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博士論文要旨

論文題目:「下町らしさ」のパラドックスを生きる―変貌する東京インナーシティのエスノグラフィー―
著者:金 善美 (KIM, Sunmee)
博士号取得年月日:2016年3月18日

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【章立て】

序章 脱工業化社会におけるローカル・アイデンティティの現在地
 
1章 東京下町の過去と現在:1980-2015
1-1 脱工業化・グローバル化と東京のマクロな空間再編
1-2 インナーシティ問題と「その後」
1-3 「川向こう」と昭和ノスタルジーの間――東京論・下町論の系譜
 
2章 向島はどのような場所か
2-1 歴史と地理
2-2 脱工業化以降の人口・産業構造の変化
2-3 本論文の分析枠組み
2-4 まちづくり運動の4つの世界
 
3章 「日本のものづくり」を取り戻す――工業振興のまちづくり
3-1 「ものづくりの街」の揺らぎ
3-2 工業と観光の接点を探して――工業振興策の方向転換
3-3 「作り手」であり続けるために――若手事業主たちの語り
3-4 小括
 
4章 「普通の街」になりたい――防災のまちづくり
4-1 防災事業の展開
4-2 近代都市計画批判の「聖地」向島
4-3 「生活環境の改善」が含む両義性
4-4 小括

5章 創造性の芽生える場所――文化創造のまちづくり
5-1 アートプロジェクトという新たな潮流
5-2 「よそ者」の流入と下町空間の再解釈
5-3 活性化への期待とズレ――A商店街の事例から
5-4 文化創造の担い手が抱えるジレンマ
5-5 小括

6章 自営で生きる/共に生きるという実験――新住民の「地元」づくり
6-1 進む再開発と観光地化
6-2 若手層自営業者の増加と「独立系」という生き方
6-3 多元化する地域コミュニティと下町2世・3世の存在
6-4 土地との結びつきをめぐる新‐旧住民の乖離
6-5 小括


終章 「地域」創造のトポロジー――まちづくりのパラドックスを超えて

APPENDIX

参考文献

謝辞


【各章の要約】

本研究は、<「下町らしさ」のパラドックスを生きる――変貌する東京インナーシティのエスノグラフィー>というタイトルの下、流動化社会において特定の地域社会に基づくローカル・アイデンティティを再構築していこうとするまちづくり運動の取り組みが持つ可能性と限界について論じたものである。以下では、各章毎の内容を簡単に要約しながら、本研究の要旨をまとめておく。

序章 脱工業化社会におけるローカル・アイデンティティの現在地では、現代社会において改めてローカル・アイデンティティの(再)構築に注目が集まっている状況を指摘し、そこから、グローバルな資本蓄積のメカニズムによる空間再編と、流動化社会における人々の社会的つながり・アイデンティティへの要求の高まりとの間で引き裂かれた、今日の大都市社会の地域社会への問いを提起した。その上で、本研究が着目するのは、東京の下町である墨田区・向島地区の事例である。向島地区では1980年代以降、産業構造の変化による地域社会の総合的な衰退の現象が目立ち始め、こうした問題の解決に向けてさまざまな方向性を持つまちづくり運動が展開されてきた。
では、本研究の具体的な分析課題とは何か。先行研究の流れを踏まえた上で見えてくるのは、<脱工業化社会におけるまちづくりのパラドックス>である。それは、かつてまちづくり運動に「成功」をもたらした要因―たとえば、都市計画のあり方の変化や、若手アーティスト・新住民らの流入など―が、その後のさらなる地域社会変動の中で新たな矛盾や摩擦を引き起こし、その結果、まちづくり運動が変わりゆく地域社会に不適合化してしまうという状況を指す。「下町らしさ」というローカル・アイデンティティを(再)構築していこうとするまちづくり運動は、現代の流動化社会において、ますます多元化する住民層の間で誰をまちづくりの主体とみなすのか、そして「下町」というローカル・アイデンティティの商品化にいかに対応するのかという、新たな問題に直面するのだ。
このような分析課題は、<都市がますます資本蓄積に最適な空間として再編され、そこに住む人々の生や自治、関係性づくりのあり方にまで新自由主義的発想が浸透しつつある今日の状況において、特定の地域社会に基づくローカル・アイデンティティの構築はいかにして可能か/あるいは、もはや不可能ではないのか>という問いに言い換えることができる。そしてこの問いへの答えを探るために、本研究では、約5年間のフィールドワークに基づくエスノグラフィーの研究方法を用いた。ここで重点をおいたのは、まちづくり運動をさまざまなアクターの欲望が緊張・対立を含みながら交差する「社会空間」としてとらえることである。そうすることで、地域社会の持つ共通性・統一性という自明の大前提を再考し、マクロな社会変動の中でたえず再帰的に構築されるものとして地域社会やローカル・アイデンティティを位置づけた。

<脱工業化社会におけるまちづくりのパラドックス>という分析課題を解明するためには、まず、脱工業化・グローバル化というマクロな社会変動の中で向島地区の地域社会をとらえる必要がある。そのため、第1章と第2章では、東京下町と向島地区が辿ってきた地域社会変動を、歴史や地理、人口・産業構造の分析などから明らかにした。

第1章 東京下町の過去と現在:1985-2015は、東京下町をとりまく都市空間の再編過程の分析に当たる。1980年代以降、東京では「世界都市」を目指す大規模な都市改造が進むが、東京下町はそうした「成長」や「再生」の物語から相対的に取り残されたままであった(第1節)。山の手と下町という東京ならではの都市構造を支えてきた東京下町の地域社会の特質は徐々に失われ、コミュニティの解体や格差の拡大が浮き彫りになる(第2節)。一方、こうした現実空間における急速な地域社会変動とは裏腹に、下町をめぐる言説空間では流動化社会において失われつつある都市や人間生活の「本物らしさ(Authenticity)」を象徴する場所として、東京下町に新たな地域イメージが与えられていくことが分かった。
第2章 向島はどのような場所かでは、本研究の研究対象である向島地区の紹介に当たる。向島地区は近代以降、工業の成長とともに発展してきた歴史を持ち、また、木造密集市街地の防災上の危険性を抱える場所である(第1節)。近年では工業地帯としての性格は弱まり、住宅地化の流れとともに住民構成は多様化している(第2節)。地域社会変動の転換期にある向島地区では、既存の地域社会の構成要素が残る一方、新たな変化も始まっており、逆説的にも、こうした中途半端な状態こそがまちづくり運動の多様性をもたらす環境を作り上げてきた(第3節、第4節)。

第3章から第6章のまでの部分は、それぞれ異なる方向性を持つまちづくり運動の世界を照らしたエスノグラフィーの記述に当たる。まちづくり運動を支える多様なアクターは試行錯誤を繰り返しながら、自らの欲望を投影した新たな「下町らしさ」=ローカル・アイデンティティを構築してきた。

第3章 「日本のものづくり」を取り戻す――工業振興のまちづくりは、向島地区におけるまちづくり運動の歴史の始まりでもある、行政や工場経営者らによる動きに着目した。行政の主導による1980年代の工業振興策は、産業と住民生活が有機的につながる「ものづくりの街」を向島地区のローカル・アイデンティティとして強調し、その再生を主な目標とした(第1節)。しかしながら、工業の衰退には歯止めがかからず、行政による工業振興策は東京スカイツリーの誘致をきっかけに新たな展開を見せる。産業観光の取り組みや、江戸から続く伝統や歴史性の強調がそれである(第2節)。このような工業振興策の方向転換は競争力の低い多数の下請け企業を周辺化させていくが、一部の若手事業者らは独自の工業振興策でそれに対応してきた(第3節)。そこからは、「変わらない『ものづくりの街』でいるために、変わり続けなければならない」というパラドキシカルな状況が明らかになる(第4節)。
第4章 「普通の街」になりたい――防災のまちづくりは、生活環境の衰退に対応して起きたまちづくり運動であった。向島地区では1980年代以降、行政や住民、専門家グループなどの連携による修復型・住民参加型の防災まちづくりが行われてきた(第1節)。とりわけ専門家グループの役割に注目すると、近代都市計画制度に批判的であった専門家グループによって密集市街地の価値が再発見され、まちづくりの「成功事例」として向島地区の名を広がってきたことが分かる(第2節)。とはいえ、こうした動きと旧住民らの語りを照らし合わせると、そこには近代都市計画批判の「聖地」向島地区の姿とは裏腹に、そこから「離れたくても離れられない」住民側のアンビバレントな感情があった(第3節)。両者の間の亀裂からは、今改めて防災まちづくりの主体と目標が問い直されている(第4節)。
第5章 創造性の芽生える場所――文化創造のまちづくりでは、アートプロジェクトを中心とする若手アーティスト・クリエイターらの文化創造の動きをとりあげた。都市政策・文化政策の観点から見ると、向島地区が総合的な地域社会の衰退状況におかれたがゆえに生まれた実験的な動きは、芸術文化を通じた地域活性化を目指す政策の枠組みの中で徐々に制度化してきた(第1節)。当初、若手アーティストらはますます街並みが均質化・画一化していく現代都市における「隙間」として向島地区をとらえ、創造活動を通じてその個性や魅力を発信してきた(第2節)。A商店街の事例からは、こうした下町空間の再解釈が観光客やマスメディアの目を引くこと反面、旧住民との間で微妙な緊張関係を作っていることが分かる(第3節)。その結果、アーティストは「創造」をめぐる新たなジレンマを抱え(第4節)、文化創造のまちづくり運動はやがて多様な芸術文化を生み出すインキュベーターとしての向島地区の当初の環境を脅かしてしまうというパラドックスにぶつかる(第5節)。
第6章 自営で生きる/共に生きるという実験――新住民の「地元」づくりでは、近年、まちづくりの新たなアクターとして登場した「独立系」自営業者と新住民らに着目した。地域社会変動の観点からすると、彼・彼女らの動きはそれ自体、再開発と観光地化という地域社会変動の結果であると同時に、今後のさらなる変化の可能性を含むものといえる(第1節)。個性的な小規模ビジネスを営む「独立系」自営業者らは企業社会に抵抗する「個」という生き方の追求や、流動化社会における帰属への欲求という共通項を持ち、地域活性化イベントなどを通じて趣味嗜好を共有する新住民同士のつながりを形成していく(第2節)。これら新住民と旧住民との間には土地との結びつきをめぐる相容れない隔たりがあるが、一方、下町2世・3世の存在は、二つの世界の間に存在する何らかの接点を示す(第3節、第4節)。新住民らの流動性の高さは地域社会の次世代の担い手としての可能性と限界を同時に含むものであり、それがアクター内部の自己矛盾を生む(第5節)。
終章 「地域」創造のトポロジー――まちづくりのパラドックスを超えてでは、以上で見ていたまちづくり運動の展開を序章の問いと照らし合わせた上で、<脱工業化社会におけるまちづくりのパラドックス>という本研究の分析課題をまとめ、そうしたパラドックスを抱えながら地域社会で「生きる」ことを続けるアクターらの営みが持つ含意について述べた。本研究で明らかになった知見は、以下の3点である。
第一に、地域社会変動への対応であると同時に、地域社会変動の結果を直接的ないし間接的な形で反映しながら展開される今日のまちづくり運動は、地域社会変動を映し出す地勢図(contour)として位置づけることができる。向島地区におけるまちづくり運動の展開からは、可変的で多層的なモザイクとしての東京下町の現在が明らかになった。
第二に、脱工業化社会におけるまちづくりのパラドックスとは、さまざまな層位を持つ「開発」と「保全」をめぐるパラドックスである。こうした図式は一見、陳腐に見えるかもしれないが、しかしながら、東京下町をとりまく都市空間の再編過程において、その対の意味は大きく変わりつつある。脱工業化社会への転換過程において既存の地域社会の諸構成要素の間の有機的つながりは徐々に解きほぐされ、地域社会変動という巨大な圧力は異なる層位を持つ「開発」と「保全」を推し進めようとする無数の力に細分化されて諸構成要素に個別的に作用していく。その結果、まちづくり運動はどのような性格の「開発」に賛成/反対し、何を「保全」していくのかという選択を突き付けられ、その答えがローカル・アイデンティティの再構築をめぐるパラドックスを生み出す要因となっている。
第三に、まちづくりのパラドックスを前に挫折と戸惑いを経験しながらも、依然として地域社会の担い手として「生きる」ことを続けようとするさまざまなアクターの営みは、現代の流動化社会において改めて生の基盤としての「地域」を再定義していこうとする試みとして解釈できる。いかに時代が変化し社会が発展しても、結局のところ、人は常に特定の時間的・空間的範囲の中に身を置きながら生きていく存在である。人の生の基盤としての「地域」たるものが解体や喪失の危機にあるならば、必要に応じてそれを作り直さければならない。その結果としての「地域」はもはや特定の産業・経済構造や社会的同質性から規定されるものではないかもしれないが、それもまた、今日の流動化社会に適合した地域社会のあり方の一つではないだろうか。そうであるならば、現代社会において人々は単に物理的な場所(トポス)を生きているのではなく、自らの生の基盤を再定義し続ける場所論(トポロジー)を生きていると言える。
最後に、本研究が持つ意義を、以下の4点にまとめたい。
第一に、本研究は、欧米大都市を中心とするこれまでの一般的仮説に対して、必ずしもそれに一致しない東京下町という都市空間の特質を明らかにした。旧中間層の相対的な健在さという地域社会の構造的特質、民族的同質性の高さに基づく過去へのノスタルジーという文化的要因の影響力、災害に弱いという建造環境の特殊性という条件が合わさった結果、それは他の大都市一般で見られるインナーシティのジェントリフィケーションという現象の抑制要因として働き、地域社会変動が生み出す社会的排除や不平等の問題は相対的に可視化されにくい傾向があることが確認された。
第二に、本研究は1980年代を中心に豊富な研究成果の蓄積があるインナーシティ研究の延長線上に位置するものとして、先行研究で指摘された地域社会の崩壊の「兆し」がその後、現実に現れてきたことを確認した。その上で、さらなる社会変動の中で「下町らしさ」が新たな価値を持つことで、東京インナーシティの都市空間が先行研究においては予想できなかった複雑で矛盾に満ちた展開を見せてきたことを示した。
第三に、本研究はエスノグラフィーの記述を用いることで、社会変動がもたらす具体的な帰結を地域社会に生きる当事者たちの視点から説明し、必ずしも一定の方向性に収斂しない地域社会変動のダイナミズムを示した。その結果、東京下町を江戸から続く歴史と伝統が息づく人情共同体の世界、あるいは格差社会の周辺部として描かれがちであった1980年代以降の東京論・下町論の流れから脱することが可能となり、モザイク状の社会空間として今日の東京下町を描いた。
第四に、本研究は、まちづくり運動を分析する際のパースペクティブをマクロな政治・社会構造の変容にまで拡張することで、既存の都市計画・まちづくり研究と差別化される。まちづくり運動をグローバル・ナショナル・リージョナル・ローカルという多様なスケールの社会変動が連動しながら起きる出来事として位置づけることで、ダイナミックな地域社会変動の一断面を映し出す「地勢図」としてのまちづくり運動の性格が明らかになるとともに、都市空間の再編をめぐる諸問題とまちづくり運動を理論的に接続させることが可能となった。

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