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博士論文審査要旨

論文題目:レーニンの政治思想――比較思想の試み
著者:白井 聡 (SHIRAI, Satoshi)
論文審査委員:加藤 哲郎・岩佐 茂・平子 友長

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1. 本論文の構成

  本論文は、以下のように構成されている。

 序論 無意識と革命――レーニンと二〇世紀
 第一部 唯物論の歴史的位相――『唯物論と経験批判論』再訪
  はじめに
第一章 レーニンのスプレマチズム
Ⅰ 近代のエピステーメーと無限なもの
Ⅱ 近代思想としてのマルクス主義
Ⅲ レーニンの唯物論と革命——「物質の解放」
Ⅳ 唯物論と主体性、そして歴史の超克
Ⅴ レーニンのスプレマチズム
第二章 「物質」の叛乱――レーニンの唯物論と反映論
Ⅰ 忘れられたテキスト
Ⅱ 『唯物論と経験批判論』をめぐる歴史的文脈
Ⅲ 唯物論論争の問題機制
Ⅳ 「物質」の「反映」における困難
Ⅴ 経験される「物質」
 第二部 レーニンとフロイトーー<死の欲動>による革命
  はじめに
第一章 〈外部〉の思想
Ⅰ 「抑圧されたもの」の探求
Ⅱ 思想の外部性
Ⅲ 『モーセと一神教』
Ⅳ 一神教的イデオロギーと偶像崇拝の禁止
Ⅴ 外部の昇華
第二章 革命の欲動、欲動の革命
Ⅰ 欲動断念
Ⅱ <死の欲動>による革命
 第三部 「政治的なもの」の変容——唯物論的デモクラシーへ
  はじめに
第一章 民主主義とその不満――レーニン、フロイト、ラディカル・デモクラシー
Ⅰ デモクラシーの危機
Ⅱ 暴力の封じ込めとその回帰
Ⅲ フロイト『トーテムとタブー』
Ⅳ カール・シュミットの自由民主主義批判
Ⅴ コミュニケーションと真理(一)
Ⅵ コミュニケーションと真理(二)
Ⅶ コミュニケーションと真理(三)
Ⅷ 街頭と議会の狭間としてのソヴィエト  
第二章 コミュニズムの倫理と無国家社会の秩序――『国家と革命』再論
Ⅰ 本章の課題
Ⅱ 国家の起源
Ⅲ 逆説的権力としての近代資本制における国家
Ⅳ レーニンにおける等価関係の廃絶の構想
Ⅴ <もの>の<力>
 第四部 レーニンの遺産——二つの事例
  はじめに
第一節 経済学と革命――宇野弘蔵におけるレーニン
Ⅰ 宇野弘蔵におけるレーニン
Ⅱ 宇野理論の構造
第二節 実在論の政治学――レーニンとネグリ
Ⅰ 形式の交替劇としての哲学・政治学史
Ⅱ アントニオ・ネグリ『構成的権力』の問題提起
Ⅲ 形式か自由か?
Ⅳ 形式と自由、レーニン的解決
Ⅴ 実在へ
Ⅵ レーニンとネグリの差異
 結論 「モノ」のざわめきから新たなるコミュニズムへ
  Ⅰ 結論——無意識と革命
  Ⅱ エピローグーー「モノ」のざわめきから新たなるコミュニズムへ
  Ⅲ 今後の研究課題について
 参考文献表
 
2.本論文の概要

 本論文は、それぞれ「はじめに」と二章ずつを含む、四つの部から構成されている。
 序論で著者は、ロシア革命とソ連の成立が、著者ら冷戦終焉以後の世代には希望も幻滅もうみださないグローバルな資本主義の前史であったことを述べたうえで、その政治指導者であったウラジーミル・イリッチ・レーニンが、帝国主義的資本主義の時代にその<外部>を切り拓く<力>の思想家として現れ、「資本主義以外の原理を社会の構成原理とするための新たなヴィジョン」の生成をうながした点に着目する。レーニン研究の膨大な歴史を批判的にトレースし、共産主義の偶像でも科学的社会主義の領導者でもなく、「独創的な政治思想の語り手」「政治哲学者としてのレーニン」を、比較思想史的に扱うという研究戦略を示す。
 狭義のマルクス主義という枠組みを離れ、近現代政治思想史の広い文脈におくと、レーニンは、資本主義と産業文明の高度化、大衆の出現、総力戦、帝国主義、世界戦争といった20世紀の問題に立ち向かった新思潮と文化運動の流れと共通する、近代文明と資本主義の<外部>を求めた「知的地殻変動」の中に位置づけられる。哲学における現象主義、アヴァンギャルド芸術運動、フロイトによる精神分析などが、レーニンと共時的な新思潮であり、その共通する問題機制とその乗り越え方の差異と対決のあり方を検討することにより、著者はレーニンの生きた時代の「知と政治的世界観の構造の立体的な見取り図」を示そうとする。また通時的には、「レーニンの思想と後代の思想との対話」を、同じく共通の問題機制を剔出することによって果たそうと試みる。
 第一部は、レーニンの唯物論哲学を主題的に取り扱う。「はじめに」で著者は、今日「悪名高い」レーニンの哲学的主著『唯物論と経験批判論』(1909年)を敢えてとりあげるにあたって、「レーニンの思考が同時代のいかなる思想潮流と共鳴しうるものであったのか」「レーニンの唯物論がさまざまな難点を含むものであったにもかかわらず、ついには20世紀において最も影響力のあるイデオロギーのひとつと化すに至るのは、彼の言説がどのようなものとして読まれうるものであったからなのか」と問う。
 第一章は、「近代のエピステーメー[認識論的布置]と無限なもの」から「レーニンのスプレマチズム[至高主義]」に至る論理を、フーコーやアルチュセールを用いて、マルクス主義が近代思想の地平において何を如何に突破しようとしたのかを考察することから出発する。ロシア・アヴァンギャルド芸術運動の中心人物の一人である画家カジミール・マレーヴィチによるレーニンの解釈、及びその芸術実践を検討し、レーニンの唯物論における「物質」概念に刻み込まれた有限の歴史から脱出しようとする終末論、マレーヴィチの読解によって開示される「イメージ」の外側にある「物質」の次元に、「時代精神」として注目する。
 第二章では、『唯物論と経験批判論』が書かれた歴史的文脈から、そのテキストで主張された唯物論を内在的に吟味し、狭くは革命以前のボリシェヴィキ党内で生じたプレハーノフ、ボグダーノフらとのいわゆる「哲学論争」のなかで、広くはエルンスト・マッハ、カッシーラー、ハイデガーら同時代の哲学の中でのレーニンの唯物論の特質を説く。注意深く読めば、『唯物論と経験批判論』は、忘却さるべき愚考などではなく、ロシア革命とその時代がいかなる事柄を突破しようとしたかを、世界像の転換という観点から、あるいは人間学的見地から検討するための、最も有益な材料を提供している著作であると結論づける。
 第二部では、レーニンとジークムント・フロイトの思想的並行関係について論じる。主たるテキストはレーニン『何をなすべきか』(1902年)とフロイト『夢判断』(1900年)、『モーセと一神教』(1939年)で、この期のレーニンに「フロイト的タームが横溢」していたことに着目する。「はじめに」で精神分析の創始者フロイトとレーニンが、同時代人であっても直接的交流も互いに読んだこともないにもかかわらず、「彼らの意識的な意図を超えて、似通ってしまっている点」に、「両者の共通して取り組もうとした時代の問題のありか」を見るという著者の問題設定が示される。
 第一章では、レーニンにおける資本主義、フロイトにおける神経症から脱する<外部>の思想の共振が析出され、「ボリシェヴィズムと精神分析がほぼ同時に発生したということは、おそらく偶然ではない。レーニンとフロイトのロジックを並行的に追求して行くことによって際立つのは、両者の行論の不思議なまでの類似性である」という。政治的にはニヒリスト的な立場を取るフロイトが、「生涯で最も厳しい苦境に陥ったとき(最晩年)にこそ、人間性の革命の可能性を語ったのであり、その言説はレーニンにおける革命の語りとほとんど一致するに至る」と、「人間性における革命を主張する言説」としての精神分析とレーニンの構想した「革命」との接点を見出す。
 第三部では、カール・シュミットが主題とした「政治的なもの」の概念をめぐって、レーニンと彼の同時代の思想家との比較研究と同時に、現代思想とレーニンとの比較研究が行なわれる。ここでのレーニンの基本参照テキストは、『何をなすべきか』に『国家と革命』(1917年)が加わる。第一章では、フロイト、シュミット、ハーバーマス、シャンタル・ムフらが俎上に昇り、第二部同様にフロイトに焦点が当てられる。現代のデモクラシー=「民衆の支配」をめぐる政治思想における自由で自律的・水平的なハーバーマス風コミュニケーション概念に対する批判として、フロイトの「精神分析家と神経症患者」の間の垂直的関係が示され、レーニンの「革命家—労働者」とフロイトの共鳴関係が考察される。
 続く第二章では、レーニンのコミュニズムの構想と同時代のマルクス主義法学者エヴゲーニー・パシュカーニスが、等価交換の原理の廃絶で共鳴する様を明らかにし、近代国家およびその国民の特殊な存在様態を分析し破壊しようとしたレーニンとジョルジュ・バタイユとの思想的共鳴を明らかにする。
 第四部は、「レーニンの遺産」を、後代のレーニン解釈者としての宇野弘蔵とアントニオ・ネグリの議論をとりあげ、主題的に論じる。レーニンのテキストは、『何をなすべきか』『唯物論と経験批判論』に加えて『帝国主義』(1916年)である。第一章で、科学とイデオロギーを厳しく峻別するいわゆる宇野三段階論の理論構造における段階論設定へのレーニン『帝国主義』の決定的影響、そして宇野がレーニンに対して終世寄せ続けた理論的共感に着目し、その意味を掘り下げる。
 第二章は、『帝国』論で著名なネグリの『構成的権力』における(民主主義)権力論を、第三部までに抽出したレーニンの論理と比較して批判的に検討し、レーニンにおける「唯物論/観念論」「自由/形式」「自然発生性/意識性」といった二項対立の内的弁証法の有様を考察する。これにより、二項対立の両者を調停するのではなく、二項を内側から破壊しようとするレーニンの独特の思考様式を明らかにする。
 結論では、本論文全体を貫くテーマが「無意識と革命」であることが、再確認される。フロイトにおける「無意識の発見」とレーニンにおける「新しいタイプの党」の相似性が、共に「抑圧されたもの」に拠点におき、分析者—患者関係と党—労働者大衆の関係性、分析者間・党内の絶えざる論争、分派の形成といった組織のあり方まで類似していたと確認する。したがって、レーニンの政治とは「無意識に働きかける政治」という、近代合理主義の「理性による啓蒙というパラダイムからの脱出」を意味し、それは単なる非合理主義でもロマン主義でもなく、「理性による表象の秩序に収まりきれないものへの情熱」「<外部>を切り拓く<力>」 であるという。
 だが、レーニンの企図した「無意識」「表象しえないもの」の内奥からの導出は、いったんロシア革命の成就というかたちで現出して世界を揺るがしたが、やがて早々と変質し、20年前に崩壊した。そこで著者は、レーニンの時代よりいっそう広がり深化した資本主義社会の中で、「商品の宇宙という世界の底を突き破って、それ自体の存在に達する可能性」を求め、「『モノ』のざわめきから新たなるコミュニズムへ」と特徴づける。最後に残された課題を、第一にレーニンとマッハ主義との論争に先立つそれぞれの歴史的文脈のより体系的な記述、第二にレーニンの資本主義論の同時代の中での探求、第三に文化革命と社会主義革命との関連性についてのより包括的な研究、第四にレーニンと後代の思想家たち、西欧マルクス主義や戦前日本マルクス主義との対話の体系的な研究、と挙げている。

3  本論文の成果と問題点

 本論文の成果は、以下の二点にまとめられる。
 第一に、著者は、旧ソ連崩壊以後、とりあげられることの少なくなった革命家レーニンの思想に敢えて挑戦し、かつてマルクス・レーニン主義の流れで聖典化されてきた主要著作の政治哲学的読み直しに真正面から取り組んだ。同時代のさまざまな思想潮流との比較の中から、近代文明と資本主義の外部へと突き抜ける<物質><力>の概念を見出し、フロイトの精神分析を引証枠として、一貫した論理で、20世紀の思想的巨人のひとりとしてのレーニンを蘇生させた。その文献の論理的読解力と、理論の独創的な構成力は、評価に値する。冷戦後の世界ではスラヴォイ・ジジェクらが、わが国では中沢新一らが試みてきた研究戦略であるが、著者の本論文は、アヴァンギャルド芸術運動、精神分析、現象学、構造主義、コミュニケーション理論、宇野経済学などをも比較思想史の対象に組み入れることによって、20世紀思想史研究への重要な問題提起となっている。
 第二に、著者がレーニン政治哲学を抽出するために採った方法は、同時代のさまざまな思想潮流との比較の中から、「問題機制」とその突破口の歴史的文脈を読みとり、それを主観・客観の二項対立を無効化する<メタ客観>のレベルで、認識論的に措定するものであった。哲学・思想史の伝統の中では、唯物論と観念論の対立、主体と客体の関係性の問題として知られるものであるが、著者はそれを、フロイトとシュミットを補助線に、唯物論の一元論的徹底、二項対立を<外部>へと<昇華>するある種の決断主義的論理で突破を試みた。既に著者の既刊書で論じられ、さまざまな反響をよんだ新鮮な方法である。冷戦崩壊以降、マルクス、レーニンや社会主義思想が「過去のもの」と敬遠され沈黙しがちな日本の言説世界に、「過去のもの」を「過去のもの」として等身大で論じる新たな舞台を設定するよう刺激し、そのひとつの範例を示して活性化させた意義は大きい。
 とはいえ、本論文はもともと論争的なものであり、問題を解決したというよりは、新たな問題領域を切り拓いたという意味が大きい。それゆえに、社会哲学や社会科学の学術的見地からは、いくつかの問題点が指摘できる。審査委員会が見出した、そうした問題点の主要なものは、以下の二点である。
 第一に、著者の共時的比較思想という方法は、同時代の異質な思想の問題設定や認識枠組みとの比較に有効性を持つにしても、それで直ちにレーニンの思想の本質や中核を捉えたとはいいがたい。例えば20世紀にレーニン哲学の評価をめぐって長く論争されてきた『唯物論と経験批判論』(1909年)と『哲学ノート』との関係を、著者は後者が「『ノート』である(にすぎない)」とあっさり通過し、レーニン自身の著作における通時的検討を簡略にしているが、そこには看過し得ない相違点があるからこそ長く唯物論の系譜で論争されてきた経緯がある。同様な問題は、『何をなすべきか』とコミンテルン第四回大会の統一戦線論、『帝国主義』『国家と革命』と新経済政策における市場原理採用など、総じて革命前と革命後の晩年のレーニンについて見出すことができ、膨大な著作が20世紀に論じてきた。本論文では、それらはレーニン思想の表層であり本質ではないと言い切れるほどの全面的・体系的検討は果たされていない。同様なことは、本論文の補助線というべきフロイトの読解についても、問題になりうる。本論文の鋭い切れ味の断面図を、レーニン自身についての通時的・全面的解読を介して立体図に仕上げる仕事を期待したい。
 第二に、著者はレーニンやパシュカーニスをマルクス主義者と規定し、その前提で等価交換の廃絶や社会主義革命を論じているが、19世紀に生きたマルクスの問題機制やその脱出口が、著者が本論文で示したレーニンのそれとどのように共通し、どのように異なるかは、世界の研究者が長く探求してきた論争的課題である。著者はマルクスとエンゲルスを特に区別せず、宇野弘蔵の「労働力の商品化」にマルクス『資本論』解釈の鍵を見出しているが、これらの論点も論争的であり、マルクスとレーニンの継承・断絶関係には膨大な研究史がある。著者は結論で本論文を現代へと架橋する「今後の研究課題」を示しているが、「新たなるコミュニズム」を構想するのであれば、レーニン文献と格闘した本論文と同程度の密度で、19世紀のマルクスらのコミュニズムとも対決する姿勢が必要となるであろう。
 もっともこれらの問題点については、著者自身も十分自覚しているところであり、審査委員もまた、それらは著者の今後の研究において果たされるであろうと期待している。
 よって審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 2010年1月26日、学位請求論文提出者、白井聡氏についての最終試験をおこなった。
 本試験においては、審査委員が提出論文「レーニンの政治思想——比較思想の試み」について、逐一疑問点に関して説明を求めたのにたいし、白井聡氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条3項に定める外国語および専門学術に関する学力認定においても、白井聡氏は十分な学力を有することを証明した。
 よって審査委員一同は、白井聡氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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