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博士論文審査要旨

論文題目:アメリカ合衆国による占領期対日映画政策の形成と遂行
著者:谷川 建司 (TANIKAWA, Takeshi)
論文審査委員:山本武利、安川一、村田光二、木本喜美子

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I 本論文の構成

  序 アメリカ合衆国による対日映画政策の連続性・非連続性
 第一部 占領期対日映画政策の形成
  第一章 国務省・戦後計画委員会、1939-44年
  第二章 国務・陸軍・海軍三省調整委員会、1944-45年
  第三章 国務・陸軍・海軍三省調整委員会、1945-46年
  第四章 合衆国政府のプロパガンダ政策、1938-42年
  第五章 戦時情報局、1942-45年
  第六章 戦時情報局、1944-45年
  第七章 国務省・文化関係部、1941-44年
  第八章 国務省・国際情報部、1944-45年
 第二部 占領期対日映画政策の遂行
  第九章 連合国軍最高司令官総司令部、1945-46年
  第十章 国務省・国際映画部、1946-47年
  第十一章 セントラル・モーション・ピクチュア社、1945-46年
  第十二章 陸軍省・民政部、1946-47年
  第十三章 連合国軍最高司令官総司令部、1946年
  第十四章 民間情報教育局、1946-52年
  第十五章 民間検閲部、1946-49年
  第十六章 セントラル・モーション・ピクチュア社、1947-51年
 第三部 事例検証
  第十七章 封建主義的・軍国主義的要素を含む作品
  第十八章 親共産主義的要素を含む作品
  第十九章 日本人の国民感情に配慮すべき作品
 結語 アメリカ合衆国による占領期対日映画政策の評価
 付録資料

II 本論文の概要

 第一章から第三章にかけては、従来の研究史に見られた国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)とその下部組織の極東小委員会(SFE)による政策形成の系譜に注目している。SWNCCが日本人再教育のために映画を活用する政策を準備していたこと、とくに啓蒙教育目的に製作されたドキュメンタリー映画を積極的に見せるという方針は、国務省のヘゲモニーで確立されていたことが明らかになっている。

 第四章では、ローズヴェルト政府下で乱立された様々な部局の中で、公式の対外映画製作を担当するのが国務省文化関係部であることを指摘した。そして1939年1月の映画会議がこの部局を生んだことも明らかにした。

 第五章と第六章では、戦時情報局(OWI)の活動に焦点を当て、その映画課がいかにハリウッド映画産業界を指導・統制したかを詳らかにしている。とくに第六章では、OWIのスタッフであったドン・ブラウンとマイケル・バーガーが戦後の極東におけるアメリカ映画配給体制についての二つの具体案を出していることを指摘した。両人は占領期日本の映画政策の責任者であったことから、戦中、戦後の連続性を示唆するものとしてかれらのプランが詳述されている。

 第七章、第八章では、再び国務省を中心とした系譜を総括している。なぜなら国務省文化関係部が映画政策にかんしアメリカ政府内の他の部局、機関との調整を図り、政府としての公式の対外映画政策をまとめる役割を担っていたからである。この部局のチーフとなったジョン・M・ベッグがニュース映画製作の豊富な実務経験を生かし、OWIなどと緊密な連絡を取りながら、この部局を映画ラジオ部、国際情報部と発展させたことを明らかにした。さらにSFE―118としてまとめられた対日映画政策の原案がこの部局の手になることが解明された。

 第二部では、第一部の時期に検討されたり、萌芽したり、あるいは固められた方針、プランが、占領期になって具体的な政策としてどの程度実施されたかを追究している。

 第九章は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の成立とそのメディア政策の方針を説明する。メディアの規制、指導を行った民間情報教育局(CIE)とメディア検閲を担当した民間検閲部(CCD)の組織や任務について詳らかにする。新聞・雑誌に対するプレス・コード、放送に対するラジオ・コードはスキャピンで公表されたメディア指導、検閲の根本方針であるが、映画、紙芝居などヴィジュアル・メディアむけにはピクトリアル・コードがあることが最近明らかになった。本章では、さらに筆者がその存在を発掘した映画コードについても言及している。

 第十章では、ジョン・M・ベックの国務省国際情報局が、終戦とともに廃止されたOWIなどの機能やスタッフを吸収し、国際映画部として一本化された経緯を詳述している。とくに極東における戦後のアメリカ配給機構のプランを立てていたOWIが吸収されたことにより、国際映画部は啓蒙教育目的のドキュメンタリー映画の製作、供給だけでなく、一元化されたニュース映画供給体制としてのユナイテッド・ニュースの製作、さらにはハリウッド製劇映画の選定といった活動を担うこととなった。OWIのスタッフであったドン・ブラウンやマイケル・バーガーも一旦国務省の所属となり、国務省から派遣という形で日本に送られてくる。

 第十一章は、第六章で示したOWI海外映画課のマイケル・バーガーによって提案された原案が、実際にセントラル・モーション・ピクチュア社(CMPE)となって実現した経緯を明らかにしている。厳選されたハリウッド製劇映画を教材にして日本の民主化を促進させるというのが、同社設立のねらいであった。同社は「アメリカ映画は文化の泉」を唱って、アメリカ的生活様式や考え方を示す37作品を選定した。しかしその大部分は娯楽作品であった。マイケル・バーガーの努力にもかかわらず、ハリウッドの息のかかったアメリカ映画輸出協会の利益追求の姿勢に譲歩させられた同社が、遠くない時期に私企業に転換していくことが、設立当初から見通せたという。

 第十二章では、陸軍省民政部(CAD)を通した陸軍省の対日映画政策を分析している。CADはSWNCCを構成する主要部局であったが、占領後に再教育課占領地域メディア班に映画・演劇ユニットという部門を新設した。そしてその部門が日本に送るハリウッド劇映画の承認手続きやドキュメンタリー映画政策などにかかわった。

 第十三章は、設立当初のGHQ/SCAP内でのCIEとCCDの対立関係と役割分担の確定の過程を両者の代表者が行った三つの会議の議事録を通じて明らかにしている。

 第十四章、第十五章そして第十六章は、それぞれCIE,CCDそしてCMPEのその後の活動を追跡したものである。第一部で言及された対日映画政策の中で、国務省国際映画部が扱った啓蒙教育用に製作されたドキュメンタリー映画を、CIE情報課の映画演劇班が日本中にCIE映画として流通させた。一方、劇映画に関していえば、CIEの外郭団体であったCMPEが、1947年5月から私企業となったため、ハリウッド映画産業の利益追求が露骨にでた作品が急増した。したがって国務省が戦前から用意した劇映画扱いの方針が、CMPEの私企業化によって占領後期には形骸化したこと、つまり連続性は持たなくなったことがわかる。しかしアメリカ映画が民主化に役立つべきとの建て前はCIEやCCDの現場スタッフには浸透していたため、CCDの検閲では、CMPE配給の映画といえども、映画コードに抵触していないかどうか厳しくチェックされていた。

 第三部はCIE,CCD、CMPEの三者によってなされた活動のなかで、どのような映画が問題となったかを、具体的事例をあげて検証している。第十七章では、西部劇、西洋剣劇、時代劇への対応をアメリカ映画のみならず日本映画、ドイツ映画と対比しながら分析している。第十八章では、ソ連映画や親ソ的アメリカ映画への輸入、公開制限や検閲の事例を出している。第十九章では、原爆、東京大空襲などを描いた作品の扱われ方が対象となっている。これらの事例検証によって、アメリカ映画に対するアメリカ政府や占領軍の方針の連続性、非連続性への理解を深めようとしている。

 結語では、まずSWNCC/SFEの検討した直接統治の日本占領政策が、間接統治に変わったため、そのまま採用されなくなったと述べる。またマッカーサーは占領政策への国務省の直接関与を歓迎しなかった。しかしアメリカ映画政策では、戦時期に提案されたCMPEがそのまま実施されたように、戦時期と占領期の連続性が強い。その提案者のマイケル・バーガーがそのCMPEの初代所長になった。また同じくOWI海外映画課にいたドン・ブラウンもCIE情報課長として、映画を指導する立場についた。こうしたスタッフの連続性の意味は対日アメリカ映画政策を検討する際、無視できないという。

III 本論文の成果と問題点

 アメリカは対日開戦、いやそれ以前から日本占領政策を練っていた。そのなかにはメディアを使った日本の再建策があった。その際、映画はヴィジュアルなメディアとしてオーディエンスへの訴求度の強さが評価された。日本占領は、事実上アメリカ太平洋陸軍による単独占領であった。アメリカ占領軍は映画を通じ日本を非軍国主義化し、民主主義国家として再建しようとした。本論文は、アメリカ映画による対日文化政策、とくに日本人「再教育プログラム」の方針の戦前での形成と戦後での遂行の経過を実証的に把握したものである。

 戦後50年と映画誕生百年が重なった1995年前後には、戦後の映画史についての概説書や回顧録などが多数出版された。しかし占領期に焦点を絞った映画研究書は出なかったし、その後もほとんど出ていない。わずかに平野共余子の英文の博士論文(翻訳『天皇と接吻』1998年)を見るのみである。この論文はCIE資料を使って、占領軍の日本映画への指導、統制を分析した画期的なものであるが、CCDの資料を使っていないため、検閲の側面が落ちている。また戦後日本人に人気急上昇したアメリカ映画を対象にしていない。

 谷川氏は平野論文から示唆を受けつつも、CCD、CIEの資料を渉猟し、両者の比較分析によって、アメリカ占領軍のアメリカ映画への二重の検閲、指導の実態を把握した。しかし本論文の主眼はアメリカ映画に限定しつつ、戦時期と占領期におけるアメリカの対日映画政策の連続性と非連続性を分析することにある。本論文でいう政策とは、政府各部局、軍機関などの宣伝、メディア指導などの方針や立案、コードなどの形成、メディア指導、検閲などの遂行にいたる広範囲なものである。戦時期には国務省、陸海軍、大統領直属のOWIなどがアメリカの勝利を想定し、占領期日本での「再教育プログラム」実施の一環として映画とくにアメリカ映画を活用しようと検討し、さまざまな提案を行っていたことが、本論文によって明らかにされた。そしてその立案が占領期にとくにCIEの政策で実現したことを実証するのに成功した。CIEでは、その政策の実行者が戦時期のOWIでの立案者であったことも、本論文ではじめて明らかにされた。

 またハリウッドが戦時中は政府に協力したものの、その協力も占領のごく初期だけで、まもなく日本の民主化という課題よりも、自らの利益追求の行動を行ったことを明らかにしている。

 本論文は400字詰め2、100枚に相当する浩瀚なものである。そのなかに公刊された内外の文献のみならずGHQ/SCAP、プランゲ雑誌資料、国務省資料、生存者へのインタビューなど多様な第1次資料を投入している。そのなかには、戦前の映画会議や戦後の映画コードの記録などの発掘資料も多い。しかもこれらの雑多な資料に埋没することなく、各部局、各機関の動きをかなり正確に捉えた。たとえばOWIというプロパガンダ機関は戦時期のメディア史や政治史の文献には頻出する重要な機関であるにもかかわらず、その組織図や変遷をまとめた文献はアメリカにも見当たらない。それにもかかわらず、谷川氏は映画政策でのOWIの足跡を描くことに成功している。また国務省の文化情報部や国際情報部といった従来ほとんど無視された部局の組織や機能やそれらを担った人物を浮き彫りにしている。

 しかし問題点もある。このように多様な機関や部局や人物を分析対象とする余り、それらの重要度が比較考量されなくなったきらいがある。戦時期では、 OWI記述の比重を増した方がよかったと思われる。また占領期では、従来の映画史で無視されてきたCCD資料をさらに発掘し、CIEとの映画政策との差異をもっとメリハリをつけて描写するという方法もあった。

 戦前との連続性を人物の同一性に求め過ぎるきらいがある。たしかに両時期で重要な役割を担った人物の存在を明らかにした意義は少なくない。しかしかれらの政策形成や実行にはたした役割への立証がまだ十分とはいえない。

 さらにケース・スタディで若干触れられたものの、日本映画政策との比較分析が足りなかった。比較といえば、さらにラジオ政策との違いもあきらかにした方がよかった。というのは、ラジオにも映画同様なCIEとCCDの二重のチェックがかかっていたからである。

 しかしこれらの問題点はないものねだりかもしれない。また本人も自覚している点でもあり、今後の研究の過程で克服されるものと思われる。

 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与すること大と認め、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2001年3月14日

 2001年2月22日、学位論文提出者谷川建司氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「アメリカ合衆国による占領期対日映画政策の形成と遂行」に基づき、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、谷川建司氏はいずれにも適当な説明を加えた。
 以上により、審査委員一同は谷川建司氏が学位を授与されるに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判断した。

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