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博士論文要旨

論文題目:朝鮮東北部・咸鏡北道の社会変容―植民地期の港湾「開発」問題を中心に―
著者:加藤 圭木 (KATO, Keiki)
博士号取得年月日:2014年3月24日

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本論文は、 19世紀末から植民地期にかけての朝鮮東北部・咸鏡北道の社会変容を考察するものである。日本側の咸鏡北道に対する政策のねらいとしては、同地域を大陸進出の拠点として再編することがあったので、特にそれを支える役割を果たした港湾「開発」(以下、カギ括弧は省略する)の問題と関連づけて、論じることにする。
咸鏡北道においては、朝鮮人による経済活動が大変活発であったが、日本による植民地化に伴い、同道は日本側にとっての大陸進出の拠点として再編の対象とされていった。ただし、この日本側による再編のプロセスは一直線に進行したわけではないし、日本側による開発政策が貫徹したわけでもない。朝鮮社会の内在的な要因や国際的要因、帝国内における植民地間関係、さらには自然環境の変化などを踏まえて、社会変容を多面的に考察する必要がある。以上の視点に基づいて、咸鏡北道社会の独自の歴史像―日本側の政策に一方的に規定されるわけではない―を提示していくことを目指したい。
こうした視点で分析をしようとする際に、咸鏡北道をとりあげるメリットがある。それは次の四点である。第一に、他地方と異なる経済的特質を有しており、相対的に日本側が経済的に浸透しにくく、日本の支配によって制御し得ない地域の動向が浮かび上がりやすいのではないかと考えられることである。第二に、ロシア・中国と国境を接しているという条件から、この地域の経済を国際的な情勢と関連づけて論じることができる。特に国境を越えた人や物の移動に注目することになるだろう。第三に、日本の満洲侵略と関連づけて、日本の朝鮮支配政策を論じることに適している。ここでは、特に満州国の建国がもたらしたインパクトが、分析の主要な対象となる。第四に、 1920年代以降イワシの大量の回遊という自然環境の変化によって、この地域で盛んであった漁業が変容していったという歴史があるという点である。
さて、本研究では咸鏡北道の社会変容の過程に迫るなかで、朝鮮人の主体性がどのように発露したのかについて、注意して分析を進めたい。植民地支配下という極めて制限された状況であるから、そこに生きる朝鮮人の主体性を読み取ることは必ずしも容易ではない。しかし、地域社会という場や、活発な人や物の移動に注目することで、そうした問題に接近することができるのではないかと考えている。
以上を踏まえて、咸鏡北道の歴史像をダイナミックに、そして、多面的・立体的に描き出していくことが、本論文のねらいである。
第一章では、近代における咸鏡北道社会の特質について考察した。植民地化以前の咸鏡北道では、経済活動が極めて活発に展開されていた。農業は畑作を中心としており、また明太などの漁業も盛んであったが、特筆すべきは内外の交易である。まず、麻布や明太が全国に移出されていた。そして、こうした流通を支える手段として、帆船や牛車が発達していた。また、沿海州と咸鏡北道の間では、密貿易を含む交易が、漁民をはじめとした広範な人々によって営まれていた。さらに、多くの人々が沿海州に出稼ぎしていた。
活発な内外交易の拠点となった地域としては、①吉州・城津、②鏡城・独津、③慶興・雄基などがある。① 19世紀末に開港した城津港は、日本人の進出が少なく、朝鮮人を中心とした港として成長を遂げていた。城津港は、吉州郡に位置する臨溟場などの市場を近隣に擁しており、これと結びつくことで、主に大豆や生牛などの取引が盛んに行われたのであった。また、城津港は、ウラジオストクや平安道とも結びつきを強め、経済を活性化させていた。②鏡城は、咸鏡北道の商業の中心地として、朝鮮人側の商人に認識されており、同地を拠点とした会社の設立も行われた。また、鏡城の近郊には独津という港があり、物資の多くはこの港を通じて取り引きされていた。③慶興はロシアとの貿易のための開市場とされたが、物資が通過するだけの場所となり、閑散としていた。むしろ、慶興の南方に位置する雄基港こそが、内外交易の拠点として台頭していたのである。朝鮮側では、雄基港を開港場としようとする動きがあった。
19世紀後半以降、日本側は朝鮮に対して経済的に進出していたが、 20世紀初頭までの時期においては、咸鏡北道は日本側の経済進出の浸透が最も弱い地域だった。ただし、 1899年の城津港の開港以降、大豆の輸出が開始され、周辺の農村から大豆が買い出されるなど、日本経済との結びつきが生じていったのである。
第二章では、日露戦争中より日本側が行った清津港(鏡城の近郊である)の開発過程を、周辺地域の状況を視野に入れながら考察した。清津港は日露戦争中に日本軍の上陸地点となり、その輸送拠点となり、清津-会寧間に軽便鉄道が敷設されて勃興し、 1908年にロシアに対抗する拠点として、日本の意向によって開港された。清津港の開発は、同港近くに位置する羅南における軍事基地の建設と密接な関係があった。清津港の開発、軽便鉄道の建設は、日本側によって一方的に進められたものであり、朝鮮社会との間に矛盾を引き起こした。
日露戦後には、清津港の開港や羅南への軍事基地建設の影響から、日本人を含む多くの人々が、清津・羅南などの地域へと移動してきた。ただし、羅南の人口増加は一時的なものであった。軍事基地の工事が一段落すると、人口は減少していったのである。
清津港は、清津や羅南の日本人に対する物資の供給などで役割を果たした他、その後進められた鉄道の建設によって、満洲との結びつきを強めていった。なお、 1910年代以降、清津の日本人商工業者に対しては、朝鮮総督府による全面的なバックアップがあったとはいえなかった。
第三章では、咸鏡北道社会が日露戦後から 1920年代にかけて、どのように変容していったのかを検討した。なお、この時期の大きな変化としては、 1921年に雄基港が開港場に指定されたことがある。まず、咸鏡北道における交易のあり方がどのように変容したのかを検討した。①鏡城・独津港は、「韓国併合」前後の時期の交易においては、依然として存在感を示していた。しかし、 1910年代半ば以降、近郊の清津港が伸張するにしたがって、両地域は衰退を余儀なくされた。②日露戦後から 1920年代にかけて、城津港・清津港はいずれも貿易額が拡大していったが、清津港の方がその規模が大きかった。ただし、清津港は主として、前述の鉄道敷設によって拡大した間島との間の通過貿易や、清津等の日本人の需要に対する供給を担う面が強かった。③咸鏡北道の輸移出品としては朝鮮の大豆が大きな割合を占めていた。これによって咸鏡北道の経済は日本経済に対する従属を深めていった。大豆の輸移出において大きな役割を果たしたのは、城津・雄基港であった。これと関連するが、④城津港・雄基港の方が、清津港よりも咸鏡北道の経済との結びつきが強かった。城津港は植民地化以前から存在する吉州などの市場との結びつきながら形成され、雄基港もまた以前から交易の拠点となっていたためである。⑤ロシア革命の影響によって咸鏡北道と沿海州の経済的結びつきは弱まっていた。それによって生牛は日本本国へと多くが移出されるようになり、日本人がそれを掌握した。また、従来は沿海州と経済的に結びついていた琿春は、咸鏡北道、特に雄基港との結びつきを強めた。
次に、このような交易を含めた社会変容を、それぞれの地域社会の具体的な状況に即して分析した。①鏡城は、清津や羅南の開発が進められるなかで、開発から取り残された。こうしたなかで、朝鮮人側の言論においては、鏡城が経済的に衰退しているとの認識を背景として、日本人が集中する地域との格差を批判する論調が現れた。②城津港では、植民地期に入ってからも、朝鮮人商人、朝鮮人有力者の力が他地域に比べて相対的に強かった。ただし、大豆や生牛の輸移出という形で、城津港とその周辺地域は日本経済への従属を深めていた。③開港場となった雄基港には日本人商人が進出していたが、彼らは鉄道の敷設を求め、商業の「発展」を望んだ。しかし、そうした要求は一部の上層の朝鮮人としか共有されていなかった。鉄道敷設は琿春との陸上貿易のあり方を全面的に再編することにつながりかねず、陸上貿易に従事する朝鮮人とは利害が一致しなかった。
また、咸鏡北道が大豆の供給地として再編成されるなかで、咸鏡北道の農業は移出用の大豆を重視することとなった。その一方で、咸鏡北道の農民の食物は、咸鏡北道内で生産されたものに加えて、主として満洲方面から供給されていた。しかも、朝鮮総督府が把握できていない密貿易によっても、それらは供給されていたのである。
第四章から第七章にかけては、羅津という地域の港湾開発の展開に焦点を絞った。 1931年に日本は「満洲事変」を引き起こし、翌年には日本の傀儡である「満洲国」を建国したが、こうしたなかで羅津は京図鉄道の終端港に決定し、同地域は日本本国と満洲を結ぶ新ルートの経由地として開発されていくことになった。羅津は清津・雄基とあわせて「北鮮三港」の一つとされた。羅津では、南満洲鉄道株式会社(満鉄)が港湾・鉄道を、朝鮮総督府が「市街地計画」を担当した。羅津は、要塞司令部が設置されるなど、対ソ戦を意識した日本側の軍事的な拠点でもあった。本論文が羅津を対象としたのは、①「満洲国」建国の影響を直接に受けた地域であることに加え、②従来漁村・農村であり、新たに開発の対象とされたため、開発をめぐる地域社会との葛藤や矛盾が顕著に現れたと考えられるためである。
第四章では、羅津における港湾都市開発の展開過程を論じた。まず、羅津開発政策の決定プロセスを考察した。羅津開発政策は日本側の意向によって決定され、朝鮮人の意向は顧みられなかった。ただし、日本側が一枚岩になって羅津開発を押し進めたわけではなく、日本陸軍が開発を強く求めたのに対して、総督府・満鉄は積極的ではなかった。こうした政策主体間の不一致は、羅津開発が順調に進まない一つの要因となった。
羅津では、満鉄の港湾用地を確保するために、土地買収・収用政策が進められた。羅津の土地は、すでに土地投機によって大部分が不在地主(日本人が多数)の手に渡っていた。土地買収・収用問題をめぐって満鉄・朝鮮総督府・不在地主の間で対立があったが、こうしたプロセスにおいても羅津に従来土地を所有していた朝鮮人のことは顧みられていなかった。また、総督府による圧力を背景として、軍用地の買収が行われた。羅津の軍事的な利用は、漁村としての発展を目指す地域有力者の考えとは、矛盾するものであった。
羅津では開発政策が進められるなかで、人口が大きく変動した。まず、多くの人々が仕事を求めて羅津へと転入し、人口増加が進んだ。羅津では住居を確保するのが難しく、河川敷地や国有地等を「無断占拠」し、バラックを建てて生活する人々が多数みられた。また、人口増加に伴い中心部では商工業者や雑業層が増加した。さらに、従来はほぼ朝鮮人のみで構成される社会であったのが、主として中心部において日本人の占める割合が増加し、朝鮮人と日本人が混在することになった。
こうしたなかで朝鮮総督府は、 1934年に「朝鮮市街地計画令」を羅津に適用し、都市開発を進めようとした。しかし、土地区画整理事業の施行は遅れ、一旦増加していた人口は減少していった。そして、人口減少は労働力不足をまねき、ますます開発を行き詰まらせていった。こうした市街地計画の行き詰まりの背景には、土地区画整理事業の制度上の問題や、地主の大多数が不在地主で土地を貸し渋っていたことに加え、羅津において労働力需要が安定的に創出されていなかったこと、さらに市街地計画の進展に伴い住宅の強権的な撤去が断行され人々の生活が破壊されたことがある。撤去の対象には、国有地や河川敷地に暮らしていた人々も含まれており、彼らの多くは羅津で暮らすことができなくなり、他の地域へと移動をしていった。
羅津開発が行き詰まるなかで、日本陸軍は軍事上の観点から不満を述べていた。また、日本人を中心とした府会議員や現地在住地主など有力者は苛立ちを隠せなかった。さらに、不在地主からも開発の遅れに対する不満が表明されていた。羅津府会は、こうした状況を打開するために、「満人労働者」の導入により、労働力不足を解決しようとしたのであった。羅津府会には、現住する人々の生活の安定を図ろうという考えがなかったのである。
第五章では、 1934年から朝鮮総督府によって実施された「労働者移動紹介事業」を検討した。この事業において、最も多くの労働者が移動させられた先が、羅津であった。なお、これは戦時期の労働力動員政策のモデルとなったものである。
「労働者移動紹介事業」は、朝鮮総督府が主導して、朝鮮南部の人々を北部の労働現場に斡旋するというものであった。この目的は、植民地農業政策により貧困問題が深刻化する朝鮮南部の農村の人々を、北部に労働者として移動させることで、植民地支配の「安定化」を図ることにあった。しかし、羅津をはじめとした朝鮮北部において、労働力需要は朝鮮南部からの斡旋労働者を吸収するほどには創出されておらず、労働者の収容難や賃金低下といった問題が生じた。貧困に直面していた朝鮮南部の農村の人々は、生活の安定を求めて、斡旋に応じたのであるが、そこで待っていたのは不安定な生活に他ならなかった。斡旋された朝鮮人労働者は、故郷へ「帰還」をしたり、ストライキをおこすなどした。植民地支配の「安定化」どころではなく、朝鮮人労働者との矛盾は深刻なものとなっていたのである。
第六章では、港湾都市の開発が進められたことによって、 1930年代の羅津社会がどのように変容していったのかを、主として地域有力者の動向から考察した。終端港決定前後、羅津では洞レベルの朝鮮人有力者が存在し、彼らの多くは漁業等において有力な位置を占めるとともに、各洞において書堂設立に取り組んでいた。また、面協議会・邑会の構成員も有力者間の話し合いによって選出されたと推測される。
終端港決定以降、日本人を中心とした商工業者が増加するとともに、朝鮮人の一部は商工業へと転換していった。こうしたなかで府(邑)レベルの朝鮮人の地域有力者が台頭することになった。一方、朝鮮人がその大部分を占める漁村・農村は引き続き存在し、羅津社会の重要な一角を占め続けたが、府会の構成員では日本人・商工業者が多数派となり、朝鮮人は少数派となった。漁村・農村の洞レベルの朝鮮人有力者は、大部分が府会構成員には含まれず、洞レベルの有力者の地位は低下した。朝鮮人で府会議員となったのは、開発に伴って新たに台頭した府(邑)レベルの有力者であった。
羅津府会は、人口の大多数を占める朝鮮人、漁村・農村の洞レベルの有力者の大部分を排除することで成立していた。朝鮮人の大多数や漁村・農村の有力者の意向は踏まえられることなく、開発政策は進められたのである。府会から排除された洞レベルの有力者と、日本人・商工業者を中心とした府会全体の路線の間には差異があったとみられる。
重要なことは、開発に組み込まれない地域社会の動向が存在していたことである。日本人・商工業者が増加し、羅津の地方行政を占有したとしても、植民地期以前からのワカメ採集や、イワシの回遊増加という自然環境の変化を受けたイワシ漁業が隆盛を極めており、漁業を基盤とした朝鮮人の社会が存在していた。
第七章では、日中全面戦争以降の時期における羅津開発政策について検討した。羅津港が東北満洲に接続され、羅津港の日本側にとっての重要性は高まることになった。また、張鼓峰事件を通じて、日本の軍事的要請の観点からみたときに、羅津の「発展」が充分ではないことが露呈した。一方、対ソ戦争を意識して立案された満洲の産業開発五ヶ年計画のなかで、羅津港はその計画を支える港湾として位置づけられ、この方針は朝鮮総督府・日本政府の政策にも反映された。
しかし、羅津開発はますます行き詰まっていくことになった。羅津港は現地の商工業が未発達のため、主として満洲と日本本国間の通過貿易を担っており、現地には利益がほとんど還元されなかった。また、労働力不足も深刻化していた。羅津港の貿易物資の量は時期によって変化するため、労働力を「柔軟」に運用する必要があったが、羅津には労働市場がないため、臨時雇用を行うことが難しい状況があった。加えて、羅津においては漁期に労働者がイワシ漁業とその加工業へと吸引され、労働力確保が困難になるといった問題があった。こうしたなかで都市の発展も抑制され、羅津の中心部においては建物がほとんど建っていない状況であった。ただし、このことは漁村としての羅津が荒廃していたということを意味しない。戦時期においても、イワシ漁業等が活発に営まれていたのである。
以上でみたように、日本側が進めようとした咸鏡北道の経済的・軍事的な植民地的な再編は、大豆・生牛の移出などによる咸鏡北道の経済の日本経済への従属化、羅南や羅津の開発といった点で、たしかに進展していった。しかし、日本側の政策が何もかも貫徹したわけではない。開発政策―そこには植民地性がみられる―は、必ずしも咸鏡北道に根付かなかったのである。むしろ、咸鏡北道は植民地化以前の社会のあり方を前提としつつ、国際情勢や帝国内の植民地間関係、自然環境のあり方などにも規定されながら、社会変容を遂げていたといえる。こうした社会変容を地域社会の視点でみたときに、そこからは朝鮮人の主体性―朝鮮人を中心とした地域社会を目指すという志向―が浮かび上がってくる。そして、こうした朝鮮人の主体性、そして咸鏡北道社会の変容の過程は、人や物の活発な移動という問題を踏まえることによって、よりダイナミックに捉えることができるのである。

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