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博士論文要旨

論文題目:近代日本における「家」制度の成立とその変容
著者:田邊(蓑輪) 明子 (TANABE (MINOWA), Akiko)
博士号取得年月日:2010年11月30日

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本論文の課題と視角
 本論文の課題は、近代日本に成立した「家」制度の特徴を析出すること、日本の1910年代後半から20年代初頭における「家」制度の変容を検証することにある。
 周知のように、戦後の社会科学では、明治維新以来、近代の日本国家が国家・社会統合の重要な単位として「家」を位置づけたことについて、さまざまな検討がなされてきた。まず最初に登場したのが、近代日本の「家」制度の権威的な家族関係を規定しており、その原理が、天皇と国民との関係に援用されたとする研究であった。これらの研究は「家」制度を日本に特殊な、前近代的なものとして捉えるものであった。次に、こうした研究に対する批判として、近代日本の「家」を近代的なものとして捉え直す研究が登場する。彼らは明治以降に形成された「家」制度は必ずしも前近代的なものとはいえず、むしろ近代的な性格を持っていると指摘した。しかし、これらの研究も国家が「家」を利用するのは日本近代に特殊な傾向であったと理解しており、今の地点から振り返ってみるならば、近代的観点から「家」制度を理解し直す作業としては不十分な側面があった。
 以上のような研究状況に対して、90年代以降は、「家」制度を徹底して近代的原理から理解しようとした議論が登場する。フェミニズム理論の影響を受けた「近代家族」論である。これらの研究では、近代において家族が国家の基礎単位として位置づけられ、「近代家族」が登場すると考え、近代日本の「家」もまた「近代家族」にほかならないと指摘した。日本近代において国家が「家」をその基礎単位として利用したのは、日本に特殊な現象だったのではなく、むしろ近代国家一般に見られる現象であったと主張したのである。
 以上のように、近年では、近代国家一般がその基礎単位として家族を位置づけることが強調され、かつては日本の前近代性を象徴するものとされた「家」制度についても、近代社会に共通する側面から理解しようとする研究動向にある。本研究では、こうした研究状況をふまえつつ、次の課題を設定した。
本論文の第一の課題――「家」の特徴の再検討
 本論文の第一の課題は、明治民法において制度化された「家」を、近代国家の基礎単位として「家」を安定強化しようとする構造と、近代家族法の個人主義的構成を貫徹するという要請の矛盾をはらんだものという視点から、改めて把握し直すことである。
 「家」の近代性を重視する近年の研究では、明治民法における「家」の近代性が明らかにされてきた。これらの先行諸研究において、家族の近代性が指摘される時、家族の機能として想定されているのは、経営体としての「家」の機能ないしは扶養単位としての機能である。そこでは、近代国家は扶養単位としての家族あるいは経営体としての「家」の維持・安定を課題とすることが前提されている。さらに、近代の家族が想定していた、戸主や夫が権限を有するという家父長的な家族モデルは、経営体としての「家」の機能や扶養単位としての家族の安定にとって必要なものとして理解される。
 他方、近代法の基本的な編纂原理は、個人主義である。それゆえ、近代家族法における家族も個人間の権利義務関係として規定されてきた。「近代家族」や「家」の安定に資するものとして規定された夫や戸主の家父長権もまた、彼らの個人的な権利として規定されており、明治民法における家父長権も同様の構成を持ったことが指摘されている。すなわち近代国家は家族をめぐって二つの課題--国家の基礎単位として家族を位置づけつつ、同時に個人主義的構成を持つ近代家族法の構築すること--をめざしたのである。
 従来、これら二つの課題は、互いに矛盾せず、調和するものと捉えられてきた。しかし実際には、これら二つの課題には矛盾が存在しており、両者の矛盾をいかに処理するかが民法制定過程で問題となった。特に、この矛盾が端的に表れたのが、家父長権の個人主義的構成をめぐる議論であった。先に述べたように、近代民法における家父長権は、家族生活や「家」の安定に資するものとして設定されていたが、同時に、近代民法が個人主義的構成を持ったことから、家父長権は家父長個人の権利として規定されることとなった。そのため、家父長個人の権限行使が「近代家族」や「家」の利益に反したとしても、その権限行使を制限することができないという問題を有していた。民法上の家父長権が家父長個人の権利として規定されたために、家父長の権限行使が「近代家族」や「家」の安定につながらない場合でもその行使に歯止めがなかったためである。この矛盾は明治民法の制定過程で実際に認識され、両者の矛盾をいかに処理するかが問題とされた。そこで本論文では、両者の矛盾がどう処理されたかに焦点をあて、扶養単位としての家族、あるいは経営体としての「家」の維持と家父長権の個人主義的構成の矛盾とその処理のされ方に着目し、明治民法の「家」の特徴を明らかにした。
本論文の第二の課題――「家」制度再建論の台頭
 本論文が設定した第二の課題は、1910年代末から1920年代にかけて登場した「家」制度を変えようとする国家政策上の動きを「家」制度の再建論として把握し直すことである。
 この時期には、①民法や刑法上の「家」制度の改編、②社会立法を通じた具体的な家族生活を支える社会保障・福祉政策、社会政策が登場しており、従来から、これらの動きは「家」制度の変容を示すものとして把握されてきた。
 この時期の「家」制度の変容をもたらした背景として、先行研究では、次の二つの点が重視されている。第一は、資本主義化に伴って、都市家族が増大してくるに伴い、実態的な家族のありようと従来の「家」的な家族モデルとが合致しなくなったため、国家政策上の家族モデルも「家」から単婚小家族へと変化せざるをえなかったという点である。第二点目は、1910年代から1920年代にかけての社会的政治的秩序の不安定化に対し、家族秩序の強化を通じて社会的政治的秩序の安定をはかろうとする流れが登場したことである。
 さて、これらの研究においては、第一の背景と第二の背景とを対立するものと把握し、両者の妥協として「家」制度の変容を理解する傾向があったように思われる。すなわち、都市化に伴う単婚小家族の登場を「家」制度解体の傾向と把握し、家族制度によって社会的政治的秩序を強化しようとする流れを、前者の流れと対立するものとして理解する傾向である。また、単婚小家族を重視する傾向は同時に「家」の扶養機能を代替する社会保障、福祉政策、社会政策の登場を促進する流れとして把握され、「家」制度を強化する方向は「家」の扶養機能を重視し、社会保障・福祉政策や社会政策を抑制する流れとして理解されている。この時期の「家」制度の変容は「家」制度の解体か、従来型の「家」制度の強化かの対立として把握されてきたといえよう。
 こうした先行研究に対して、本論文は、この時期の「家」制度の変容をもたらした第一と第二の背景の関係の関係を問うことで、この時期の国家政策上の「家」制度の変容を「家」再建論として捉え直そうとするものである。当時の改革担当者のたちの言説を分析してみると、単婚小家族化を重視する議論においても「家」を強化して、政治的社会的秩序の安定をはかろうとする志向がみられるのであり、逆に、いわゆる家族制度強化論と見なされた議論にも、単婚小家族化を積極的に容認し、家族員の権利を認めようとする傾向が存在する。さらに家族制度による社会的政治的秩序の安定をはかろうとする当時の改革担当者たちの議論の中にも、社会保障、福祉政策や社会政策を肯定し、それらによって都市家族の生活を安定させ、家族制度強化を図ろうとする議論も存在していた。当時の改革担当者たちには、単婚小家族の容認、妻や家族員の権利を認めること、社会保障、福祉政策や社会政策を通じ都市家族の安定を図るといった諸点は、いずれも「家」の強化、再建の手段として位置づけられており、決して矛盾・対立する構想とは捉えられていなかった。この時期には、これらを双方の措置を通じて「家」を改めて作り直し、強化することがめざされていたのである。当時の「家」制度をめぐる議論は、「家」制度復活論でも「家」制度解体論でもなく、「家」制度再建論であったと把握できるのである。
 そこで、この時期の「家」制度を変容させようとする動きを、「家」制度再建論として、正確に把握したいというのが、本論文の二つ目の課題である。
 こうした「家」制度再建論が台頭した背景には、先行研究が指摘するように、都市化に伴う実態家族の変化があったのと同時に、社会的政治的秩序の不安定化に対し「家」を強化することで秩序の安定化をはかろうとするねらいがあったと考えられる。日本政治史の分野では、当時の支配層がこの時期の労働争議の激増、都市における生活問題の発生を国民統合の破綻として捉え、これらの諸問題に国家が直接に対処して、国民統合の安定を追求したことが指摘されている。こうした指摘を本論文とつなげるならば、国民統合の破綻状況を克服するための一つの方途として、「家」制度再編論が台頭してきたといえよう。しかも、この「家」制度再建論は、従来、想起されるような、伝統的な家族制度の道徳的な力によって国民をイデオロギー的に統合するものではなく、また、都市における労働問題や生活問題を扶養共同体としての「家」に吸収・代位させようとしたものでもなく、現実家族の変化に合わせて「家」を作り替えつつ、国家の諸政策を通じて現実に存在する家族の生活を安定させ、新しい「家」を基礎として「家」制度を機能させることで、国民統合を安定させようとするものであった。
 さらに、この時期の「家」をめぐる動きを「家」制度を再建論として把握することは、日本における家族法、家族政策の現代的転換が「家」制度の再建強化を通じて行われようとしていたという特徴を析出することにつながると考えられる。家族法、家族政策史の分野では、20世紀以降、国家によって改めて家族が位置づけ直され、その安定を図るために、国家が家族に対する働きかけを強化、拡大していく傾向が指摘されている。1910年代末から20年代初頭にかけての「家」制度再建論はこうした流れと同じ方向性を持っており、この時期の「家」をめぐる動きを「家」制度再建論として把握することは、日本において、家族法、家族政策の現代的転換が「家」制度の再建という形で行われようとしていたことを明らかにすると考えられる。
 加えて、こうした流れを第一の課題との関連で捉えると、「家」制度再建論は、明治民法における個人主義的構成に基づく家父長権の見直しをめざしたことになる。個人主義的構成に基づく家父長権は、時に家族生活の脆弱化をもたらしかねないため、「家」制度を再建するには、民法上の家父長権を具体的な「家」の家族生活に資する範囲に制限することで家父長権の個人主義的性格を緩和することが必要だったからである。こうした流れもまた家族法の現代的変化のひとつであった。
 これらの課題を明らかにするため、本論文では下記の素材をもとに検討を行った。

第1章 明治民法における「家」とその特質--家父長権の性格を素材に
第2章 「家」制度再建論の台頭--臨時法制審議会の民法改正構想
第3章 田子一民の「社会事業論」構想と家族制度
第4章 家族政策としての住宅政策の登場と展開

 第1章では、明治民法の制定過程で作成された第一草案と明治民法を素材として、「家」や家族生活の安定という要請と、民法上の家父長権が家父長個人の権利として規定されることとの矛盾がいかに処理されたかの検討を行った。明治民法においては、国家の基礎単位として「家」が位置づけられたものの、近代法の編纂原理である個人主義的構成を明治民法がとったために、家父長権の個人主義的構成と「家」や家族生活の安定という要請との間に一定の矛盾が生じた。この矛盾に対して、明治民法では家父長権の個人主義的な構成を優先させたため、「家」や家族生活の維持に関して、脆弱性を抱え込むこととなった。この傾向は、第一草案から明治民法に至る過程で強化されており、家父長権の個人主義的な構成とその下での「家」や家族生活の脆弱性こそが明治民法における「家」の特徴の一つであったことを指摘した。
 第2章では、1919年に設置された臨時法制審議会の民法改正構想を素材に、民法改正論において「家」制度再建論がどのような形で展開されたかを明らかにした。従来、臨時法制審議会の民法改正構想は、家父長や父母が権限を持つ「家」の秩序を維持しようとする議論と、家族員や妻の権利を伸張しようとする議論との対立と妥協の産物として理解される傾向があった。しかし、実際の審議過程では、家父長や父母の権限を重視する論者であっても、家族員や妻の権利に配慮して家族的結合の重視をめざそうという志向が見られた。さらに、家族員や妻の権利を伸張する議論も、日本の家族はあくまでも「家」であり、家族員や妻の権利伸張は「家」の強化につながると理解していた。すなわち、臨時法制審議会のめざしたところは伝統的な「家」の復活、あるいは「家」の解体ではなく、「家」の再建、強化だったのである。また、臨時法制審議会は「家」の再建のために、家族員や妻の権利を伸張しようとしただけでなく、「家」を現実の家族生活と一致させること、家父長の権限を現実の生活単位である「家」の利益に資する範囲に限定することをめざした。臨時法制審議会の民法改正構想では、明治民法の家父長権の個人主義的な側面が制限されることになったのである。
 第3章では、当時、内務官僚であった田子一民の「社会事業」政策構想を素材として、この時期に本格化した社会保障、社会福祉、社会政策といった政策領域の中で、それらの政策と「家」制度の関係がいかにとらえられていたのかを明らかにした。田子は、当時、社会的問題となっていた労働問題や生活問題などを資本主義の弊害として捉え、これらに国家が積極的に対処していく「社会事業」政策の必要を主張していた。同時に、田子は日本において「家」の観念を通じた道徳的な秩序形成が重要な役割を果たしていると考え、社会的政治的秩序を安定させるためには「家」制度の観念が必要不可欠だと主張した。とはいえ、田子は「家」の観念をただイデオロギー的に喚起すればよいと考えていたのではなく、「家」の基盤をなす現実の家庭生活の安定が「家」観念の形成にとって必要だと把握した。そのため田子は国家の「社会事業」政策を通じて、都市において発生した労働問題や生活問題に直接対処することと同時に、都市の家族を「家」として把握しつつ、「社会事業」政策によって彼らの家族生活の安定を図る必要を主張した。田子は、「家」制度の衰退、「家」の扶養機能の弱体化を補完・代替するために「社会事業」政策を構想しただけでなく、都市で「家」を再建するためにも「社会事業」政策が必要だと考えたのである。
 第4章では、1919年から1920年代半ばまでの住宅政策を検討した。第3章で検討した田子の「社会事業」政策では、「家」制度の再建のために、都市住民の家族生活を安定させるための施策が重視されたが、中でも住宅政策は家族生活の基盤を提供するものとしてとりわけ位置づけの高いものであった。こうした志向が当時の住宅政策にいかに反映されたのかを検証するため、当時の住宅政策の展開に即して、住宅政策と家族制度の関連について明らかにした。この時期、住宅不足による住宅難が問題化され、住宅費の生活の圧迫、住環境悪化とそれに伴う都市の道徳荒廃が問題視されていた。当時の政策担当者からは、これらの問題が無秩序な都市化、資本主義化に伴う問題と把握され、住宅政策を通じた国家の介入によって住宅問題の解決を行うことなしに社会秩序の安定はないと捉えられていた。さらに、家族制度による社会秩序の安定という観点からも、家族生活の基盤たる住宅提供はとりわけ重視された。住宅政策は、資本主義と都市化の弊害への対処と家族制度による秩序の安定という、二重の課題を帯びることとなったのである。その結果、都市を中心とした公的住宅資金による住宅供給、借地借家法による住環境の安定といった政策が早い段階で体系的に実施されることとなった。さらに、公的な住宅資金による住宅建設の中には、労働者向け住宅も含まれていた。従来の研究では、この点は必ずしも明確ではなかったが、この時期の社会秩序の不安定化をもたらした階層の一つは労働者であり、国民統合上、彼らの家庭形成を通じた穏健化は不可欠な課題であった。
 以上の各章で明らかにしたことをさらに大きくまとめるならば、次のように結論づけられる。第一は、明治民法における「家」や家族生活の安定という課題の位置づけの意外な弱さである。明治民法においては、近代法の原理である個人主義的構成が徹底せざるをえず、家族生活の基盤としての「家」や単婚小家族の安定という課題は相対的に低く位置づけられた。明治民法が制定された時期には、社会保障、社会福祉政策など家族生活を支えるための国家政策は国民の自立自営の障害となるものと否定され、国家が家族生活に働きかける手段は民法にほぼ限られていた。その民法においてすら、個人主義的構成が優先され、家族生活の基盤としての「家」や単婚小家族の安定の課題は相対的に軽視されていた。
 この状況が変化するのが、1910年代末のことであった。国民統合の破綻に際して、「家」制度の再建を通じて国民統合の安定を図ろうとする「家」制度再建論が登場してきたのである。本論文が明らかにしたことの第二点目は、「家」制度再建論の現代的構造である。「家」制度再建論は、しばしば想起されるような、伝統的な家族秩序によって国民をイデオロギー的に統合するものではなく、新しく登場した都市家族の実態に合わせて「家」を把握し直し、その内部関係を改変して、家族結合を強化しようとしたものだった。また、伝統的な「家」の扶養機能に労働問題や生活問題を吸収させることで、社会政策を抑制しようとするものではなく、逆に社会政策を通じて現実の家族生活を支えることで、「家」制度の基盤である家族を実態的にも強化しようとしたものだったのである。
 こうした意図の下で、臨時法制審議会における民法改正が構想され、社会保障、社会福祉、社会政策において家族問題が位置づけられたのである。これらは「家」を改めて位置づけ、新しく作り変えつつ、その安定をはかることで、再建しようとしたものであった。これは同時に、家族法、家族政策史の分野で指摘される、家族法、家族政策の現代的転換、すなわち国家が家族を改めて位置づけ直し、実態的な家族生活の安定のために国家政策を拡充していく方向が、日本において「家」の再建という形で追求されたことを示している。

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