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博士論文審査要旨

論文題目:植民地下朝鮮における言語支配の構造:朝鮮語規範化問題を中心に
著者:三ツ井 崇 (MITSUI, Takashi)
論文審査委員:糟谷憲一、イ ヨンスク、糟谷啓介、吉田裕

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1.論文の構成


 本論文は、植民地期朝鮮における朝鮮語規範化問題を、朝鮮総督府の規範化政策と朝鮮人側の規範化運動との相互規定的な展開過程を軸にして具体的に考察し、このことを通じて植民地期朝鮮における言語支配の構造の一端を明らかにしようとした研究である。その構成は以下のとおりである(章レベルまでとし、節レベルは省略した)。

序 論 課題の設定
 第1章 植民地権力と支配言語―問題の設定―
 第2章 植民地下朝鮮における朝鮮語問題とその語り ―先行研究の検討、そして論点の提示―
第1編 朝鮮総督府による朝鮮語規範化政策―「諺文綴字法」の歴史的意味―
 序 章 論点の提示
 第1章 「普通学校用諺文綴字法」(1912年)
 第2章 「普通学校用諺文綴字法大要」(1921年)
 第3章 「諺文綴字法」(1930年)
 終 章 朝鮮総督府による朝鮮語規範化政策の歴史的性格―小括にかえて―
第2編 朝鮮人による朝鮮語規範化運動―朝鮮語綴字法形成史を中心に―
 序 章 論点の提示
 第1章 1920年代以降の朝鮮語規範化運動
 第2章 朝鮮語規範化運動の進展と挫折―朝鮮語学会の活動と朝鮮語学会事件―
 第3章 「ハングル」に敗れた朝鮮語綴字法 ―朴勝彬と朝鮮語学研究会をめぐる二、三のこと―
 終 章 交錯する思惑―小括にかえて―
結 論 植民地下における朝鮮語規範化の政治的文脈
 第1章 植民地下朝鮮における朝鮮語規範化の展開過程―政策と運動の関係性から―
 第2章 朝鮮語規範化をめぐる動態と「力」―その「植民地下朝鮮」的特徴―
 第3章 むすびにかえて
図/表/資料一覧
参考文献

2.本論文の概要

 序論は、課題の設定に充てられている。第1章では、植民地朝鮮における朝鮮語規範化の実態、それをめぐる社会的政治的環境はどのようなものであったかを探りつつ、植民地朝鮮において展開された言語支配構造の一端を朝鮮語規範化問題を軸に解明するのが、本稿の課題であると述べている。

 第2章では、まず植民地朝鮮における言語問題、とくに朝鮮語に関する議論のあり方を批判的に検討している。その第一は、朝鮮語「抹殺論」のもつ限界性である。著者は、日本人がどのような意識で朝鮮語を処遇しようとしたのか、朝鮮人側がどのような意識で対応しようとしたのか、実態の解明が重要であると説いている。 第二は朝鮮語「近代化」論についてである。著者は、安田敏朗、石純姫の議論に批判を加えている。安田は日本の言語支配がいびつな形で朝鮮の「言語的近代」を準備してしまったと評し、石純姫は植民地下の言語ナショナリズムを抑圧と収奪に対抗する「抵抗と解放のナショナリズム」と規定しているが、両者はともに支配者側と被支配者側との没交渉性/無関係性を対立的に強調している点で、結論を急ぎすぎているというのが著者の批判である。以上の検討をふまえて、著者は、朝鮮総督府による朝鮮語規範化政策、なかでも朝鮮語綴字法制定への関与の事実がどのように展開され、朝鮮人社会とどのように規定しあったのかという視点から、朝鮮語をめぐる日本の言語支配の構造の一端を探ることが、本稿の主題であると提示している。 分析方法はできるだけ同時代資料による実証的方法をとりたいと述べている。


 第1編は、朝鮮総督府による朝鮮語規範化政策、おもに「諺文綴字法」制定・改正の過程とその意図、および社会的政治的背景との関連を検討している。

 序章ではまず、第1編では朝鮮総督府が3回にわたって制定・改正した「諺文綴字法」を持った「歴史的意味」を論じることを目的としている、「歴史的意味」とはなぜ総督府は朝鮮語綴字法を策定し、改正しなければならなかったのか、またその過程が社会や他の政策とどのような影響関係を持つことになったのか、を究明して得られる事実関係の諸相であると述べている。ついで総督府綴字法に関する先行研究が検討され、十分な資料の追跡が必要なことが指摘される。

 第1章は1912年4月に制定された「普通学校用諺文綴字法」(第一回綴字法)に関して分析している。1911年11月施行の「朝鮮教育令」に基づいて、総督府は普通学校(朝鮮人向け初等学校)用朝鮮語教科書の編纂を行なうが、そのために綴字法を検討・制定することになった。著者は、1911年7~11月に5回にわたって開催された総督府の朝鮮語調査会議の議事録・報告書を収集し、これをもとに第一回綴字法成立の過程を動態的に分析している。その結果、①調査委員には初等教育の現職教員は一人も入っていないこと、②伝統的書きことばの威信を信じる規範主義的言語観と「京城語」の実際の発音を優先させようとする音声主義的言語観との相克関係がみられ、最終的な規定ではその関係が未調整のまま残されたこと、などが明らかにされている。

 次に第一回綴字法が適用された範囲が検討される。その結果、高等普通学校(朝鮮人向け男子中等学校)教科書には適用されていないこと、私立学校教員試験、小学校及普通学校教員試験の「朝鮮語及漢文科」試験問題には第一回綴字法に準拠しない例がみられること、総督府編の日本人向け朝鮮語学習書・『朝鮮語辞典』、『朝鮮総督府官報』『毎日申報』〔総督府の御用新聞として知られる〕なども第一回綴字法に準拠していないこと、すなわち第一回綴字法の使用範囲が限定的であったことが明らかにされる。また現場の教員からは、大前提とされた「京城語」の不明確性、固有語と漢字語との間の表記原則の差異など、第一回綴字法の不備が指摘されたことも、明らかにされている。

 第2章は、1921年に制定された「普通学校用諺文綴字法大要」(第二回綴字法)について分析している。第二回綴字法は1921年3月開催の普通学校用諺文綴字法調査委員会における審議の結果定められたこと、その規定内容が第一回綴字法とほとんど変化していないことが指摘され、教科書の綴字法の詳細な検討を通じて、その適用範囲が普通学校だけでなく高等普通学校程度まで拡大されたことが明らかにされる。また調査委員会の委員構成、綴字法をめぐる見解の対立が跡づけられる。その結論は、私立学校教員も加わるなど教育実践面での課題をより意識する形で委員会が組織されたと考えられること、綴字法の内容をめぐる見解と言語観の対立は、第一回綴字法のときと同じ構造を持っていたこと、などである。

 著者が、ここで注目しているのは、「文化政治」への移行に伴って、この時期の朝鮮社会に大きな変化が生じていた事実である。言論・集会・結社の規制緩和、『東亜日報』・『朝鮮日報』の創刊、教育熱の高まりと教育制度の改正、などがそれである。また、その一方で朝鮮総督府が、日本人官吏に朝鮮語の奨励策をとったこともあって、この時期の朝鮮社会では、「朝鮮語を/で書く」場が急速に拡大していた。

 著者は、そうした変化によって、綴字法問題が社会的にも大きな課題としてクローズ・アップされるようになったことを明らかにしながら、第二回綴字法がこうした変化に充分対応できず、その社会的威信も未だ不十分なものでしかなかったとして、更なる改正は不可避であったと結論づけている。

 第3章では、1930年2月に制定された「諺文綴字法」(第三回綴字法)についての分析に充てられている。この章でも1928年より進められた改正の経緯とその内容が丁寧に分析されているが、内容面での大きな変化は、表記原則の「表音式綴字」への一本化(「歴史的綴字」の排除)、ほぼ全面的な形態主義の貫徹であり、適用範囲については上級学校への適用が明確化されただけでなく、学校教育以外の場にも、綴字法の準拠を提供しようとしていたことが重要だとする。

 同時に、第三回綴字法の最大の意義は、前章で分析されたような社会的変化に対応するために、朝鮮人研究者などによって組織された朝鮮語研究会の全面的な関与の下で、新綴字法の制定が実現したことである。著者は、そこに、総督府の側の言語政策が、朝鮮社会内の言語ナショナリズムの動向に大きく規定されるとともに、総督府の側が言語ナショナリズムの運動を取り込むことによって、主導権を確保しようとする、というような相互規定的な関係を見出してゆき、この綴字法審議の場こそは総督府の言語支配の場であったとしている。

 終章では、朝鮮総督府の朝鮮語規範化政策の歴史的意味を三つの側面に分けて考察している。第一は、綴字法整理・普及の意図に見られる手段と目的の二重性である。著者は、総督府綴字法が、必ず日本語音の表記をも規定していた事実に着目し、総督府綴字法が一面においては、「国語」教育としての日本語教育の媒体としての位置づけを与えられていた、としている。これは手段としての側面である。しかし学校で教授している綴字法と社会で通用している綴字法とに大きな齟齬があり、総督府綴字法ひいては教育政策の威信が損なわれるという現実を前にして、総督府が朝鮮人研究者の言語ナショナリズムを動員し、彼らをとりこむ方向で第三回綴字法改正に踏み切ったとき、綴字法の整理・普及という行為はそれ自体が目的として存在するようになったと、著者は論じる。

 第二は、総督府の規範化政策の貫徹度についてである。著者は、1930年代以降、朝鮮語綴字法整理の作業は民間の朝鮮人研究者によって主導されていくことになり、1930年代末以降には総督府自らが朝鮮語教育ないし使用の機会を縮小、消滅させていくこともあって、総督府綴字法はほとんど実用化されることはなかったと言えると述べ、総督府は朝鮮語整備の作業を実用に耐えうる形では成し遂げられなかったと結論している。
第三は、朝鮮人による言語運動との関連性である。著者は、朝鮮語規範化政策の展開のありようが、同時代に並行していた朝鮮人の言語運動との関係性において規定されたものであったことを強調し、両者が没交渉であったとする先行研究を批判する。


 第2編は、1920年代から40年代にかけて朝鮮人側からどのように朝鮮語綴字法を定める努力が行なわれたかを論じている。中心は、「朝鮮語綴字法統一案」(1933年)を作成し、1942年に有名な「朝鮮語学会事件」によって弾圧された朝鮮語学会の活動であるが、それと対立した朝鮮語学研究会の動向も付随的に論じられる。

 序章は、これまでの研究動向の概観である。朝鮮語規範化運動に関しては、朝鮮語学史からのアプローチと植民地下の民族運動としてのアプローチがあるが、どちらも「支配の論理に対する抵抗」という側面だけを強調していると著者は言う。すなわち綴字法制定をめぐる朝鮮語規範化運動を一面的に「支配権力への抵抗」ととらえてしまうと、その歴史的意味もとらえられなくなるというのである。そこで著者は、朝鮮語学会の活動を丹念に洗い直すととともに、朝鮮語学会と対立していた朝鮮語学研究会の活動をクローズアップする。 第1章は、開化期から1930年代に至るまでの朝鮮語規範化運動をめぐる問題の全体的な概説である。

 19世紀末の開化期に生じた言語問題は、話しことばとか書きことばとの断絶の克服にあった。1894年には初めてハングルが「国文」として制定された。また開化期に出版活動、言論活動が盛んになると、朝鮮語規範化運動の必要が強く感じられるようになり、1907年に大韓帝国政府は政府内に「国文研究所」を設置した。しかし統監府時代に日本人が政策に関与する度合いがますます強まり、韓国併合によって言語政策の面でも政策の主体は朝鮮人から総督府に移行することになる。第1編で扱った「普通学校用諺文綴字法」(1912年)は、そうしたものである。

 1910年の「併合」から1919年の三・一独立運動までのいわゆる「武断政治」期は、朝鮮語による活動そのものが厳しく弾圧されたこともあって、朝鮮人側からの朝鮮語規範化への動きはほとんど不可能であった。いわゆる「文化政治」期になって、朝鮮人の文化運動が一定の枠の中で認められると、ようやく朝鮮人側からの活動が活発化する。

 1920年代に朝鮮人による民族運動、文化運動が活発化し、文字普及運動、「ヴ・ナロード」運動、朝鮮語ラジオ放送などが開始されると、「衰退した」朝鮮民族の「再興」という文脈に朝鮮語問題が位置づけられた。総督府にとって朝鮮語教育とは単に「国語」教育の付随物にすぎなかったが、「朝鮮人にとっての朝鮮語教育の重要課題は、規範言語としての朝鮮語の教授であった」と著者は言う。しかし朝鮮語規範化運動の内部は決して一枚岩ではなかった。最も大きな対立は、朝鮮語学会と朝鮮語学研究会との間にあった。

 前者は雑誌『ハングル』、後者は雑誌『正音』を発行し、互いの主張を譲らなかった。綴字法の上での具体的な対立点は、口蓋化音や濃音の表記法をどうするか、また終声複子音を認めるかどうかなどの点に見られた。朝鮮語学会が朝鮮語の形態音韻論的変化を綴字に反映させるという周時経以来の形態主義の原則に忠実だったのに対して、朝鮮語学研究会は「発音されないものは書かない」という表音主義をとり、形態音韻論的な活用変化を処理する際には日本語の段活用を応用した表記を採用した。

 第2章では、朝鮮語規範化運動の中心的存在であった朝鮮語学会の活動が論じられる。ある意味ではこの章は、本論文全体の要となる位置にある。

 朝鮮語学会の母体は、1921年に文法学者であった周時経の弟子たちが集まって組織した「朝鮮語研究会」である。1926年に『訓民正音』頒布記念日を「カギャ日」と定め、記念式典を行なう。1927年に同人誌『ハングル』を創刊、1931年に「朝鮮語学会」に名称を変更する。1932年に機関誌『ハングル』を創刊、1933年に「ハングル綴字法統一案」を発表、1936年に「査定した朝鮮語標準語集」を発表するなど活発な活動をくり広げたが、1942年に突如、主要メンバーのほとんどが治安維持法違反の嫌疑で検挙され、会は徹底的な弾圧を受ける。これが有名な「朝鮮語学会事件」である。

 著者は事件の経緯を以下のように追っている。1942年9月5日、朝鮮語辞典編纂委員の一人であった丁泰鎮は、かつて彼が教えていた女学校の生徒の日記の件で警察から召喚を受けた。丁泰鎮は検挙され、拷問を受けた後、朝鮮語学会が民族主義運動団体であるとの「自白」を強要された。この自白により、1942年10月1日から1943年3月6日の間に朝鮮語学会員29名が検挙され、作成途中の辞典の原稿その他関係書類が押収された。1943年4月半ばに16名が起訴され、政治犯ないし思想犯として予審に付された。1943年12月に李完宰が、1944年2月には韓澄が獄死した。審問は1944年4月から9月まで行なわれ、予審終結決定文では「民族運動ノ一形態トシテノ所謂語文運動ハ、民族固有ノ語文ノ整理統一普及ヲ図ル一ノ文化的民族団体タルト共ニ、最モ深謀遠慮ヲ含ム民族独立運動ノ漸進形態ナリ」とされ、朝鮮語学会は「表面文化運動ノ仮面ノ下ニ朝鮮独立ノ為ノ実力養成団体」とみなされた。1944年12月1日から1945年1月16日まで9回にわたる公判が開かれ、判決が下された。最も重い判決は、李克魯の懲役6年の実刑であった。その後、被告のうちの何人かは控訴するが、すべて棄却され刑が確定した。最終判決が下されたのは、1945年8月13日、日本の敗戦の2日前であった。

 このような事件の経緯から、解放後の韓国では「朝鮮語学会」は民族運動の抵抗として評価されてきたが、著者はその評価は歴史的経緯を無視しており、一面的すぎるという。まず、1921年12月の朝鮮語研究会の創立は、同年3月に行なわれた総督府による綴字法改正への対応策としての意味を持つ。さらに、最も重要なこととして、1930年に総督府が発表した「諺文綴字法」の作成には朝鮮語学研究会のメンバーが加わっており、綴字法改正の内容は朝鮮語研究会の意向に沿う形で行なわれた。つまり、朝鮮語研究会は総督府の「諺文綴字法」に積極的に関与していたのである。

 これを総督府側からの論理で見ると、まず総督府は「文化政治」の枠組みの中で朝鮮人の活動を統治目的のために積極的に「動員」しようとした。そして、二回に及ぶ総督府の発表した綴字法が教育現場でさほどの権威をもたなかった一方で、朝鮮語研究会が学校教育に大きな勢力を持っていたために、総督府は朝鮮語研究会の存在を無視しえなかったのである。朝鮮語研究会(朝鮮語学会)の側から見ると、総督府に自らの綴字法の正当性を認めさせたことは自らの運動の成果であったし、それによって朝鮮語規範化運動の中心的権威を獲得できたのである。1931年の朝鮮語研究会から朝鮮語学会への改称は、まさに1930年の総督府による「諺文綴字法」への参加とその成果を背景にしているのである。

 以上のように、著者は、総督府側と朝鮮語研究会(朝鮮語学会)側でそれぞれ異なる目的があり、綴字法改正という論点をめぐっての相互のかけひきと交渉があった過程を注意深く描き出していく。しかし、その一方で著者は、この「交渉」は朝鮮語学会にとって大きな落とし穴になったことを指摘する。なぜなら、「〔総督府の綴字法改正への〕朝鮮語研究会員参加という事実は、総督府の政策を補完する役割を果たすことになった。つまり、運動の成果は、このような『協力』的行為をともなわずしては得られなかったということになる」(141頁)からである。そして、「総督府は朝鮮人のこのようなナショナルな意識を動員することによって、綴字法改正にこぎつけた」のであり、「総督府による綴字法改正が成し遂げられるや、朝鮮人の言語ナショナリズムは『用済み』になった」(159頁)。1942年の「朝鮮語学会事件」は、ひとたび「動員」された朝鮮人ナショナリズムが、1930年代後半からの「皇民化政策」のなかで一挙に「用済み」になったことを示している。このように著者は指摘する。

 第3章では、朝鮮語学会の陰に隠れてこれまで注目されてこなかった朝鮮語学研究会と、その中心人物であった朴勝彬の活動が論じられる。

 第1節「問題の提示」において著者は、1942年の「朝鮮語学会事件」は「日帝の朝鮮語・朝鮮文の抹殺政策に正面から対抗した抗日運動である」という「国民的記憶」が成立していくのと並行して、朝鮮語学会に対立した朝鮮語学研究会の存在が具体的検討のないまま否定的に評価されてきたと述べる。しかし、植民地下における朝鮮語規範化運動の全貌を描くには、朝鮮語学研究会の活動を明らかにする必要があるという点が確認される。

 第2節では、1920年代の「文化政治」期において、朝鮮語学研究会の前身である「啓明倶楽部」をとりあげる。啓明倶楽部は、1918年に民族啓蒙団体として発足した漢陽倶楽部の後身であり、閔大植、朴勝彬、崔南善、李能和などが関与し、おもに生活改善、学術研究、古典刊行などの活動を行なった。言語問題への関与としては、1921年5月の総会で、児童間に敬語を使用させること、あらゆる場面で使用しうる二人称代名詞に「当身」を採用することを決定した。つまり「弊風」の「矯正」という点で、啓明倶楽部にとっての言語問題は生活改善運動の一環であった。また、綴字法に関しては、すでに1922年の段階で朴勝彬は、当時朝鮮語の綴字法は三種類存在し、第一は総督府のもの、第二は周時経伝来の朝鮮語研究会のもの、そして第三は自分のものであると述べていた。つまりかなり早い時期から、朴勝彬は朝鮮語研究会に対立意識を持っていたと著者は指摘する。

 第3節では、1931年12月の創立から、1934年の機関誌『正音』の発行、1941年に『正音』が37号で廃刊を迎えるまでの朝鮮語学研究会の活動が述べられる。著者によれば、朝鮮語学研究会の活動の根拠は、一貫して、周時経系の「ハングル」派への対抗意識にあった。具体的に言えば、「標準語」の規定、終声子音字母の認定、濃音表記、用言活用表記などをめぐって対立が存在していた。

 第4節では、1930年代に朝鮮語学会と朝鮮語学研究会が対立を激化させていった過程が考察される。朝鮮語学会は1933年に「朝鮮語綴字法統一案」を発表したときから、たびたび朝鮮語学研究会に「合作」をはたらきかけてきたが、そのつど朴勝彬に拒否されたという。著者は、朴勝彬がこのように態度を硬化させていった理由は、1930年に総督府が発表した「諺文綴字法」に朝鮮語学会の意見が大幅に採用されたことにあると見ている。つまり、朝鮮語規範化運動の主導権は、総督府の第三回綴字法改正の成立によって、朝鮮語学会に移ったのであり、そのことが朝鮮語学研究会からの対立意識を一層激しくさせたのであるという。

 第5節では、朝鮮語学研究会の中心人物であった朴勝彬の人物像とその言語観がとりあげられる。朴勝彬は1880年に生まれ、1894年に最後の科挙を受け合格、1904年に日本に留学、1907年に帰国、弁護士を開業するかたわら、物産奨励運動、自治運動、体育奨励運動、言論擁護運動などさまざまな社会啓蒙活動に活発に関わっていく。1943年に63歳で没。朴勝彬は「言語が民族の性格を映し出す鏡である」という認識から、朝鮮語を「合理化」することで、朝鮮民族をより高い「文化」に導こうとした。そして、朴勝彬が朝鮮語綴字法に関心をもったのは、1904年から1907年にかけての留学の際に、仮名遣いや言文一致をめぐる国語国字問題に出会ったからではないかと著者は見ている。

 第6節「むすびにかえて」では、植民地期の朝鮮語規範化運動の全体像は、朝鮮語学会と朝鮮語学研究会との対立を視野に入れることによって、初めて完全なものとなりうるという主張をもう一度くり返している。


 結論「植民地下の朝鮮語規範化の政治的文脈」は3つの章に分けられている。

 第1章では、これまでの議論を総合した上で、開化期から「韓国併合」を経て朝鮮語学会事件に至るまでの朝鮮語規範化運動の流れを、総督府の動きと朝鮮人言語運動団体の活動の対立、さらには後者の諸団体間の対立を図式化する形で整理している。

 第2章では、植民地下における朝鮮語規範化はつねに朝鮮総督府の政策を軸にしていたことが確認される。「武断政治」下においてはいうまでもなく、「文化政治」下においても、朝鮮人側の規範化運動のあり方自体が総督府綴字法への支持/不支持という問題と連関しており、総督府の規範化政策が民族運動としての朝鮮語規範化運動のあり方を規定していた。そして、その最終局面が「朝鮮語学会事件」であったと著者は述べる。そして章の後半では、植民地統治と民族語規範化政策との関係という視点から、朝鮮の事例と台湾の事例を比較し、その展開過程にかなりの差異が認められるという。しかし、この比較の作業自体はあまり精密なものではなく、概括的な視点からのラフスケッチにすぎない。

 第3章「むすびにかえて」では、論文全体を通しての著者のモチーフがもう一度述べられる。それによると、近年「帝国日本語」論が話題になるとき、ともすれば支配する日本語=「国語」の側の政治性だけが強調され、抑圧される側の言語に関する分析が軽んじられる傾向にあるという。植民地下の朝鮮における言語支配の問題を扱うに際しては、「支配者側がどのように朝鮮語を処遇しようとし、それに対して朝鮮人側がどのように対応したか」、そして、この「相互交渉」のなかで、さまざまな行動主体の意識がどのように交錯するかと問われなければならないと述べて、本論全体の結びとしている。


3.本論文の成果と問題点


 本論文の第1の成果は、植民地期における朝鮮語規範化問題を資料に即して具体的に明らかにした点である。とくに朝鮮総督府の三回にわたる綴字法の制定・改正過程、その内容について精細に明らかにしたことの意義は大きい。これは、著者が長年にわたって粘り強く、日本・韓国において資料の発掘・収集に努めた成果である。

 第2に、朝鮮語研究会(朝鮮語学会)が総督府の第三回綴字法改正の作業に参加したことを明らかにし、朝鮮語研究会は総督府の朝鮮語規範化政策に積極的に関与することによって、1931年以降の朝鮮語規範化運動において主導権を握ったという像を提示したことである。

 第3に、第2において指摘した点も含めて、朝鮮総督府の朝鮮語規範化政策と朝鮮人側の朝鮮語規範化運動との相互規定的関係を具体的に明らかにしたことである。これは、両者を無関係・没交渉なものと見ることへの批判から出発して、事実関係を克明に明らかにしようと努めたことによる成果である。

 第4に、朝鮮人側の朝鮮語規範化運動が一枚岩ではなく、内部に対立があったことを重視し、朝鮮語研究会(朝鮮語学会)と対立した朝鮮語学研究会とその中心人物・朴勝彬の活動に注目した点である。これは、当時の朝鮮語規範化運動の内部構造をとらえ直す上において貴重な作業と言うことができる。

 本論文の問題点としては、第1に1930年代末以降の朝鮮語規範化問題をめぐる動向についての分析がなお不充分な点が挙げられる。総督府の第三回綴字法と朝鮮語学会の「朝鮮語綴字法統一案」の相互関係、朝鮮語学会が「用済み」とされ、弾圧の対象となっていく要因は何かなど、関係資料の一層の探索・収集を前提に、分析を深める必要がある。

 第2に、朝鮮語規範化総体のなかでの綴字法の位置づけがなお明らかでないことである。 第3に、植民地期の朝鮮社会で一般に使用されていた綴字法がどのようなものであったかを、文学作品、新聞・雑誌記事などの資料によって明らかにする必要があることである。 しかし、以上の3点の検討には、多くの資料の収集・分析を要し、相当長い時日がかかることである。したがってこれらの点は、本論文の達成した多くの成果を損なうものではなく、今後の研究に期待したい。

 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する充分な成果をあげたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

2002年3月13日

 2002 年2月21日、学位請求論文提出者三ツ井崇氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「植民地下朝鮮における言語支配の構造―朝鮮語規範化問題を中心に―」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、三ツ井崇氏はいずれも適切な説明を与えた。

 以上により、審査員一同は三ツ井崇氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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