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博士論文要旨

論文題目:戦後日韓関係の展開(1945年から1965年まで)―日韓国交正常化交渉を中心にして―
著者:吉澤 文寿 (YOSHIZAWA, Fumitoshi)
博士号取得年月日:2004年7月23日

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序論:本稿では1945年8月の日本敗戦後の日韓関係を「戦後日韓関係」と称する。「戦後日韓関係」とは1945年8月の日本敗戦を基点として、今日にいたるまでの、日本の朝鮮植民地支配の清算という課題に向き合わざるを得ない日韓両国の関係と定義する。そして、本稿では、日韓国交正常化交渉の分析を通して、外交問題として展開された日本の植民地支配の清算という課題に対して考察し、1945年から1965年までの「戦後日韓関係」の実相を明らかにすることを研究目的とする。そのために、以下の三点を研究課題とした。第一に、「戦後日韓関係」における主要課題である財産請求権問題の展開過程を解明することである。第二に、財産請求権問題に比べて研究が進んでいない他の諸懸案について、できる限りその展開過程を明らかにすることである。第三に、当時日韓会談の進行とともに展開された日本と韓国における反対運動について明らかにすることである。

 第1章:1945年の日本敗戦後、日本、韓国、米国はそれぞれの対日賠償方針を検討した。米国は日本の戦後復興を優先して、対日賠償をできる限り軽減する方針をとった。米国の対日無賠償原則は米英による対日平和条約作成過程にも現れた。韓国は独自に対日賠償調査を進めて、日本の植民地支配の清算を内容とする求償権を行使しようとした。対日賠償要求の内容は植民地支配及び戦時動員による被害に対する個人請求権、及び保険金、恩給、未払い金などの民事上の請求権が主たるものであった。日本は対日平和条約への準備作業を通じて、日本の植民地支配及び財産形成の正当性を主張しようとした。そして、日韓両国は米国の仲介のもとで、1951年10月から日韓会談を開き、基本関係、請求権、在日韓国人の法的地位、漁業等の議題を討議した。しかし、日韓はそれぞれの原則的立場を主張するのみで、妥結の可能性を全く見いだすことができなかった。この日韓対立の構図は1953年の久保田発言による日韓会談決裂以後もしばらく保持されたのである。

 第2章:日韓会談中断期の日韓関係は韓国に抑留された日本人漁夫と大村収容所の退去強制対象朝鮮人の釈放という「人道問題」を中心に展開した。それと並行して日韓会談再開のための予備会談が行われ、1957年12月に日韓合意文書の調印というかたちでそれらの問題は進展した。しかし、1958年からもう一つの「人道問題」として在日朝鮮人帰国問題が浮上すると、日韓会談は中断を繰り返し、日韓関係は再び膠着した。日本政府は抑留日本人漁夫の帰還と在日朝鮮人問題の「解消」に第一の関心があった。しかし、在日朝鮮人をできる限り国外に押し出すことで問題を「解消」させるという思考は「人道主義」とは言いがたい。韓国政府は日本政府の在日朝鮮人に対する処遇に不満を持ち、様々な手段で「北送」阻止につとめた。このような韓国政府の関心は在日朝鮮人の法的地位にあった。また、朝鮮民主主義人民共和国政府が帰国事業によって日韓会談を牽制しようとしたという推測も充分成り立つ。1950年代後半は在日朝鮮人問題をめぐって南北対立が鋭く表出した時期であった。このように1950年代に展開された日・韓・朝間の「人道外交」は政治的性格を帯びたものであった。

 第3章:1960年4月に韓国の李承晩政権が崩壊した後、日米韓三国は政官財を挙げて日韓会談を推進するようになった。この時期に、日韓の与党政治家たちは相手方との友好関係を重視し、日韓関係促進のために積極的に活動した。一方、日韓の官僚たちは日韓関係の改善を重視しながらも、自国政府の立場を強く打ち出して、交渉で容易に妥協しなかった。こうして、日韓国交正常化をめぐる「政治的路線」と「実務的路線」が形成された。また、日韓の財界は日韓関係の改善を熱望し、経済視察団派遣などを通じて、日韓交流を推進した。
 1960年10月から1962年3月まで、韓国の対日請求権が討議された。討議内容は大きく対日請求権の規模及びその時期的範囲という、その全体的性格に関するものと、「要綱」の項目別討議に分けることができる。
 前者の論点としては、①韓国政府の在朝日本人財産取得が対日請求権をどの程度満たすのかという、「関連」問題、②米軍政庁による在朝日本人財産の処分、具体的には米軍政法令第33号の解釈をめぐる問題、③民事上の個人請求権に対する支払い方法、④韓国政府が朝鮮半島北半部の対日請求権を主張できるかどうかという問題があった。これらの問題について、韓国側は米国の初期対日賠償方針を厳密に援用しつつ、在朝日本人財産の取得と切り離して請求権を主張した。一方、日本側は証拠主義を前提に民事上の個人請求権を認めつつも、法律論によって対日請求権全体の枠組を狭めようとした。結局、日韓の主張は平行線をたどった。
 また、後者の場合、韓国側は全ての請求項目について「法的根拠」を主張した。韓国側の対日請求権は全体としては植民地支配の清算を目的としていた。その内容には日本の朝鮮支配や戦後補償問題に対する重要な問題提起が含まれていた。しかし、日本側は植民地支配の責任が問われない、領土の分離に伴う民事上の個人請求権のうち、資料による十分な裏付けのあるものに対してのみ支払いに応じた。そして、植民地支配責任が問われる項目について、日本側は植民地支配の法律体系を持ち出して、自らの正当性を主張し、韓国側の請求権を全く認めなかった。さらに、日韓国交正常化以後に韓国人個人が日本に対して権利を主張することも、日本側は認めなかった。そして、その他の請求権についても、日本側は全く応じなかったのである。これに対して、韓国側は民事上の個人請求権について、「当時の朝鮮人は日本人ではなかった」とする論理を展開して、日本側の「当時の朝鮮人は日本人だった」という論理に対抗した。

 第4章:1960年頃からの米国の対韓援助削減を契機として、韓国における「自立経済」確立及び韓国政府の日本資本導入の動き、そして日本政府の対米協調外交と日本財界の韓国再評価といった要素により、日本の対韓経済協力問題が浮上した。そして、日米韓三国は日本の対韓経済協力によって韓国の経済開発を支援するという目標を掲げて、日韓国交正常化の早期実現を図ろうとした。ここに、1960年代の日韓会談が「経済基調」で展開する状況があった。1962年までの請求権交渉は「実務者路線」による折衝の後、「政治的路線」の大平・金鍾泌会談において日本の対韓経済協力供与というかたちで政治的に妥結した。
 この過程の論点は三つである。第一に、「政治的路線」と「実務的路線」との関係である。大平・金鍾泌会談による請求権問題の原則的合意の内容は「実務的路線」による討議を通じて準備され、「政治的路線」による討議でまとめ上げられたものであった。しかし、このことはただちに韓国政府が「請求権」(という名目)の放棄を決断したことを意味しなかった。なぜなら、韓国政府は1965年6月の日韓条約調印直前まで、「請求権」という名目を主張し続けたからである。
 第二に、請求権問題の政治的妥結過程における米国政府の役割についてである。米国は明らかに「無償3億ドル」妥結案による請求権交渉の妥結を望んでいた。日本政府でも同案が検討されていたが、これが公式の立場ではなかった。「大平・金鍾泌合意」による請求権交渉の政治的妥結は、請求権交渉当初から日本政府及び韓国政府に存在した、経済協力ないし経済開発を念頭においた交渉方針が徐々に具体化する過程の帰結であった。しかし、同時にそれは、米国政府が請求権交渉の過程に確実に介入し、自らの望む方向に交渉を導いた結果であった。
 そして、第三に、「日本の植民地支配の清算」という「戦後日韓関係」の本質的課題からの評価である。先述の対日請求権の具体的討議は1961年11月の日韓首脳会談で合意された、政治折衝をするための準備作業であった。つまり、政治折衝において、自国が「請求権」という名目でできる限り有利な金額を提示するために、この討議は開かれた。そして、このとき、日本が韓国に供与すべきとされたのは、名目はどうであれ、経済協力資金であった。その規模は日本側の「植民地支配責任」の重さや、韓国人に対する補償の必要性ではなく、韓国の経済開発計画や、日本側の資金供与能力といった、経済的要素が専ら考慮されたのである。
 こうして、日韓会談における請求権交渉は、過去の清算という意味を全く含まないかたちで妥結した。これにより、日本政府及び日本人は韓国政府及び韓国人に対し、国家的補償を通じて「植民地支配責任」を果たし、その過去を清算する決定的機会を失った。同時に、それは日本の植民地支配に起因する韓国人の権利が救済される重大な機会の喪失も意味した。これこそ、「日本の植民地支配の清算」という課題からみた、請求権交渉の政治的妥結の本質である。

 第5章:1963年の段階で、日韓双方で民間借款の実施が検討されていた。日本政府は遅くとも同年3月の時点で大平・金鍾泌合意に基づいた、民間ベースによる対韓経済協力の実施について議論していた。一方、韓国政府でも国交正常化以前に日本から民間借款を導入する準備を進めていた。ただし、その借款を対日請求権と関連させるべきではないとする議論が大勢を占めていた。さらに、民間企業が日本及び韓国政府の承認を求める過程で、日韓それぞれの政府は具体的な対応に迫られたのである。
 さらに、1964年になると、呉定根前国家再建最高会議最高委員は日本から3千万ドルの借款を実現させるために、日本政界の要人らと会談していた。この借款交渉は立ち消えになったものの、この時の韓国側の要求が6・3事態以後の2千万ドル緊急借款に反映された。また、6・3事態によって、第6次日韓会談は中断された。そのような状況で、PVC工場及び第5セメント工場をめぐる交渉で、日韓両国は国交正常化以前の借款と大平・金鍾泌合意との関連をめぐって、激しい論戦を繰り広げた。そして、米国政府の介入もあった後、日韓両国はこれらのプラントが大平・金鍾泌合意に基づく民間借款であることを確認したのである。
 また、1964年6月、日米韓の交渉当事者は韓国の日韓会談反対運動によって会談が中断するという、重大な事態に対応しなければならなかった。米韓は韓国国民に対して日本が植民地支配について「謝罪」する必要があるとした。しかし、椎名外相は米韓の「謝罪」要求を徹底して拒否した。日本は「謝罪」の代わりに、対韓経済協力による韓国の経済不安を解消させることが韓国世論を好転させると考えたのである。

 第6章:1964年12月から始まった第7次会談では、いずれも財界関係者が首席代表に任命された。第7次会談では日韓の交渉担当者が懸案について非常に「協力」的に対処した。そして、1965年6月に日韓基本条約及び諸協定が調印された。日韓合意の内容は基本関係、漁業、船舶、文化財の諸問題について、日本側の論理が通ったものとなった。これらの問題に対する韓国側の主張には日本の植民地支配の清算を訴える要素が含まれていた。しかし、それらはすべて退けられた。その代わりに、韓国側はこれらの実質的譲歩と引き替えに、船舶協力、文化協力、漁業協力の名目で日本からの借款を受け入れた。このように、請求権問題をはじめとする日韓間の諸懸案がことごとく経済的手法によって押し流されたのである。これが本稿でいう「経済基調」である。

 第7章:韓国では1964年3月から学生及び野党を主体とした、大規模で本格的な日韓会談反対運動が展開された。当初、反対運動は日韓会談における問題点を指摘するものであったが、6月に本格的な反政府運動へと変化した。この変化は朴正熙政権発足以来の、同政権に対する国民の不満が一気に噴出したものであった。これに対して、韓国政府は戒厳令を発令し、軍隊による鎮圧をはかったのである。このいわゆる6・3事態によって、日韓会談は完全に中断した。1965年の反対運動は日韓基本条約、請求権及び経済協力、漁業、法的地位協定の仮調印、そして日韓条約調印の無効を主張するというかたちで展開した。調印後の批准反対闘争は野党・学生のみならず、各界の人士が日韓条約に対する賛否を表明するというなかで展開されていった。この時期に反対運動勢力は結集して、祖国守護国民協議会を結成したのである。しかし、批准反対及び批准無効を要求する世論は1964年に比べて政治的な影響力を行使できずに終わってしまった。それは、韓国政府および与党の共和党による日韓会談PR活動や、警察力による野党の院外活動及び学生デモの弾圧の結果であった。そして、政府と与党は国会において野党の反対を押し切って、日韓条約の批准を強行したのである。韓国の反対運動は朴正熙政権のみならず、同政権を支持する日米という国際勢力との対決でもあった。
 反対運動勢力の主張を検討すると、彼らは基本関係、漁業、請求権、竹島=独島問題を中心に、日韓基本条約及び諸協定を批判した。とくに野党は日韓間の条文解釈が異なる点を中心に、国会で質問攻勢を展開した。反対運動勢力は日韓条約の問題点を明らかにしたといえる一方で、もっぱら韓国の国益という視点から反対論を構築した。そのため、日韓条約賛成派も反対派も、「国是」としての反共という立場に立ち、請求権や在日韓国人の法的地位と深く関係する人権問題を相対的に軽視したのである。

 第8章:日本における日韓会談反対運動は1960年の安保闘争までを前史として、1962年後半から1963年初期までの第一高揚期、1965年後半の第二高揚期とすることができる。日本の反対運動勢力は東北アジア軍事同盟論、朝鮮南北統一阻害論、日本独占資本の対韓侵略論を核心論理とした。日本大衆の日韓条約に対する無関心という状況の中で、革新政治勢力は日本人の平和意識や生活感覚に根ざした運動を展開しようとした。また、日韓国会において、社会党議員は韓国の野党と同様に、日韓間の条文解釈の不一致を追及した。社会党議員の質問は日本政府がいかに「非友好」であるかを追及したが、日本政府の対韓「弱腰」外交を批判したものでもあった。また、日本の反対運動は朝鮮総連を中心とする在日朝鮮人、日朝友好団体、学生及び知識人という、幅広い立場から展開された。
 日本の日韓会談反対運動は会談を一時中断させることも、条約成立を妨げることもできなかったという観点からすると、明白に「失敗」であった。しかしながら、日韓会談反対運動は1960年以後の革新政治勢力の分裂と対立の状況において、2度にわたる「共闘」体制が実現した。その要因は1964年末に台頭した社会党左派と共産党との連係、朝鮮総連や日朝協会、文化人グループといった「結節点」の存在、さらに安保闘争以後の学習会・研究活動を通じた朝鮮問題に対する日本社会の関心の高まりと「少数だが鋭い実践」をする活動家の成長などが挙げられる。このような事実は肯定的に評価すべきである。
 最後に、日本の朝鮮植民地支配責任の追及という観点からすると、革新政治勢力の反対運動において、この問題に対する関心は相対的に低かった。しかし、革新政治勢力の中でも率先して反対運動に取り組んだ者、朝鮮総連をはじめとする在日朝鮮人団体や日朝友好団体、さらには歴史学者をはじめとする知識人はこの問題に正面から取り組んだ。知識人を含めた在日朝鮮人は朝鮮民族としての自らの利益と権利という立場から日韓会談を批判した。日朝友好団体と日本人の知識人は日本人としての責任という立場から日本の朝鮮植民地支配の問題に向き合った。そのなかで、日本朝鮮研究所のように、日本人自らの植え付けられた植民地主義を克服しようとする立場も現れた。日韓条約や日朝問題に対して関心をもたない日本大衆の意識状況の中で、日韓会談反対運動を通じて、日本の植民地支配責任の問題に向き合う日本人はむしろ拡大したのである。

 結論:以上の考察を踏まえて、1945年から1965年までの「戦後日韓関係」を「原則的対立」(1945~1953年)、「人道外交」(1954~1960年)、「経済基調」(1960~1965年)の三期に区分した。そのうえで、日韓会談における請求権問題の展開を位置付けた。そして、最後に反対運動について整理した。
 1945年から1965年までの「戦後日韓関係」は日韓国交正常化交渉を中心に展開した。しかし、日韓基本条約及び諸協定の締結によって、日本の植民地支配の清算は実現しなかった。日本側は李ライン問題の解決や在日朝鮮人問題の「解消」を優先し、朝鮮植民地支配に対する謝罪を最後まで行わなかった。韓国側は南北分断という状況で経済開発による国家建設を優先させ、「請求権」という名目で日本からの資金導入を図った。日本側はこれを奇貨として、対韓経済協力による財産請求権問題の「解決」を目指した。日本側は韓国の経済開発に協力することで、日本の植民地支配の清算を不問に付したまま、韓国人の対日感情を好転させようとした。そして、米国は日本の対韓経済協力実現を積極的に支援した。こうして、日本の植民地支配の清算に関連した諸懸案は「経済基調」によって押し流された。その結果、日韓国交正常化と同時に、韓国人個人の請求権は民事上の請求権をふくめて「救済なき権利」となったのである。

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