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博士論文要旨

論文題目:アカデミック・ハラスメントの社会学的研究 ―学生の問題経験と「領域交差」実践―
著者:湯川 やよい (YUKAWA, Yayoi)
博士号取得年月日:2012年7月31日

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本論文は、日本の高等教育・研究者養成における教員―学生間で経験されるアカデミック・ハラスメントに着目し、近代の「ユニバーシティ」から多様な人々が集まる「デモ‐バーシティ」へと変化して久しいとされる今日、新しい教員―学生の関係がどのように構築・展望されうるかを、ジェンダー社会学研究の批判的継承の上に提示することを目的とする。具体的には、研究=教育一体型研究室教育での人間関係をめぐる学生の問題経験についてライフストーリー手法を用いて読み解くことで、これまで臨床心理的関心(学生相談のカウンセリング)とマクロレベルの社会学的関心との狭間で取り残され、高等教育研究とジェンダー研究からも死角となってきた研究室教育のミクロレベルを社会学的に考察した。

「アカデミック・ハラスメント」とは、現在日本国内では「研究・教育機関における権力を利用した嫌がらせ」と広く理解され、一般的には、「大学での性的言動(セクシュアル・ハラスメント)以外の不快な言動全般」を問題化する用語として用いられている。特に、大学院生が教員から受ける被害の深刻さ・頻度の高さが実態調査等で指摘され、近年ガイドライン設置等対策を講じる大学も増えてきた。1990年代頃から顕在化した日本国内でのアカデミック・ハラスメントの社会問題化は、それ以前に国内外で問題化されたキャンパス・セクシュアル・ハラスメントとともに2つの考え方によって下支えされてきた。1つは、各種ハラスメントの発生をより効率的な組織管理を阻む「リスク」と捉える運営・経営側の議論であり、もう1つは、性・人種などのマイノリティに対する「差別」に反対するより根源的な理念のもと、ハラスメントの被害者・支援者たちが主張する「人権問題」の議論である。大学運営の立場で意識される「リスク管理」の議論と、当事者・支援者が強調する「人権問題」の議論は、互いに微妙な緊張を孕みながらも、共に「象牙の塔」と揶揄される「古い大学自治の閉鎖性」を批判的にとらえ、大学外部に開かれた新しい研究・教育の考え方を模索する点で歩みをそろえている。そこでは、既存の「知の共同体」における師弟関係(全人格的付き合いとしてのコヴィナンタルな関係、言いかえればゲマインシャフトの関わり)にかわり、外部からの管理・監視に開かれた教育サービス(権利・義務の契約関係としてのコントラクティブな関係、言いかえればゲゼルシャフトの関わり)が志向されている。
こうした状況の中でアカデミック・ハラスメントを論じる本論文の問題意識は、今日の大学が抱えるある種のジレンマにある。つまり、外部の人からは窺いしれない「象牙の塔」の内部で細分化された「知の独占」が、ハラスメント被害を「生じやすく隠ぺいされやすい」構造的欠陥を生み出してきたと同時に、「研究・教育の自由」を体現する「知の共同体」の基盤ともなってきたというジレンマである。大学は、女性や留学生、社会人学生などによって構成される多様性のデモ-バーシティに適切に対応することができず、異質なものを「(西洋異性愛男性中心の)共同体」から排除しようとしてきた。共同体からの有形・無形の排除としての人権侵害を可視化させたハラスメント救済・防止運動は、「知の共同体」の現実に絶望し、外部監視・外部評価に開かれた新しいコントラクティブな教員―学生関係を希求する。一方で、市場化・競争化が加速する今日の先進国高等教育の国際動向の中で大学が「知の企業化」することに抗う議論は、「知の共同体」性を守りながらデモ-バーシティにおける新しい秩序を構築しようと模索している。だが、異なる立ち位置から「大学の存在意義を内部から問い直す」これら2つの議論は、これまで十分に接続されてこなかった。本論文は、研究室教育におけるアカデミック・ハラスメントというテーマを切り口に教員―学生間の人間関係を考察することで、これら2つの議論の接続を試みた。
アカデミック・ハラスメントに関する先行知見としては、学生相談室やNPOなどによる実態調査が散見される程度である。そうした調査では、被害者学生の精神的ダメージの大きさや被害の類型化など被害の「状態」に焦点が当てられてきた。一方、「ジェンダーと権力」で説明されるキャンパス・セクシュアル・ハラスメントとは異なり、「性的言動以外の不快な言動」を受けとめる学生側がそれを「被害」と認識する「過程・背景」については説得的な議論は提出されていない。そのため、「アカデミック・ハラスメントのない良好な教員―学生関係とは何か」をめぐり混乱・困惑が存在していることも報告されている。こうした現状において、過程・背景も含めてアカデミック・ハラスメントに着目することは、社会問題としての解決に資するだけでなく、①高等教育・研究者養成研究、②「ジェンダーと教育」研究、③「ポスト・ジェンダー」の社会学・公共社会学論誕生後のジェンダー研究という、3つの先行研究群において社会学研究としての意義と可能性をもつ。
第1に、高等教育・研究者養成に関する既存の国内研究はマクロレベルでの制度・政策分析に集中しており、教員との微妙な人間関係を含め報告される学生の様々な不満は解決すべき重要な課題とされながらも、ミクロレベルの追究は心理学領域に託されたままである。特に、コースワーク教育と並び日本の大学院教育の両輪と言われる研究室教育については「ブラック・ボックス状態」とも言われており、大学院生が量的・質的に多様化する今日、教員との密接な人間関係のもと営まれる研究=教育一体型教育で学生がどのように不満・不快を経験するのかについて、ますますその解明が求められている。第2に、「ジェンダーと教育」研究においては、既存の教育研究が志向する経験的研究と高度に抽象的なフェミニズム理論との乖離状態が問題視されてきた。大学の中で経験される様々な不快な経験についても、広義のジェンダー研究(ポスト構造主義のセクシュアリティ文化批評と融合したクィア理論の概念)を用いた抽象的・演繹的理論化が試行されたが、必ずしも成功していない。関連諸領域の諸理論と調査データとの往還による仮説生成を試行することで、上記の乖離状況に何らかの突破口を開くことができるのではないだろうか。第3に、「ポスト・ジェンダー」の社会学・公共社会学論誕生以降のジェンダー社会学においては、既存のジェンダー社会学(批判的な社会学)による成果を踏まえた上で、人々の日常的なつながり方を模索し、曖昧な生きづらさをより繊細に読み解くことへの関心が生まれ始めている。本研究は、反キャンパス・セクシュアル・ハラスメント運動・理論の延長上で社会問題化されたアカデミック・ハラスメントが、「ジェンダーと権力」の理論では十分に説明することができず困惑・混乱を生み出している状況に着目する。既存のメインストリーム社会学(専門的な社会学)への対抗軸として登場したジェンダー視点での諸研究が、社会学の中で「周辺的な制度化」を確立した今日、時流や政策意図に左右されやすい政策的な社会学と距離をとりつつ、批判的な社会学の抱える問題点(対抗諸言説のドグマ化)を越えて、学生たちが大学内部で経験する曖昧な生きづらさを記述・概念化することが必要である。
以上を踏まえ、次の3つの研究課題を設定した。
第1に、日本の大学において「アカデミック・ハラスメント」が社会問題として構築される過程と、その中で生み出された対抗諸言説の今日的状況・課題を明らかにする。これは、自らの経験を語る学生たちとそれをライフストーリーとして読み解く本論文が、既存の諸言説をどのように引用・参照するかを検討する際、その前提となる言説状況を整理するためのものであり、主に1章で取り組む。
第2に、国内外の諸言説の中で、ハラスメント問題を扱う既存のジェンダー研究知がどのように文脈化されるのかを明らかにする中で、「アカデミック・ハラスメント問題」が、どのように今日の研究・教育活動を論じる上での主要な研究課題として提起されうるかを示す。この課題は、下に記す第3の課題と往還しながら、ポスト構造主義のジェンダー研究と経験的な調査研究とをどのように接続することができるかを探究するものであり、主に2章と3章で取り組む。
第3に、学生が研究室教育の中で感じる不快・不満に着目し、学生が主観的意味世界において教員との関係をどのように理解・評価していくのかという過程・背景を明らかにする。被害―加害の人権問題を踏まえながらそれを越えて、学生の主観的意味世界に接近することを目指す。この課題には、4章と5章で取り組む。
以上3つの課題を追究することにより、今日、高等教育・研究者養成の教員―学生の関係がどのように構築・展望されうるかを論じる認識論的・方法論的な基盤を、広義のジェンダー視点から提示する。
研究課題を遂行するための方法論として、本研究は、①問題経験に着目する構築主義のライフストーリー手法と、②「領域交差」の考え方の2つを用いた。まず、構築主義の社会問題研究が、「経験的プロジェクト」の立場(専門的な社会学として精緻化・厳密化される方向)と「批判的プロジェクト」の立場(西洋異性愛中心主義批判の立場で、問題解決と実用性にも開かれる方向)に区分されつつ発展する現状において、「社会問題にならない日常の曖昧な生きづらさとしての問題経験」の構築プロセスに着目する。既存研究では時にトレードオフ関係とみなされやすい経験的プロジェクトの立場と批判的プロジェクトの立場を建設的相互批判の関係として機能させるため、アクティヴ・インタビューの対話的構築主義ライフストーリーを用いた。そして、ライフストーリーの記述・分析においては、「領域交差」(学際的な脱構築の実践理論)の考え方に依拠した。専門研究としてのディシプリンがもつ「思考の習性」や各時代の支配的パラダイムそのものを文脈化しつづける領域交差の脱構築実践を、研究者自身の思考を含め調査・分析のプロセスを再帰的に記述する対話的構築主義のライフストーリー手法と組み合わせることで、抽象的なポスト構造主義ジェンダー理論と経験的な調査研究との接合可能性を試行した。

論文前半を構成する1章から3章までは、「日常的な問題経験」を論じる上での認識論的基盤を探究した。まず、1章では、キャンパス・セクシュアル・ハラスメントを前史とするアカデミック・ハラスメントが、90年代後半以降日本国内で独自の社会問題として構築される過程を整理・記述した。被害救済・啓発教育の実践活動と対抗的学術言説構築が密接不可分に一体化した「クレイム申し立て」活動の中では、問題の本質を「性差別」におくか否かをめぐり様々な解釈レパートリー間でのせめぎ合いが生じ、その結果社会問題としてのアカデミック・ハラスメントの認知・普及と、そこからこぼれおちる様々な問題経験とのずれが取り残されることが明らかになった。特に、2000年代以降に一部のジェンダー研究が提示した「ポスト構造主義的ジェンダー」の仮説モデル(クィア批評の議論を用いたホモソーシャルな大学構造批判)と個別のケース把握との乖離をめぐる考察からは、現場レベルでの概念把握と学術理論発展の両面における混乱・停滞状況が浮かび上がった。
2章と3章では、アメリカを中心に北米圏での議論を参照し、大学内で学生が語る多様な問題経験を「歴史的排除・抑圧の問題」と読み解く既存の対抗言説の今日的意義と限界を明らかにした。まず、2章では、対フェミニズムバックラッシュの言説(保守派を中心とする男性たちのドミナント・ストーリー)とジェンダー研究知の対抗言説(カウンター・ナラティブ)との緊張関係を描いた上で、その緊張関係をレディングスのポスト歴史的大学論を用いて批判的に再考した。ポスト歴史的大学とは、社会における批判的精神と理性の陶冶を行う文化的中心(近代大学)としてもはや機能しなくなった大学のことであり、そこでは「文化」の論理ではなく、それ自体非イデオロギー的でグローバルな「エクセレンス」の論理(会計の言葉)を前提とする思考が求められる。レディングスが主張する「第3の立場」(それ自体が非イデオロギー的で「空っぽ」なエクセレンスの論理を前提に文化闘争から距離を置く立ち位置)を、今日のアカデミック・ハラスメント問題の読み解きに用いる必要性を論じた。その際、ポスト歴史的大学において、「人権の問題系」と「(性と生をめぐる)欲望の問題系」とのせめぎ合いが、大学教員=研究者の身体を舞台に展開・議論される様子を考察した。そこから、「欲望」を扱うクィア批評の主張を、ディシプリンの「欲望」・研究的営為の「欲望」をとらえる切り口として用いることで再帰的に活用する方途を示した。
3章では、ポスト歴史的大学における教員―学生間の「教える―教えられる」関係の非対称を、「欲望」問題の視点に照らしつつ批判的に再考した。近代教育愛研究の主体形成論は、権力濫用とも権威主義とも異なる「圧倒的に非対称でありながら決して一方的ではありえない」教育的関わりの本質を指摘している。この「圧倒的に非対称でありながら決して一方的ではありえない」関係は、ポスト構造主義のジェンダー精神分析・セクシュアリティ批評によって、構造=規範に「喜んで服従する主体(行為遂行体)の欲望」論として読み解かれ、そこでは構造=規範の「引用(模倣)の失敗」に見出される「抵抗」の契機が主張されている。この引用の失敗による「抵抗」という抽象的議論を、レディングスのポスト歴史的大学論とセルトーによる学生の日常的実践論(「戦術」の議論)とを切り結ぶことにより、経験研究における観察・記述と接合できることを提示した。

論文後半を構成する4章、5章では、研究室教育での問題経験を語る学生たちのライフストーリーを記述することで、アカデミック・ハラスメントの形成過程・背景を描き出した。まず、4章ではコア・ケースとなる事例(医療系、工学系、人文社会科学系の男女5名)の事例研究を行った。対象者たちはそれぞれ、既存の諸言説(ジェンダー問題、労働問題、教える―教えられる関係に特有の権威や権力性の問題などをめぐる既存のドミナント・ストーリーや対抗言説のモデル・ストーリー)を部分的に引用(模倣)する形で日常的な問題経験を語るが、その語りには必ず既存の諸言説とは異なる何らかのずれを含む〈個別化=主体化〉の実践が浮かび上がった。また、多くの対象者たちの問題経験は、専門領域や教育的関わりに特有の文脈を浮き上がらせながらも、それと同時に何らかの形で大学外部との連関においてしか説明できない奥行きをもつストーリーとして描かれた。
5章では、コア・ケースを中心に複数事例の横断分析を行った。学生たちは、研究室での不満・不快な出来事をそれ単独ではなく、さまざまな出来事を相互に関連づけることで長い時間をかけて総合的に判断し、「関係性としてのアカデミック・ハラスメント」を認識している。そのプロセスに共通する要素として、①教員との「距離」をめぐる不満、②教員から「利用されている」感覚、③教員に対する「研究者としての尊敬」の喪失という3つが析出された。また、領域特性(「アーツ的」領域と「サイエンス的」領域に特有の研究スタイル)や組織特性(制度上の小講座制と慣習としてのみ残る小講座制)などハラスメントが認識・構築される背景となる制度文化的諸文脈も浮かび上がった。その際、既存研究で焦点となってきたジェンダー差別は、「関係性としてのアカデミック・ハラスメント」を説明するための中核としては機能しなかったものの、大学内部の経験と外部の経験を往還する対象者学生たちの〈個別化=主体化〉の実践において重要な意味合いをもつことがわかった。

 以上のライフストーリーの考察と、論文前半部で行った理論検討とを往還することで導かれたのは、ポスト歴史的大学における「学生の抵抗」である。「養成計画なき専門職」と言われる高等教育・研究者養成の場で、学生たちはそれぞれ「敬慕する誰か」を手さぐりで「模倣」し、医療系、工学系、人文社会科学系などそれぞれの細分化された研究スタイルを通じて、研究教育活動をなんとか機能させる日常的な「戦術」を編みだしている。そこには、日常的な「戦術」でそれぞれの問題経験を生きぬき、身近な教員とのつながり方を模索する学生の姿がみえる。近代大学の「コヴィナンタルな共同体」回帰という既存の支配的言説とハラスメント防止のモデル・ストーリーが提示する「コントラクティブな契約関係」という対抗言説を往復しながら、そのいずれとも異なる個別の主張を生み出す対象者学生たちの〈個別化=主体化〉の実践は、レディングスやセルトーが論じるポスト歴史的大学における「学生の抵抗」である。その「抵抗」とは教員―学生の非対称性の解消を求める抵抗や、歴史的抑圧・排除からの主体解放を求めるような抵抗ではない。「学生の抵抗」は、多様な人々が統一的理念に頼らず「社会的なつながり方を考察する場」として研究・教育活動の場を機能させることで、今日のポスト歴史的大学のあり方を示すような抵抗である。
対象者たちが懸命に教員の模倣を行うとき、必ず何らかの形で失敗を経験している。それは、ある時には意識的な失敗として、別の場合には、意に反した失敗、あるいは無意識な失敗として描かれている。また、そうした「模倣(引用)の失敗」としての「学生の抵抗」を語る対象者たちのストーリーを記述する本論文も、彼ら彼女らの言葉を引用するプロセスにおいては必ず、何らかの意識的、無意識的な引用の失敗を重ねている。語られた内容だけでなく語りが生み出される過程も含めて記述・分析する対話的構築主義のライフストーリーによって導出された上記の知見を学術的に概念づける際に行きついたのは、「コミュニケーション」や「対話(ダイアローグ)」を行う「知の共同体」の物語ではなかった。そうではなく、大学の内部で模索される人々のつながりは、決して分かりあえないことを前提としながら、それでも同じ場所で身近な誰かとともに思考しつづける「不同意のダイアロジズム」の物語となった。様々な問題経験から浮かび上がる「研究教育の現場」は、「真実の共同体」(コヴィナンタルなゲマインシャフト)ではなく、かといって人格的つながりが完全に失われた擬制的な場(コントラクティブなゲゼルシャフト)でもない。「不同意のダイアロジズム」は、もはや「共同体」を構成しえない者同士がそれでも共に思考し続ける「義務と責任の開かれたネットワーク」であり、「あらゆる分離にもかかわらず結合しているゲゼルシャフト」という新しいつながり方ではないだろうか。

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