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博士論文要旨

論文題目:日本占領を問い直す―ジェンダーと地域からの視点―
著者:平井 和子 (HIRAI, Kazuko)
博士号取得年月日:2014年3月24日

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 本論文は、1945年8月の敗戦からサンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月まで(ただし御殿場周辺では米軍が撤退する1958年まで、売春防止法に関しては1956年7月まで)を対象に、GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)による日本(「本土」)占領の意味をジェンダー視点と地域の視点で問い直すものである。
その狙いは、第一に、日本占領が日米で総じて「成功した占領」、「良い占領」と認識されていることに対して、勝者‐敗者間で取り引きされた被占領国女性(RAAの女性たち、街娼、「パンパン」たち)の体験と、占領軍‐駐留軍を抱える地域住民の体験からこの認識を問い直すことである。特に、占領下で行われた「女性解放」の内容を、占領軍相手の女性たちの体験から問い直し、「女性解放」策が売春女性たちの人権を抑圧する形で進められたことを明らかにした。そのことを通して、今後新たな軍事介入や占領に「女性解放」が口実として使用されることを許さないための研究に貢献したいと考えた。
第二に、1990年代以降、「戦争と性暴力」を女性に対する人権侵害としてとらえ直してきた国際的潮流を受けて、占領期の日本で、女性の身体を使って占領軍兵士の性的欲望をコントロールしようとした性政策も、日米(豪)合作による組織的性暴力であったと位置づけた。そして、「軍隊と性」の強固な相互依存的ジェンダー関係を追究し、一般女性と特殊女性に分けられた女性たちが相互に対立しあうことで、この構造を支えさせられてきた過程を明らかにした。
以下、各章の要旨をまとめる。
 
第1章 占領軍「慰安所」(RAA・特殊慰安施設)の開設と展開
 敗戦直後の占領軍「慰安所」設置の契機には、占領される側・占領する側双方の思惑こそ異なるが、敗者‐勝者の男性間で敗戦国女性の身体が取り引きされ、利用されたというジェンダー差別がある。本章で取り上げた大竹市の例に見られるように、「慰安所」開設を広島県・警察・業者と米軍が協働して進めた背景には、占領軍上陸に際して急遽RAA(特殊慰安施設)を準備した日本政府とこれを利用した米軍との「合作」の経験が前提となっている。
本章では、敗戦直後に政府の要請を受け、東京都下の接客業者を糾合して作られたRAAについて、これまで殆ど研究がなされてこなかった女性の募集方法や、首都圏以外の施設(熱海・箱根地域)について考察した。全国の地方新聞を閲覧することによってRAAの募集範囲は、首都圏以外に北は青森県から西は静岡―長野―石川県というほぼ東日本全域に、一斉に出されていることが分かった。また、募集対象を第一に「経験者(娼妓・芸妓)」に置き、盛んに「曾テノ職場ヲ通ジテノ御奉公」を呼びかけているが、実際の応募には「無経験者」が多かったことも分かった。募集広告には、「衣食住高級支給」、「旅行配給移動ニ特権アル」などと、国による便宜的取り計らいをバックに好条件が並べられている。地方でもあきらかにRAAに似せた「特殊慰安協会」、「国際親善施設協会」というネーミングで占領軍「慰安所」が次々と開設され、RAAと同日の紙面にこれらの募集広告が掲載されているケースも多く見られる。敗戦後、生活難の直撃を受けた貧困層の女性がこれに吸い寄せられていったと考えられる。
次ぎに、熱海・箱根に開設したRAAの5施設を検討することによって、地方の温泉都市が占領軍「慰安所」を受け入れ、国際観光保養都市として復興をはかるという面も見えてきた。1946年3月のRAA施設へのオフリミッツ後、首都圏の外にあって米軍の監視の緩やかな熱海・箱根地区が、元RAAのダンサーや米兵の受け入れ先ともなった。また、熱海のRAA旅館に宿泊し、熱海市内の赤線地区で買春をする米兵の手引きをRAA職員が行ったという証言から、RAAと「赤線」の共生関係も見えてきた。

第2章 日米合作による性政策
本章では、まず、20世紀初頭から米軍が売春に対して禁圧の基本姿勢を持ちながらも、併せて兵士の買春に対応して性病予防策をはかってきた流れを概観した。それゆえ日本に進駐した際に日本側が用意したRAAなどの「慰安所」は米軍にとっても好都合であった。米軍の性政策は、売春女性を日本側に登録させ定期性病検診と治療を課し、検診証明(「カード」)を持たない街娼は徹底的に排除するという、占領軍兵士の「安全な買春」を確保するためのものであった。MP(憲兵)による強権的な「狩り込み」には日本警察も同行し、連行先の保健所や性病病院で女性に性病感染が判明したら、一定期間拘束されて強制治療を受けさせられるともに「占領行政の邪魔をした」として軍法会議にかけられ、女子受刑者収容刑務所へ送られる場合もあった。「狩り込み」は、1946年1月、東京で実施されたのを皮切りに8月には全国一斉に行われ、1948年6月に性病予防法が成立するまで「占領行政」として行われた。性病予防法は、売春常習者だけではなく「病毒をうつす虞がある行為をした者」、「性病にかかっていると疑うに足りる理由のある者」にまで強制検診を義務付ける法律であり、日本女性全てを潜在的性病感染源として見る米軍の性政策の延長線上に制定された。さらに、性病コントロールを徹底化するため、PHW(公衆衛生福祉局)は、性病をうつしたとみられる者まで遡って検査するコンタクトトレーシング(接触者調査)を実施した。これはそれまでの日本にはなかった方法で、PHWが厚生省を指導し、現場では第八軍憲兵隊司令部のMPの指導で全国の保健所がこれを担わされた。
占領初期にルーズだった米兵の買春行為への態度は、GHQのG-1(軍司令部参謀第一部)に陸軍規律維持を重視するスタッフが台頭してきた占領中期の1947年に入ってから変化した。陸軍長官は1947年1月に「規律と性病」を通達し、性道徳と精神的アプローチによって買春を減じようとし、48年8月には、G-1の参謀補佐を委員長にした人格指導委員会を発足させ、兵士の適度な運動を確保し「個人の尊重」をはかることが性病予防の根本的対策になるという認識を打ち出した。一貫して性病の感染源を日本女性の責任とし、女性への強制検診に腐心してきた米軍であるが、その一方で性病罹患を米側の問題としてとらえ、根本的解決には、兵士の「自己管理と個人の尊重」が不可欠であると考えていた点は重要であると考える。
GHQ/SCAPの女性解放政策の重要な一つとして1946年1月21日に出された公娼制度廃止指令は、遊郭の女性を縛ってきた前借・年期制度を人身売買として禁止するものであったが、「売春そのもの」は禁じていない。そこを見越して日本側は、「個人の自由意思」による売春稼業の継続を図った。この方法は、すでに1935年、国際的婦女売買禁止の潮流のなかで日本も公娼廃止を決意し、貸座敷と娼妓の名称のみを変えて公許を撤廃し、指定地域内の営業を黙認するという欺瞞的方策として打ち出されていた。先に見た1948年成立の性病予防法は、1939年の段階で厚生省が、公娼廃止後の性病予防としてその名も「花柳病予防法」を「性病予防法」に変更して、全国民を対象に準備していたものと同様のものである。したがって、戦前、政府が用意していた政策が占領下で実現したのである。そのような意味で、公娼廃止や性病予防法は日米合作であったと言える。SCAPによる公娼廃止指令の一方で、「自由意思」による売春は継続し、RAAなどの性病管理の整った米軍向け売春は盛んに行われた。

第3章 米軍基地売買春と地域―1950年代の御殿場を中心に―
本章では、前章で見た日米合作による性病コントロールが地域でどのように展開され、対象となった「パンパン」たち(以下括弧外す)がどのような状況に置かれ、地域住民はどのような対応をしたのかを、米軍の3キャンプが置かれた御殿場市周辺(御殿場町・玉穂村・印野村・原里村・富士岡村-1955年合併して御殿場市)に焦点を当て、考察した。米軍の接収によって土地を失った農家にパンパンたちが間借りをするようになり、1950年6月の朝鮮戦争勃発以後、キャンプ周辺に4つの集娼地区が形成され、53年のピーク時には約2000人のパンパンが集まった。基地化によって打撃を受けた地域がパンパンたちの体を通して現金を得るという経済構造が出来あがった。
パンパンたちの状況(出身地・年齢・学歴・前職・「転落」動機)は、地元役場や保健所が行う性病検診の実施に伴って作成した台帳や身上調査をもとに分析した。これによると、米軍基地周辺に集まるパンパンたちの特徴として、比較的若い者(ほぼ同時期の全国調査の平均23.8歳より2歳若い21.69歳)が「生活苦」を直接的理由としない家庭内の問題を動機(「家庭不和」が第1位で、全国調査の第1位である「経済的理由」を上回る)にして、比較的学歴が高い者(新制中学卒業が28.5%)が集まる傾向があることが分かった。
朝鮮戦争後、東富士演習場は訓練基地としての機能が加わり、それに併せて米兵の数も増加、性病患者数も増加した。キャンプ富士司令官は、静岡県知事に性病対策の強化を求め、1952年9月、御殿場地区性病予防対策要綱がつくられ、接客婦から「オンリー(現地妻の意)」まで、米兵を相手とする者に定期性病検診を受けた旨を記す「カード」(静岡県衛生部発行の「健康の栞」)が発効されることになった。この「カード」は、全国の基地周辺で発効され、事実上「売春パスポート」となった。パンパンを下宿させる民家の軒下には英文と和文で「健康の家」という表示がされ、そこに検診を受けている女性の名前まで貼付させられた。売春業者は組合を作って女性たちの定期検診の場を各集娼地区につくり、保健所が医師とともに検診器具を持って各受診所を巡回するシステムがつくられた。検診の場には、米軍医師が立ち会う場合もあった。米軍の主導下、行政・警察・業者の連携による性病コントロールが、女性の人権を無視した強制性病検診として展開した。
キャンプフジ司令官は、日本の独立後盛んになった基地売春への批判と、米本国からの批判に対して、兵士の性病感染率が上昇するとその機をとらえて売春地区へオフリミッツ策をとった。米兵の立入禁止によって、経済的打撃を受ける地域では、オフリミッツ解除のために、性病検査をより徹底化する。極東軍司令部も、このオフリミッツという経済的脅しをかけては、地元行政と業者によりクリーンな売春を提供させる方法を、「有力な武器になる」とさえ考えていた。独立後も基地周辺では占領的な状況が続いていたのである。
地元住民のパンパンに対する姿勢は、時代と階層・生業によって異なる。当初、パンパンたちの村への流入を、「村の娘が暴行されないから必要だ」という性意識で受容した村人たちには、パンパンに対して「特殊女性観」はあったものの、差別観や排除の気持ちはなく、むしろ、地域住民とパンパンたちの「共生関係」のようなものも醸成されていた。特に、パンパンを間借りさせた家には女性家主も多く、社会的弱者(「戦争未亡人」とパンパン)が互いに寄り添い、「共生」するという面もあったと想像できる。他方、行政・教育関係者や婦人会・青年団など、パンパンに依存しないですむと考えられる層が1952年7月に「風教衛生対策に関する要望書」としてまとめた意見書では、パンパンを社会風俗上迷惑な存在として、一般住宅と分離した「特殊地区」へ囲い込み、取り締りと性病検診を徹底させるように求めている。婦人会は、パンパンの児童公園への立ち入り禁止、浴場の湯船の分離まで訴えた。他方、米軍に対する要望は1点のみで、買春側への問題視は抜け落ちている。
当初、伝統的な性認識でパンパンを受け入れた地域社会の人々も、富士岡中学校が「基地の中の中学」として、1952年12月の第15回国会参議院文部委員会で取り上げられたことをきっかけに全国的な注目を浴び、ジャーナリズムによる好奇の報道にさらされるなかで、パンパンと自分たちを強固に分離し、地域を挙げてパンパン追放運動をするように変化していった。

第4章-1 占領と売春防止法、第4章-2 売春取締地方条例-静岡県の場合
第2章、第3章で見てきた占領下の日米連携による性政策は、買春側の責任を不問にしたまま、売春女性のみを性病感染源として取り締まり、処罰・矯正の対象とするものであるが、これは1948年の第2回国会提出から約8年の間の議論を経て1956年に成立した売春防止法の基本的姿勢につながっている。本章の1では、売春防止法が形作られていく過程で、占領軍-駐留軍の存在と日米の良好な関係維持(日米行政協定の遵守)のために、単純売春が処罰されず公然勧誘の女性のみが処罰される規定(片罰主義)となった経過を追った。そこには、政府(法務省)が売春女性の保護更生を前面に出して買春男性(米兵)の処罰を回避しようとする意図と、あくまで「売春は悪である」という性道徳を打ち立てるために単純売春の処罰と両罰主義を主張する女性国会議員たちの攻防があった。売春防止法は、第三者による管理売春や女性への搾取を禁止し、これによって事実上公娼制度は廃止されたという歴史的意義を持つが、他方で米軍基地の存在と米式性管理と矛盾しない形で成立した。したがって女性が売春を行わざるを得ない状況は改善されないまま、非合法化された売春を行う女性のみ犯罪者扱いされるため、女性たちは不当な労働に対して訴え出ることができず、一層過酷な状況に追いやられることとなった。
本章の2では、国の売春防止法案が頓挫している間、12都府県52市町村で制定された地方の売春取締条例のうち、静岡県売春取締条例に焦点を当て考察した。同条例は1953年9月から10月の民生委員会で審議され、単純売春は処罰せず、「公衆の目にふれるような」勧誘をした売春女性と、売春目的の業者のみを処罰するものとなった。国の議論と同様に、静岡県でも売春そのものを取り締まりの対象とするかどうかが議論されているが、公安委員長の「便所は必要だ」、「見えないところにつくるということでよかろう」という発言にまとめられ、目立たぬような形で引き続き売買春が可能になる県条例が出来上がったのである。売春の定義に関して、民生部の担当者が説明する際に、その対象から「妾やオンリーは除外される」とわざわざ断っているのは、米軍基地を抱える自治体としての特徴を示していると考えられる。
県条例制定を後押しした静岡県婦人団体連合会は、売春を「尊重すべき婦人の人権がおかされ」るものであると位置づけながらも、その人権の範囲に売春女性は含まれず、パンパンたちを「息子を誘惑する」者と見て、「アメリカの母親たちに成り代わって」、米兵を「母の家」で「慰めて」あげてはどうか、とさえ提案している。したがって県婦人団体連合会も県条例の内容に満足し、パンパンたちの置かれていた状況に立ち、米軍基地と性管理のあり様を問うという姿勢は持ち得なかったのである。

第5章 「婦人保護台帳」に見る売春女性たちの姿-神奈川県婦人相談所の記録から
本章では、全国に先駆けて婦人保護施設と婦人更生施設を設置した神奈川県の婦人相談所の記録(「婦人保護台帳」)のうち、最も古い1956年度のものを分析した。1945年12月、横浜市の旧海軍病院内に開設された婦人保護施設は、米軍からの要請により強制性病検査のために送院された売春女性たちの「保護更生」を名目としていた。つまり、占領軍兵士の性病予防のために、売春女性への強制検診と保護がセットになって展開していくのである。この神奈川モデルが戦後日本の売春対策の骨格となり、売春防止法へつながっていくことになる。
「台帳」には、「集娼」「散娼」「街娼」「転落せぬ者」の4種類があり、そこに記載された本籍地・学歴・前職・「転落動機」などの基礎項目と併せて、相談員が書き残した女性たちの状態を分析した。相談所へ送られて来る女性たちの多くに、戦争による家族の喪失や生活破壊、戦争体験(空襲体験や従軍看護婦としての体験など)による心理的ダメージなど、戦争による影響が浮かび上がってきた。街娼と散娼に多く見られるのは保護されたときに、薬物中毒にかかり自殺未遂を繰り返している者、何度も妊娠中絶を行い子宮の病気に罹っている者、兄や夫からDVを受けている者、経営者からの暴力を受けている者などで、彼女らが非常に厳しい状況に置かれていたことがうかがわれる。浮浪の果てに行倒れになった者や自殺未遂で担ぎこまれた者、急に産気づき産婦人科へ搬送された者など、急な支援を必要とする女性たちに相談所は心強い役割を果たしたといえる。しかし、相談所来訪者への対応は不充分で「逃亡」(約30%)が最も多く、「就職」はごく少数である。
婦人相談所から婦人更生寮へ送られた女性たちに関しては「退寮者台帳」を検討し、ここでも無断退寮(逃亡)が多いことが分かった。また更生施設の1つである「若草寮」で寮生向けに実施されたカリキュラムを検討し、「更生」の内容が従来のジェンダー役割を範とする精神的なものであったことを明らかにした。したがって、相談所や更生寮に送られた女性たちに逃亡が多いのは、彼女たちを売春や放浪へ導く根本的解決を避けたまま反省を促し「矯正」しようとする相談所の姿勢にあったのではないかと考える。売春女性たちの克明な記録である神奈川県の「婦人保護台帳」は、現代の性産業労働者への支援のあり方についても時代を超えて大きな示唆を与えてくれるものである。

終章
アメリカによる日本占領は「良い占領」、「成功した占領」であったという認識を強化する「女性解放」は、公娼制度廃止や性病予防法、売買春取り締り(売春防止法)など占領軍将兵に直接関わってくる政策につては、日米の男性たちによる「合作」によってジェンダー・バイアスを持ったものになった。女性国会議員や市民女性団体は、そのような男性間の「合作」を崩すのではなく、母性主義と性道徳の観点から、その政策に合流した。彼女たちは「売春=女性の人権侵害」としながらも、その「人権」の範囲には「転落女性」(売春女性)は入っておらず、母としてパンパンの誘惑から米兵を守るという「女らしさ」で軍事組織維持に貢献した。占領軍と日本政府の「良好な関係」(無血進駐と日米安保体制維持)づくりのために「活用」されたのがパンパンたちであったが、「女性解放政」は、彼女たちの頭上を通り過ぎるものであった。軍隊に対抗し、すべての女性の人権が尊重される社会を構築するためには、女性同士の分断を乗り越える必要があり、そこには女性自身を縛る母性主義や性道徳と、以下に述べる「男性神話」から解き放たれる必要がある。
敗戦直後に日本政府が勝者へ向けてRAAや特殊慰安施設を開設したのは、「性の防波堤論」に依拠するセクシュアリティ認識によるが、この認識は当時の一般国民男女にも、女性国会議員や地域婦人会メンバーにも共有されていた。そして、この「性の防波堤論」と男性兵士には「慰安」が必要という「男性神話」は、2013年5月の橋下徹大阪市長の「慰安婦発言」で示されたように、現代の一部の政治家にも引き継がれている。しかし、本論文で見たように、占領軍「慰安所」は、「防波堤」になるどころか、占領軍兵士の性犯罪の温床となり、新たな買春地域(「赤線」や基地売買春)を生み出した。「性の防波堤論」は、占領期の歴史的事実を直視すれば破綻していることが明らかであり、この認識を克服することが真の意味で日本の「非軍事と民主化」、そして「男女平等」を自ら獲得することにつながるのである。以上が論文の要旨である。

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