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博士論文要旨

論文題目:近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係の視点から―
著者:小野沢あかね (ONOZAWA, Akane)
博士号取得年月日:2011年3月9日

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 近代日本社会においては、法的には人身売買が禁止されていたにもかかわらず、事実上は、芸娼妓などの人身売買が行われ続けた。主として芸娼妓の親権者が貸座敷などから受け取る前借金を、芸娼妓稼業を通じて返済するまで彼女たちの人身の自由は事実上奪われており、しかも前借金の返済自体が困難をきわめた。娼妓は通例周旋人の手を経て抱え主に抱えられたが、その際貸座敷と娼妓の間で娼妓の親権者を連帯保証人として金銭消費貸借証書がかわされた。その証書では娼妓稼業については言及されていないが、同時にかわされる形式上別個の娼妓稼業契約で、娼妓稼業によって借金を返済していくことが契約されていたのである。近代日本の公娼制度は、このような芸娼妓稼業・貸座敷・芸娼妓酌婦周旋業に対して、鑑札を与えて国家公認した。同時に、娼妓に性病検査を義務付け、性病予防を意図した。そして国家公認されていたということが、事実上の人身売買を裁判所が否定できなかった大きな要因であった。
 以上をふまえ、本書は公娼制度に対する批判が近代日本社会においてどのように形成されたのかを分析することを課題としている。日本キリスト教婦人矯風会、救世軍、廓清会などのキリスト教団体が、一貫して公娼制度廃止運動を担ったことはよく知られているが、本書ではむしろ、それらの団体の地方支部の担い手、そしてキリスト教とは直接関係がない禁酒会・青年団・婦人会・処女会・諸修養団体の論理の分析に比重を置き、近代日本社会における民衆的公娼制度批判のありようを考察することを第一の課題とする。日本の民衆にとって、遊郭での遊興はごくありふれた慣習であると同時に、「家」の没落を招きかねない危険な行為としてみなされてもいた。近代日本社会の人々の大半が依拠した小農・商家の「家」の維持と発展のためには、「家」の構成員の放蕩は危険な行為であった。それゆえ、人々に内面化されていた通俗道徳においては、飲酒・「女郎買い」、賭博などが家計や家族員の和合を著しく阻害し、「家」の没落を招きかねない行為として戒められていた。また、多くの場合、家長や夫の放蕩の結果、最も苦難を強いられるのはその「家」の女性であり、勤倹貯蓄などの通俗道徳は女性により強く内面化される傾向にあった。以上をふまえ、本書は、①通俗道徳的民衆倫理が大きく変容をみせつつあった1920年代、②昭和恐慌~1930年代前半期、③日中戦争以降の時期、という3つの時期における遊興の実態をふまえ、その遊興を国家公認した公娼制度への批判意識がどのように形成されたかを人々の修養意識との関係で位置づけた。
 他方で、本書は同時期の社会運動・社会政策が国際的なデモクラシーの潮流の大きな後押しのなかで進展したことに着目し、国際連盟における婦女売買禁止問題との関係などを中心として、公娼制度廃止問題を国際関係史的に考察した。これが本書の二つ目の課題である。その際忘れてはならない点は、公娼制度や身売りは、日本人移民の渡航先の居留民社会、ひいては東アジアにおける日本の植民地・勢力圏内に拡大した問題だったことである。近年、「日本帝国」の空間的広がりや、植民地・勢力圏における現象の日本本国へのインパクトなどが着目されている。本書も公娼制度廃止問題を東アジアそして国際連盟に空間的に拡大することによって、植民地・勢力圏における問題が日本本国の公娼制度廃止問題の決定打となった経緯を明らかにし、国際関係史的に見た場合の日本の公娼制度政策の特徴を浮き彫りにした。
 本書は三部構成となっている。第一部では、①第一次世界大戦後と②昭和恐慌~1930年代前半期における公娼制度批判の地域社会への広がりについて、主として長野県を事例に、日本キリスト教婦人矯風会地方支部、地方教会の動向、禁酒会・青年会・婦人会などの史料からその歴史的特徴を明らかにした。
 第一次世界大戦後の戦後ブームによる空前の好況は、貸座敷などの遊興にかつてない繁栄をもたらし、従来その身分とは不釣合いとされた娯楽や奢侈、遊興に興じる者が農村においても現れた。その結果、1920年の戦後恐慌の影響で繭価などが急落すると、好況期に身についた享楽・消費のために生活破綻に陥る人々が問題となった。一方、1920年代半ばになると、地方都市でも「文化生活」が出現するようになった。こうしたなか、戦間期における地方廃娼運動の拡大は、概ね次の3層の人々によって支えられていた。①地方都市のキリスト教会、②キリスト教婦人矯風会地方支部、③禁酒会・婦人会・青年会などの修養団体であり、これらの3層はこの時期接点を持ちつつも別々の性格を持っていた。①は第一次世界大戦後の享楽・消費の繁栄に対する道徳的批判との関係で公娼廃止を主張し、②は地方都市の新中間層・知識人の妻を中心とした女性たちであり、キリスト教や女子高等教育の影響で、子供の健全な育成と合理的家事運営を使命とする母親意識に基づき人身売買の公認制度を批判した。彼女たちの公娼廃止の主張が署名を獲得していった背景には、戦後ブーム、戦後恐慌の中での享楽・消費の身分をこえた進展とその後の生活破綻、破綻から「家」や農村を立て直すための勤倹貯蓄的修養活動の広範な展開や、それと関係をもちつつ展開されていた諸自由主義運動が存在していた。②の女性たちは、人々の勤倹貯蓄精神の実感に訴えかける形で支持を広げ、署名を獲得していったのである。
 ③の青年会の中には、向都熱や文化生活への希求を背景としつつ、農村青年のアイデンティティを確立することの必要性から、農村生活の経済的・文化的優位性を主張し、そうした立場から遊廓・公娼制度は「農村文化生活」にとってふさわしくない存在と認識する人々があらわれた。農村女性は都会に背をむけて家族の精神的支柱となるべきであり、生命にもかえ難い貞操を売買するなどという野蛮な制度は公許されてはならないというものであった。「無産階級の解放」によってのみ娼妓は解放されるといった意見も散見した。一方、③の禁酒会・婦人会の人々の公娼制度への批判意識は、「家」のために忍耐を重ねて勤倹貯蓄につとめ、現金収入の担い手となってきたなかで培われた自負心を底流に持っていたという点で、都会的教養の一環として公娼制度を批判する傾向のあった青年団とは若干異なっていた。勤倹貯蓄に矛盾し「家」の没落を招き、ひいては梅毒の蔓延などの点で国家的被害ももたらし、同時に、女性に大きな悲しみをもたらす女遊びや飲酒を、それがたとえ家長や夫の行為であるとしても批判する意識であり、公娼制度は女遊びを助長するものとして批判されたのである。ただしこの時期の勤倹貯蓄・親孝行の中には、都市での文化生活の登場や教育熱・向都熱と関係しつつ、同時に官製運動とも接点を持ちながら、家計簿を通じた計算、科学的合理的な家事・育児観をともなう母親役割の重要性への認識がはらまれていた。そうした観念が自負心を支え、身分的秩序への批判意識を支えていたところに1920年代の特徴がみられる。以上からわかるように、こうした意識は未だ明白な人身売買批判ではなかった。ただし人身売買批判の前提となりうる、「家」内部の身分的秩序への批判の芽生えではあったのである。
 昭和恐慌期から1930年代前半にかけて相次ぐ各地での公娼制度廃止決議は、①普選状況への既成政党の対応、②公娼制度の規制を超えたカフェー・女給による売春の増加と一方での貸座敷の衰退を背景としていた。公娼の枠を外れ、黙認された私娼を使用した営業への転業を希望する業者の増加、私娼を対象とした性病検査の必要性などが指摘されるなかで、公娼制度廃止は決議された。ここで注目されることは、公娼制度の廃止後に、前借金契約の禁止が志向されるのではなく、むしろ私娼を使用した営業の黙認を強く要望する業者の意向が強く反映されたことである。また、公娼制度の枠を超えた女給らに対する性病検査の義務付けにみられるように、娼婦への性病検査に固執する傾向も注目される。
 1930年代の日本キリスト教婦人矯風会支部は、公娼廃止とともにエログロナンセンスへの対抗を目的として、性教育の普及やカフェーの営業制限を重視する一方、昭和恐慌と農村の凶作を背景とした身売り問題の深刻化に対して婦人ホームの設立などを目指した。他方では農家経営破綻の危機に対する、農村経済更生運動をはじめとする官製運動が展開し、その中では農家経営の維持のための女性の役割が重視された。こうした状況下で、官製運動とも接点をもちつつ、禁酒会、青年会、女子青年団、婦人会などからの公娼廃止請願署名が、1920年代より多数寄せられたが、これらの諸団体の公娼制度批判の底流は次のようなものであった。青年団の人々は、エログロナンセンスや都会の華やかさを、「資本主義の矛盾」として批判しながらも、それに惹かれてしまう自己矛盾といった苦悶を抱えていた。青年団の主な担い手は、都会の魅力を断ち切って農村自力更生へ向かうためにも、ともに勤倹貯蓄・質素剛健に働いてくれる「新しい」農村女性の出現と「新しい」結婚のありかたを強く希求したと言えよう。その延長線上に農村更生や質実剛健な結婚と矛盾する公娼制度に対しての批判があったと考えられる。そこでは、「恋愛」に対する憧憬も見られたが、「恋愛」と「エログロ」を同様に捉えて排斥しようとする傾向もみられ、何よりも、恐慌下では「恋愛」などをしている余裕はないといった意識に貫かれていた。ある青年団員の言葉を借りれば、「恋愛結婚」ではなく、「合理的見合い結婚」こそが農村に必要とされているのであった。一方、女子青年団においても、必ずしも官製運動に従うだけでない、自主的生活改善運動への取り組みがみられ、冠婚葬祭における冗費の節減などが積極的に目指されていた。
 昭和恐慌下から1930年代前半には、長野県内では禁酒会活動が飛躍的に進展し、公娼廃止請願署名はその禁酒会のものが最も多かった。この時期の禁酒会活動の明確な特徴のひとつは、女性を飲酒の最大の犠牲者であると同時に、禁酒を実現するための最重要なキーパーソンとしてもとらえ、とくに女子青年の運動への参加を強く促したという点である。その結果、女子青年団主体の禁酒会が多数生れ、禁酒結婚や、飲酒者との結婚を拒否する拒婚同盟などの実践が行なわれた。同時に、1934年にひときわ注目を浴びた東北農村における身売りの問題は、飲酒などの放蕩に起因する部分が多いといった論理が主張され、身売り防止と禁酒の重要性が同時に唱えられた。禁酒結婚、拒婚同盟は、勤倹貯蓄の民衆倫理の延長線上に位置付くと同時に、男としての既得権であった飲酒・「女郎買い」などの放蕩を拒否するという点で、「家」の身分的秩序の改変を求める実践的な行動であった。「家」を破綻から守ると同時に、「家」を支える重要な担い手としての女性の苦難を軽減させ、彼女たちを身売りから救うための実践的行為であった。1930年代の公娼制度批判は、このような「家」の身分的秩序改変を求める実践的行為と結びついていたのであり、その点において1920年代より進展がみられたとのである。
 以上で本書が明らかにした公娼制度批判の底流、つまり「家」維持のための勤倹貯蓄的実践にもとづく自負心を底流として芽生えた身分的秩序への批判意識は、近代日本において繰り返し展開された、民力涵養運動、公私経済緊縮運動、農村経済更生運動などの官製運動と常に密接な関係を持って展開されながらも、異なっていたことにあらためて注意を喚起したい。官製運動にうたわれている勤倹貯蓄を正面から受け止め、それをまじめに実践するなら、たとえ家長の行為であれ放蕩が勤倹貯蓄に背反することは明らかであり、しかもそうした飲酒・遊郭での放蕩を国家公認している公娼制度は大きな矛盾であった。公娼制度批判はそうした矛盾をついて展開されたのである。しかし、近年の国民国家論はもちろんのこと、従来の女性史研究でもこうした逆説的動き、つまり「家」の秩序や官製運動に一見よりそいながらも、異なった要求をつきつけている運動にみられる主体形成のありように対してはあまり関心が払われてこなかったように思われる。しかし、高度経済成長以前の女性の大半はむしろ「家」に包摂されていたことを考えるならば、「家」を支える日常的努力の積み重ねの延長線上に、「家」の秩序への批判が生れてくるという主体形成のありようにもっと注意を向ける必要があるのではないだろうか。その人々の身売りや性の商品化に対する批判意識が、キリスト教徒的な「近代家族」意識などからも影響をうけながら、戦後改革、高度経済成長期にどのように発展・変貌をとげていくのかを見ることが、近現代日本における身売りや性の商品化に反対する意識の発達史を社会の深みから考察する上で重要なのではないかと思われる。
 第二部では、「国際的婦女売買」禁止の国際的潮流と日本および日本の植民地・勢力圏における公娼制度との関係を国際関係史的に分析した。まず第1章では、20世紀初頭のヨーロッパ各国における「国際的婦女売買」禁止へのとりくみと、日本、とくに日本の植民地と勢力圏下における公娼制度との関係を論じた。2章では、国際連盟設立後の1921年に制定された「婦人及び児童の売買禁止条約」に対する日本の対応を考察し、日本政府がどのような方法で国際条約と日本国内の公娼制度の実態との間の落差を隠蔽したかを論した。3章では、1931年に来訪した国際連盟東洋婦女売買調査団と日本政府とのやりとりを通じて、日本の公娼制度政策の特徴を浮かび上がらせた。そして4章では、国際連盟の提言を受けて日本内務省が一旦樹立した公娼制度廃止後の売買春取り締まり政策がどのようなものであったかを論じた。
 この時期の婦女売買禁止の国際的潮流について、当初、内務省と外務省では見解が分かれていたが、日本は「帝国」の体裁という側面から、国際連盟という場を通じて、国際的趨勢に歩調をあわせようとした。しかしその際、日本が行ったのは、公娼制度が廃止された欧米植民地から日本人売春婦を一斉に帰国させることで体面の向上をはかり、他方で公娼制度を保持していたフランスの手法に学びつつ、廃娼国の売春政策の不備をつくなどの方法で、日本の公娼制度と国際条約との間の矛盾を隠蔽し、公娼制度を廃止せずに国際条約を批准するという道の選択であった。しかし、国際連盟東洋婦女売買調査団による調査後の提言により、日本は「帝国」の体裁保持のためにも公娼廃止の道を選択せざるをえなくなったのである。
 そして第二に重要なことは、東アジアにおける日本の勢力圏都市での「国際的婦女売買」問題の特異性が、日本の内務省が公娼制度廃止方針を一旦樹立することになる決定打となったということである。1931年に来訪した国際連盟東洋婦女売買調査団によって、日本の勢力圏都市における国際的婦女売買の固有の事情が明確に浮かび上がった。1910~20年代にかけて、フランス領を除く東南アジアの欧米植民地で公娼制度が廃止されたことにともない、日本政府は日本人売春婦を本国に帰国させた。しかし、こうした動向とは逆に、日露戦争後の東アジアにおける日本の植民地、勢力圏下の諸都市では、内地や他の諸都市から売られてきた日本人女性たちが急増し、むしろ公娼制度ないしは公娼制度に準ずる制度が整備された。しかも一見同じように公娼制度を保持しているフランスなどとも異なり、日本では、多額の前借金に基づく女性の人身売買と、芸娼妓酌婦周旋業が国家公認されていたのであり、人身売買の慣行が本国だけでなく、国境を越えて合法的に、とりわけその植民地と勢力圏下の諸都市で広く行なわれていたということである。これは、国際連盟の婦女売買問題委員会の基準で言えば、「国際的婦女売買」が国家公認されているのに等しいということが、東洋婦女売買調査団と日本政府(朝鮮総督府・関東庁・内務省など)とのやりとりのなかで明らかにされていったのである。
 そのやりとりのなかで、調査団はとくに、①前借金契約と②芸娼妓酌婦周旋業について問題にした。前借金契約は当事者の女性自身の「自由意志」に基づくものだとする日本政府に対し、調査団は親による強制なのであり、違法化すべきだと主張した。また、道徳的人物のみに芸娼妓酌婦周旋業を許可しているとした日本政府に対して、調査団はこの種の職業自体が不道徳ではないのかと反論したのである。
 このようにみてくると、この時期の日本の公娼制度政策の歴史的特徴は、「家」を背景とした人身売買業の幅広い存在とその国家公認といった制度を持ちながら、アジアの中で唯一植民地保有国となり、かつ満鉄周辺の中国諸都市を勢力圏下においたという日本の国際的位置と、それゆえの日本人居留民社会の特徴を如実に反映したものだということがわかる。つまり、日本は植民地や勢力圏都市において、婦女売買という点ではとうてい宗主国の体面を保てないジレンマにあり、そのことをなんとか表面的にではあれ「改善」しようとする営みが、内地の公娼制度対策にインパクトを与え、まがりなりにも公娼制度廃止方針の樹立へと内務省が舵を切った大きな原因となったということである。
 日本政府は東洋婦女売買調査団の出した調査報告書に対して、前借金契約禁止など遊郭業者の利益の根底にかかわる問題を回避できるよう、必死に反論を展開した。その上で選択された公娼廃止方針は、本文で見たように、人身売買の禁止、すなわち前借金契約や芸娼妓酌婦周旋の違法化をせず、あくまでも「看板の架け替え」にとどまるものであった。しかも、娼妓に止まらず、他の接客業の従業女性に対しても場所を限定した集娼政策をとり、性病検査を課すという、接客業女性のみに風紀・衛生上の責任を負わせて管理するというものであった。多くの国が周旋業を禁止し、集娼制度と娼婦への強制的性病検査を放棄しつつあったなかで、日本のこのような対応はかなり特徴的であった。
 以上に見てきたように、公娼制度廃止方針の内容に関しては、戦間期の達成度はきわめて低いものであったと言わざるを得ない。このことはたとえば、同時期の労農問題に関して、労資の権利義務関係を規定した内務省社会局の労働組合法案が作成され、戦間期には制定されなかったものの戦後改革期に即座に実現することなどと比較すると歴然としている。しかし、1935年時点で内務省がまがりなりにも国家公認をやめようとしたことは重要であった。序章でみたように、国家公認が前借金の合法性を担保していたとするなら、国家公認の廃止は前借金契約の違法化へと道を開くかもしれなかったからである。それゆえ、1935年には、貸座敷業者の公娼廃止反対運動が帝国議会に対して猛烈になされたのである。
 ヨーロッパにおける婦女売買禁止のための国際的運動のなかには、「良家の子女」の処女性の保護を目的とした潮流も存在していたことが指摘されている。無垢な処女が騙されて売買されるといった、実態とはかならずしも合致しないイメージが強調されたこと、同時に、婦女売買の担い手としてユダヤ人が強調され、反ユダヤ主義の風潮とも関連したことが指摘されている。東南アジアの欧米植民地における公娼廃止もこうしたイメージの影響下で行われたのであり、しかもその主目的は宗主国の体面の向上や、娼婦を遠ざけることによって軍人の性病を予防することであったと指摘されている。つまり、今日的視点から見た場合の、娼婦の人権の保護を目的としていたわけではなかった。しかし、いずれにせよ、宗主国の体面の向上や軍隊の性病予防などのいかなる理由においてすら、芸娼妓周旋業・前借金の禁止、ひいては公娼制度の廃止や植民地からの日本人女性の本国帰国などを行なわず、集娼制度と娼婦への強制的性病検査に強く固執し続けた日本の対応が、上記の廃娼国の対応と大きく異なっていたことは明らかである。このように、近代日本の公娼制度政策は、家族的関係に基づく人身売買という点、性病予防という点においても必ずしも欧米のそれと同一視できないのであり、そのことは、なぜほかならぬ日本軍が日中戦争以降、その占領地一帯に、稀に見る大きな規模で「慰安所」を設置することになるのか、その歴史的前提とは何か、という問いへも回答の一端を示唆するものではないかと思われる。
 第三部では、まず第1章で日中戦争以降、公娼制度下の遊郭をはじめ、「花柳界」が企業整備のどのような影響をうけたかをふまえたうえで、最後まで公娼制度は廃止されず、軍需関連成金が独占することとなった「慰安所」が残ったことを指摘した。ついで最終章の2章では、企業整備にもかかわらず残存したこの種の営業に関して、純潔運動がどのような批判を展開したのかを人口政策等への言及も含めて考察し、国策と純潔運動との接点とズレに着目した。
 戦時体制下の日本社会においても、公娼制度、そしていわゆる「性的慰安」は、なくしてしまうわけにはいかない存在として内務省から見なされて続けた。日中戦争期の買春関連諸営業は、多くの職工の「不良化」問題などの一因とされながらも、「産業戦士」に人気の娯楽として空前の繁栄を誇っていたからである。企業整備の過程では、他業種同様縮小させられたものの、決して消滅させされることはなく、常に一定数の確保が目指されていた。しかも、物資不足の顕著となった敗戦間近には、性的慰安の簡素化・平準化を目指して、公娼制度を含む買春関連諸営業は、多くが廃業・転業に追い込まれながらも、「慰安施設」として再編・持続させられたのである。しかし、現実には平準化は成功せず、軍需関連高額所得者たちによる、闇物資と慰安婦の独占に陥ったのであり、そのことの背景としては、統制経済の破綻と、それに伴う社会秩序の崩壊現象、そしてそうしたほころびをとりつくろうとして精神主義的錬成に走ったという、日本の戦時体制固有の問題が存在していた。このことは、近年研究が進展している戦地での日本軍の「慰安婦」政策との共通点を想起させる。「慰安婦」研究では、圧倒的な軍備の劣位、物量の不足を精神主義や人命軽視で補おうとした日本軍の傾向が、兵士を精神的に追い込み、そのことが戦時性暴力の多発や慰安婦への強い需用を招いたのではないかという指摘である。他方、「花柳界」の女性の側から見るならば、そこには「産業戦士」化に伴う稼業からの「解放」という方向と、性的慰安施設での「慰安婦」へといった、2方向の変化がもたらされたのである。しかし、総動員下でも前借金は禁止されずに残存して、彼女たちを拘束し続けた。
 一方、戦時においても純潔運動(廃娼運動)は、国策と一体化したわけではなかった。国策の禁欲的建前を正面から受け止めつつ、しかし実際には、禁欲とは裏腹に、産業戦士が「不良化」し、花柳界やカフェー、私娼街が空前の繁栄を示しており、それを軍や工場関係者が享受していることに対して、強い批判を展開し続けた。従来からの主張である、男女平等の貞操道徳の重視といった立場からの純潔教育を主張し続けたのである。そして、各地の女子青年団、女学校、製糸工場などでの講演活動を継続した。しかも、太平洋戦争下においては、配給政策や、企業整備そのものへの批判へと発展した。すなわち、一般庶民には物資が不足しているのに、軍需関連の一部の人々には実は物資が潤沢にあること、ほとんどの業種が企業整備で縮小させられていく中で、買春関連諸営業が存続していることを強く批判し続けたのであった。戦時において、国策の建前と純潔運動の矛盾がきわまったとも言える状況の下での批判であった。そして、群馬県純潔運動のこうした批判は、工場労働者や女子青年団などを相手に、戦時下でも頻繁に展開されたのであった。
 また、純潔運動は、人口政策や優生学との関係という点でも、必ずしも国策と一致していたわけではなかった。花柳病予防などの観点から、国民優生法に支持を表明しながらも、その主眼は、「優生手術」による「種の淘汰」にあるのではなく、人格の尊重に基づく結婚を基礎とする家族の確立にあった。そのことは、人口政策・早婚奨励批判に明確に現れた。人口増加よりも「人の質」が重要であるとの主張は、相互の人格と貞操の尊重に基づく結婚においてはじめて「人の質」が向上するという意味であった。そのような意味での優生学との接点だったのである。
 最後に、不十分ながら戦後への展望を示した。近年、占領経験をジェンダーの視点で読み解く研究が活況を呈しつつあるが、そこでは占領期の女性運動や売春防止法に対する否定的評価が相次いでいる。しかし1956年制定の売春防止法によってようやく前借金契約、売春の周旋・場所の提供・第三者による搾取などの違法が明記されたことに今一度注意を払うとともに、何が売春防止法の質を規定したのか、同法の制定過程における議論をもう一度整理する必要がある。その際戦後についても、本書が行なったような国際関係史的手法を用い、婦女売買禁止に関する戦後の国際的枠組みをふまえ、日本の特徴を論ずる必要があることを指摘した。同時に、戦後に関しても売買春の民衆生活への影響をふまえ、身売りや性産業に対する民衆的な批判意識がどのように存在していたのかに注意を払う必要がある。その際、敗戦直後の復員や引揚げによる社会の一層の不安定化とモラルの崩壊現象に着目しつつ、近年活況を呈しつつある戦後民衆史研究の成果をふまえて立論することが重要に思われる。そしてそのようにみていくと、一見GHQの売春政策や官製の純潔運動に同調しているようにみえる女性たちの動向も、実は独自の方向性を志向していたことが明らかになっていくのではないかと示唆した。
 

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