研究・教育活動

サイトトップへ戻る

博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:シャルル・フーリエのユートピア:アイロニーとユーモアの視点から
著者:福島 知己 (FUKUSHIMA, Tomomi)
論文審査委員:古茂田宏、山崎耕一、加藤哲郎、森村敏己

→論文要旨へ

[本論文の構成]
本論文は、19世紀フランスの思想家シャルル・フーリエのユートピア思想を独自の修辞学的な観点から解明しようとした試みであり、比較的有名なその労働論にとどまらず、従来の社会思想史的研究においては正面から取り上げることの少なかった恋愛論=性的共同体論にまで立ち入った検討を加えた力作である。400字原稿用紙に換算して、本体約600枚、附録として、本論文が集中的な検討対象とした原典の翻訳約120枚、詳細な書誌・文献目録約90枚からなる。全体は2部に分かたれ、第1部はその方法論、第2部はその方法論の具体的展開にあてられている。
本論文の構成は以下のとおりである。
はじめに
第1部 レトリックと思想
第1章 アイロニーからユーモアへ
(1)レトリック
(2)アイロニー
(3)パロディ
(4)ユーモア
(5)言説と政治
第2部 フーリエの「ユートピア」
第2章 欲求・欲望・意志――労働論
(1)労働権と窃盗権
(2)欲求から欲望へ
(3)欲望から意志へ
第3章 「聖英雌ファクマの請出=贖罪」――恋愛論
(1)はじめに
(2)パロディ
(3)英雄の系譜学
(4)英雄とユートピア
(5)反=悲劇
(6)恋愛の政治学
(7)英雄と聖人
(8)演劇と政治
終わりに
附録(原典翻訳)
(1)「対話」
(2)「未開人と哲学者の対話」
(3)「聖英雌ファクマの請出=贖罪」
書誌
[本論文の方法と内容]
『四運動の理論(Theorie des quatre mouvements)』『産業と協同の新世界(Le nouveau monde industriel et societaire) 』『愛の新世界(Le nouveau monde amoureux)』などの著者シャルル・フーリエ(Charles Fourier,1772-1837)は、奇想天外なユートピア思想で有名であるが、そのあまりにも奔放で幻想に満ちたユートピア像はほとんど狂気の産物と扱われることが多かった。ことに性愛(性的共同体)をめぐる諸問題を正面から論じた『愛の新世界』(1817- 20年執筆)は、コンシデランらフーリエ主義運動を実践した弟子たちがその内容の露見を恐れ、フーリエ没後もその草稿の存在自体をひた隠しにしてきたこともあり、フーリエ没後130年にあたる1967年になるまで公刊されなかったものである。
本論文は、フーリエのこうした幻想に満ちた諸テクストを、著者独自の方法的な仮説に基づいて読み直すことをとおして、以下のことを主張しようとする。すなわち、
(1)フーリエの「幻想」は単なる個人的な夢想の産物ではなく、彼をとりまいていた当時の日常的な現実(およびその表象)が意識的・無意識的に変容・変換されたものであること。
(2)その意味で、フーリエのユートピア像は――その「変容」があまりにもオリジナルから遠くかけ離れたところにまで及ぶために、一見そうは見えないものの――フランス革命から19世紀に至るフランスの「現実」に深く根ざしていること。
(3)またフーリエのユートピアは、もちろん現実への鋭い批判意識から構想されたものではあるが、単に悲観的なかたちでとらえられた現実の逆転表象であるのではなく、そうした否定的な現実そのもののなかに肯定的な要素を見いだし、拡張させようとする――「事実性の空間のなかにユートピアの萌芽をみいだす」――ものでもあったこと。以上である。
第1部 レトリックと思想
ではその方法的な仮説とは何か。それを提起するのが本論文の第1部「レトリックと思想」であるが、その概略は以下のとおりである。
(1)フーリエがユートピアを構想するにあたっての出発点にしようとした「オリジナル」とは、権威ある正統的な思想史の諸議論――平等・正義・善などに関する抽象的な議論――ではなく、フーリエの同時代人が日常的に生きていた現実(の表象)であり、それは当時よく知られていた文学作品や演劇などの中に見出すことができる。それゆえ、フーリエ理解のためにはこうした作品群の整理と読解が不可欠であり、その作業を踏まえた上で、はじめてその「変容・変換」としてフーリエのテクストを解読することが可能となる。
(2)フーリエはこうした現実の変換にあたって「アイロニー」「パロディ」「ユーモア」といった様々の修辞学的な技法を一貫して駆使している。こうしたレトリックは、フーリエにおいては思想の単なる装飾的表現技法というにとどまらず、その思想内容自体をも規定するほど重要な意味を帯びていた。ことに、アイロニーとユーモアという一見相反するレトリック技法の反復的・重層的な使用が、フーリエの思想全体を特徴づけるものとして注目されねばならない。
第1章 アイロニーからユーモアへ
 著者は、エンゲルス、チェシコフスキ、ブルジャン、ドゥブー、ルーク、ブルトン、クノーらの先行研究史の検討を踏まえた上で、以上のような仮説をまず提起し、アリストテレスからロラン・バルトに至る修辞学史上の諸議論を参照しつつ、著者独自の「アイロニー」と「ユーモア」の概念定義を試みる。アイロニーとは、パロディとも密接に連関するが、自分の批判対象の主張を徹底的に賛美してみせ、その論理を極限まで押し進めることによってそのグロテスクさを浮き彫りにさせるという批判のレトリックであり、フーリエを含め多くの社会批判者が多用するものでもある。しかし、あらかじめ自分を相手より高いところに設定し、その絶対的な高みから相手を――手の込んだ仕方ではあるが――攻撃するというこのアイロニーからは、単なるモラリスト的な現実批判しか導くことができない。結局現実は変えられないという無力感・ペシミズムに陥るのは、アイロニストの常なのである。ところがフーリエには、このアイロニーと並んで、それとは逆向きのレトリックが見られる。すなわち、アイロニーに見られる批判の矢を、そのように攻撃している自分にまで反転させて向け、批判者と批判対象の絶対的な優劣を相対化することをとおして、批判対象の中にも肯定的なものを見いだそうとするレトリックがそれである。著者はそれを「ユーモア」と名づけ、この思考の姿勢がフーリエの中に「どっしりとしたオプティミズム」をもたらしていると見るのである。著者はフーリエの伝記的事実――ちなみに著者はジョナサン・ビーチャーの大著『シャルル・フーリエ伝――幻視者とその世界』(原著1986年訳書2001年)の邦訳者でもある――や、試料的に選ばれたフーリエのテクスト断片の読解をとおして以上の仮説が意味するところを説明し、あわせて「レトリックと政治」「レトリックと思想」という大きな問題の所在を示唆しつつ第1部を閉じる。
第2部 フーリエの「ユートピア」
 ここでは第1部で提示された仮説を具体的なテクスト読解に適用し、それを使ってフーリエのテクストがいかに生産的に読み直しうるようになるかを検証することが課題となる。対象となるのは、フーリエの根幹的思想をなす労働論と恋愛論(性愛論・婚姻形態論)であり、第2章と第3章がその検討にあてられる。
第2章 欲求・欲望・意志――労働論
 フーリエは労働権の最初の提唱者とされており、その権利はプルードンら19世紀フランス社会主義者たちが主張したような「労働者の尊厳」を強調する文脈で理解される傾向があった。事実、コンシデランらのフーリエ主義者もこの文脈で継承している。しかしフーリエの「労働権」とは、過酷な低賃金労働を強制し、その条件下での従順な労働者の勤勉を奨励するブルジョア勤労道徳に対する「アイロニー」として読むべきであり、そう読むことによってはじめて、フーリエが「労働権」と並べて「窃盗権」や「安逸権」を主張したことの全体的意図が理解される。現実の社会において労働者は労働への積極的な欲望をもっているわけではなく、ただ「味覚の対象」(食)を得るためのやむをえざる手段としてしぶしぶ働くに過ぎない。しかし、同じく「窃盗権」を主張したマルキ・ド・サドと比較すると、フーリエはこのような労働(道徳)へのアイロニカルな批判だけをしているのではないことが分かる。フーリエの構想する「調和世界」(ユートピア)においては、「窃盗権」や「安逸権」を行使しようとする住民が基本的には存在しないとされることからみても、そのことは明らかである。ここには、偽善的な勤労道徳をただ批判するだけでなく、労働のなかに愉悦がありうること――「逆行引力的労働」(必要に迫られる労働)から「混合引力的労働」「直行・収束引力的労働」へ――を認めるという肯定的な「ユーモア」のレトリックが作動しており、それが翻って、フーリエのユートピアにおけるエロスと労働のファンタジックな結合や、異なる諸情念のかけあわせ――相互抑制ではなく――をとおして労働の情念を受動的な欲求から能動的な欲望へと変化させる構想などへとつながっていく。以上のことが、『産業と協同の新世界』を中心とするテクストの読解をとおして検証される。
第3章 『聖ファクマの請出=贖罪』――恋愛論
 しかし、フーリエのユートピアにおいて労働は、それ自体が愉悦であるエロス的情念と結合されることによって肯定されるのであり、その意味では、諸個人の愛の情念(触覚の対象=性)をいかに社会的に調和ある形で組織するかという点が、より重要な問題であった。これを受けた本論文の第3章は、従来あまり論じられることなかった『愛の新世界』を正面から分析の対象とし、第1部でのレトリック仮説を一層具体的に検証しようとする。フーリエは本書で、恋愛(同性愛を含む)における肉体的側面(唯物愛 amour materiel)と精神的側面(心情愛 amour sentimental)、ただ一人の相手に向けられる永遠の愛(基軸愛 amour pivotal)とたえず移り変わる情念(蝶々情念 passion papillonne)といった矛盾する要素がいかにして社会的に充足されうるかという問題を扱い、それらを調和的に統合する一種の多婚制ユートピアを提起するのだが、まさにこのテーマは、アイロニーとユーモアのレトリックが縦横無尽に駆使されるものなのである。第一に、性欲を肉の原罪とみなす当時のカトリック的禁欲道徳や、一夫一婦制の美しさを賛美するブルジョア的単婚制の家族イデオロギーなどは、実際に彼らがそのたてまえの裏で行っている姦通と乱倫と対比させたとき、アイロニーの恰好の対象となるであろう。しかし、フーリエは単に彼らの「乱倫」を告発するアイロニー的上向にとどまらず、その「乱倫」のなかに人間のエロス的本性を認めるというユーモア的下向をも遂行する。しかもそれだけではない。確かに 「純愛」や「一夫一婦制」が人間のエロス的本性を無視してたてまえ的に主張されればそれは偽善であろうが、人間の中にはそれを偽善としてではなく受け入れたいという情念もまた確かに存在するのである。このようなアイロニーとユーモアの往還運動のなかで、フーリエは新しい性ユートピアを構想していると著者は指摘する。
 以上の骨格的主張に導かれつつ、本章ではこの『愛の新世界』の理論的な叙述に突如挿入される長大な戯曲『聖英雌ファクマの請出=贖罪』が詳細に分析され、この奇妙なドラマが、当時人々によく知られていた小説や戯曲などの文学作品や、ナポレオン崇拝にかかわる英雄物語などをいかにパロディ化したものであるか――すなわちアイロニーとユーモアの思考運動の産物であるか――が、アバンスール、マクマナーズ、オズーフ、ハント、カッシラー、ベニシューなどの歴史的研究や、シェーラー、バフチン、アーレント、ガダマーなどの理論的研究を援用した厚みのある文学史的・文化史的な記述を背景にして検討される。この作業をとおして、著者はいくつかの論点を提示するに至るが、その主要なものは以下のとおりである。
(1)そのタイトル「捕虜の請出redemption」自体が「贖罪redemption」というカトリックの制度のパロディとなっていることからはじまって、この戯曲が戦争捕虜の請出の物語であること、その請出にあたって主人公ファクマへの恋愛法廷がもたれること・・・といった舞台設定全体が、ナポレオン戦争をはじめとする文明世界の戦争のあり方や、伝統的な宮廷風恋愛へのアイロニー/ユーモアを通してなされているということ。具体的には、当時よく知られていたオノレ・デュルフェの田園小説『アストレ』やヴォルテールの戯曲『マホメット』などとの異同が比較検討され、その「オリジナル」の確定作業がなされる。
(2)この主人公が官能的女性であり、かつ倫理的英雄(英雌=heroine)でもあるとされていること自体の重大な意味。これに関して著者は、コルネイユの貴族的英雄概念→ラシーヌ以降の英雄の没落→フランス革命期における禁欲的英雄像の復活→ナポレオン帝政期における軍事的破壊的英雄としてのナポレオン崇拝・・・という「英雄の系譜学」を辿り、それらを踏まえた重層的なアイロニー/ユーモアの産物として、ファクマという女性的英雄像の新しいリアリティを見いだそうとする。それはまた、恋愛と政治に対して古典的英雄像がとってきた態度の逆転をとおして、公的領域(政治)と私的領域(エロス)との序列関係を解体させ、両者の領域区分そのものを廃棄しようとする試みでもあった。
(3)この戯曲は、アリストファネス、クリュセス、ダモクレスといった登場人物の名前からも連想されるように、また高貴な主人公ファクマの崇高な行為――1人への「心情愛」を貫くために、7人の「唯物愛」を求める男たちに、果ては56人の男たちに身体を与えることを提案するという屈折した崇高さではあるが――を描くという筋立てからいっても、アリストテレスが理論化したギリシア悲劇の形式をパロディ化したものである。しかし、その筋は悲劇の終結点で突如調和的世界にふさわしい喜ばしい結末に転じ、悲劇は反=悲劇として終結する。このようなアイロニー/ユーモアによる「変容」によって示されるのは、激しい諸情念の相互抑制(アリストテレスの中庸)によってではなく、それらを極限まで解放させることによってむしろ調和に至りうるという、フーリエの情念論であった。
(4)この戯曲は、フーリエのユートピアをその舞台としているが、ファクマに求愛する登場人物たちは、いかにもユートピアにふさわしくない「唯物愛」の固まりのようなエゴイストとして描かれている。ファクマは、そうした人間のあり方を人間の条件として認めた上で自ら屈折した英雄性を発揮し、そのことが他の人々を感化して幸福な大団円に至るのであるが、このことはフーリエのユートピアが現実の地平から隔絶した閉鎖空間――トマス・モアの『ユートピア』のような――ではないことを示唆している。フーリエのユートピアは静態的なものではなく動態的なものであり、そのこともまた、そのユートピアがアイロニー/ユーモアによる現実の「変容」によって構想されていることを明かしている。
 以上の興味深い諸論点はそれぞれ独立のものであるが、全体として第一部で著者が提起したリトリック仮説の妥当性を立証するものにもなっている。
[本論文の成果と問題点]
 フーリエはフランス社会主義思想の代表的な人物として有名であるが、その著作はあまりにも奔放で非現実的な幻想に満ちており、弟子たちによって具体的なフーリエ主義運動として継承されたのは、その中でも比較的理解しやすく実行可能な部分だけであったと言える。そのため従来のフーリエ研究も、19世紀フランスのアソシアシオン思想・運動に関わる限りでの「フーリエ主義」に焦点をあてたものが主流であった。この傾向に対して、 (1)本論文はこれまで敬遠されがちであったその幻想的な部分を正面から取り上げ、これを詳細に分析することをとおしてフーリエその人の全体像に迫ろうとしたものであり、まずこの意欲的な姿勢自体が高く評価される。ことに、フーリエの性的ユートピア論が展開される遺作『愛の新世界』は、フーリエ思想の隠された本質をなす問題作でもあり、未開拓のこの大著に取り組んだことには大きな意義が認められよう。
(2)こうした幻想的なテクストを理解可能なものとして読み解くために、本稿では明確な方法的仮説が立てられている。すなわち著者は、フーリエ思想の本質的なレトリック的性格に着目し、フーリエがアイロニーとユーモアという相反するレトリックを重層的に駆使しながら、18~19世紀フランスの現実(およびその自己表象)をパロディ化(変換)しているのではないかという仮説を立て、それを具体的なテクスト解釈に適用することをとおして検証しようとするのである。本論文におけるその仮説と検証の手続きは明晰で一貫しており、この点も評価に値する。
(3)著者は上の仮説を検証するために、フーリエのテクスト分析と平行して、フーリエがパロディ化しようとした当時の戯曲や文学作品の読解をも行い、膨大な先行研究を踏まえた厚みのある文化史的記述のなかにフーリエのテクストを置きなおす作業をしているが、このことによって単に奇想天外というのではないリアリティをフーリエから引き出すことに一定程度成功している。このことは、著者の仮説が本稿の射程を超えて妥当する可能性を示唆するものでもあり、注目に値する。
(4)また、こうした読解をとおしてなされたいくつかの発見を踏まえ、フーリエのユートピアが静態的ユートピアではなく、たえず現実の世界と往復を繰り返す動態的ユートピアであることを明らかにしていることは、新しいフーリエ像、さらには新しいユートピア像を提示したものという意味で貴重である。
しかし、本論文には次のような問題点があることも指摘しておかねばならない。
(1) 未開拓のテクストに新しい方法論で挑戦したことは高く評価されるが、そこで得られた知見が、従来のフーリエ研究における定説的フーリエ像のどこに修正を迫るものとなるのかについての意識的な言及がなく、社会思想史的なフーリエ研究史の蓄積をふまえたフーリエ像の見直しには必ずしもつながっていないこと。
(2)仮説の検証にあたって、性的共同体論の分野においてはともかく、それと並んで重要な労働論の分野においては質量ともにテクスト分析が貧弱であり、一般論にとどまる傾向があること。
(3)思想史・哲学史に関する叙述などにおいて、不正確な記述が散見されること。また、フーリエの膨大な造語の訳語を含め、日本語表記にいささかの問題を残すこと。
 以上のような課題が残されているとはいえ、これらは本論文の大きな長所を打ち消すほどに重大な欠陥とは言えず、今後の研究の中で克服されるものと期待される。
[結論]
 以上を踏まえ、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、福島知己氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2003年6月2日

 平成15年5月20日、学位論文提出者福島知己氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「シャルル・フーリエのユートピア――アイロニーとユーモアの視点から」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、福島知己氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は福島知己氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

このページの一番上へ