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博士論文要旨

論文題目:第二次朝鮮教育令施行期(1922年~1938年)における中等教育―高等普通学校及び女子高等普通学校を中心に―
著者:崔 誠姫 (CHOI,Seonghee)
博士号取得年月日:2015年3月20日

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1.論文タイトル
第二次朝鮮教育令施行期(1922年~1938年)における中等教育―高等普通学校及び女子高等普通学校を中心に―

2.問題意識と先行研究・研究目的と使用資料
(1)問題意識と先行研究
1910年韓国併合により朝鮮は日本の植民地となった。朝鮮総督府(以下、総督府)は武断統治を展開し、1911年に第一次朝鮮教育令を制定し植民地教育を展開した。1922年には教育令を改正し第二次朝鮮教育令を施行した。第二次朝鮮教育令施行期に入っても義務教育は行われず、学校数の不足や経済的な面からの不就学状況は続いていた。普通学校への就学率は1940年においても35.2%程度であり 、一度就学したとしても中途退学する児童が多数存在した。
 そのような中で、普通学校から高等普通学校(以下、高普)・女子高等普通学校(女高普)・実業学校・師範学校へ進学した朝鮮人生徒は、エリートであったといえよう。中等教育機関が朝鮮各地の主要都市に設立され進学者数も増えていくのが、まさに第二次朝鮮教育令施行期であった。第二次朝鮮施行期は植民地教育の拡張期といえる時期であり、特に中等教育においては学校の設立、私立各種学校から高普・女高普への「昇格」の実現、朝鮮内での中等教育機関から高等教育機関への進学機会の拡大などを得られた時期でもあった。また、高普・女高普は制度上・名称上においても、日本人の通う中学校・高等女学校などとは区別されており 、総督府の植民地教育政策の意図があらわれている時期ともいえる。
 植民地期朝鮮の教育については、日本・南北朝鮮においていくつかの通史が刊行されている 。また、教育史をめぐる多岐にわたる視点からの成果があがっている 。植民地経験者へのインタビューを整理・出版したものも、多く発表されている 。
 植民地期朝鮮の教育を研究する上で言及する必要があるのが、朝鮮の「近代化」をめぐる評価の問題である。1つは植民地支配が朝鮮に「近代化」をもたらした、いわゆる「植民地近代化論」の主張である 。もう1つは朝鮮における発展の契機を国内的なものに求めるも「内在的発展論」である 。朝鮮人生徒は教育の機会を得るためには、そのほとんどが朝鮮総督府の統制下にある学校へ通うこととなる。この学校という空間は朝鮮総督府の政策が集約した場であり、政策を立案した側の思惑を実現するための場でもあった。しかし、生徒は学校で授業を受けつつも、時に抗日的な学生運動を行い、啓蒙運動に参加するという存在に発展する。植民地支配下においての知識の修得や人格の修養、そして進学や就職などの栄達・立身出世のプロセスとしての中等教育機関への進学と、被支配者としての抵抗の両面を抱えているのが、まさに高普・女高普の生徒であるとはいえないだろうか。植民地による「近代化」を享受した存在であるのか、或いは「内在的発展」を妨げられたため植民地支配に迎合せざるを得なかったのか、というような二分論的な側面だけでは捉えられない、植民地の「葛藤」を抱えた存在という視点からの考察も必要である。
 上記のような先行研究の動向を踏まえつつ、日本及び韓国における植民地期朝鮮の中等教育研究の状況について、言及したい。古川宣子氏は、日本教育史においてはなされてきた体系的な基礎事実の確定が、朝鮮教育史研究においてほとんどなされていない状況について指摘している 。主に韓国における研究であるが、私立の高普・女高普、とりわけミッションスクールに関する研究、1929年に起こった光州学生事件を中心とする、学生運動に関する研究、学校設立運動に関する研究等、植民地期朝鮮の中等教育に関連する研究が多数ある。しかし、これらは各テーマに焦点をあてたものであり、全体像が把握されていない状況下では、事例研究に過ぎない面があるといえる。特に学生運動研究においては、植民地教育政策に対する反抗、という面のみで捉えられがちである。抗日運動と啓蒙運動の両面から学生運動を評価し、高普・女高普生徒の実態を浮き彫りにする必要がある。
2000年代に入ると、朴哲煕氏による研究成果が生まれ、植民地期朝鮮の中等教育の全体像を少しずつ把握できるようになった 。朴氏は博士論文において主に高等普通学校、中でも公立京城第一高等普通学校(ソウル)を中心に分析し、学事資料など普通は接近が困難と思われる資料を多用している。朴の研究成果により、ようやく植民地期朝鮮における中等教育研究が出発点に立ったといえる。高等普通学校のみを分析対象としたため、女子 の状況にはほとんど触れられていないという問題点はあるものの、体系的な高普研究としての成果がある。朴氏の研究は本論文執筆にあたって、裨益するところが多い。この成果を活用しつつ、朴氏の研究で扱われていないソウル以外の地域にあった高普の状況や、女高普の状況を分析することによって、高普・女高普をめぐる朝鮮社会の実態を明らかにすることが可能となる。

(2)研究目的と使用資料
 本研究の目的は以下の3点に集約できる。第一点目は、朝鮮における高普・女高普の実態を明らかにすること。第二点目は、第二次朝鮮教育令施行に伴う総督府の対高普・女高普政策について明らかにすること。第三点目は、朝鮮社会における高普・女高普の生徒のプレゼンスを明らかにすることである。
 史資料については大きく3群に分類することができる。第1群としては、教育関係の行政文書類が挙げられる。第2群としては学校関係資料がある。第3群としては新聞・雑誌資料がある。その他に、個人文書や手記、インタビューがある。
 
3.本論文の構成と各章の内容
 本論文はⅡ部構成とする。第Ⅰ部では教育政策とそれに関連する高普・女高普の実態について述べる。第Ⅱ部では高普・女高普生徒の学生運動について述べる。
第1章 第二次朝鮮教育令制定と高等普通学校・女子高等普通学校では、第二次朝鮮教育令の制定過程とともに、それ以前の中等教育の状況を明らかにした。第二次朝鮮教育令は、朝鮮の統治方式が武断統治から文化統治へと転換する中、大幅な改正が行われた。特に朝鮮人と日本人を、「国語」の習熟度で区別する形での、別学が実施された。公立高普は第二次朝鮮教育令施行期に朝鮮13道の道庁所在地すべてに設置され、女高普は主要都市を中心に設置されたが、積極的な高普・女高普教育は展開しなかった。つまり、非常に限られた層のみが高普・女高普教育を受けられたということを、数値を伴い明らかにした。
第2章 高等普通学校・女子高等普通学校の設立をめぐって、では5つの事例と設立に至らなかった事例を通じ、1920年代朝鮮における高等普通学校・女子高等普通学校の設立と「昇格」について検討した。設立においては、第一に公私立いずれも学校建設費を寄付によって集めていたこと、第二に学校設立運動には地方有志などが関与していたこと、第三にこれら有志が直接道当局に掛け合い学校設立を実現したことが共通していた。次に「昇格」においては、私立学校として認可されていたものが高普・女高普に改組されることとなるため、それほど手続が困難ではなかったと考えられる。また、設立の成否を問わず、朝鮮では各地で高普・女高普設立をめざす期成会が組織され、地方の有志が資金を集めた。これらの行動は地域に教育機会を与える必要性、またそれを実現するという使命感から起こったものといえよう。しかし、総督府の植民地実業教育志向の影響で設立が叶わない地域が多数であった。
第3章 高等普通学校・女子高等普通学校への進学―競争率と入試問題―では、高普・女高普への進学過程を明らかにした。義務教育が実施されていない朝鮮で、普通学校を卒業しさらに高普・女高普への進学することは、簡単に成し遂げられないことであった。また、地域格差・経済格差という問題も含まれていた。次に、男子の場合は3~4倍近く、女子も2倍近くの競争率で高普・女高普進学を競った。同世代の朝鮮人児童がライバルとなり、試験準備に多くの時間を費やしたものと考えられる。そのような中で合格を勝ち取ることは、非常に困難であったことが明らかとなった。
第4章 授業内容及び教科書では、授業内容及び教科書編纂の過程と、総督府で編纂した朝鮮語・「国語」・修身教科書の検討を行った。授業内容については、各高普・女高普の週当たり授業時間数を明らかにし、学校ごとに独自の時間数設定を行っていたことを明らかにした。教科書編纂過程では、朝鮮の現状に合わせた内容であること、常に「国語」との連携を行うことが定められた。朝鮮語については綴字法の変遷も教科書編纂に影響を与えていた。「国語」については、書きことば重視の教育が行われた。修身については教育勅語や戊申詔書の徹底が図られ、天皇を中心とする国家の一員であることを意識させる内容となっていた。なお章末付録として、各科目教科書の目次一覧を作成した。
第5章 卒業後の進路では、高普・女高普卒業後の進路について分析した。高普・女高普へ進学できる朝鮮人児童は朝鮮社会において上層であったが、高普・女高普卒業は非常に難しい状況にあり、高普・女高普を卒業する生徒は上層の中でも限られていたことを明らかにした。進路希望としては男子生徒・女子生徒間で差異があった。男子生徒の場合、多くは上級学校への進学を希望した。しかし、高等教育機関への進学は定員も少なく学校数も限られていることから、非常に困難であった。高普卒業生の多くは、進学の希望を果たせないまま家業従事の道を選択することとなった。女子の場合、男子とは異なり多くが家業つまり家へ入ることを希望した。これは進路としての希望というよりは、父母や朝鮮社会の要求であったといえよう。女子の場合は男子よりさらに進学先の選択肢が少ないため、家業を選ぶしかないという状況であったともいえる。
第6章 学生と民衆―ハングル普及運動―では、朝鮮の識字率の問題を整理し、ハングル普及運動の担い手となった高普・女高普生徒を中心とする、中等学校生徒の姿を浮き彫りにした。生徒たちは民衆に文字を教えることに使命感を感じ、運動に積極的に参与した。高普・女高普の生徒らの行動や現実認識は、当時の朝鮮社会を反映しているともいえる。ハングル普及運動を推進した新聞社の側、つまり朝鮮の知識人にとって、高普・女高普の生徒らは今後の朝鮮を担う存在と捉えられていた。彼ら/彼女らが農民啓蒙を行うことにより、農村の識字率を向上させ、彼ら/彼女らに朝鮮社会をリードする存在としての自覚を育てる契機と考えたともいえる。
 第7章 同盟休校と抗日運動では、同盟休校と1929年に起きた光州学生運動について論じた。同盟休校は高普・女高普の生徒にとって学びへの要求であり、それは時に教員排斥や教職員への抗議という形であらわれた。学びへの要求に民族的な思想が含まれることを総督府は非常に警戒していた。1920年代に活発であった同盟休校は、このような総督府の警戒により徐々にその回数が減少していった。光州学生運動は、植民地支配における様々な「歪み」を示した。光州学生事件は、朝鮮南西部で起こった事件ではあるが、すぐさま朝鮮全土に事件の詳細が伝わり支援活動に発展した。高普・女高普生徒の動きは、朝鮮社会において注目を受けるものであり、その動きに敏感に反応する朝鮮人運動家や知識人がいたのである。

4.結論と今後の課題
本研究の課題として設定した、第一に朝鮮における高普・女高普の実態、第二に高普・女高普に対する総督府の政策、第三に朝鮮社会における高普・女高普のプレゼンスについて、各章で論じた。本論文より明らかになった点を以下に整理していく。
 第一点目の朝鮮における高普・女高普の実態については、学校の分布数、競争率、カリキュラム、教科書、進路、学生運動の6点を中心に分析することで、多角的な視点から高普・女高普の実態に迫った。学校の分布数に対しては、高普については「一道一校」の政策をとり、女高普については「一道一校」すら実現できない状況にあったことを明らかにした。このような状況であったため、高普・女高普進学をめざす児童の多くを収容できず、進学を志す児童は高い競争率を突破して高普・女高普に合格する必要があった。朝鮮では初等教育機関である普通学校さえも学校数不足のため入学難であり、授業料負担の問題等による中退者も多数いた。このため、普通学校を卒業し高普・女高普へ進学できた生徒は、総督府にとっても朝鮮人社会にとっても「選別」を受けた特別な存在であったといえよう。
 高普・女高普入学後の生徒は、総督府が編纂した教科書で修身・「国語」・朝鮮語及漢文を学んだ。授業への不満や教員への不満を生徒らは同盟休校という形であらわし、同盟休校の動向は新聞で報道され、世論の注目を浴びていた。同盟休校は学校への不満であるが、それは総督府や日本への不満にもつながるため、総督府側は同盟休校を非常に警戒した。
高普卒業生の多くは進路として高等教育機関への進学を望んだが、朝鮮内での高等教育機関数は少なく、進学の希望を果たすことは困難であった。女高普卒業生の場合は、多くが家業従事を選択し、新教育を受けた「良妻賢母」への道を進むこととなった。ともに中等教育機関へ進学しながらも、男性と女性という性別の違いが進路選択にあらわれた。
 第二点目、中等教育に対する総督府の政策については、第二次朝鮮教育令施行にあたり総督府は高普・女高普を「高等の普通教育を行う」機関として定義した。高普では実用主義、女高普では「良妻賢母」育成を重視した教育を行った。総督府は朝鮮人エリートを一定数育成する必要を感じ、男子に対しては実用を重視し植民地統治を円滑に行うための指導層としての役割を期待した。女子に対しては家庭を重視し、家庭において日本語や日本式生活文化を伝え、日本の臣民を作り出す育児を行うことを期待したといえる。高普・女高普の生徒は植民地における同化政策の具現者として、総督府はとらえていたといえる。
 第三に朝鮮社会における高普・女高普のプレゼンスについて、整理する。第一点目・第二点目のように多数の中から選別された少数としての高普・女高普生徒は、総督府の視点からは植民地支配を円滑に行うための人材であった。しかし、高普・女高普の生徒は総督府の教育政策のもとで学んだが、必ずしも総督府に従順ではなかった。1920年代には教員や教科目への不満などから、高普・女高普ではたびたび同盟休校が起きた。生徒にとっては「学び」の権利を主張したものであり、学業を修めるものとして当然の要求といえるが、同化を根底においた教育政策への反発ともいえよう。つまり、総督府の教育政策における教育を受けながらも、その内容には強く反発するという植民地の矛盾をあらわす存在であった。次に朝鮮人の視点としては植民地という状況の中で、教育を受けた生徒は朝鮮人社会にとってもエリートであり、様々な期待を寄せられる存在であった。エリートとしての教育を受けた生徒らは、同盟休校という形で総督府への抗議を行った。朝鮮人団体は同盟休校を積極的に支援した。また、民衆啓蒙の担い手としての役割を期待され、ハングル普及運動の講師として民衆にハングルを教える役割を果たした。
高普・女高普の生徒は朝鮮社会においてエリートであり、学校が設立されている地域に密着した存在ともいえる。地域にとっても高普・女高普のプレゼンスが地域の発展を示す指標の一つとなっており、地域の教育発展のために高普・女高普設立をめざした。高普・女高普の生徒は植民地支配への抵抗の具現者、そしてエリートと民衆との接点を作る存在、地域の発展性を示す存在であったといえよう。以上が本論文を通じて明らかになった点である。
 本論文では従来の研究における個別研究とは異なり、多角的な事象から高普・女高普を研究したという点で若干の成果を挙げることができたといえよう。学校への入学から卒業までの時系列に沿って、生徒が学校で受けていた授業内容、同盟休校や啓蒙運動などの活動の実態を明らかにした。また、従来使用されていなかった植民地期に編纂された各学校要覧、総督府の高普・女高普関係資料を使用し、新たな知見を加えた点においても成果を得られたといえよう。植民地期の中等教育関係資料は、初等教育や京城帝大等の資料と比較すると、量が多いとはいえない。本研究では従来使われていなかった資料を発掘することにより、高普・女高普の実態を分析することができた。
 しかし、課題も多く残っている。第一に高普・女高普の教員層の分析である。第二に前後の時期の高普・女高普との比較である。第三に他の中等教育機関の実態を明らかにすることである。第四に日本及び他の植民地との比較である。
 本論文で明らかになった個々の事例をさらに深めるとともに、これら課題を克服し、今後もさらなる植民地期中等教育研究の発展を成し遂げていきたい。

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