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博士論文要旨

論文題目:世阿弥伝書の思想の研究
著者:上野 太祐 (TAISUKE, Ueno)
博士号取得年月日:2015年7月31日

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本論文は、世阿弥(1363?―1443?)がしたためた伝書の研究を通じ、彼が何を伝えようとしたのかということを思想史学的に分析したものである。世阿弥は、観阿弥の芸を受け継ぎつつ伝書をしたため、それを通じて後継へと芸を伝えようとしていた。この最も原初の「伝え」のとき、世阿弥にはいったい何が起きていたのか。そこで紡がれた世阿弥伝書の思想とは、いかなるものなのか。そして、この「伝え」は、どのような仕方で成されていったのか。本論文の主題は、この点の解明にある。
 戦後の能楽研究史を振り返ると、表章の一連の研究が提出されて以降、実証的成果が次々に上げられる一方、世阿弥の思想それ自体への言及は、戦前ほど活発には行われなくなった印象を受ける。世阿弥伝書の文献学的・実証的読解が、次々に着実な成果を挙げていくなかで、抽象論に陥りがちな思想研究が結果的に後景に退いてしまったきらいがある。そうしたなかでも、相良亨や西平直らによる思想研究をはじめ、注目すべき独自の成果は生み出されている。しかし、問題は、能楽研究の成果との統一的な像を結ぶには至っていないことである。すなわち、近年の能楽研究の成果を十分に踏まえ、世阿弥の生きた時代に即して彼の思想形成を解き明かしながら、世阿弥伝書の根本問題を正面から問うような、そうした総合的な世阿弥の思想の研究はいまだ現れていないのである。能楽研究者が時代性を重視する実証的研究にその基礎を持ち、抽象的な議論をなるべく斥ける傾向があるのに対し、思想研究者は時代を超えた根源的なものを問おうとするため、歴史的実証性よりも思想の論理的構造や世阿弥の奥底に横たわる「問い」それ自体に関心を持ち、場合によっては文献学的成果を飛び越えた形で議論を進める傾向がある。結果、前者は伝書全体に通底する思想構造の理解への関心が薄く、後者は世阿弥固有の歴史性や思想形成の過程を捨象してしまう弱点がある。両者の溝を埋め、改めて世阿弥の思想を捉え直し、ひとつの統一的な像を結ぶことは、喫緊の課題なのである。前者の研究と後者の研究とを、「思想」を接点として架橋すること。両者を本当の意味で出会わせること。これが現在の世阿弥の思想の研究において求められている最大の課題であり、本論文の負うべき役割である。
本論文のおよその見通しをあらかじめ述べれば、以下の通りである。世阿弥は、ある歴史の局面において大きな葛藤を抱え、思索を深めていった。そしてこの局面からの思索こそが、まさに世阿弥伝書の思想の基底を創りあげている。したがって、論はまず、歴史的局面において世阿弥の抱えていた葛藤を捉えることから出発し、徐々に彼の語りそのものの深部へと歩を進め、やがて伝書に書かれた思想の核心部に到達するという道をたどる。
第一部では、このような世阿弥伝書の思想の基底が生まれ出た背景を思想史学的に精査した。応永15年(1408)より足利義持が室町殿として家督を相続し、この時期に世阿弥の能楽論は大きな転換点を迎えたと筆者は考えている。そこで、この転換点を「ことの起こり」と捉え、応永15年から同35年頃までのこの時期に世阿弥が抱えた葛藤を、当時の歴史的・社会的状況を十分に踏まえて考察した。その際、筆者が最も焦点を当てたのは、観阿弥の存在、および観阿弥と世阿弥との内面的な関係である。観阿弥は至徳元年(1384)に没しているから、無論この時期の世阿弥にとって「亡父」である。ところが、この「亡父」は世阿弥伝書の至る処で陰に陽に現れる。これまで、世阿弥能楽論研究において、世阿弥と観阿弥との関係が、内面的には如何なるものであったかという問題が設定されたことは多くない。世阿弥の思想の形成過程を論じる際には、なぜか観阿弥に対する意識の問題は蚊帳の外に置かれ、関心の対象は専ら世阿弥の思想の論理展開や典拠探しに絞られてきた。観阿弥の研究は観阿弥の研究、世阿弥の研究は世阿弥の研究という形で、両者はほぼ棲み分けられており、その重なりが具体的に意識される機会は、おそらく謡曲作者の推定の場面くらいではなかったか。かつて、『花伝』はほぼ観阿弥の教え、『花鏡』こそ世阿弥の自立した最初の論という極端な理解がなされていたこともあった。今日の研究水準からいえば、この説に従うことは到底できないが、かといって『花伝』『花鏡』に観阿弥の影響がまったくないというわけではない。そこで、本論文第一部では、忘れ去られた観阿弥の内面的な影響について、特に代表的な伝書とされる『花伝』『花鏡』を中心に検討することから始め、続いて世阿弥の思想形成を同時代的に解明する道へと進んだ。
第一章では、「世阿弥にとって「初心不可忘」の教えとは、何であったか」という問題意識の下、世阿弥の能楽論において観阿弥が理想化されていく過程を分析した。具体的には、よく知られた「初心不可忘(初心忘るべからず)」の教えが後年に出現しないという不審を軸に、実はこの教えの核心が、後年の能楽論『九位』の習道体系に結実していることを明らかにするとともに、この教えが生み出された背景に、観阿弥の芸に対する世阿弥のまなざしが読み取れることを明らかにした。
第二章では、第一章とは対照的に、観阿弥を乗り越えようとした世阿弥の姿を分析した。具体的には、義持政権への移行に伴い、世阿弥のめざす芸の情趣が変容する過程を明らかにした。その際、従来の研究では個別に論じられていた以下の三要素を、世阿弥の情趣の変容という問題意識の下に総合することで、この時期の世阿弥の葛藤を浮き彫りにした。三要素とは、世阿弥伝書における「感」、室町期の田楽・猿楽の芸の実際、増阿弥の台頭と世阿弥の危機意識である。これらの研究成果を総合することで、伝書中にみえる「感」の質的変容が明らかになるとともに、『音曲口伝』第六条にみえる『毛詩』大序が、観阿弥の芸を乗り越えるための理論的梃子の役割を果たしていることが見えてきた。
第三章では、世阿弥の「心」をめぐる思索の深まりを捉えた。具体的には、『風姿花伝』第三篇第九問答末尾に付された慧(え)能(のう)の偈(げ)をめぐる読解を行った。ここでは、この偈が『風姿花伝』成立の段階で加わったものであることを確認し、偈が世阿弥伝書に引かれたことの意味を考察した。具体的には、偈にみえる「花情」の箇所の読み方に注目し、本来の禅の文脈とは異なる世阿弥伝書固有の文脈から、「花は情(こころ)」と読む新たな読解可能性を提示した。
第四章では、従来あまり思想面からの言及が成されてこなかった世阿弥の『毛詩』受容を取り上げた。具体的には、「正しき感」の「正しき」の内実に関して、世阿弥の時代に近接した『毛詩』大序の解釈(清家系『毛詩』解釈)や中世古今注『三流抄』と世阿弥固有の解釈との重なりと隔たりに注目し、世阿弥の思想を時代のなかで位置付けるとともに、そこに埋もれない世阿弥固有の要素を同時に描き出すことを試みた。世阿弥は、この「正しき」を、当時共有されていた「誠」「正直」「心直ナル」といった中世的教養から導き出しながらも、本来連歌論の用語であった「無文」に結びつけ、飾り気のない音曲を高く評価する巧みな読み替えを行っていた。こうした世阿弥の語りの分析を通じて、同時代の教養の重なりが具体的に明らかになるとともに、世阿弥が何らかの独自の語りをもちながら、これらを統合していることが見えてきた。
以上、第一部の内容全体を整理すると、第一章と第二章との関係は、前者が観阿弥の理想化、後者が観阿弥の超克と整理できる。世阿弥はこの二つの衝動のあいだで、葛藤しつつ自身の思想を深めていったのである。そして、第三章と第四章との関係は、葛藤を軸に練り上げられた世阿弥の思想が、同時代のいかなる言葉で象られていたのかという点を受容の面から考察したものと整理できる。この二つの章は、時代性を踏まえつつ世阿弥固有の意図の発掘をめざしたものである。
第二部では、第一部の内容を十分に踏まえながら、世阿弥によって「問われたこととしての思想」を追究し、世阿弥伝書の思想の基底それ自体の解明にとり組んだ。第二部全体を通じて特に筆者が注目したのは、「妙花風」である。これは後年の世阿弥伝書『九位』で至上の芸位とされ、世阿弥の思想の一到達点とみてよい。世阿弥能楽論研究において「妙花風」は、禅思想の観点から注目されることが多いが、世阿弥の禅語使用については、その本質を捉える努力が必要であり、禅語を禅語の文脈でのみ理解すると、世阿弥の主張の核心を捉え損ねてしまう。そこで筆者は、従来とは異なる観点から「妙花風」に迫った。そもそも「妙花風」は、それまでも伝書にたびたびみえた「妙」の思想に由来し、「妙」とは、為(し)手(て)が意識することのできない至上の芸の在り方で、その芸に接した見手は「無心の感」を催すとされる。すると、「妙花風」という最高の芸には、為手側の意識の問題と見手側の感動の問題とが、密接にからみあってあらわれているとみることができる。そこで本論文第二部では、為手・見手の両面から、「妙花風」「無心の感」に迫ることで、至上の芸の内実を把握し、世阿弥が伝書を通じて伝えようとしていたことの核心を解き明かした。
第一章では、能の「芸術」性の問題を切り口に、第二部全体に関わる問題をゆるやかに示した。美学をはじめとするさまざまな観点から、能は「芸術」だとされてきたが、どのような意味において「芸術」であるのかということは、これまで十分に論じられてこなかった。世阿弥によれば、能は「出で来」るものであり、すでにそこにあるものではない。このように能を捉えることで、「芸術」性の根源を、幽玄に代表される美的価値とは区別される、「妙」という美的経験に見出す見解を示した。
第二章では、世阿弥伝書にみえる禅語を伝書の内側から検討することで、世阿弥が禅語を通じて本当に語ろうとしたことを考察した。先学の指摘通り世阿弥の禅が「耳学問」だとするのならば、本当に問われねばならないことは、その言葉を使って世阿弥が何を語ろうとしていたかということであろう。「妙花風」「無位の位」「有主風」といったさまざまな言葉は、実際にはすべて同一の内実を基礎に持つことを明らかにし、その内実は、《をする》から《になる》へという無上の上手の「成入(なりいる)」意識として指摘できることを明らかにした。すなわち、禅語はこの意識を捉えるための手段だったのである。また、こうした「成入」意識への関心は、世阿弥が禅と濃厚な接点を持つ以前の伝書にすでに萌芽的に見出されることをも示すことで、この意識が世阿弥伝書を貫く基底的思想であることを明らかにした。
第三章では、無上の上手とされる為手の「妙花風」の芸の内実を解き明かすとともに、その芸を伝えることの問題を扱った。具体的には、まず見手と為手との間にまたがる「感」(「無心の感」)の分析を通じ、「成入」芸が究極的には「生きたる能」《になる》ことである点を明らかにした。続いて、そうした芸を為手が十全に語りえぬうえに自覚的に到達しえないとする世阿弥の語りに注目することで、「妙花風」に自覚的に到達しえないからこそ、底なしに稽古の余地を広げる構造をもつことを示した。後を継ぐ者は、稽古《をする》ことでしか、無上の上手(師)の如く《になる》ことはできない。そのような仕方でしか、至上の芸は受け継がれ得ない。この語り伝えの不可能性こそが、《をする》から《になる》へという伝えの仕方を切り拓き、結果として「花」が伝わるという構図をもつのである。
第四章では、「無心の感」を経験した見手には何が起きているのかという問題について、本論文で築いてきた世阿弥伝書の分析と《忠度》の作品研究とを接続するかたちで考察した。見手が「能を智」るとは、端的にいえば、己の内側からその能を知ることなのである。具体的には、《忠度》を通じて、その本質として繰り返される「行き暮れて」の歌を内在的に知り、「須磨」の「花」を見る度に、他ならぬ忠度の「名」を持つ「歌」として、それをおのずから思い起こす在り方が見手に刻まれる。このとき見手は、まさに為手の「心を忘れて能を智」っているのであり、その意味で「無心の感」を経験し、いわば見手の心が能《になる》のである。
以上、第二部の内容全体を整理すると、第一章では、以後の論の展開の前提となる意味での「能」が「出で来」ることを検討し、第二章ではその問題意識を引き継ぎつつ、「妙花風」などにみえる禅語を軸に、論点を無上の上手の意識(《をする》から《になる》への「成入」意識)の問題へと掘り下げた。それを受けて第三章と第四章では、為手が能《になる》こと(及びその「伝え」の問題)と、見手が能《になる》こととを取り上げた。結局のところ、見手が能《になる》芸とは、為手が能《になる》芸なのであり、この両者は能が見手と為手との間に「出で来」ることときわめて密接な関係にある。
最後の二章は、本論文全体を通じて明らかにしようとした「伝え」の問題に対する一定の答えといえる。語り得ぬものを伝える唯一の方法としての《になる》こと。外から語ることとは違う仕方。そこに世阿弥は、「伝え」の核心を見取っていたということである。
 筆者の論じてきた事柄を研究史において位置づけたとき、どのような独自の成果が見えてくるだろうか。また同時に、本論文においていまだ解決されていない課題は何か。この点を最後にまとめておく。
まずは成果である。大局的な観点から述べれば、世阿弥の思想研究において、能楽・国文学を基礎とした研究視座と、哲学・倫理学を基礎とした研究視座との両者を同時に備え、且つ有機的に結び付けようとした研究は、管見の限りいまだみえない。こうした研究は、深い溝を持つ昨今の研究状況をいま一度総合する試みであり、この課題に挑戦した点に、本論文の意義と位置が認められる。
続いて、個別具体的な観点からは、以下の四点が本論文独自の成果としてあげられる。第一に、世阿弥の思想の研究において、思想形成の原動力という視点から、内なる師観阿弥をめぐる葛藤に焦点を当てた研究は、いまだみえない。第二に、禅思想からの影響はしばしば考察されてきたが、それとは異なる『毛詩』大序、中世「古今注」、清家系『毛詩』解釈といった中世的教養の思想的内実から世阿弥の思想形成に迫ろうとする試み(典拠研究に留まらない成果)も、これまでにはみえない。第三に、世阿弥が禅語を恣意的に用いているとの指摘は見られるものの、世阿弥が禅語で何を語ろうとしていたのかという点に着目し、「語られたこと」の内実を具体的な思想として捉えた研究もいまだみえない。第四に、世阿弥伝書の内容と世阿弥の謡曲作品とを本格的に接続させ、思想研究の面から検討を加えた研究はこれまでにみえない。これら諸点が、本論文の独自の成果と言える。
他方、十分な解決をみない課題も残った。以下順に、世阿弥思想研究の視点、日本中世思想研究に関わる点、日本思想の研究全体に関わる点、中世日本思想史研究の方法論に関わる点の四点から指摘しておく。第一は、世阿弥思想研究という視点でいえば、《忠度》以外の謡曲作品と世阿弥伝書の思想との関係についても、深く追究する必要がある。本論文は、あくまで伝書の思想を中心に扱ったため、謡曲における思想の吟味が不十分である。これについては、そもそも世阿弥「作」としてよい作品の精確な特定やその扱いも含め、今後の課題である。第二は、日本中世思想研究という視点でいえば、世阿弥伝書にみえる中世的教養のなかでも、『易』や陰陽論、中世「日本紀」に関わる問題を扱うことができなかった。これは、世阿弥のみならず、中世的教養の全体像の把握というより大きな課題に結びつくものである。その重要さと広さゆえに、今後の課題とせざるを得なかった。第三は、より広く日本思想の研究全体という視点でいえば、語り得ぬ「知」をめぐる問題が課題として残されている。語り得ぬものを受け継ぐことが、《をする》から《になる》へという思想で捉えられるという視角は、言語化されていない「知」を分析する上で、能以外の日本思想分野においても応用できるのではないかと考えられる。この視角の射程を精確に見極めることは、重要な課題の一つであるが、これもまた本論文で扱うべき問題を超えたものとして残されている。第四は、中世日本思想史研究の方法論という視点でいえば、思想的混沌の際立つ中世という時代を思想史学的に分析するにあたり、本論文の方法が他の中世の思想(家)の分析においても十分に有効であることをいっそうはっきりと示すことが課題として残った。本論文では、中世的語りの内側に潜む世阿弥固有の思想の発掘という観点により、歴史的問題と個人的問題とを統一的にとらえて理解する視角を示した。この視角の有効性のさらなる検証は、今後の課題である。

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