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博士論文審査要旨

論文題目:マルクス物象化論の核心 ―素材の思想家としてのマルクス―
著者:佐々木 隆治 (SASAKI, Ryuji)
論文審査委員:平子 友長・大河内 泰樹・嶋崎 隆・坂 なつこ

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Ⅰ.本論文の構成
 本論文は、初期の「新しい唯物論」の確立から経済学批判(『資本論』をその一部として含む)を貫くマルクスの思想の核心を理論的に再構成することを試みたものである。青年ヘーゲル派内部の論争を通じてマルクスが到達した「実践的・批判的」立場が、問題を哲学的に構成し批判するあらゆる立場をトータルに批判するという意味での「新しい唯物論」であったことが解明され、この哲学批判としての「新しい唯物論」が、一八五〇年代以降の経済学批判を方法的に準備していった経緯が示される。次いでマルクスの経済学批判の理論的核心が物象化論として提示され、物象化論を構成する三契機とそれぞれの役割が示される。筆者は、価値を主体とする物象化を形態の論理として展開しつつ、同時に、形態の展開に伴って変容させられ、形態に従属させられつつも、完全には形態の論理に包摂され尽くすことができない素材の論理の展開を辿ってゆく。筆者は、資本主義的生産システムに抵抗し、最終的にはそれを克服する契機を、人間と自然との両面から資本に抵抗する素材的世界の潜勢力に見いだしている。
 本論文の構成は以下のようになっている。

序論
第一部 「実践的・批判的」構えとしての「新しい唯物論」
 第一章 マルクスの「唯物論」にかんする諸説
  第一節 「マルクス・エンゲルス問題」を考慮しないアプローチ
  第二節 「外挿法」的なアプローチ
  第三節 「実践的唯物論」によるアプローチ
  第四節 「マルクスの唯物論そのもの」を考察対象とするアプローチ
  第五節 小括
 第二章 マルクスにおける「新しい唯物論」
  第一節 『資本論』における「唯物論的方法」
  第二節 初期の諸著作における唯物論
  第三節 『経済学哲学手稿』の唯物論
  第四節 テーゼ(一)と『経済学哲学手稿』の差異
  第五節 「フォイエルバッハ・テーゼ」におけるフォイエルバッハ批判の意味
  第六節 テーゼ(四)における「唯物論的方法」
  第七節 小括
  補注 『ドイツ・イデオロギー』における唯物論の用語法
 第三章 哲学批判と「実践的・批判的」構えとしての「新しい唯物論」
  第一節 「哲学的意識の清算」と「新しい唯物論」の確立
  第二節 『経哲手稿』と「テーゼ」・『ドイツ・イデオロギー』における哲学批判の差異
  第三節 「実践的・批判的」構えとしての「新しい唯物論」
  第四節 哲学批判の深化とプルードン批判
  第五節 小括

第二部 物象化論の「実践的・批判的」意義
 第四章 マルクスの物象化論
  第一節 物象化論をめぐる諸説
  第二節 物象化とはなにか
  第三節 物象化論の核心と無意識の形態的論理としての「商品語」
  第四節 認識論的転倒としての物神崇拝
  第五節 物象化のもとでの実践的態度の形成
  第六節 小括
 第五章 物象化と疎外
  第一節 「疎外論」の陥穽
  第二節 『経哲手稿』と『要綱』における外化と疎外
  第三節 マルクス疎外論の核心
  第四節 小括
 第六章 物象化と所有
  第一節 既存の所有論解釈の諸困難
  第二節 近代的私的所有の特異性
  第三節 領有法則転回と本源的蓄積の差異と意義
  第四節 小括
 第七章 価値の主体化としての資本と素材的世界
  第一節 価値概念と素材的次元
  第二節 価値の主体化としての資本
  第三節 資本による素材的世界の編成-直接的生産過程を題材として
  第四節 小括

結論―素材の思想家としてのマルクス

Ⅱ.本論文の要旨

 各章の概要は以下のとおりである。 
 第一部では、マルクスの「新しい唯物論」の内容と意義が詳細に検討されている。新MEGAに収録されている草稿・抜萃ノートから窺えるように、一八四四年以降のマルクスは、経済学やフランス革命の歴史などの実証的な文献の研究に没頭し続けた。従ってこれ以降マルクスが「新しい唯物論」を語るとしても、マルクスはもはや、旧来の唯物論にかわる「新しい」唯物論哲学を構築することをめざしてはいない。ヘーゲル左派内部の論争をつうじてマルクスは、社会変革を徹底的に遂行しようとするならば、哲学的に問いを立て、哲学的に批判を遂行すること自体から脱却しなければならないことを自覚するに至った。これによって、マルクス独自の経済学批判の基本的構えが形成されていった。
 第一章では、マルクスの唯物論にかんする先行研究が整理され、その問題点が明らかにされる。筆者によれば、先行研究は以下の四つのアプローチに分類することができる。第一に、「マルクス・エンゲルス」問題を考慮しないアプローチ、第二に、研究者の問題意識に引きつけてテクストを読み込む「外挿法」的アプローチ、第三に、「実践的唯物論」によるアプローチ、第四に、「マルクスの唯物論そのもの」を考察対象とするアプローチである。第四のアプローチは本論文と同じ立場であるが、筆者は、このアプローチにも依然としてマルクスには存在しない問題構成を持ち込もうとする傾向があることを指摘し、徹底的にマルクス自身のテクストに内在してマルクスの唯物論の意義を明らかにする必要があると主張している。
 第二章では、マルクスの「新しい唯物論」の内容が明らかにされる。ここでは『経済学哲学手稿』と「フォイエルバッハ・テーゼ」におけるフォイエルバッハ批判の差異が検討される。フォイエルバッハの感性概念に依拠しつつ哲学の抽象性や思弁性を批判し、感性的な実践的活動の重要性を主張した『経済学哲学手稿』とは異なり、「フォイエルバッハ・テーゼ」においては、フォイエルバッハの感性概念それ自体が厳しい批判の対象とされる。『経済学哲学手稿』においてはフォイエルバッハの感性的直観に基づく唯物論が理論的基礎として重視されたが、「フォイエルバッハ・テーゼ」においてはフォイエルバッハの感性的直観それ自体が「啓蒙主義」として批判される。
 第三章では、マルクスの哲学批判の意義が考察される。従来、マルクスは「哲学者」として扱われることが少なくなかったが、マルクス自身は少なくとも「フォイエルバッハ・テーゼ」以降、哲学に一貫して批判的であった。マルクスは、現実の矛盾を理念によって乗り越えようとする、フォイエルバッハも含めたヘーゲル左派の理論的立場を「哲学」として批判し、実践的変革を志向し、そのためにこそ人々の生活と意識を制約する現実的諸関係を具体的に把握しようとした。このように哲学的問題構成から実践的問題構成へと移行することによって、マルクスは、それまで高く評価していたプルードンを厳しく批判するようになり、また、リカードなど古典派経済学にたいする評価をも変えていった。マルクスは哲学批判としての「新しい唯物論」を確立することによって、自らの経済学批判の基本的構えを作り上げていったことが解明される。
 第二部では、マルクスの物象化論の構成とその意義について検討されている。
 第四章では、物象化論が以下の三つの次元から構成されていることが解明される。
 第一の次元は、私的労働にもとづく社会的分業を前提する限りは必然的に生起する狭義の物象化である。すなわち直接的には社会性をもたない私的労働が社会的総労働の一分肢をなすためには、労働生産物に価値という社会的力を与え、社会的連関に入っていくことが必要になる。それゆえ価値は価値表現なしには存立しえない。この価値・価値表現を対とする社会的連関において、諸個人の意志と欲望と関わりなく価値形態諸規定が成立し、価値の実体と形態との必然的連関が成立する。この無意識の形態的論理こそが、マルクスの言う「商品語の論理」であった。
 第二の次元は、物神崇拝である。物神崇拝とは、現象形態がその転倒のままに現れる(労働相互の社会的性格が諸商品相互の価値関係としてのみ現象する)ため、認識の次元でもさらなる転倒が起こることを意味する。すなわち労働生産物が商品としてそれ自体で価値という属性をもつものとして現実に現象するのだから、この関係の内実を知らなければ、労働生産物がもつ価値という属性が労働生産物自身の自然属性であるかのように錯覚するという認識論的な転倒が起こる。こうして諸関係の隠蔽はよりいっそう深化する。
 第三の次元は、物象の人格化である。物象化された関係においては物象の運動が諸個人の行為を制御するという転倒が起こるが、にもかかわらず物象はその人格的担い手を必要とする。諸個人の具体的諸欲望なしには実際に物象的連関は形成されえないからである。物象の人格化は、物象的連関の形成における人格的契機を導入し、物象化による素材的次元の変容および所有について考察することを可能にする。
 第五章では、物象化論と疎外論の関係が検討される。疎外論は、物象化論の主体的捉え返しの論理である。たしかに物象の人格化においても具体的な意志と欲望を持つ諸人格が問題とされた。しかしそこでは物象が諸主体を物象の担い手に適合的である枠内で変容させる文脈のみが論じられたにすぎなかった。しかし疎外論においては、物象がその人格的担い手を必要としつつも、物象の要求する論理が人格が許容しうる論理と完全に一致することがない以上、物象の論理が人格にたいして敵対的に現れざるをえないことが主題となる。疎外論において諸個人は、そのような客体的諸条件の疎外を感受しうる諸主体として、また単なる物象の人格的担い手であることやめ、それを変革する主体へと生成する可能性を秘めた諸主体として考察されるのである。
 第六章は、物象化論と所有論の関係を考察する。マルクスの所有論の主題は、資本主義的生産様式においては人格的諸関係が物象の担い手としての諸関係として形成されるという転倒を批判することにある。この転倒ゆえに近代的所有は、非人格的で排他的な所有形態をとり、生産諸主体にとっては本源的無所有の形態をとる。既存の所有論の誤りは、物象化論の徹底的な理解に欠けていたところにあった。物象化論は、たんに物象が生産関係を覆い隠すという点を解明するための論理にとどまるものではなく、物象が社会的な力を持って社会を編成すること、さらには、そのような社会が人間を大地から切り離し、本源的無所有を成立させる過程を解明する論理であった。
 この理解が不十分であったがゆえに、従来のマルクス研究は、「領有法則転回」論と「本源的蓄積」論ないし「歴史的傾向」論をほとんど同一視してきた。この両者を同一視するならば、マルクスが主張したかったこととは正反対の幻想が生まれてくる。それは、近代的諸関係において実現される「人格的自由」にたいする幻想である。このような幻想こそが、物象の人格化としての「自由」を不当に高く評価し、「個人的自由」を近代的自由と同一視するという解釈を生み出してきた。
 しかし近代における人格的自由、たとえば「自由なプロレタリアート」の人格的自由は無所有と裏腹の自由でしかない。彼らは人格的な紐帯を破壊され、土地を収奪されたからこそ、人格的に自由なプロレタリアートとして、無所有者として自らの労働能力自体を自発的に商品として切り売りすることを迫られるのである。このような物象の人格化としての「自由」を賛美する発想はマルクスにはどこにもなかった。むしろ、自由は一定の共同性を前提とした素材への能動的な関わりにおいてのみ実現されうるのであり、その意味で前近代的なものをマルクスは高く評価した。むろん、無批判的に過去を賛美する反動的な、ロマン主義的傾向にたいしては反対したが、前近代的なもののなかに新しい社会を形成するための示唆を見いだしていたことは間違いない。いわゆる「個人的所有の再建」とは、物象の人格化としての個人の自由を再建することではなく、生産者と生産手段の本源的統一の回復を表現するものであった。『要綱』以降のマルクスはもはや近代的自由に解放の契機を見いださなかった。近代的自由が物象化された関係に依存しているかぎり、それはアソシエーションのための消極的条件でしかない。
 第七章においては、価値の主体化である資本による素材的世界の編成が考察される。
 まず価値に表現される抽象的人間的労働は一面的であれ、素材的契機を含むことが強調される。それは素材的次元での労働実践から特殊な具体的有用的側面を捨象したものであり、依然としてそこには素材的契機が含まれているからである。その限りでは、それは、いかなる社会的形態の労働にも含まれる素材的契機である。抽象的人間労働という概念は価値と素材との連関の結び目となっている。物象と素材との矛盾、軋轢を明らかにし、そこに変革のエレメントをさぐることが、マルクスの価値概念の意義である。
 商品の人格化としての商品所持者たちの行為が貨幣を生み出し、この貨幣の人格化をつうじて、絶対的な致富衝動が生まれ、こうした商品生産関係を前提として資本主義的生産関係は成立する。ここでの登場人物は、一方では、絶対的な致富衝動にもとづいて際限のない価値増殖を追求する資本家、他方では、自らの生存を維持するために労働力以外に売るものを持たない賃金労働者である。資本家は致富衝動にもとづいて貨幣を流通に投げ入れることによって資本の運動を作りだし、生産過程では監督・指揮などの役割を果たす。賃労働者は生活手段を手に入れるために唯一販売可能な労働力を売り、生産過程において価値増殖という資本の機能を果たす。全面的な商品生産関係において絶対的な致富衝動をもつ合理的な貨幣所持者と従属を規律化された無所有者を前提するならば、資本の運動の成立は必然的である。しかも、この関係がいったん成立するやいなや、この関係自体が資本主義的生産関係を、したがってまた資本家と賃労働者という人格的担い手を再生産する。それゆえ、ここでは、貨幣所持者と労働力商品所持者の行為によって価値の運動が成立させられているにもかかわらず、むしろ価値の自己運動こそが過程を支配する主体となるという、さらに高次の転倒あるいは物象的関係が成立する。ここでは価値がより高い力能で現れ、価値の自己増殖運動が流通過程および生産過程を支配する主体となる。この主体化した価値の運動、すなわち資本が素材的世界を編成してゆく。
 資本の飽くなき価値増殖衝動は絶対的剰余価値を獲得するために、労働日を最大限延長することを追求する。際限のない労働日の延長は労働者の文化的生活や健康を破壊し、最終的にはその生命すら消耗し尽くす。際限のない資本の増殖欲求が形態的包摂の次元で素材的世界におよぼす影響は、素材的軋轢として労働者の側からの抵抗を惹起し、この反作用が国家権力に反映し、法律的規制というかたちで労働日の延長にストップがかけられ、形態的包摂に一定の限度が設けられる。「労働日」は、形態が素材をいかに編成し、素材からの反作用によって形態がどのような修正を受けるかという、形態の論理と素材の論理の衝突を主題にしている。
 資本はより発展した生産力を実現し、規律化された従属的な賃労働者を生み出すことによって、素材的世界全体を自らに適合させようとする。更に資本の流通過程(第二巻)、資本主義的生産の総過程(第三巻)における物象化の重層化の進展を考慮すれば、形態の論理は素材的世界にいっそう深く浸食していく。資本は、抽象的人間的労働をいかに効率的に吸収するかということだけを基準にして素材的世界を変容する。このことは、素材的世界に軋轢、矛盾をもたらさずにはいない。この意味で資本は素材的世界そのものを形態の論理に完全に従属させることはできない。形態的論理によっては包摂することのできない素材的世界の論理こそが、形態的論理の主体化としての資本の運動に歯止めをかける力となる。それは、過度の長時間労働に悲鳴を上げ、たとえ規律訓練されようとも疎外を感じざるを得ない賃労働者の感性的欲求から絶えず生み出される。また、たとえ一時的には近代科学の統制に服したようにみえても、長期的にはけっして形態に従属させられることのない土壌やその他の自然環境も、それ自体が資本の運動を妨げる抵抗となるとともに、人間たちに資本への抵抗を促す契機ともなる。
 以上のような素材的世界からの抵抗の諸契機を基礎にして、賃労働者たちが物象の力によって生み出された仮象をみやぶり、「生産物が自己自身のものだと見抜く」、そのような「並外れた意識」が生まれてくるのである(MEGA, II-3, S. 2287)。「並外れた意識」は、根源的には、素材の論理から生まれでてくる。それは、資本が生み出した素材的世界の軋轢、矛盾そのものに基礎を置いているという意味では、「それ自身が資本主義的生産様式の産物」である。
 結論においては、マルクスが形態の思想家であったばかりではなく、優れて素材の思想家であったことが示される。経済学だけではなく、農業化学や歴史学を含む膨大な事実資料を書き留めた、マルクスの浩瀚な抜粋ノートもそのことを裏付けている。
 マルクスは、一定の諸条件を前提するならば、素材自体の論理とは関わりなく必然的に成立する無意識の形態的論理を解明した。この無意識の形態的論理は、しかし、素材的次元において様々な軋轢や矛盾をもたらさざるをえない。マルクスは、このような物象の運動、価値の運動によってもたらされる素材的次元での軋轢を根拠にしてこそ、資本主義的生産様式を変革しようとする「並外れた意識」がもたらされると考えた。第五章で考察した疎外論は、じつはこの素材的次元での軋轢を人格が形成する主体的関係(あるいは「自己関係」)の側面から、捉え返したものにほかならなかった。
 資本主義的生産様式=全面的物象化の克服は、アソシエートした諸個人による本源的所有の回復に見いだされるが、それを可能にする客体的および主体的条件は、無意識の形態的論理が資本として編成する素材的世界それ自体じたいのうちに見いださなければならない。この条件についてマルクスは多くの箇所で言及している。マルクスは、それを、一方では、物象化された形態においてではあるが人間の欲求が多面化され、潜在的には人間の本源的富である「自由時間」が拡大されること、他方では、素材的契機の一側面しか反映しない価値の運動が人間及び自然という素材的世界の再生産を破壊し、その存立それ自体を危うくし、長期的にはこの矛盾を解決せざるをえないことに見いだした。
 だから、マルクスが素材の思想家であるゆえんは、彼が素材を理念的に重視したということではなく、形態と対立する素材という契機に着目し、素材そのものの論理をその具体的な対象に即して具体的に把握することに努力し続けたからである。晩年になるに従って強まっていく素材あるいは素材と密着した社会形態への関心(農業や共同体への強い関心)も、物象に対抗する力として、マルクスがより素材の力に着目するようになってゆく経緯を示していると思われる。

Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文は、初期から晩年に至るマルクスの理論と思想の展開を、「素材の思想家」としてのマルクスという切り口から首尾一貫して展開した意欲的な論文である。この作業を通して筆者は、従来のマルクス研究の誤り、欠陥、不十分さを、論理と文献考証の両面からトータルに批判し、それを乗り越える多くの論点を提示している。その意味で本論文は、今後のマルクス研究の進むべき一方向を示した力作であるといえる。
 本論文の成果として、具体的には、以下の諸点があげられる。
 第一に、マルクスの「新しい唯物論」が実践的変革の立場からする、唯物論も含めた一切の哲学に対する全面的批判であることを、初期マルクスの文献に即して解明し、この哲学の外に出る哲学としての「新しい唯物論」が、一八五〇年代以降遂行されるマルクスの経済学批判の方法としても貫かれていることを説得的に示したことが挙げられる。
 第二に、筆者は、マルクスの経済学批判の方法としての物象化論の論理を、狭義の物象化、物神崇拝、人格の物象化の三契機から構成されていることを論証しつつ、それぞれの契機によって解明されるべき課題を相互の区別と関連において緻密に構成していることが挙げられる。この物象化論の方法を中軸に据えて、筆者は、物象化と疎外、物象化と所有の関係に独創的な理解をもたらした。とりわけ資本主義以前の自己労働に基づく私的所有と資本主義的生産様式の仮象ないし前提としての自己労働に基づく所有の本質的区別を指摘することによって、筆者は、資本主義における自由な商品所有者の関係のうちに資本主義を越えるアソシエーションの萌芽を見いだそうとする、いわゆる「市民社会」論的なマルクス解釈の誤解と限界を説得的に証明していることは重要である。
 第三に、本論文において、筆者がマルクスの文献を引用する際には、一九七〇年以降現在もなお刊行が継続されているドイツ語版マルクス・エンゲルス全集(新メガ)によって行っていること、さらに筆者自身がその編集に参与している未公刊のマルクスの抜萃ノートをも利用して、筆者の提示する理論の典拠としていることが挙げられる。その意味で、本論文は、新メガ刊行段階にふさわしいマルクス研究であると評価することができる。
 本論文の問題点としては、以下の二点が挙げられる。
 第一に、筆者はマルクスの物象化論に関しては緻密な論理を展開しているが、これとマルクスの社会主義、共産主義、アソシエーションに関わる諸言説との関係が十分展開されているとはいえないことが挙げられる。
 第二に、素材的世界が資本の社会的支配の原理である形態の論理によっては包摂され尽くすことができない点に資本主義ステムの矛盾を見いだし、資本に対する人間の側からの抵抗(自由時間拡大の要求を含む)と自然破壊を介する自然の側からの抵抗を形態の支配に対する素材的世界の抵抗として統一的に把握する枠組みを筆者が提供したことの意義は大きいが、素材的世界の論理はいまだ十分に展開されているとはいえないことが挙げられる。 
 しかしこれらの問題点は、本人のすでに自覚するところであり、むしろ今後の研究課題とすべきものである。審査員一同は、本論文が明らかにしたことの意義を高く評価し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2011年2月9日

 2011年1月6日、学位論文提出者佐々木隆治氏の論文について最終試験を行なった。試験においては、提出論文『マルクス物象化論の核心―素材の思想家としてのマルクス―』に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、佐々木隆治氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、佐々木隆治氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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