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博士論文要旨

論文題目:近世日本における天変の文化史
著者:杉 岳志 (SUGI, Takeshi)
博士号取得年月日:2011年3月23日

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本論文の課題

 本論文は、彗星を中心とする天変と近世日本の人々の関係を文化史の観点から考察するものである。
 網野善彦や稲葉伸道、海津一朗の研究により、中世前期には天変を契機として徳政が実施されたことが明らかとなっている。室町時代に入ると天変発生時に徳政が行われた形跡は見出せなくなるが、天皇・将軍は祈?によって天変攘災を図った。天変は政治を規定する重要な要因であり、中世の為政者は天変に無関心でいることはできなかった。
 近世の為政者と天変の関係がこれまで問われることはなかった。近世社会が中世に比して呪術的な側面の薄い社会であったこと、また、近世の天皇が中世の天皇のように政治的な力を有していないため、徳政や祈?主宰権の問題を考察する題材として注目されることがなかったことなどがその理由として挙げられるが、近世国家の性格を考える上で、徳川将軍及び天皇と天変の関係は看過できない問題である。
 一方、民衆の天変観は、彼らが自ら記録を残すようになった近世になって初めて検証することが可能となる。通説では、近世後期になっても民衆は「凶星祈禳の騒」を繰り広げたとされるが(広瀬秀雄『日本人の天文観』日本放送出版協会、1972年)、史料を紐解けば、このような図式では近世の民衆と天変の関係を描けないことが判明する。彼らは多様な情報の中から主体的に選択し、自らの彗星観を形成しているのである。近世を生きた民衆の営為を正当に評価するためにも、天変に対する近世の民衆の反応が具体的に検討される必要がある。
 以上の問題意識に基づき、本論文は近世の将軍・天皇及び民衆の天変に対する態度を検討する。

本論文の構成

序章
第1章 書物のなかの彗星
第2章 徳川将軍と天変
第3章 近世中後期の陰陽頭・朝廷と彗星
第4章 幕末の陰陽頭・朝廷と彗星
第5章 近世前期の民衆と彗星―『桂井素庵筆記』を題材に
第6章 書籍と稲星のフォークロア
終章

各章の概要

 第1章では、近世の人々の彗星に対する態度を考察する前提として、近世の人々が手に取り得た書物に見られる彗星観を検討した。日本で出版された啓蒙的な天文書の嚆矢となる『天文図解』は、彗星も日食と同様いずれ予測可能となるので変事と見なす必要はないと主張した。今日から振り返れば実際その通りであったわけだが、同書の説が後の天文書に受け継がれることはなかった。変わって主役の座を占めたのは、彗星を気の原理で説明する『天経或問』の説である。18世紀に出版された代表的な天文書はいずれも『天経或問』の説を採用しており、18世紀に天文書を手に取った場合、彗星を気の原理で説明する説に接する可能性が高かった。その後18世紀の末になると近代天文学の知識がもたらされ、彗星は周期的に出現する天体であるとして『天経或問』の説を否定する蘭学系の天文書が流通した。
 近世の人々が彗星に関する知識を天文書から得ていたとすれば、近世に最も流布した天文書とされる『天経或問』の説が圧倒的に受容されたことになろう。しかし実際には、近世の人々に彗星に関する知識を提供した書物は天文書だけではなかった。中国の正史や軍書、辞典・事典類、大雑書等、様々な書物もまた彗星に言及しており、天文書以外の書物から彗星に関する知識が獲得される可能性もあったのである。天文書を含めて改めて整理すると、近世の書物の提示する彗星の説は、彗星を予兆視しない説(『天文図解』・蘭学系天文書など)・凶兆視する説(中国正史・軍書など)・気の原理で説明する説(『天経或問』など)・為政者への天譴とする説(『本佐録』)の四説であった。
 第2章から第4章では、徳川将軍・天皇と天変の関係を検討した。彼らと天変の関係に注目したのは、中世の将軍と天皇の政治が天変に規定されていたためである。
 第2章では、徳川将軍が天変に対して示した反応を通時的に検証した。まず、家康と秀忠については、慶長19年(1614)の「客星」出現時に祈?を施した形跡が見られた。祈?実施の理由を明示した史料を見出すことはできないが、家康・秀忠両名に個別に実施されたこの時の祈?は、彼らの身に生じる異変を未然に防ぐことを目的として実施されたものと推測される。
 次に検討した寛文4年(1664)の彗星と同8年(1668)の「白気」の事例では、幕府の儒官林鵞峯が天変を天譴と解釈したことが判明した。それに対し、酒井忠清ら当時の幕閣が天変を天譴視した様子は確認できず、鵞峯は白気出現直後に大火が発生したのを受けて幕閣への批判を日記に認めている。将軍家綱が鵞峯や幕閣に働きかけた様子もうかがえず、少なくとも寛文8年の大火発生以前に家綱政権内で天変が天譴視されていたとは考えにくい。
 一方、家綱の後を継いだ綱吉はその治世前期から天変を気にかけ、元禄中期以降は祈?によってその祟りを回避しようとした。さらに、遅くとも元禄5年(1692)には、日食を忌避する行動が見られるようになった。天変に対する綱吉の強い関心から浮かび上がるのは、それまでの将軍とは質の異なる、彼独自の君主意識である。そうした意識を持った綱吉にとって、天変は天と自らのつながりを確認する機会でもあったといえよう。
 寛保2年(1742)の彗星出現時に下問を受けた西川如見の息子正休は、『天経或問』の説に依拠して彗星を気の原理で説明した上で、吉凶禍福と天変は無関係であると主張した。こうして天文暦数は吉凶と無関係であるという新たな天文観に将軍が接することとなり、以後、将軍が天変を天譴や吉凶の兆と解釈した事例は史料上見出せなくなった。
 第3章では、近世中後期の天皇・朝廷にとって彗星が有した意味を、陰陽頭の活動に焦点をあてて考察した。近世中期の公家社会では、彗星には洪水や疫病といった「応」が存在すると考えられていた。そのため陰陽頭の土御門泰邦は、内侍所での臨時の御神楽を始めとする祈?と天皇の「御慎」によって彗星の応を抑えるよう進言した。祈?や御慎の後に何も生じなければ祈?・御慎の効果があったことになり、変事が生じた場合でも祈?・御慎によって規模が減じられたと解釈されたため、祈?や御慎は常に効力を発揮したものと理解された。近世中期の天皇にとって、御神楽や御慎による攘災は自分にしかなしえない責務であり、この責務の遂行を通じ、天皇の君主意識は高められたものと考えられる。
 近世後期の陰陽頭土御門晴親は『天経或問』の説を採用し、彗星は気の乱れによって生じる自然現象なのでその応を恐れる必要はないと主張した。しかし文化8年(1811)の大彗星出現時、朝廷は晴親に三万六千神祭の執行を命じ、近世中期と同様に祈?による攘災を図った。朝廷は天文の専門家である晴親が提示した新たな知を退け、旧来の説を採用したのである。その後も晴親は『天経或問』の説を主張し続けたが、彗星の応を懸念する朝廷との溝が埋まることはなかった。
 第4章は第3章を承け、天保14年(1843)から文久2年(1862)までの19年間に出現した彗星に対する朝廷・公家と陰陽頭の態度を検証した。天保13年に陰陽頭に就任した土御門晴雄は父晴親の彗星観を踏襲し、天保14年に彗星が出現した際にはその応を恐れる必要はないと主張した。しかし星の部分を識別するのは困難だったため、多くの公家はこれを彗星ではなく「白気」「白虹」に分類した。朝廷はこれを彗星とする晴雄の見解を採用するものの、その規模が大きいことを理由に寺社や晴雄に祈?を命じた。陰陽頭が代替わりした後も、彗星に対する陰陽頭と朝廷の態度は平行線をたどったままであった。
 安政5年(1858)8月、京都ではコレラが大流行し、命を落とす公家が相次いだ。この時偶然にも彗星が出現していたことにより、彗星はコレラ、さらには異国の脅威と結び付けて理解されるようになる。その結果、翌6年にコレラが流行した際には、実際には彗星が出現していないにもかかわらず、「彗星出現」「異病流行」「蛮夷之情実」を理由に七社七寺へ祈?が命じられた。
 こうした状況の中、晴雄の提示する彗星観は次第に揺らぎ、文久元年(1861)の勘文では彗星を気とする立場は堅持しつつも祈?の必要性を強調している。そして翌文久2年、晴雄は門弟と思しき人物の影響もあって『天経或問』の説を放棄し、自らが「旧説」と呼んだ彗星凶兆説を主張するに至ったのだった。
 第5章・第6章では、民衆と天変の関係を取り上げた。
 第5章では、近世前期の民衆の彗星観を検討できる史料として最良の『桂井素庵筆記』を素材として、近世前期の民衆にとって彗星がいかなる存在であったのかを検討した。寛文4年(1664)の冬に彗星が出現すると、その情報は瞬く間に高知の人々の間に広まった。彼らが彗星に無関心でいられなかったのは、彗星出現に伴って何らかの変事が生じるのではないかと予感されたためである。
 当初は曖昧模糊としていた噂は、次第に具体性を帯び、肥大化していった。世間に生じている出来事の解釈が彗星によって誘導される一方、その出来事が噂を裏付けることによって、噂は真実味を増していった。中でも戦争に関する噂が優勢となり、江戸や九州で戦が勃発したとまことしやかに囁かれるようになった。
 ところが、実際に生じたのは戦争ではなく、前藩主山内忠義の死であった。これによって高知の人々の間には、彗星と国主の死という新たな記憶が形成されたものと考えられる。
 第6章では、近世中期に発生した「稲星」のフォークロアを切り口に、書籍の説とフォークロアの関係について論じた。稲星のフォークロアが広く流布したのは寛保3年(1743)のことであるが、その前年には、彗星と「上元星」なる吉星とが出現したとの噂が流れていた。本論文では、上元星の噂と形状が稲穂に似た彗星とが結びつき、翌年に再度彗星が出現した際に広く稲星と称されたものと推測した。
 近世中期の時点では稲星のフォークロアを受容するのは民衆レベルに留まり、多くの記録はこれを俗説として退けた。しかし近世後期には中級武士にまで受け容れられるようになり、稲星の噂と彗星を凶兆と説く書物を比較して稲星を選択する者も現れた。書物を通じた民俗的な世界からの脱却という図式では捉えきれない、知をめぐる多様な動向が近世には存在したことをこの事例は示している。
 幕末になると、書籍を参照しない人々の間でも凶兆説が採用されていった。この転換をもたらした最大の原因は、安政5年(1858)に大流行したコレラである。元来凶兆との立場に立っていた人々ならびに安政5年に凶兆説へと転じた人々は、この後彗星が出現すると国家の危機を敏感に感じ取り、危機意識をさらに強めることとなった。
 それでもなお、稲星のフォークロアは消滅することはなく、人々の心を捉え続けた。ここから、国家の危機よりも作物の豊凶に関心を寄せる民衆の心性を読み取ることができよう。

結論

 近世日本の将軍と天皇は、祈?と善政・謹慎という手段で天変攘災を図った。ただし、天皇が近世を通じて同じ手段を行使したのに対し、将軍は綱吉を最後に両手段とも行使された形跡は見られなくなった。その一方、日食を忌避した綱吉の時代に始まった日食による拝賀の時刻変更は、幕末まで引き継がれた。
 将軍と天皇の対応に違いをもたらしたのは、新たな知への態度であった。幕府は改暦を行うため、その時々の天文の第一人者を天文方へ登用した。その結果、西川正休が『天経或問』の説、高橋至時が近代天文学の説を採用し、近世後期には彗星はもはや天変視されることはなくなった。
 一方、朝廷では文化年間以降、陰陽頭の土御門晴親・晴雄親子が『天経或問』に依拠して新たな彗星観を提示するが、朝廷はこれを却下して祈?を命じた。この結果、天皇と天変の関係は幕末まで維持された。彼らの君主意識は天変が生じるたびに刺激され、更新されたものと考えられる。
 民衆の事例では、寛文4年(1664)の冬に彗星を目撃した高知の町人たちが戦を予感したこと、近世中期に「稲星」のフォークロアが発生し、近世後期には書籍の説と稲星のフォークロアを比較して稲星を選択する者も現れたことを明らかにした。前者は「元和偃武」から50年ほどが経過した寛文4年の段階でもなお、高知の人々にとって戦争はいまだ現実的な脅威であったこと、後者は、近世中期から後期にかけては人々の間に太平意識が根付き、戦争はもはや現実的な脅威として人々の意識に上ることはなかったことを示している。

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