博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:基地と民衆の近現代史 ―法制度と民衆運動―
著者:松田 圭介 (MATSUDA, Keisuke)
博士号取得年月日:2012年7月31日

→審査要旨へ

現在ある在日米軍基地は、沖縄では主に戦闘状態中に奪取された土地であり、本土では基本的には旧日本軍用地をその基礎とし、補完的に民有地の接収を実施して確保されたものである。また自衛隊基地についても、買収による新規用地取得の場合を除けば、在日米軍の「肩代わり」として米軍用地を継承しており、その起源は旧日本軍用地であるといえる。つまり、今存在する基地の起源は帝国軍隊の基地であり、それに沖縄や新規設置基地が加えられたという経緯が確認される。
 こうした経緯を考えた場合、いかにして帝国軍隊が基地用地を確保していったのかという問題の考察も重要な意味を持つ。なぜなら、全国各所の旧日本軍用地の存在により、占領軍が本土を占領し軍隊を駐留させ、そして在日米軍が現在まで継続して用地を使用することが容易であったといえるからである。
 さらに、戦前に帝国軍隊の基地が存在したという経験は、戦後自衛隊基地の設置に関する人々の対応の複雑さを生みだした。それが、今なお自衛隊基地が広大に存在していることと関連していることは、否定できないだろう。米軍基地に加えて、「自国軍」の基地である自衛隊基地が存在していることをどのように考えればよいのかという問題の考察は、憲法9条との関連からだけでなく、この点からも、いっそう深めていく必要がある。
 そこで、本稿では、基地の設置は、国有地・公有地の利用に加え、私有地の収用をその起点とすることも踏まえ、第一に、土地収用全般に関わって、土地の所有と国家による収用の観念が国家によってどう考えられたのかを考察すると共に、国家による法制整備を長いスパンで検討し、さらに敗戦後それらがどのような点で変わるのかを分析する。第二に、第一の点と関連するが、いかにして国家の側が基地設置をなし、それに対して人々がいかような対応をみせたのかを歴史的に検討する。第三に、基地闘争が最も高揚したのが1950年代であったことから、その50年代の具体的事例(長野・軽井沢、長野・有明、東京・砂川)の分析を通して、国家と民衆、「ナショナルなもの」と人々との関係をより深く考察する。
 なお、戦前・戦後を通じて、軍隊による海面使用という点もあるが、戦後の基地闘争で主に問題となったのが土地であることから、土地をめぐる問題に限定して分析する。また、戦前期の分析に関しては、軍用地の多くの部分が陸軍用地であること等を踏まえ、考察対象を陸軍用地に限定する。

 上記の第一点と第二点に関わっては、以下のとおりである。
戦前においては、公共用途のための土地収用は明治初期から意図され、そして明治憲法においては「土地所有権は国権の下位にある」と規定された。さらに、国防・兵事に関する収用について、1889年土地収用法が明確に規定することとなる。しかし、第一次大戦前の時期における実際の土地確保策は、必ずしも土地収用法の適用による強制収用ではなかった。第一次大戦前までは、「官没」によるものを除けば、買収・寄付(献納)の多さが目立つ。第一次大戦後は一転して、収用件数の多さと寄付(献納)の減少がみられる。これには、大正デモクラシーを経験した人々の反軍感情・軍縮気運が影響していた。しかし、昭和期に入ると、徐々に強権的な土地確保策がみられるようになり、法制度もより容易に軍用地が確保できるようなものに整備されていった。
 戦後になると、本土では、占領期においては、民有地は建前としては日本政府と土地所有者との間で「自由意思」による契約を結び、その上で政府が土地使用権を占領軍に与えるという方策で確保されていく。これこそが、「私有地の尊重」、「私有地の没収の不可」を規定していたハーグ陸戦法規が適用されるとした上で採用された具体的な土地接収の方策であった。講和後においては、新土地収用法が制定され、旧土地収用法がその対象事業の第一に掲げていた軍事目的の土地収用を否定した。この点、明らかに、日本国憲法第9条の影響を認めることができる。しかし、その後の政府による法解釈によって、自衛隊の要する土地については新土地収用法が適用できるというような可能性が生じていった。また、新土地収用法では講和後の駐留軍の要求を充足することが不可能なので、土地特別措置法が制定されることになった。この土地特別措置法は、あくまで米軍による土地の「使用権」を認めるものであり、その使用は臨時的であるというものである。ともあれ、土地特別措置法はアメリカの要求する土地等を軍用に供するものであり、理念的には新土地収用法とは相容れないものであった。しかも、その新土地収用法についても、法解釈においては軍事目的の収用が可能とされていった。
 一方、沖縄では、軍用地の大部分が戦闘行為によって奪取されていた。講和後、アメリカ政府は新しい土地使用の法律上の根拠を必要とするに至り、1952年に民政府は府令第91号「契約権」を公布するが、賃貸料のあまりの低廉さに軍用地所有者の反対が強く、地主と民政府との契約に困難をきたした。それを受けて、1953年4月3日、民政府令第109号「土地収用令」が新たに公布され、強制的に住民の土地を使用・収用することが可能になった。例えば、伊江島真謝区・西崎区一帯では、1955年3月11日に立退要求通告が村長に対して出され、14日には米軍によって強制立ち退きが執行されるという、本土と比べても相当に乱暴なやり方での軍用地確保が行なわれた。その間、「軍用地料一括払い」という米軍の方針をめぐって沖縄全体で土地闘争が行われることになった。土地問題が軍用地所有者のみの問題としてではなく沖縄全人民の問題として捉えられ、「島ぐるみ闘争」が行われていった。
 本稿の課題の第三点に関わっては、以下のとおりである。
まず、長野・軽井沢における浅間山米軍演習地化反対運動においては、必ずしも当初から一致団結した運動が一貫して推進されたわけではなく、そこには反対理由の様々な相違もあった。しかし、それぞれの運動の担い手の目標が、「長野を守る」ために浅間演習地化に反対するということに集約されることで、運動は一致団結したものとして発展していった。「郷土愛」が「反対の論理」の柱だったのである。そして、その運動が成功に終わると、隣県の群馬における演習地計画反対運動をめぐって、運動の「縮小」というべき事態を迎える。これは、いわば、運動の目標が「浅間演習地化反対」の一点に集約されたがゆえに起こったものであった。さらにいえば、このことは、安保条約・行政協定の目的たる「全土基地化」を阻止するという大目標が脇に置かれたことに他ならなかった。
 長野・有明における自衛隊演習地化問題では、人々の対応は複雑なものとなった。戦前は、松本市・有明村とも、駐屯地・演習場の設置を積極的に受け入れる姿勢がみられた。戦後、松本市はその経験から予備隊を招致する。一方、戦後開拓が行われていた有明村ではその予備隊の演習場設置計画が持ち上がり、村内ではそれに対する反応が分岐した。村の賛成派は開拓者のうち旧軍人を筆頭としたグループであり、反対派はその他の開拓者・耕作者、有明村長、議会などであった。その有明村において賛成派幹部が用いた論理が、「買収に協力しないものは非国民」というものであった。単なる「国家の要請」ということからではなく、「自国軍」という「ナショナルなもの」であるからこそ賛成すべきだという論理が透けてみえる。一方、村内の反対派、特に開拓者は、一貫して生活権擁護を訴える。さらに1954年2月には、反対期成同盟会委員長(赤沼村長)談話にあるように、戦前の経験から反対するという姿勢がみえる。このように、戦前の経験が、村内の賛成派と反対派とでは真逆の形で現れた。とはいえ、その反対派については、県評との共闘体制の中でも「再軍備反対」という姿勢は明示的ではなかった。したがって、村内反対派の行動原理は、その意味での「ナショナルなもの」(警察予備隊・保安隊・自衛隊)自体に関して反対するというものではなく、あくまで生活権を擁護・主張すること、それに愛着のこもった自分たちの開拓地を守るという「郷土愛」であった。
 東京・砂川における反基地闘争においても、「反対の論理」の支柱であり続けたのは、自分たちの郷土を守るという「郷土愛」であった。55年6月18日の町民大会決議には郷土が分断されることへの危機感が表明され、7月24日の声明「全町民に訴える」では憲法の理念が加えられつつも、その声明のベースにあるのは「郷土愛」であった。そして8月20日の共闘会議の決議では「日本の平和と独立を守る尊い郷土愛」と強調され、56年10月3日の支援協主催の総決起集会での決議でも「郷土愛」の存在が第一に主張されたのである。
 このように、当時、社会には反米感情は確かにあり、「反米ナショナリズム」的機運も存在した。しかし、闘争において人々をつき動かした根本的なものは、自らと帰属する国家との関係を鋭く突き詰めるような「ナショナリズム」ではなく、「郷土愛」であった。そして、「郷土愛」に主に支えられていたがゆえに、ナショナリズムに簡単には回収されない反面で、「郷土」を越えた他の地域には目を閉ざすというような事態がもたらされていった。

このページの一番上へ