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博士論文要旨

論文題目:20 世紀転換期アメリカの動物表象と自然の形成 ―剥製・博物館・記念碑・映画―
著者:丸山 雄生 (MARUYAMA, Yuki)
博士号取得年月日:2013年7月31日

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本論文の課題は、動物表象の分析を通してアメリカ史における人と自然の関係を考えることである。剥製術、自然史博物館、記念碑、映画を読解し、アメリカの近代化にともなう自然観の変化ー自然からの疎外―が視覚技術の進歩と結びついて動物表象を作った過程を検討するとともに、そこに現れた自然をめぐる認識の混乱や差異を詳述することで、20 世紀転換期のアメリカが自然や動物や外国という他者をどのように理解していたかを明らかにする。
 20 世紀転換期はアメリカの動物と自然の位置づけが大きく変化した時代だった。バッファローの減少やフロンティアの消滅は、自然のパラドクスを認識させた。自然が人から完全に隔てられたものだとしたら、人が触れた途端に、自然は自然でなくなってしまう。アメリカ史において「ウィルダネスの悩み」と呼ばれてきたこのパラドクスゆえに、自然は原理的に手に入れられないものでありながら、それゆえに常に希求されるものでもあった。自然の第一のモデルは、人の対極にあり、けっして触れられないもので、善や正しさなど人が依拠する倫理的価値の基準とされた。「原初的無垢の根源」としての自然は非人間的であるがゆえに人の活動や時間の経過にも無関係に超越的な価値を保ち続ける。
 しかし、本論文の眼目は、この自然が虚構だと暴くことにはない。文化論的転回以後の文化史、環境史にとって、無垢の根源としての自然が人工的な概念であり、文化の産物であることは言うまでもない。考えるべきは、自然の欺瞞ではなく、このパラドクスがアメリカ史に及ぼしてきた影響である。自然を不変のものとして人から完全に切り離すことが重要だったのは、アメリカが旧大陸よりも優れた新しい国だと考える根拠を、建国当初の共和国に提供したからだった。しかし19 世紀末以降、産業社会へと変貌するアメリカでは自然からの疎外が顕著になった。失われた自然は、一方では逃避としての反近代主義を生み、原始に憧れ、他方では帝国主義として、さらなる征服と搾取を望んだ。反近代主義にとって、マスカルチャーや大量消費に毒されていない古き良き自然に戻ることは、文化的伝統と階級的権威を守るための防衛手段であり、帝国主義にとっては、オリエントや未開社会の征服・支配は、白人男性の優越を取り戻し、文化のヒエラルキーを回復しようとするジェンダー的なセラピーであった。
 世紀転換期の自然への回帰の中で、動物が特異な地位を占めるのは、動物が自然の一部として人間から区別されながら、人間にとって操作しやすいもの、認識しやすいものとして様々なかたちで表象されたからだ。本論文が注目するのは、動物の表象が作られる意味生成の過程である。象徴として意味が固定されるまでに、動物はどのように表され、作りかえられたのか、また象徴の表面的な意味の下にはどのような異なる意味が隠れているのか。本論文の方法論上の特徴は、動物の表象と自然のパラドクスをつなぎあわせて考えるアプローチにある。ウィルダネスの悩み、すなわち自然が原理的に到達不可能なものとして想起されていたことから生まれた動物表象を、本論文ではアレゴリーと呼ぶ。それは寓意を表すのではなく、記号となったことで原初の自然を失った廃墟である。それはかつて自然だった。しかし、もはや自然ではない。にもかかわらず、いまだ人間からは隔てられている。自然であって自然でないものとして動物のアレゴリーは、20 世紀転換期にフロンティアの消滅と視覚技術の飛躍的な発達が結びついたときに生まれた。本論文はそのなかから剥製術、博物館展示、メモリアル、自然ドキュメンタリー映画に着目し、テキストとして読解する。
 本論文の方法論上のもう一つの特徴は、動物表象を精読すると同時に、製作者の思想と技術からも両面的に辿る点にある。取り上げるのはナチュラリストと称された人々で、彼らがなぜ、どのように動物表象を作ったのかを問う。「ナチュラリスト」という呼称にはヘンリー・デイヴィッド・ソローのような孤高の精神性が結びつくが、世紀転換期には職業的に自然と関わった人々が出現した。彼らはソローやジョン・ミューアのような自然の美学を一部で受け継ぎながら、それに反する新しい思想も抱いていた。本論文は、「芸術家ナチュラリスト」、「科学者ナチュラリスト」、「スポーツマン・ナチュラリスト」、「商人ナチュラリスト」という四つのカテゴリーを提案し、彼らの自然観の特徴を探る。とくに現実と表象の間の、真正さと偽物の間の緊張関係に注意を払い、台頭する消費文化とスポーツマンシップが、また新しいメディアと伝統的な科学が孕んだ対立と調和を明らかにする。
 第1 章では、「芸術家ナチュラリスト」としてのカール・エイクリーを取り上げた。エイクリーは剥製術を大きく改良し、シカゴのフィールド博物館とニューヨークのアメリカ自然史博物館(AMNH)の展示を作成しただけではなく、計5 回のアフリカ探検を行い、多数の動物を収集し、妻とともに多くの紀行文や記録映像を残した。彼を中心に、剥製技師の活動の広がりを追うと明らかになったのは、芸術家ナチュラリストがたんなる技術者として標本の作製を請け負っていたのではなく、より主体的に博物館の展示に関わっていたことだった。世紀転換期に剥製術は詰め物からマネキンへと発達したが、それは技術的な洗練以上の変化をもたらした。第一に、剥製術の革新は博物館の外部で始まり、後に博物館に持ち込まれた。その中心となったのはエリート階級のスポーツマンや科学者ではなく、専門教育を受けずにウォード自然科学研究所に集まった剥製技師たちであり、彼らはアメリカ剥製技師協会という団体を結成し、専門職としての自立を目指した。彼らが博物館で働くようになると、労働スタイルは高度な技術を持って独立した職人的なあり方から近代的な専門家に変わり、組織化が進むアメリカ社会の変化に対応した。第二に、剥製術の専門職化に関連して、剥製術の意味が変化し、新しい価値を得た。新しい剥製術は、長期間の保存を可能にするための技術というよりも、彫刻のような美的価値を持つ芸術として位置づけられるようになった。剥製の用途は多様化し、博物館や科学研究のための標本だけでなく家具や装飾品にもなり、男性の趣味のハンティングだけでなく女性の領域である家庭内にも居場所を得た。芸術家ナチュラリストは、自然や動物に関する知識や美的感覚を備え、フィールドを探検する多才を要件とするようになった。第三に、剥製術は、芸術になるにつれて、必ずしもリアリズムの僕ではなくなった。剥製は、観察に基づき自然をありのままに表すという制約を超え、動物の外見を生き写しにする正確な再現から、より自由で創造的な表現へと移行した。観察から得る事実に基づくのではなく、想像力によって補われるようになると、エイクリーら芸術家ナチュラリストとキュレーターら科学者ナチュラリストの協業は破綻し、衝突が起きた。
 剥製術は中立的なメディアではなく、自然史博物館においてリアリズムのために奉仕した展示技術以上の役割を果たした。剥製は、自然を場所から解放し、都市や博物館や家庭内に移植し、絶滅や消失から救い、永久不変なものに作りかえたが、剥製術が職業として、また芸術として独自の発達を遂げたことは、それが再現した自然のありかたに変化をもたらした。失われた理想の自然を内包するアレゴリーへと発展した剥製術は、自然史博物館に黄金時代を築くと同時に、科学と芸術の関係を刷新し、ありのままの自然から創造的な自然へ、正確で客観的な観察からポピュラーで派手な視覚表象へと転換させたのである。
 第2 章では、エイクリーとAMNH 館長で科学者ナチュラリストだったヘンリー・フェアフィールド・オズボーンの差異に注目して、自然史博物館の活動を世紀転換期から20 世紀初頭の改革の時代に定位した。科学技術が戦争遂行に協力した一次大戦を経て、動物の保護の気運が高まり、スコープス裁判など進化論の是非をめぐる論争が起きた時代において、博物館では何が起きていたのか。エイクリーの最大の仕事はAMNH のアフリカン・ホールだが、外国の自然を国内の大都市に保存する試みは多くの困難を伴い、建設は二十年以上にも及んだ。これは単に技術的な難易度には帰せられず、保存という発想のなかにあった自然のパラドクスがもたらした結果である。ホール建設資金を富裕層、とくに自然史博物館のパトロンだったスポーツマン・ナチュラリストたちに頼ることで、エイクリーの活動の独立性は損なわれたが、展示内容は彼の主観に大きく依存するようになった。とくに動物の美しさについて彼は独自の基準を定め、完璧な動物のあり方を追求した。しかし、完璧さは想像の産物であり、選ばれた標本も他の固体と比較して相対的に優れているにすぎず、完全無欠な動物とはあらかじめ存在不可能だった。
 この時代には、博物館の目的をめぐり、実用性と非実用性が対立し、徐々に教育機能を重視するようになった。子供の教育、労働者階級の向上、移民のアメリカ化が中心的な課題となり、博物館は排他的な殿堂から社会改革の推進者に変わり、戦争を迎えると、公衆衛生や食糧管理のようなさらに実際的な問題に対応した。博物館が涵養してきた自然への関心も、倫理の向上など抽象的な価値から、戦争協力の一環になった。効用が理念に優先するようになったとき、エイクリーは後者に立った。彼は完璧な動物を探し求めたが、理想的な動物とは彼にとってはアプリオリに決まっているのであり、現実によって左右されるものではなかった。しかし、戦争の経験は、完璧さに奉仕するはずだった各種の技術を、実用性のための道具にした。剥製という保存のためのメディアの製作手段として開発された技術は、兵器製造に転用され、破壊の手段の一部となった。カメラは記録と保存だけでなく、索敵と戦争戦略にも有効だった。エイクリーが望んだのは自然の原初的無垢と同様にイデア上の幻のような完璧な動物だったが、それを作るための技術は自然を人間にとって利用可能な手段にまで引き下げたのである。
 エイクリーの関心は世紀転換期をまたいでゾウからゴリラへと移った。彼はゴリラを、西洋の伝統的な理解、すなわち恐ろしく凶暴で人を襲う化け物というイメージから、優しく、知的な人間の近縁種へと仕立て直したが、そこにも恣意的な期待が投影されていた。本章はアフリカン・ホールの生態展示で最もよく知られたゴリラ・グループを精読し、新たな解釈を提示した。人間の家族に擬製されたゴリラの群れにおいて、大きな雄ゴリラはたくましく、自己防衛可能な強さを持つ強い父、帝国主義の理想の身体だった。しかし、それは「テディ・ベア的家父長制」の家長であっただけでなく、ハンターにより殺される寸前の、絶滅を運命づけられた弱者でもあった。ゴリラは保護区に囲い込まれ、西部のインディアンと同等の慈愛と庇護の対象になった。エイクリーはゴリラに憧れたが、その憧れがもう潰えたことも自覚していた。彼は進化論を支持したが、当時のアメリカの有力な進化論擁護者だったオズボーンに依存していたわけでく、ゴリラに模範を求めることにより、社会進化論が推進した人種秩序からはみ出てしまった。彼の彫刻「さなぎ」は一見して強いイメージを喚起させ、進化論論争に巻き込まれたが、それはエイクリーがゴリラに抱く二律背反の表れであり、白人を進化の最先端に、黒人をゴリラに近い未発達の段階に位置づけた人種の境界を紊乱する異物だった。
 第3 章では、スポーツマン・ナチュラリストの代表格であるセオドア・ローズヴェルトを論じた。彼は政治家、軍人、ハンター、文筆家、帝国主義、革新主義、社会改良など幅広い活動で知られ、アメリカ史に巨大な足跡を残したが、ここで考えるのは彼の功績ではなく、死後にどのように記憶されたかである。1919年にローズヴェルトが死ぬと、すぐに顕彰運動が起きた。しかし、ワシントンDC にメモリアルを作ろうとした計画は、首都の都市開発や国家的な記憶の形成のなかで翻弄され、紆余曲折をへて建設地もデザインも大きく変更された。このメモリアルにはカール・エイクリーによるライオン像の構想があったが、未実現に終わった。これまで見過ごされてきたエイクリー案に注目することで、本章はナチュラリストとしてのローズヴェルトがどのように理解され、何が記憶され、何が忘れられたのかを検討する。ローズヴェルト・メモリアルの不思議な物語からは、革新主義の自然観、とりわけ有用性を重視する保全の思想と審美的価値を優先する保護の思想の対立を軸として、公的な記憶が特定の場やイメージと結びつく機制があらわになる。
 エイクリーのライオン像がメモリアル建設運動と首都の都市計画の監督機関により退けられた主な要因は、実用性と美学の対立だった。メモリアルに求められたのは、アメリカ化、国民統合、反共、階級融和、市民教育などの実際的な役割だった。問題は、エイクリーにとってのセオドア・ローズヴェルトが現実から経験的に引き出された人物というよりは、エイクリーの観念的な理想の投影だった点にある。ローズヴェルトは、完璧な動物やゴリラと同様にエイクリーの妄想の中にしか存在せず、それゆえにライオンとしてしか表象できなかった。自然を利用したらもはや自然ではないように、ローズヴェルトの功績や記憶を何かのために役立てたら、ローズヴェルトの特別さを奪い、不変の価値を損ねてしまう。よってエイクリーは実用性を拒否し、「丘のように耐える」メモリアルを目指した。
 エイクリーのアレゴリカルなライオン像を拒絶し、最終的にポトマック川の荒れ果てた島にたどり着いたローズヴェルト・メモリアルは、一見自然を愛でるようでありながら、保全思想に基づいていた。保全に従えば、自然は作り替えられ、人間の生活や余暇や至便性のために活用されるべきであり、ローズヴェルト島はきれいに整備された公園になることで、国立公園やツーリズムと同等の機能を、ごく小さな規模で果たすことになった。それはまたローズヴェルトの記憶を国家の正史の中に組み込み、ナショナリスティックな集合的目的のために役立てることでもあり、利用可能な歴史と自然を後に残したのである。
 第4 章では、商人ナチュラリストとしてマーティン・ジョンソンとオサ・ジョンソンに注目した。ジョンソン夫妻は探検家兼映画制作者で、南太平洋の異民族・異文化の映画を撮った後、エイクリーの知遇を得てAMNH と契約し、アフリカで野生動物の教育的なドキュメンタリー映画を撮ろうとした。しかし多大な時間とフィルムを費やした末に、プロジェクトは不完全なままに終わり、ドキュメンタリーではなく劇映画「シンバ」として完成した。本章では、「シンバ」の発案から完成までを辿り、これまで科学とエンターテイメントの利害が衝突した失敗作と見なされてきたこの映画を、動物や自然の商品化の視点から再検討した。映画制作に関するAMNH 内部の議論を精査してわかったのは、非営利の教育研究機関が商業映画に関わる際に複雑なスキームを用意して自らの権益を守ろうとしたこと、また博物館がクリーンでスポーツマンシップに則った映画を求める一方で、自然から利益を上げることは疑問視しておらず、自然をマーケタブルな資源として考えていたことだった。
 博物館とマーティン・ジョンソンの差異は、科学と娯楽の目的が対立していたからではなく、自然観と自己認識の違いに由来する。AMNH が映画という新しいメディアの活用を考えたのは、資金調達と観客増加、教育効果を見込んだからだった。博物館にとってそうした価値をもたらすのは被写体である自然であり、撮影者や技法ではなかった。博物館にとって自然は常に同一であり、カメラマンは撮影対象に従属していたため、ジョンソン夫妻のフィルムと他の探検家が撮影したフィルムを編集して混ぜ合わせることも疑問に思わなかった。しかし、マーティン・ジョンソンは、カメラを覗くだけの匿名の存在以上のものを目指していた。最初期のドキュメンタリー映画のような不関与の観察者を脱し、彼は映画の内容に積極的に関わるようになった。彼は、自分の存在が被写体に影響を与えていることまでは考えが及ばなかったが、中立性を踏み越え、自らの視点から積極的に物語を語った。博物館にとって映画の価値は自然自体にあったが、商人ナチュラリストにとっては自然を語る主体に価値を付与しなくてはいけなかった。よって「シンバ」においてジョンソン夫妻は観察者でもあり、かつアフリカの自然や動物と並ぶ主役でもあった。その点において「シンバ」の構想は一貫していたのであり、最終的にできあがった映画に非一貫的な折衷をもたらしたのは、自然を重視する一方で観察の主体には無関心だった博物館の側だった。
 「シンバ」における自然と人間の関係の変化は、オサ・ジョンソンの存在によりいっそうはっきりする。映画のクライマックスになったライオン・スピアリングはローズヴェルトとエイクリーから受け継がれた題材で、マーティン・ジョンソンは彼らと同様の人種とジェンダーのバイアスを持っていた。しかし、注目すべきは、ライオン・スピアリングの主役は、恐ろしいライオンとそれに勇敢に立ち向かうアフリカの戦士たちから、最終的にオサ・ジョンソンへと移行することである。彼女は、女性でありながら、未開のフィールドに出かけ、動物を狩り、夫よりも有能なハンターだった。同時に、彼女は美しく魅力的な被写体としてカメラの前に立つスターでもあった。女性でありながら男勝りの探検家であり、力強い主体でありながらフィルムを通して多くの観客に眼差される客体でもあった。子供を持たない一方で動物とアフリカの黒人にペットのような愛情を注ぎ、定住する家を持たない一方でキャンプ中の家事仕事を宣伝し、欲望の対象でありながら強く自立した個を演じてもいたオサ・ジョンソンには二重性がつきまとう。とくに彼女が暮らす家は、アフリカにありながら自国の商品が散乱し、アメリカの消費生活と家庭の理想を外国で実現していた。彼女は、一人称と三人称の境界線上にいて、自然と人間の、女性と男性の、ホームと外国の両方にまたがっていたのである。
 以上、本論文では、四種のナチュラリストの自然観を分析し、彼らが作った動物表象を読み解いた。彼らの関心は重なりつつも、看過しがたい相違もあった。テディ・ベア的家父長制、社会進化論、優生学の影響は広く見られたが、しかしこれは科学的な客観性とは両立しなかった。それらのイデオロギーは、剥製術や絵画のような視覚技術を利用して、自らの見解に沿う自然を表象した。自然の独自の解釈は虚偽であると批判されることもあったが、倫理的な正しさを標榜したスポーツマンたちもまた自然を利用可能なものと見なし、人の目的のために役立てることを是とした。自然の人為的なコントロールと利用に反対したのは、カール・エイクリーのような理想主義者で、彼は自然に完璧さを、人の手によって変えられたりはしない荘厳さを求めた。しかし、彼が開発した技術は、自然を操作し、コピーし、改変可能なものへと転化した。世紀転換期のナチュラリストたちに通底していたのは、審美的価値に基づく堅い自然と実用性に供される柔らかい自然の対立で、その意味で動物のアレゴリーは革新主義の産物であった。
 アレゴリーとしての動物表象とは、自然の外的な表現と内実の間の安定した意味関係の破綻だった。人が逃避や理想として無垢なる自然を求めるとき、動物表象はそれが見果てぬ夢であることを暗示していた。動物を殺すことから始まる剥製術が人間による自然への禁断の一撃であるように、アレゴリーは自然の不安定さを表していた。20 世紀初頭のアメリカの動物表象の読解により明らかになったのは、自然のパラドクスから始まり、それを抱え続ける剥製、ゴリラ・グループ、未完のライオン像、「シンバ」のあり方だった。それらは超越的な自然を求めた結果手に入った失われた自然だった。自然がそもそも幻想であり、根源的に不可能なものだとしたら、動物の表象はその倒錯を永続化したのである。

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