の「限界(maryādā)」を、1922年に発生したチャウリー・チャウラーで発生した農民暴動事件によってはっきりと確信するに至った。
 (第5章)全国的なナショナリズム運動の終了後、ガーンディーはプネーのヤルヴァダー刑務所に投獄された。この2年の獄中期間は、ガーンディーが運動中に見出した「限界」を克服するための新たな知見を得るのに充分な時間を提供した。ガーンディーは獄中で131冊以上の文献を渉猟するが、その中でも「近代タントラ学の父」と呼ばれるジョン・ウッドロフ卿(=アーサー・アヴァロン)の「タントラ」思想は、ガーンディーのブラフマチャルヤ思想に「深く影響」を与えることとなった。そして、出獄後にガーンディーは俄かに「ブラフマチャルヤの定義の範囲」を「拡大」していく必要性を語るようになっていった。具体的には、それまでのブラフマチャルヤ思想とは対照的な次の三つの性格が強調されるようになった。(1)心身を越えたコスモロジカルな「アートマ・シャクティ(ātmaśakti)」概念、(2)非暴力的でかつ能動的な「女性性(strītva)」や「陰萎性(napuṃsaktva)」概念、(3)精液を根絶するのでも抑圧するのでなく、頭上に上昇・結集させる「ウールドヴァレーター(ūrdhvaretā)」概念である。これによって、ガーンディーはそれまでのブラフマチャルヤの実験に見出していた「限界」を乗り越えるための知的・身体的手立てを得ていった。換言すれば、それまで禁圧=抑圧=回避しようとしていた精液=性欲=女性の「力」を活用する視座を培っていったのであった(=「蛇の力」)。この部分的成果は、1930年に展開した「塩の行進」において窺われるものであった。とは言うものの、ガーンディーの1942年に書かれたブラフマチャルヤに関する文書(『健康の鍵(Ārogyanī Cāvī)』の第1部・第10章「ブラフマチャルヤ(Brahmacarya)」)に最も顕著に見受けられるように、ガーンディーはこの出獄後のブラフマチャルヤ思想に対して新たな心理的葛藤を覚えるようになっていった。それはウッドロフのタントラ思想の「供儀(yajña)」概念を特徴付ける「ヴァーマーチャーラ(vāmācāra)」に対するウッドロフ自身の「自己矛盾」と「両義的感情」を反映するものであった。
 (第6章)塩の行進後に、インドの内政は二つの分裂の気運を高めていった。第一がカースト・ヒンドゥーと不可触民との階級間対立であり、第二がヒンドゥー教徒とイスラーム教徒とのコミュナル対立である。ガーンディーは前者の問題を解決するために1930年代前半に4度の断食実践を行った。この中でも1933年に行った断食に際しては、それまでガーンディーが味わったことのない「特別な」神秘的体験が伴った。ガーンディーは「完全に目覚めていた」状態で、まさに「人間が我々に何かを言っている」ような「声」を聞いたと告白した。ガーンディーはこれが「神の霊感(Īśvarprerṇā)」であると固く信じて疑わなかった。この体験を機に、ガーンディーは断食を政治的大義からではなく、専ら「自己浄化」の問題との関係から主張するようになっていった。すなわち、ガーンディーは外的政治状況を改善するための唯一の方法が、ガーンディー自身の内面の心理的浄化にあると強調するようになり、それまでの大衆レベルのナショナリズム運動を個人化していった。このような試みにも拘わらず、国内の政治状況は一向に回復の兆しを見せず、1940年代に入ってからは、むしろコミュナル対立がより一層激化していった。国内政治の悪化の責任が自身の情欲の未浄化にあると考えたガーンディーは、1946年8月にベンガルで発生したコミュナル大暴動を機に、それまで実行を躊躇っていた「完全な自己浄化」を企図した「激しい火の中を潜る試験」である「大供儀(mahāyajña)」を開始することを決意した。この後、同年12月から翌年2月まで、暴動の中心地である東ベンガルのノーアーカーリーで、ガーンディーは又姪マヌと寝床の中で裸の同衾の実験を繰り返した。この実験が終わった後、自身のブラフマチャルヤの定義がいよいよ「達成(siddh)」されようとしていると感じたガーンディーは、インドが独立する直前の時期に、ブラフマチャルヤに関する最終見解を纏めた記事を政治的出版物に連載した。同時にガーンディーはこの時期から独立インドに向けた新たな政治構想(世俗主義原理)を提唱するようになり、そこでは大供儀で目指された「宗教の個人化」の徹底(=「脱情欲状態(nirvikār)」になることによって、自己(アートマー)と合一する「唯一無二の個人性(anokhuṃ vyaktitva)」の実現)が説かれた。そして、大供儀によって準備された、政治構想実現のための断食実践もまたコミュナル融和(=主客の「呪術(camtkār)」的一致)を齎せるために満を期して行われた。しかしながら、断食実践によって、カルカッタのコミュナル暴動は一時的に沈静化されたものの、2週間後にはより一層激しいかたちで暴動が再発していった。その後、ガーンディーは全国各地で暴動の嵐が吹き荒れる無秩序状態の独立インドを目撃する中で、「どうしようもない無力さ」を告白しながらニューデリーで弾丸3発を受け78年の生涯を閉じた。
 (終章)終章では、本稿全体の議論を概観した後、ガーンディーの宗教政治思想の中心にあった「精液(vīrya)」概念について幾らかの哲学的考察を加えた。しばしば、ガーンディーが生涯を通して信じていた精液の宗教形而上学は、「間違った迷信化」(ビク・パーレーク)として一蹴されてきた。これに対して筆者は、この精液結集という主題は実証主義的論証の次元で捉えられるべき問題ではなく、認識論的両義性という哲学的観点から捉えられるべきことを論じた。つまり、精液は自己の身体と一体である限りで自己にとっての主体/主観を意味する。同時に、それは射精によって外部に放出される。それが受精すれば「他者」が発生する。あるいはインド哲学的次元では、それは主客をめぐる段階的グラデーションを持つ両義的転変(パリナーマ)を生じさせる誘因物でもある。また、精液はセクシュアリティという現象学的感情領域を左右する非物理的衝動であると同時に、可視化され得る生物学的客体でもある。つまり、精液という問題は両義的存在のレイヤーが幾層にも重なり合う認識論的交雑の「場」に他ならないのである。このような認識論的両義性に着目した時、主体/主観でもなく客体/客観でもない精液を、ガーンディーが主体/主観でも客体/客観でもない「真理/存在(satya)」の探求というサッティヤーグラハのプロジェクトの中心に据えたことが(そして、それを彼が「合理的」と感じていたことが)理解可能となる。換言すれば、この精液に対する「間違った迷信化」無しに、ヒンサーとアヒンサー、女性と男性、ジャイナ教とタントラ思想、若さと老い、同性愛と異性愛、自負と無力さ、宗教と世俗、そして、存在と非存在というあらゆる認識的境界線を絶え間なく再構成しようとするガーンディーの宗教政治の「様々な実験」はいかなる意味でも起こり得なかったのである。

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