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博士論文審査要旨

論文題目:朝鮮東北部・咸鏡北道の社会変容―植民地期の港湾「開発」問題を中心に―
著者:加藤 圭木 (KATO, Keiki)
論文審査委員:糟谷 憲一、石居 人也、佐藤 仁史、吉田 裕

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1.本論文の構成

 本論文は、19世紀末から1945年までの時期に、日本による植民地化政策・植民地支配の下で、朝鮮の東北部=咸鏡北道の社会がどのように変容したのか、変容を規定した諸要因はどのようなものであったかを具体的に考察したものである。本文・主要参考文献目録を併せて、400字詰原稿用紙換算にして約800枚に及ぶ力作である。
 その構成は次のとおりである。
序章
第一節 本論文の課題
第二節 先行研究
第三節 史料
第四節 各章の構成
第一章 近代における咸鏡北道―内外交易を中心に―
はじめに
 第一節 咸鏡北道の経済的特質
 第二節 対露交易の進展
 第三節 各地域からみる咸鏡北道の内外交易
 おわりに
第二章 清津港の「開発」と羅南・鏡城
はじめに
 第一節 清津港の「開発」
 第二節 清津港の「開発」の影響
 第三節 日本人商工業者の動向と鉄道敷設
 おわりに
第三章 日露戦後から1920年代までにおける咸鏡北道の交易と社会
 はじめに
 第一節 日露戦後から1920年代までにおける咸鏡北道の交易
 第二節 植民地下の咸鏡北道の港湾と地域―1920年代を中心に―
 第三節 植民地期咸鏡北道の農村と農家経営
 おわりに
第四章 羅津における港湾都市「開発」の展開
はじめに
 第一節 「開発」以前の羅津
 第二節 羅津「開発」の決定
 第三節 土地買収・収用と満鉄の港湾・鉄道建設
 第四節 人口の変動
 第五節 朝鮮市街地計画令の特徴
第六節 土地区画整理事業の特徴と運用
 第七節 住宅撤去の展開
 第八節 人口の減少と「開発」の行き詰まり
 おわりに
第五章 「労働者移動紹介事業」と朝鮮北部「開発」
 はじめに
 第一節 「労働者移動紹介事業」実施の背景
 第二節 「労働者移動紹介事業」の展開
 おわりに
第六章 羅津の「開発」と地域有力者
 はじめに
 第一節 羅津における行政機構の変遷
 第二節 羅津の地方財政
 第三節 終端港決定前後の地域有力者
 第四節 終端港決定以降の地域有力者
 第五節 漁村としての羅津
 第六節 「開発」と府会議員の対応
 おわりに
第七章 戦時期の羅津港
 はじめに
 第一節 羅津をめぐる情勢の変化
 第二節 羅津「開発」政策の策定
 第三節 羅津港における貿易
 第四節 戦時期の羅津社会
おわりに
終章
 第一節 結論
 第二節 課題と展望
主要参考文献
 

2.本論文の概要

 序章の第一節では、本論文の課題について次のように述べている。日本の植民地化政策・植民地支配の下で朝鮮社会がどのように変容していったのかを考察することは、朝鮮近現代史を理解し、日本の植民地支配がどのようなものであったかを考える上で避けては通れない問題である。その際、第一に、社会変容といっても、その有り様は地域に異なっているから、特定の地域を対象として考察する必要がある。第二に、植民地期の変容を規定しているのは、日本による植民地支配だけでなく、朝鮮社会の内在的要因はもちろん、国際的な要因、帝国内部の植民地間の関係、自然環境の変化なども視野に入れて、地域の具体的な状況を複合的な視点で検討する必要がある。こうした分析視角に立って、本論文では咸鏡北道の社会変容を検討するが、咸鏡北道を取り上げるメリットとしては、次の4点がある。(1)他の地方と異なる経済的特質があり、相対的に日本側が経済的に浸透しにくく、日本の支配によって制御し得ない地域の動向が浮かびあがりやすいと考えられる。(2)ロシア・中国と国境を接しているという条件から、この地域の経済を国際的な情勢と関連づけて論じることができる。(3)日本の満洲侵略と関連づけて日本の朝鮮支配政策を論じることに適している。(4)1920年代以降、イワシの大量回遊という自然環境の変化によって、この地域で盛んであった漁業が変容していったという歴史がある。
 第二節では、本論文と関連する先行研究が、(1)朝鮮王朝後期から植民地期にかけての咸鏡北道の経済・社会に関する研究(梶村秀樹・呉洙彰ら)、(2)咸鏡北道における港湾・鉄道建設にも言及した日本の大陸進出に関する研究(芳井研一・加藤聖文ら)、(3)植民地支配下の「開発」に関する研究に大別して、整理されている。それをふまえて、筆者は地域を限定して比較的長いスパンで検討すること、開発が地域において引きおこした矛盾や地域の人々の動向に関する分析を重視することの必要性を説いている。
 第三節では、本論文で使用した主な史料について触れ、1930年代の地域政治を韓国国家記録院所蔵の地域行政文書を用いて明らかにしたことは、本論文の史料利用上の特徴であると述べている。ついで第四節では、各章の構成が示される。
 第一章では、植民地化(1910年の「韓国併合」)前の咸鏡北道の特質について経済面を中心に考察している(なお、各章に「はじめに」「おわりに」があるが、多くはその章の検討課題の提示とまとめなので、独自の論点を示している箇所以外は、紹介を省く)。
 第一節では、咸鏡北道の農業の特徴(畑作地帯、人口の八割近くが農業に従事、地主が少なく自作農が多い、農家の主食は粟や稗である、大豆や麻布の生産や牛の飼育が盛ん)、漁業の特徴(明太が主な漁獲物)、流通は牛車や帆船などの輸送手段によって支えられていたこと、などを述べている。
 第二節では、1860年にロシアと国境を接するようになった後、ロシアとの交易(生牛・燕麦などの輸出と金巾など織物類の輸入)が密貿易も含んで展開し、ウラジオストクへ朝鮮在来の帆船が行き、沿海州への出稼ぎも多かったことを述べている。
 第三節では、咸鏡北道において国内・国外交易の拠点となっていた地域として、(1)吉州・城津、(2)鏡城、(3)慶興・雄基を挙げて、それぞれの状況を次のように明らかにしている。(1)吉州地域では吉州府城・臨溟場が物資の集積地として栄え、平安道やウラジオストクとも交易があったが、1898年に城津が開港すると、城津を中心に物資が流通するようになった。城津には日本人はほとんど進出できず、朝鮮人を中心とする港となったが、開港に伴う大豆の対日輸出の開始は徐々にこの地域の経済と日本経済との結びつきを強めていった。(2)鏡城は王朝時代以来、咸鏡北道の政治・経済の中心地であり、鏡城に近接した独津の港が栄えていた。(3)慶興には対露貿易の開市場が設けられていたが、主要輸出品の生牛は通過するだけであり、むしろ郡の南部海岸にある雄基が交易の拠点となっており、朝鮮商人は雄基開港の運動を行っていた。筆者はこのような検討をもとに、日露戦争の直前の段階では、咸鏡北道は日本の経済進出は他地域と比べるとそれほど進展していなかったと論じている。
 第二章では、日露戦争以降に進められた清津の港湾開発とそれが周辺地域にもたらした影響を論じている。
第一節では、(1)日露戦争に際して、1905年に清津が日本軍の軍需品の揚陸地とされたのを機に、日本が清津を軍事的進出の拠点として重視し、1908年には清津が開港されたこと、(2)1907年からの羅南における軍事基地建設(のち第19師団司令部を設置)においても清津は軍需品の輸送ルートとして重要であったこと、(3)清津の開発の過程で韓国の官有地を略奪するなどの強権的手法が用いられたこと、などを明らかにしている。
 第二節では、(1)清津の開港や羅南の軍事基地建設によって多くの日本人が移住してきたこと、(2)羅南では軍事基地建設時に人口が増加したが一時的なものであったこと、(3)羅南と清津とは密接に結びついていたが独津との関係は非常に薄かったこと、(4)日本は清津―会寧間に軽便鉄道を敷設したが朝鮮人はなお牛車を利用したこと、などを明らかにしている。
 第三節では、(1)清津の日本商人たちによる商工会議所設立に対して朝鮮総督府は1920年代初めまで認可しないという冷淡な対応をとったこと、(2)1914年から清津―会寧間に普通鉄道が建設され(1917年開通)、さらに満洲とつなぐために日本は吉林―会寧間の鉄道(吉会鉄道)を企てたが、中国側の反発で難航し、代わって天宝山―池坊(図們江岸)間の軽便鉄道(天図鉄道)を建設し(1924年全通)、会寧―上三峯(池坊対岸)間の軽便鉄道(1920年開通)と接続することによって、清津は鉄道によって満洲に接続する港となったことを明らかにしている。
 筆者は、第二章を通じて、清津・羅南に日本の軍事的・経済的拠点が作られ、満洲への進出の拠点として早くから重視されたこと、他面では鏡城・独津を中心とする近隣地域の在来の経済活動との関係はきわめて希薄であったことをよく描き出している。
 第三章では、日露戦後から1920年代にかけて咸鏡北道がどのように変容していくのかを、交易の問題を中心に検討している。
 第一節では交易の変容を細かく検討し、次の6点を指摘している。(1)「韓国併合」前後の沿岸移出入のデータを検討すると、朝鮮人商人の勢力が強い独津港は清津港によって少し押されていたが、なおしぶとく存続していた。(2)城津・清津の輸移出入額の推移をみると、1910年代後半以降は清津が鉄道の整備によって拡大するのに対し、城津は横ばいとなった。(3)咸鏡北道の開港場からの輸移出品として重要であったのは大豆で、朝鮮産(道内産)の大豆は城津・雄基から、満洲産の大豆は清津から輸移出された。朝鮮総督府は日本へ移出される大豆の品質確保のために、優良品種の普及を図り、品質検査を実施した。(4)生牛の対日移出が第一次世界大戦期に増加したが、移出港としては城津が大きな役割を果たした。(5)道内の市場(イチバ)をみると、城津港は吉州郡内の在来の市場を、清津港は清津府内に日本人主導で設置された市場を背景としていた。(6)1910年代以降、満洲の琿春とウラジオストクとの貿易が衰退したのに対して、琿春の朝鮮を経由しての対日貿易が拡大し、1921年の雄基開港後は、雄基経由の対日貿易が拡大した。雄基と琿春との間では物資は在来の牛車と駄馬で輸送されており、朝鮮人が貿易の拡大を下から支える役割を果たしていた。
第二節では、1925年現在の咸鏡北道の主要地域における人口構成を分析し、諸地域を
日本人が大量に進出した地域(日本人の比率30%以上。清津・羅南)、日本人がやや進出した地域(日本人の比率10%以上。雄基・城津)、日本人の進出が進んでいない地域(日本人の比率10%未満。鏡城・独津・吉州・慶興)に類別した上で、鏡城・独津、城津、雄基における社会変容とその受け止められ方を検討している。その結果、(1)1923年に咸鏡北道庁が羅南に移転し、鏡城は行政の中心の地位を失ったが、朝鮮人側では鏡城は社会運動や教育の中心であるとの認識や日本人集中地域に対する格差意識が生じていたこと、(2)城津では植民地期に入ってからも、朝鮮人商人・有力者の力が他地域に比べて相対的に強かったこと、(3)雄基では開港に伴って進出した日本人と一部の朝鮮人有力者によって、満洲と接続する鉄道の敷設を求める運動が展開されたが、それは牛車等による陸路貿易に従事する朝鮮人の利害とは一致しないものであったこと、などが明らかにされている。
 第三節では、1920年代半ばにおける農家経済調査のデータに関する分析をもとにして、咸鏡北道の農村では、大豆の対日移出の拡大という状況の中で、どの階層の農家も、大豆生産に重点を置いて現金収入を得て、それによって穀物を輸入していたことを明らかにし、咸鏡北道の農産物国境輸入額の統計を基に、満洲から粟・大豆・小豆が多く輸入されていたことを示して、穀物の多くが満洲から供給されていたと論じている。
筆者は第三章を通じて、清津などを拠点として日本の経済的浸透、大豆・生牛の対日移出拡大などによる日本経済への従属が進行していく側面を明らかにする一方で、朝鮮人商人や輸送業者などの活動が持続している面、沿海州や満洲との関係の変化が咸鏡北道の社会変容を規定している側面をも明らかにしている。
 第四章から第七章では、「満洲事変」後における羅津の港湾「開発」とそれに関連した問題を論じている。
 第四章では、1932年に京図鉄道(満洲国の新京―図們)の終端港として羅津が決定し、港湾開発・市街地計画が実施された過程を跡づけている。「はじめに」において、羅津の地方行政区分の変動、すなわち慶興郡新安面(面は行政村)が1934年に羅津邑(邑は日本本国の「町」に相当)、1936年に羅津府(府は日本本国の「市」に相当)に昇格したことを述べ、面・邑・府内の下位行政区分を示した地図が掲げられている。
最初の二節では、「開発」以前の羅津は漁業の盛んな地域であったことを明らかにした(第一節)上で、1932年4月に京図鉄道終端港の選定会議が日本陸海軍、朝鮮総督府、満鉄などの関係者によって行われ、羅津開発に積極的ではない総督府、満鉄に対して、陸海軍は対ソ戦準備などの軍事的理由によって羅津港築造を主張し、5月の犬養毅内閣の閣議決定によって羅津開発が決定された経過を述べている(第二節)。
 第三節では、羅津開発の噂が流れると、羅津では土地投機が起こったので、羅津開発に当たった満鉄は総督府と土地買収対策を協議し、1932年8月に朝鮮総督府は地主との事前協議なしに土地収用事業に認定する強権的手法を採り、1933~35年に土地収用の対象となった不在地主(多くは日本人)の反対を斥けて開発用地が獲得されたこと、1933年4月に羅津洞地区は、咸鏡北道庁の圧力を受けて軍用地として買収されたこと、以上の土地買収・収用を受けて港湾・鉄道の建設が進められ、1935年11月に羅津港は開業し、雄基―羅津間の鉄道(雄羅鉄道)が開通したことを述べている。
 第四節では、羅津の開発に伴って、人口構成が大きく変化したことを明らかにしている。具体的には、(1)建設工事の労働現場をめざして多くの人々が流入し、人口増が進んだが、これらの人々が住居を確保するのは困難で、河川敷や国有地を「無断占拠」してバラックを建てて生活する人々が多数みられたこと、(2)中心部では商工業者や雑業層が人口の大半を占めて都市の様相を示すようになったが、周辺部では農業・漁業従事者が人口の8割以上を占めており、中心部は日本人と朝鮮人が混住していたのに対して、周辺部ではほとんどが朝鮮人であったことを指摘している。
 第五節では、1934年11月に朝鮮総督府は羅津の都市開発のために、「朝鮮市街地計画令」を適用したことを述べ、「朝鮮市街地計画令」の特徴を分析している。その結果、(1)朝鮮では土地区画整理を地主が構成する組合によって施工することを認めず、行政によって施工されたこと、(2)整理地区内における移転・立退命令に関する規定が導入されていることが、2つの特徴であり、植民地であるがゆえの強権的な規定であったと論じている。
 第六節では、羅津の土地区画整理事業が、その財源を地主負担金でまかなおうとしたために、資金確保が困難であり、そのために工事が遅れ、工事の遅れが資金の確保を遅らせるという悪循環に陥ったことを明らかにしている。
 第七節では、土地区画整理事業に伴って行われた住宅撤去の問題を扱い、市街地計画令に基づく住宅撤去の強制と居住者の抵抗の様相を跡づけている。
 第八節では、1936年に入ってからの羅津「開発」の行き詰まりの様相を明らかにしている。(1)住宅撤去、工事の一段落などによって羅津の人口が減少するとともに、労働力不足も深刻化して、羅津港の運営に支障を来し、市街地計画事業も遅延したことを述べるとともに、(2)日本人議員が多数を占める羅津府会は「満人労働者」導入を求める決議を採択したが、それは現住の労働者の生活や労働条件を改善する考えが欠落したものであったと論じている。
 「おわりに」では、市街地計画の行き詰まりの背景について論じ、次の4点を指摘している。(1)整理事業の費用の大部分を地主からの徴収によってまかなおうとした制度上の問題があった。(2)羅津の土地の多くが不在地主の所有となっていて、土地を貸し渋り、土地利用が円滑さを欠いた。(3)羅津の労働力需要は安定しておらず、労働者の定着は容易ではなかった。(4)整理事業による住宅の撤去が、羅津内での移転が困難なことから転出に帰結し、状況を一段と悪化させた。
 第五章では、羅津への労働力の移動とも関連している、朝鮮総督府による「労働者移動紹介事業」の実態を明らかにしている。
第一節では、「労働者移動紹介事業」実施の背景について検討している。1934年春から開始された同事業は、1934年10月の岡田啓介内閣の閣議決定「朝鮮人移住ノ件」にも組み込まれたことを述べ、植民地農業政策の結果として貧困問題が深刻化する朝鮮南部の農民を、北部に労働者として移動させることによって植民地支配の安定を図ることが、総督府の目的であったと論じている。
 第二節では、1934~36年における「労働者移動紹介事業」の展開過程を斡旋数・斡旋先、朝鮮総督府学務局社会課による労働者受入側との交渉や南部4道知事への応募者人選依頼などについて述べた後、主たる斡旋先であった羅津への労働者移動の状況を検討している。それを通じて、(1)羅津では飯場が用意されていないなど、受入体制が十分には整えられていなかったこと、(2)南部からの労働者の募集には郡・面の職員が関与する場合と、行政庁の指示で朝鮮人に募集させる場合があったこと、(3)羅津への引率は学務局社会課職員または、道内務部地方課職員が担当する場合、土木会社社員が担当する場合、現場で班長となる労働者が引率する場合があったこと、(4)斡旋されてきた労働者以外にも、大量の人々が仕事を求めて殺到したので、賃金が低下したこと、(5)農村出身者がすぐに現場に適応できるわけではないのに、労働訓練の実施などの配慮がなされなかったこと、などを明らかにしている。以上のような様相をもとに、支配の安定化を目的としていた「労働者移動紹介事業」は朝鮮人労働者との矛盾を深めて、支配をさらに不安定にしたと論じている。
 第六章では、港湾都市としての「開発」が進められたことによって、羅津の社会がどのように変容したのかを、主として地域有力者の動向から考察している。
はじめの2節で、羅津の行政機構の変遷(面→邑→府)を概観し(第一節)、地方財政構造の特徴(都市建設費の拡大と府債の増大など)を簡潔に明らかにしている(第二節)。
 第三節では、羅津が新安面であった時代の面協議会員(面協議会は面に置かれた諮問機関、1933年から選挙で選出、有権者・被選挙権者は面賦課金5円以上納入者)の構成を検討して、全員が朝鮮人であり、農村・漁村を基盤とした洞レベル(洞は面の下位の行政区画)の有力者によって構成されていたことを確認している。
 第四節では、邑・府への昇格後における邑会議員・府会議員の構成を検討して、日本人の比重の高まりと邑・府レベルの地域有力者の台頭を跡づけている。具体的には、次のような点を指摘している。(1)邑昇格後の1935年5月の選挙で選出された邑会議員は、朝鮮人5名、日本人6名であり、朝鮮人の方が少なくなったが、日本人・商工業者が増大したためにこのような結果を生じたのである。(2)府昇格後の1936年11月の選挙で選出された府会議員は、朝鮮人7名、日本人17名となり、朝鮮人議員は3分の1を下回った。これは、府では「第一部特別経済」(日本人学校の経費を支弁)、「第二部特別経済」(朝鮮人学校の経費を支弁)を含む財政となって、学校関係の負担金が府税に組み込まれ、学校関係の負担金が相対的に多かった日本人が有権者数において朝鮮人を大きく上回ったためである(日本人569名に対して朝鮮人165名)。(3)1935年以降に私立光成学校設置運動が推進されたが、主導的役割を果たした朝鮮人有力者は、商工業者への転換を果たした者や面長・郡職員・面職員の経験者などで、邑・府レベルの有力者として台頭した。朝鮮人府会議員の多くはこのような府レベルの有力者であった。
 第五節では、1930年代の羅津ではワカメ採集とイワシ漁を中心にして漁業が繁栄したこと、日本人漁業関係者の進出が顕著な清津とは違って朝鮮人が漁業の中心を占めていたことを明らかにしている。
 第六節では、1936~37年の羅津府会では、漁村・農村の振興を求める朝鮮人議員の発言があったこと、開発のために経費を不在地主に応分に負担させる意見が決議され、これを受けて1937年に土地増価税が制定されたことを述べて、開発の方向をめぐる異論が存在していたことを明らかにしている。
 第七章では、1937年7月の日中全面戦争開始後における羅津開発政策を検討している。 第一節では、羅津の経済的・軍事的重要性が高まることになった情勢の変化を考察している。筆者は、(1)1937年7月に図佳線(図們―佳木斯間の鉄道)が開通して羅津は北満洲へ接続する海港として重視されるようになったこと、(2)1938に起きた対ソ軍事衝突である張鼓峰事件は、兵站・給養拠点としての羅津の重要性を示すとともに、実際上の能力不足の露呈によって、羅津の兵站業務能力の強化を求められるに至ったことを明らかにしている。
 第二節では、関東軍の主導で策定された「満州産業開発五箇年計画」と関連づけて、1936年には羅津港が「日満連絡ノ中枢」と位置づけられるに至った過程(1938年11月の近衛文麿内閣の閣議決定「東北満洲対裏日本交通革新並北鮮三港開発ニ関スル件」で確定)を跡づけている。
このように羅津重要視の方針が確立したにも拘わらず、羅津開発はますます行き詰まっていったことが、続く2つの節で示される。すなわち、羅津の商工業が十分に発達していないため、羅津港の貿易の大部分は満洲・日本間の通過貿易であり、荷役労働力も不足していたこと(第三節)、戦時労働動員の実施によって人口は再び増加し、土地区画整理事業の実施区域も拡大したが、実際には空地が目立ったこと(第四節)を指摘している。
 終章の第一節では、各章のまとめを示した後、朝鮮人や朝鮮社会の主体性・独自性を捉えるためには、複合的な視点を導入し、地域という具体的な場や、移動というダイナミズムにこだわることが重要な意味を持つのではないかと論じている。
 第二節では、今後の課題として、(1)1920年代以降の「工業化」政策が咸鏡北道社会に与えたインパクトの解明、(2)1930~40年代における清津・雄基・城津・鏡城・羅南等の地域社会の変容過程の分析、(3)農業・農村に対する分析の深化、(4)咸鏡北道社会のあり方と民族解放運動との関係の究明、(5)咸鏡北道と「中央」との関係の変容に関する考察、の5点を提示している。

3.本論の成果と問題点

本論文の第1の成果は、19世紀末から植民地期にかけての時期における咸鏡北道の社会変容の過程を、日本による植民地への再編が一直線に進行して、日本側の開発政策が貫徹したわけでもなく、朝鮮社会の内在的要因や国際的要因、さらには自然環境の変化などによって規定されたものとして、複合的な視点で把握することに成功していることである。
 第2の成果は、道の下位の郡レベル、さらに府・邑・面レベルの社会のあり様の究明に努めて、植民地期に朝鮮人が内外交易、輸送業、漁業などの経済活動において独自な勢力を保っていたこと、農村・漁村部における朝鮮人の地域有力者の存在の大きさなどを具体的に描き出して、地域社会における朝鮮人の主体性を明らかにすることに成功していることである。
 第3の成果は、沿海州、満洲との経済的つながり、人の移動が咸鏡北道の社会変容に大きな影響を及ぼしていることを、個々の地域社会レベルの検討を通して、具体的に明らかにしたことである。
 第4の成果は、1930年代以降の羅津の港湾開発・都市建設、「労働者移動紹介事業」と羅津との関係、イワシ漁業の隆盛が羅津の社会に及ぼした影響、面協議会員・邑会議員・府会議員の構成の分析を通じた地域行政の変容と地域有力者の関係などにわたって、羅津の開発とその影響を多面的に明らかにし、研究の水準を大きく引き上げたことである。
 第5の成果は、以上の成果を生んだ基礎として、現状で利用可能な史料を博捜し、実証の水準を高めていることである。ことに、羅津の開発の研究に当たっては、韓国の国家記録院所蔵の地域行政文書を活用して精細な分析をおこなっているが、その利用は日本における植民期朝鮮史研究においては先駆的な成果であると高く評価できる。
本論文の問題点は、第1に、満洲や沿海州との関係については、上述のような成果を得ているが、満洲との間を往来していた中国商人や移民の活動の実態をさらに深く検討する必要性があることである。
 第2に、軍事と開発の関係については、1930年代前半における日本陸軍の対ソ作戦計画の見直しと羅津開発計画との関連など、さらに追究する必要があることである。
 第3に、咸鏡北道の道レベルの動き、道庁の産業・開発政策や道評議会・道会の動向などの把握が弱いので、今後、検討する必要があることである。
 しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2014年2月12日

 2014年1月21日、学位論文提出者加藤圭木氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「朝鮮東北部・咸鏡北道の社会変容―植民地期の港湾「開発」を中心に―」に基づき、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、加藤圭木氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は加藤圭木氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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