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博士論文要旨

論文題目:1950~60年代における朝鮮学校教育史
著者:呉 永鎬 (O,Yongho)
博士号取得年月日:2015年6月30日

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本稿は、これまで実態が充分に明らかにされてこなかった朝鮮学校の教育を、現在に至るその骨格が形成される1950~60年代に焦点を当て検討する教育史研究である。
これまでの朝鮮学校史研究は、日本政府の抑圧政策対在日朝鮮人側の抵抗運動という構図の下、朝鮮学校における「非日常」的な歴史を重点的に描いてきたが、そのことによって教育機関としての朝鮮学校の教育それ自体の機能の歴史的検討は後景に退けられていた。また、僅かに存在する朝鮮学校の教育の「日常」(授業実践や教科書、カリキュラム等)を扱った研究も、断片的な資料を用いてそれらを描き、またそうした諸活動の意味に関する検討は、価値論的になされる場合が多く、充分に深められてきたとは言い難い状況であった。つまり、つまり、朝鮮学校史は事件史、闘争史、運動史として描かれてきた傾向があり、それゆえに言わば「朝鮮学校教育史の不在」という状況が産み出されていた。本稿ではこうした状況を乗り越え、朝鮮学校の教育史を再構成することを目指した。
そのため、本稿では以下の三つの課題を設定した。
本稿の課題は第一に、既往の朝鮮学校史研究の主流であった「非日常」を中心とした歴史叙述と共に、これまで顧みられることのなかった朝鮮学校の「教育の日常史」を叙述することによって、朝鮮学校史像を再構築することである。これまで朝鮮学校の教育の日常史が検討されてこなかったのは、視角の閉塞状況と共に、史資料状況の限界があったためでもある。本稿では、全国の朝鮮学校、朝鮮学校関係者、朝鮮学校の教科書を出版する学友書房、新たに開設された在日朝鮮人関係資料室所蔵の資料を中心に、朝鮮学校の教育の日常史の再構成を試みた。そしてこれら資料によって点描される朝鮮学校の教育の変化を、学校を取り巻く社会状況と生活を背負ってやってくる子どもたちと相対する中で生み出されたペダゴジーの軌跡として押さえ、教育の営為が内に含む反省性を掴み出しながら、それらを教育史として再構成するという方法論的立場を取った。
本稿の課題は第二に、在日朝鮮人側の視点に立ちながら朝鮮学校の教育史を描くことによって、その歴史を被支配の立場にあった人々による脱植民地化の営みとして捉え、その意味を考察することである。領域支配としての植民地支配が解消した後も、なお植民地主義が継続し、そこに東西冷戦という政治的・軍事的覇権争奪の権力関係が重なった磁場の中で東アジアの戦後が立ち上がったという先行研究の指摘に傾聴するならば、朝鮮学校の教育史から析出される意味とは、植民地主義とその克服の過程――すなわち被支配者たちの認識における脱植民地化と教育との関係という位相で問われる必要がある。本稿が掴まえ出す朝鮮学校の日常史とは、在日朝鮮人の脱植民地化史の一環をなすものである。支配者側の視点が強調される同化教育政策とそれへの抵抗という視角のみではなく、被支配者側の主体性に着目し、朝鮮学校の教育史を、脱植民地化という被支配者の歴史的課題に向き合う姿として掴まえ、分析することが、本研究には求められる。
本稿の課題は第三に、上記の作業を置いた時に、戦後日本教育史にとって朝鮮学校教育史が何を問えるのかを考察することである。戦後から70年を経て、6・3制の見直しをはじめ、戦後教育体制の本格的な改革が起こりつつある今日、これまで相互間対話がほぼ皆無であった戦後日本教育史と朝鮮学校教育史を向き合わせ、戦後日本教育史を、より多角的に描くための論点を析出する。
以上のような問題意識に基づき、朝鮮学校をめぐる運動史・政策史と朝鮮学校の教育の日常史を同時に捉えることによって、朝鮮学校の教育史を再構成し、その意味を脱植民地化と教育との関係から検討するという本稿の課題に照らし、本稿では第一部を「朝鮮学校と運動――教育権獲得運動の歴史と意味」、第二部を「脱植民地化の教育史」と題し、それぞれを論じた。第一部(第一章~第三章)は、在日朝鮮人による教育権獲得運動という検討対象の性質上、主張の中身の変遷と状況の変化との関係を時系列に従って追跡できるよう、構成した。朝鮮学校の教育の日常史を描いた第二部(第四章~第七章)は、時系列ではなく朝鮮学校の教育の日常史を構成している要素を各章で扱い、相互に関連するこれら要素のそれぞれにおいて、どういった失敗と工夫があったかを具体的に描き、その中で朝鮮学校の教育が作られていく様を描くことに力点を置いた。

第一章では、在日朝鮮人による民族教育権要求の起源を扱い、その論理構成を明らかにした。1948年の1.24通達を皮切りに、日本政府による朝鮮学校を取り締まろうとする動きが本格化し、民族教育の命脈が絶たれようとする状況を前に、在日朝鮮人らの教育権獲得運動は一層高揚した。当時の在日朝鮮人が教育権として保障を求めた内容は、大きく二つであった。第一に、朝鮮人を育て上げるための独自の民族教育の実施の保障である。朝鮮人には日本人とは異なる独自の教育要求があり、日本社会で「生存している人民の権利」という一般的な概念を根拠に、その正当性が主張された。第二に掲げられたのは、こうした朝鮮人の教育にかかる費用を日本政府が全額保障すべきことを要求した、教育費全額国庫負担論である。これは後には見られない極めてラディカルな要求であり、第一の根拠に加えて、植民地支配によって形成された在日朝鮮人およびその人間形成上の問題を解決する民族教育を保障することは、日本政府の歴史的・道義的責任であるということが強調された。
1.24通達以降に取られた学校閉鎖措置による朝鮮学校弾圧の流れは、文部省と朝鮮学校、双方の妥結点を見出すことによって、一旦は沈静化する(5.5覚書)が、1949年に入り、GHQおよび日本政府はレッドパージの意向を明確に方針化、共和国創建日の1日前である同年9月8日には朝連を団体等規正令の適用によって強制解散し、その財産も接収した。この流れで朝連所有の財産とみなされた朝鮮学校に対し、10月には学校閉鎖および接収措置が取られる。続けて11月には認可申請不許可として、学校教育法に基づく学校閉鎖措置が取られる。こうしてほぼ全ての朝鮮学校が強制閉鎖され、朝鮮学校の教育体系は壊滅的な打撃を受けることになった。
在日朝鮮人らは独自の民族教育の実施を保障する最たる場としての朝鮮学校が閉鎖されて以降も、閉鎖措置を拒否し、封鎖された学校に忍び込んで授業をしたり、あるいは閉鎖された学校に通っていた全ての朝鮮人を一つの学校に転入学させることを要求する運動を繰り広げた。一方、日本の学校側にも転校してくる在日朝鮮人の子どもたちを収容する学校施設の余裕がないという現実的問題や、また朝鮮人「迷惑」論の存在もあり、閉鎖措置に反対する声も上がっていた。こうした中で日本の教育史上類例を見ない、公立の外国人学校――公立朝鮮人学校も誕生した。朝鮮学校の公立化はあくまでも暫定的な措置であったが、朝鮮人らは、公立朝鮮人学校を維持しつつ、もう片方の教育要求である独自の民族教育の実施を実現するために、朝鮮人教師の採用や、民族教科の正課としての取り扱いを求めた。また教育費国庫負担運動は、公立維持、日本の学校における特設学級の設置、引き続き自主学校として地方自治体からの補助金を得る運動を展開する等の形で、継続された。
しかし、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴い、在日朝鮮人は日本国籍を喪失する。日本の学校としても、日本国籍を持たない外国人に義務教育を無償で施す法的根拠はなくなり、外国人の義務教育は恩恵教育へと変わっていった。そうした中で公立外国人学校の存在意義が世論からも否定され始め、在日朝鮮人側は私立移管反対(公立維持)闘争を繰り広げるが、結果1955年には都立朝鮮人学校も私立各種学校へと移管されることとなった。
第二章では、在日本朝鮮人総連合会(以下、総連)が結成される1955年から1962年頃までの教育権獲得運動の変化を明らかにした。当該期の朝鮮学校をめぐる環境の変化は、以下の三つに押さえられる。第一に、前身の民族団体の活動方針を否定しながら、朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)政府および朝鮮労働党の指導を仰ぐこと、内政不干渉、合法的運動の展開を原則とする総連が結成されたことである。これによって共和国の海外公民としての立ち位置は一層明確化された。第二に、1957年4月以降、共和国から教育援助費と奨学金が送付されるようになったことである。朝鮮学校の財政状況は飛躍的に好転し、また共和国との心性的紐帯は一層強まった。第三に、1959年12月から「帰国事業」が開始されたことである。これに伴い朝鮮学校の就学者数は倍増し、また共和国の教育に準拠して朝鮮学校の教育を展開することが相対的に強く求められるようになった。
こうした状況下で展開した教育権獲得運動における変化を、本稿では三つに押さえた。第一に教育費全額国庫負担論が、総連の活動原則である内政不干渉の原則によって棄却され、政府および地方自治体への教育費獲得運動が、全額・負担から、一部・援助へと「後退」したことである。総連結成以降、朝鮮学校の財政獲得方式も保護者のみに依拠するあり方から、管内全在日朝鮮人からの援助をもらうという方向へ明確に変更され、学校運営は自助努力によって解決する方針が取られるようになった。第二に「共和国の海外公民である在日朝鮮人」という立脚点から、祖国への進学保障や、日本の大学への留学生資格による進学、祖国からの教育援助費の保障を求めるというように、新たな要求が生まれたことである。第一期の運動と比べた時、「この社会に生存している人民の権利」という一般的抽象的な位置からではなく、日本で暮らす共和国の国民としての教育要求がより前面に押し出されるようになり、共和国の海外公民としての教育権の確立が志向されたと捉えられるだろう。第三に、日本の学校に通う在日朝鮮人児童生徒の朝鮮学校への転入学を促進する「学生引き入れ運動」が広範に展開し、日教組の教員たちを働きかけの主たる対象として、「朝鮮人は朝鮮学校で教育されるべき」という朝鮮学校側の主張を日本の学校へ浸透させていったことである。
第三章では、1963年~69年の教育権獲得運動を、朝鮮学校の各種学校認可取得運動と、外国人学校法案反対運動に焦点を当てて検討した。帰国事業が一定程度沈静化する中、教育権獲得運動の論点は朝鮮学校の法的地位獲得へとその力点を移すことになる。一方、日韓会談が進む中、韓国・日本両政府は朝鮮学校への統制を強化するという互いに共通する要求を確認し、それらの結実として、朝鮮学校に各種学校認可を与える積極的意義が無いと明言した1965.12.28通達が発せられ、また外国人学校の振興を謳いながら、所謂「反日教育」を行っていると政府が判断した学校に対し閉鎖措置を命令できるとした外国人学校制度が構想された(1966~69年)。高度成長期を迎え、各種学校制度の改革を目指していた日本政府にとって、朝鮮学校に各種学校認可を与えることは、これに保護を与え、また「公共性、公益性」があるものと認めることに通ずると捉えられた。そのため、文部省としてはこれを断固として阻止する構えであった。
しかしながらこうした日本政府の意図に反し、都道府県は朝鮮学校を各種学校として次々に認可していった。1968年4月に朝鮮大学校に対する各種学校認可の決定を下した東京都の場合に象徴されるように、その上で当時の革新的とされる自治体が担った役割は大きい。他方、各種学校認可要件を満たしているにも拘わらず認可を与えない地方自治体に対して間断なく運動を続ける朝鮮学校側に対し、行政の側が「疲弊」しているという状況もあった。地方自治体では各種学校の認可を与える際にも、外国人学校制度が設けられた時はそれに従うという主旨の宣誓書の提出を朝鮮学校側に求めていた。つまり各種学校認可を与えたとしても、法令レベルで朝鮮学校を取り締まる外国人学校制度があれば問題はないだろうという地方自治体レベルでの合理的判断が働いていたのである。しかし「国益」にそぐわない教育を統制しようとする意図があまりにも明白な外国人学校法案に対しては、教育関係者ばかりではない様々な日本人を含んだ反対運動が広範に展開し、外国人学校法案は結局廃案となった。その後、全国各地の朝鮮学校は各種学校の法的地位を次々と獲得し、1975年には全ての朝鮮学校が認可を得た状態となった。
第四章では、朝鮮学校で用いられていた「民族教育」、あるいは「民族」や「愛国」というキーワードに込められた意味を、当時の朝鮮学校におけるそれらの通念的用法を探ることによって検討した。第一部で見た独自の教育の実施と正に重なるが、在日朝鮮人は民族による、民族に関する、民族のための教育を、民族教育と呼んだ。またそれらは「植民地教育の反対物」と表象され、民族に誇りを持ち、共和国国民として朝鮮人ということを隠さず、堂々と生きていける者を育む教育が、民族教育であるとされた。朝鮮学校においては植民地支配の歴史と切り離して民族教育の意味が論じられることはなく、植民地時代に奪われた民族性は奪還すべき対象であり、それらを取り戻していく過程=朝鮮人性を回復していく過程を用意し促進するものが、民族教育であるとされた。
また、本国と離れて生活するからこそ、在日朝鮮人は強力に「愛国」の実践を求めた。朝鮮学校は、そのような在日朝鮮人と本国とを接続させる媒介としての役割を担った。在日朝鮮人らは、子どもたちを「立派な朝鮮人」に育て上げる愛国的事業を行っている学校の建設や、備品の喜捨、警備への参加等、朝鮮学校という場に積極的に関わる実践の中で、愛国なるものを獲得していった。
朝鮮学校の教育の内部に目を向けると、学校行事、運動会、チマ・チョゴリの着用、朝鮮名の呼び名乗り、休校日等、教科教育以外にも、民族や共和国国民であることを認識させる様々な装置が用意されていた。また子どもたちの作文からは、朝鮮学校が提示する「立派な朝鮮人」像に呼応する姿が見て取れた。
第五章では、朝鮮学校の課程案(カリキュラム)および教科書の編成と変遷について論じた。ここでは毎年授業時数や科目名が更新される朝鮮学校の課程案を、国語科、日本語、外国語、数学科、自然科学、社会科、その他という7つの科目群に分け、1956年~1976年におけるその変化を経年的に分析した。朝鮮学校の課程案は、共和国の課程案を基に作成されていたが、日本で生活しているという実情を踏まえ、独自の性格を持った。初級学校の課程案に関しては教育内容上の変化はあるとは言え、各教科が占める割合に20年の間で大きな変化はなく、一貫した安定性を示していた。特に初級学校低学年の段階においては、今後の教育の基礎となる朝鮮語の習得に大きな時間が割かれていた。それとは対照的に、中高級学校のカリキュラムは、時代ごとの朝鮮学校の教育方針の影響を大きく受けていた。まず1958年頃から本国で推進されていた基本生産技術教育強化に伴い、技術系科目が創設あるいは既設の技術系科目の授業時数が増加する。が、その方針は1962~3年頃には影を潜める。他方で1961~62年頃には国語教育強化方針が示され、国語科の授業時数が増加、また68年および70年には唯一思想体系確立方針に伴い、社会科の授業時数が増加する。初級学校と比して、日本と本国、相対的に両社会における進学と就職を一層考慮しなければならない中高級学校の課程案は、その外形に着目するならば、本国である共和国の影響を大きく受けていたと言うことができるだろう。
第五章では次に、教科書の変遷を三期に分けて論じた。この三つの時期は、大きくはそれぞれ第一部の第一章~第三章の時期と重なっており、両者の連動性を窺わせるものであった。教科書の編纂主体は、在日朝鮮人(第一期)→共和国(第二期)→在日朝鮮人+共和国(第三期)と推移しており、本稿では第三期教科書を作成するにあたって、そこに在日朝鮮人性が組み込まれたことを明らかにした。すなわち共和国教科書の翻刻版である第二期教科書を用いていた頃に、在日朝鮮人の生活世界や言語使用状況に即し、また日本社会の「視線」をも意識した教科書が作られるべきという教育経験が集積し、それが第三期教科書の内容に結実したのであった。こうして1963年頃から、共和国の教育に依拠した「移植」型国民教育ではなく、在日朝鮮人の実情に即しつつ共和国国民化を目指す「在日」型国民教育の内容が作られていったことを明らかにした。
第六章では、当該期朝鮮学校教員たちの基本属性(男女比、年齢構成、最終学歴、出身地または故郷)、および朝鮮学校の教員として、かれらに求められていた素養を明らかにした。1950年代までの朝鮮学校の教員――特に中・高級学校の教員の多くは、朝鮮学校出身者ではなかった。かれらの多くは日本の高等教育機関で学んでおり、総連活動家等の働きかけによって朝鮮学校の教員として「登用」されるという経緯を辿ったが、自身が学んできたことと、朝鮮学校の教科書内容との開きに戸惑う教員も少なくなかった。また中には朝鮮語を知らないまま、朝鮮学校の教員になる者もいた。そのため、教員たちの再教育の場として、夏期講習をはじめとした教員講習が、休業期間を利用して各地で組織された。こうした中、1957年には朝鮮学校史上初となる教育研究大会が開かれ、朝鮮学校間および教員間の横の繋がりが強化され、また、朝鮮学校の教育が統一的に目指すべきものへのコンセンサスが次第に作られていった。
朝鮮学校の教員養成機関としての朝鮮大学校の機能が向上する1960年代初頭以降、特に初級学校では7割程の教員の最終学歴が高級学校あるいは朝鮮大学校出身となった。また中・高級学校においても、1966年には朝鮮学校と日本学校の割合が半々となっている。こうした教員集団の質の変化が進む中、各地朝鮮学校では模範教員集団運動が進められ、朝鮮学校教員たちの政治性・思想性を涵養するための政治学習が定着化していった。1965年からは教育研究大会の後身である教育方法研究大会も開始され、全国のペダゴジックな経験が一般化される場が定期的に設けられた。こうして1960年代末に差し掛かりながら、学歴、政治的・思想的素養、教育実践の側面において、徐々に朝鮮学校教員の標準化が進んでいったと言える。
第七章では、先行する章で明らかにしてきたような社会・運動状況の中、子どもたちを「立派な朝鮮人」に育てようとする教育理念とカリキュラムの下、教員たちが、教科書等を用いながら、実際に取り組んでいた教育実践を描いた。その際に、1958年以降の朝鮮学校において、その教育の質向上のために強化すべき三大重点課業として設定された国語教育、自然科学教育、愛国主義教養を対象とした。
その過程で、「日本語式朝鮮語」を使い、日本式の名前を呼び名乗り、チマ・チョゴリを着用せず、家庭で日本語を第一言語として使い、故郷にも本国にも行ったことがなく、本国への帰国も想定していない在日朝鮮人の子どもたちの現状に向き合いながら、それでもかれらを「立派な朝鮮人」に育てようと働きかける中で編み上げられていった、「在日」型国民教育の諸相を明らかにした。共和国の国民教育を通した子どもたちの脱植民地化を引き続き目指しつつも、具体的な教育内容や方法においては、「在日朝鮮人性」に依拠する「在日」型国民教育の実施においては、上記のような「立派な朝鮮人」とはかけ離れた在日朝鮮人の生活実態が繰り返し壁として立ち塞がったが、教員たちはそうした中で、「日本語式朝鮮語」や在日朝鮮人史といった在日朝鮮人たることを要素とする材料を、授業の内容および方法として活用しながら、在日朝鮮人の脱植民地化のための教育実践を繰り広げていった。

以上の検討を踏まえ、終章では、朝鮮学校の教育史を、在日朝鮮人側の視点に立ち、教育の日常史を含む形で再構成したことによって得た知見について論じた。朝鮮学校の教育における脱植民地化は、①朝鮮半島-日本社会-在日朝鮮人社会という三つの社会に跨って成立しているため、相反する社会的規定力を受けること、②植民地から解放された本国における独立のプロセスが冷戦体制の中、分断を伴ってなされたこと、③目指すべき朝鮮人像と在日朝鮮人の生活実態があまりにも乖離していたことという三つの要因により、当初の想定とも、また本国のそれとも異なるプロセスを経ることになった。在日朝鮮人が旧植民地宗主国である日本で生活している現状そのものを、その実現要素として要求する朝鮮学校における脱植民地化の教育は、それゆえに「日本語式朝鮮語」や在日朝鮮人史、日本式名前に代表される、払拭し、拒絶すべき帝国性さえも内に含み込みながら、展開したのであった。
また朝鮮学校の教育史の存在は、これまでの戦後日本教育史において焦点が当てられてこなかった、植民地支配責任、あるいは「教育における植民地主義は戦後において本当に克服されたのか」という問題を提起し、戦後教育体制が分かり易い形で内に含んでいる――しかし同時に隠蔽されている――国籍に基づく境界線の存在を可視化してくれるだろう。戦後日本社会が改めて歴史化され始めている今日、またグローバリゼーションの到来と共に教育制度の再考が迫られている今日、脱植民地化の教育史としての朝鮮学校の教育史が提起するこうした問題提起は、真摯に受け止められなければならないだろう。

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