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博士論文審査要旨

論文題目:開港期朝鮮における外交体制の形成―統理交渉通商事務衙門とその対清外交を中心に―
著者:酒井 裕美 (SAKAI, Hiromi)
論文審査委員:糟谷 憲一、三谷 孝、中野 聡、加藤 哲郎

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1.本論文の構成

 1876年の日朝修好条規締結以前には、朝鮮の外交は清に対する「事大」と日本に対する「交隣」から成る「伝統的」外交体制の下にあった。日朝修好条規の締結は「交隣」の関係を条約関係に変革し、朝鮮は「近代」的外交体制に対応した活動も展開することになった。1882年に始まる欧米諸国との条約締結は、朝鮮を「近代」的外交体制へより深く組み込んでいくことになったが、「伝統」的外交体制は清に対する「事大」の領域でなお存続した。本論文は、このような「伝統」的外交体制と「近代」的外交体制の併存を特徴とする1876年以降の朝鮮の外交体制がどのようにして形成されていったのかを、外交担当官庁の設立とそれによる対清外交の新たな展開に中心を置いて論じたものである。本文、主要引用・参考文献目録を併せて、400字詰原稿用紙換算にして約800枚に及ぶ力作である。
 その構成は次のとおりである。
序 論
第一編 統理交渉通商事務衙門の成立とその活動実態
第一章 朝鮮における外交担当官庁の変遷
 (1)朝鮮旧来の制度
 (2)「明治日本」への対応
 (3)統理機務衙門の設置
 (4)統理交渉通商事務衙門の設置
 第二章 統理交渉通商事務衙門の構成員
 (1)役職構成と外国人官員の位置
 (2)任用条件
 (3)兼職状況
 (4)勤務実態
 第三章 各国駐在機関との関係から見る統理交渉通商事務衙門の活動実態
 (1)統理交渉通商事務衙門と駐在機関との連絡状況
 (2)租界政策
 (3)朝英・朝独条約とその均霑問題
 (4)護照発給
 第四章 地方官庁との関係から見る統理交渉通商事務衙門の活動実態
 (1)統理交渉通商事務衙門と地方官庁との連絡状況
 (2)外交業務関連の対内政策
 (3)統理交渉通商事務衙門の財政政策
第二編 対清外交の展開
 第一章 朝清商民水陸貿易章程と関連諸章程の成立
 (1)朝清商民水陸貿易章程の再検討
 (2)関連諸章程の検討
 第二章 朝清陸路貿易の改編と中江貿易章程
 (1)朝清陸路貿易改編に至る経緯
 (2)中江貿易章程をめぐる交渉
 第三章 統理交渉通商事務衙門の対清懸案事項の処理過程―諸章程の運用実態―
 (1)楊花津入港問題
 (2)清商人の活動をめぐる紛争・事件
結 論
主要引用・参考文献目録

2.本論文の概要

 序論では、まず、「課題の設定と研究史上の意義」を述べている。筆者は先行研究を次のように整理する。戦前における朝鮮外交史研究の最大の業績である田保橋潔『近代日鮮関係の研究』は、日本の外交については詳細に実証されている反面で、朝鮮の外交は日本や清、西欧諸国の行動に対するリアクションとして断片的に描かれているに過ぎない。近年の韓国における開港期朝鮮外交史研究は朝清関係の研究が多く、清の圧力に対する自主外交を中心とする政策が注目されてきたが、朝鮮外交を清の圧力に対するリアクションでしかとらえられない構造は、田保橋と同様の問題を抱えている。このようにリアクション型でしか朝鮮外交をとらえられない枠組みは、「伝統」的外交体制から「近代」的外交体制」への移行を、一直線的な絶対的なものととらえることが前提となっている。近代的・ヨーロッパ的な「新外交体制」と伝統的な「旧外交体制」とが併存し、二つの体制の間には対立がしばしば展開したとする糟谷憲一の研究、当時の朝清関係を「属国自主」の概念で把握し、当時の朝鮮をめぐる国際関係には「曖昧未決」に残された「中間領域」が残されていたと論じた岡本隆司の研究は、複雑な国際環境を実態に忠実に把握することの重要性を示している。
 以上のような研究史整理に基づいて、筆者は、徹底して外交主体しての朝鮮に焦点を当てた上で、既存の分析枠組みを適用することは極力避け、実態に即して個別実証を積み重ねることによって、開港期朝鮮の外交体制形成過程を明らかにすることを課題として設定する。具体的な実証の中心となるのは、外交担当官庁である統理交渉通商事務衙門と、朝鮮外交において当時最重要の位置を占めていた対清外交であることが明らかにされる。
ついで、筆者は本論文において使用する基本史料について説明している。(1)統理交渉通商事務衙門に関しては、『高宗実録』『承政院日記』『日省録』などの王朝史料の他に、同衙門の日誌である『統署日記』、ソウル大学校奎章閣所蔵の『外衙門草記』などの関係史料を、(2)統理交渉通商事務衙門の外交活動の実態に関しては、各国の朝鮮駐在機関と往来した文書を整理した『旧韓国外交文書』を、(3)朝清関係については『旧韓国外交文書』『清季中日韓関係史料』、(4)中江貿易章程の交渉過程については奎章閣所蔵の関係史料を主に使用したことを明らかにしている。そして、史料を網羅的かつ詳細に検討するために、研究対象時期の統理交渉通商事務衙門設立(1882年11月)から甲申政変(1884年10月)以前までとしたこと(便宜的に月は陰暦による)を述べている。
 最後に、本論文は統理交渉通商事務衙門について多面的に検討した第一編(四章からなる)、対清外交の展開について論じた第二編(三章からなる)によって構成されることが示される。
 第一章では、統理交渉通商事務衙門の設立(1882年11月)の設立に至るまでの、朝鮮における外交担当官庁の変遷を跡づけている。
(1)では、「伝統」的外交体制の下で、外交に関連する業務は、議政府・礼曹・承文院・司訳院・戸曹などの中央官庁やの義州府・東萊府などの地方官庁が、それぞれ所定の役割を果たすことにより進行していたことが、「事大」「交隣」の具体的内容に沿って明らかにされる。「事大」に関する業務については、①貢使(朝貢使節)派遣、②清から派遣されてきた勅使を迎接する業務、③両国間の境界遵守に関する業務、④貿易に関する業務の四つに大別されて検討し、それぞれの業務が上記の中央諸官庁と義州府によってどのように分担されていたかを詳細に示している。「交隣」に関する業務については、①対馬からの使節の接待に関する業務、②通信使の派遣、③倭館で行われた貿易に関する業務、④漂流民の処置に関する業務に大別して検討し、上記の中央諸官庁が役割を分担していたことを明らかにするとともに、日朝接触の場が釜山の倭館の中に限られていたという要因が大きく作用して、慶尚道観察使・東萊府使・釜山僉使ら現地地方官の役割も大きかったと指摘している。
 (2)では、日本の明治政府が従来の「交隣」関係から逸脱した行動を開始したことに対して、朝鮮がどのように対応したのかを、①日朝修好条規に至る交渉への対応、②修好条規締結後の諸懸案協議のための交渉への対応、③修好条規以後の日本への使節派遣、の三つに区分して論じている。筆者は、日朝修好条規締結後も朝鮮側は基本的に前例に従って日本との交渉を処理しようとしたが、日本側は礼曹判書または議政府大臣との交渉を要請したので、朝鮮側は礼曹判書の委任を受けた形での講修官という臨時職を設置して、議政府の指示を受けて交渉に当たらせ、前例に無かった交渉分野に対応させたことに注目している。
 (3)では1880年12月に「中外軍国機務を総領する」統理機務衙門が設置された背景と同衙門の活動について論じている。筆者によれば、同衙門設立の背景は朝米条約締結交渉と新式兵器製造学習のための中国・天津への留学生派遣(領選使と命名された特別使節が引率)であるとし、実際に同衙門はこの二つの業務に大きな役割を果たしていたことを明らかにしている。また、同衙門が貢使派遣、勅使迎接、両国間の国境遵守、貿易などの「事大」業務においても重要な役割を果たしていたことも明らかにしている。さらに、対日外交業務についても、日本公使への対応、紳士遊覧団や第三次修信使などの日本への使節派遣などでしだいに重要な役割を果たしたことを指摘している。
 (4)では、1882年6月の壬午軍乱で統理機務衙門が廃止された後、11月に統理交渉通商事務衙門が設立された経緯を跡づけ、「統理交渉通商事務衙門章程」に基づいて担当業務を分析している。筆者は、統理交渉通商事務衙門は「条約内」の業務を担当すると規定されることによって、「事大」の業務から切り離されており、その点で統理機務衙門とは大きな差異があったと指摘している。また、諸担当業務や勤務時間に関する規定の検討を通して、統理交渉通商事務衙門は「明確な改革方針のもとに設置された新しいスタイルの外交担当機関」であったとしている。
 第一編第二章では、設立時から甲申政変以前までの統理交渉通商事務衙門の構成員が分析される。この分析は、同衙門の官職就任者の経歴などの悉皆調査をもとにしている。
 (1)では同衙門の役職構成が説明され、外国人官員であるドイツ人メレンドルフと中国人馬建常の占めた位置が検討される。メレンドルフは条約締結交渉と租界地設定交渉で重要な役割を果たしているのに対し、馬建常には朝鮮に駐在すること以外に具体的な任務があったわけではないと論じている。
 (2)では同衙門の官職への任用条件を分析している。①外交使節及び外国視察経験者、②国王高宗に直接入侍する機会のある官職への就任の経歴がある者、③外戚の流れをくむ家系や名門の出身者が多かった、というのがその結論である。
 (3)では、同衙門の構成員は他の機関の官職を兼職していたが、その兼職状況の特徴はどのようであったかを分析している。その結果、(1)議政府やその他機関の官職を兼職している者が多く、同衙門は朝鮮政府の一部として位置づけられた機関であったことがうかがえる、(2)同衙門と同時に設立されて開化政策(西洋の制度・技術を導入する政策)を担当した統理軍国事務衙門やその傘下機関の官職を兼職している者もかなりあり、両衙門が協力関係にあったとみることが妥当である、(3)兼職している官職で多いのは国王への入侍の機会が多い官職であった、の三点を指摘している。
 (4)では構成員の出勤状況が『統署日記』に基づいて分析される。中堅官僚である主事は長期間勤務するケースが多く、主事は実務面で重要な役割を果たしたとしている。
 以上の分析を踏まえて、朝鮮政界に「開化」「反開化」、「親清」「反清」の対立構造を描いた上で、一部人士の就任を以て、統理交渉通商事務衙門の性格を「親清」的であると規定するのは、あまり意味がないと、筆者は論じている。
 第一編第三章では、統理交渉通商事務衙門が各国の朝鮮駐在機関と往来した文書を手がかりにして、対外政策の実態について、租界、朝英・朝独修正条約交渉と朝英新条約への米・清・日の均霑問題、護照発給を取り上げて分析している。
 (1)では、『旧韓国外交文書』の清案・日案・美案・英案・徳案に基づいて、統理交渉通商事務衙門と各国駐在機関との往来文書の数と内容別構成を分析している。国別では清・日本・英・米・独の順であり、内容別では商業・事件・租界・護照発給・各公使館関係事務・条約締結関連の順であることが示される。その上で、対清外交に関係の大きな文書の検討は第二編に回し、事務連絡に過ぎない各公使館関係事務は省いて、(2)以降では租界・護照発給・条約締結関連文書について分析することを述べている。
 (2)では釜山・仁川における租界設定に関する統理交渉通商事務衙門の政策を検討している。その結果、①釜山では独占状態の維持に執拗な日本に対して、同統理交渉通商事務衙門は消極的な方針をとったこと、②仁川においては、日本との租界章程(1883年8月)、清との租界章程(1884年3月)、米英との租界章程(1884年8月)が逐次成立するが、それぞれ異なった形で朝鮮側の監督権が確保されていることが、詳細に明らかにされている。
 (3)では1882年5月に調印された朝英条約・朝独条約の調印から1883年10月の両修正条約調印までの経緯を略述した上で、朝英新条約に規定された関税率や「内地售売」権(朝鮮内地で商品を販売できる権利)へ他の条約国が均霑することへの統理交渉通商事務衙門の対応を検討している。それによって、①米国に対してはあっさり均霑を承認したこと(1884年5月)、②清が「内地售売」権への均霑を求めてきたのに対しては、朝清商民水陸貿易章程第4款にある漢城における「開桟」を「開店」の規定に改めて他国が援用できないようにすることを求めたが、清は逆に貿易章程に「内地售売」権を盛り込む改訂をしたこと(1884年3月に朝鮮に通知)、③日本に対しては朝鮮の利益も考慮するのが「均霑」であるとする独自の解釈によって隣国としての友誼を求めたが、日本に拒まれて、結局、日本の「均霑」を承認したこと(1884年9月)を、詳細に明らかにしている。
 (4)では、護照(外国人の内地旅行時の身分証明書)発給の実態を、対清・対日・対米英に分けて検討しており、清の場合は対象のすべてが商人、日本の場合はほとんどが陸海軍軍人である、などの特徴を指摘している。
 第一編第四章では、統理交渉通商事務衙門と地方官庁とが往復した文書を検討して、外交業務に関する対内政策と財政政策について論じている。
(1)では、統理交渉通商事務衙門と地方官庁との連絡状況が、地方官庁からの報告、地方官庁への指令の両者に分けて、その主体・内容別構成を分析している。それを通じて、筆者は次のような特徴を指摘している。(1)同衙門への報告においては、外国船の動向に関するものが最多であり、次いで伝統的対清関係のものが多く、主体別では平安道関係、開港場管理官庁、京畿観察使の比重が高い、(2)指令においては、開港場管理官庁に最も多く出されており、開港場関係の指令が多くなっている、(3)指令においては伝統的対清関係のものはまったく見られず、同衙門の伝統的対清関係への関わり方が片面的であったことを示しており、重要である。
 (2)では、外交業務関連の対内政策として、未通商港調査、間行里程拡張問題、填補銀支払をめぐる問題を検討している。未通商港調査は、1884年7~10月に蒸気船の入ることができる港を地方官庁に調査報告させたことである。間行里程拡張問題は、1882年7月の日朝修好条規続約により、日本人が開港場から100朝鮮里以内に旅行・行商できる範囲を拡張させるために、1884年に具体的に新たな境界を設定したことである。統理交渉通商事務衙門は範囲が100里を超えないようにすることを地方官庁に指令し、地方官庁もこれに応じて100里を超えようとした日本側の動きを阻んだ事例が明らかにされている。填補銀支払問題は、1882年7月の済物浦条約によって日本へ支払うことになった填補銀を調達することであるが、填補銀調達のための統理交渉事務衙門と東萊府との文書往来が跡づけられている。
 (3)では、統理交渉通商事務衙門の財政政策として、衙門自体の財源確保策を検討している。それによれば、衙門の財源には屯田(国王から賜給された土地や林野)や捐補銭(地方官の給料から控除して集めた銭)が充てられるなど、伝統的な財源寄せ集め方式によったものがあった。また、衙門が発行していた漢文新聞『漢城旬報』の代金徴収、褓負商(定期市を巡回する行商人)や特定の商業団体を保護する見返りとしての収入なども、新しい状況に対応したものであったが、財源寄せ集め方式によるものであることは変わらなかった。統理交渉通商事務衙門は新設衙門でありながら、従来の財政体制の上に立つ政治機関でもあったということができると、筆者は論じている。
第二編第一章は、朝清商民水陸貿易章程(1882年10月成立)と、それに関連して制定された付属章程の成立過程とそれらの内容について検討している。
 (1)では、朝清商民水陸貿易章程の成立過程、全8条の内容を検討している。その結果、水陸貿易章程の特徴について、①伝統的な朝清の儀礼的上下関係を適用しない条項がある、②清の特権を認める条項もあることは確かである、③取り決めは大枠であり、実際の運営のためには別の規定を設けなければならない、いわば不完全な側面を持つものであった、これが最大の特徴であると論じている。
 (2)では、実際に細則として制定された付属の諸章程について検討している。
 まず、「派員辨理朝鮮商務章程」(派員章程)(1883年7月成立)について、清が一方的に制定したものであり、朝鮮へ派遣する商務委員を統括する總辦商務委員を漢城に置いて、その地位を高くし、宗主国の優位を明確にさせようとしたものであったと分析している。
 次いで、「朝清輪船往来合約章程」(輪船章程)(1883年10月成立)について、上海―朝鮮航路は清の事業であるにもかかわらず、損失が出た場合には朝鮮側から願い出て補填させる内容を盛り込んだものであったことを指摘している。そして、派員章程・輪船章程は水陸貿易章程のときよりも清の圧力が強まっていることを示すと論じている。
 第三に、1883年10月に朝鮮政府が制定した「朝鮮通商章程」を取り上げ、この章程は日朝通商章程(1883年6月調印)を土台にしているが、最恵国条款を欠落させるなど、朝鮮の利益を拡大する方向で改編した通商章程であり、水陸貿易章程の不完全さを朝鮮側に有利な形で埋める試みとして注目されると論じている。
 第二編第二章においては、朝清間(義州と奉天省との間)の陸路貿易に関する中江貿易章程の制定交渉過程(最終的に清側は自己に有利な章程の裁可を通告した)について、奎章閣所蔵の関係史料を活用して、精細に検討している。
 その結果、筆者は次のように論じている。(1)交渉過程における両国の対立の根本には、宗属関係に基づく朝清間の上下関係を維持強化することによって自国の利益を確保しようとする清側の意図と、それを抑えることによって実際の利益を少しずつ確保していこうとする朝鮮側の意図との対立があった。(2)朝鮮側の交渉者魚允中が根拠として用いたのは、海上貿易と関連させることで、中江貿易の朝清二国間貿易であることによる特殊性を希薄化しようとした論理である。朝清間における正面突破では改編が難しい部分については、現実状況を二国間に開いていくことによって希薄化し、解決していこうとする方法は、朝鮮にとって一つの可能性であった。(3)朝鮮は自国の利益を確保するために巧みな交渉を展開したが、清側が「上国」としての圧力をもって正面から否定にかかれば、朝鮮側はそれに抗しえない絶対的な限界をかかえるものであった。中江章程の最終段階における清側の改定通告はそのよい例である。
 第二編第三章では、朝清間の具体的な懸案事項について、諸章程の運用実態という側面から、その交渉過程について検討している。
 (1)では、1884年2月に清の帆船が楊花津(ソウルの西端、漢江北岸の河港)に入港しようとして許されず、仁川に拘留されたことをめぐって朝清間に生じた紛争をめぐる交渉過程を検討している。朝鮮側が開港場以外への入港を拒もうとしたのに対し、清側が水陸貿易章程は「専条」(他の条約国が均霑できないもの)として漢城・楊花津を朝清間の通商地と指定している以上、入港を認めるべきであるとの「論理」で押し切ったため、4月には統理交渉通商事務衙門も入港を認めるに至った経緯が、詳細に明らかにされている。
 (2)では、清商人の活動をめぐる紛争・事件をめぐる交渉過程が検討されている。
 第一に、清商人の商董であった熊廷漢らが朝鮮の官員である李範晋事件(1884年5月)をめぐる交渉過程を検討している。清側が李範晋を清の商署(總辦商務委員陳樹棠の役所)に連行して勝手に審判したことに対して、水陸貿易章程第2条に定める朝・清合同審判の規定に反すると抗議した経緯を跡づけ、水陸貿易章程の規定が朝鮮側の利益になるように運用された例を明らかにしている。
第二に、1884年5月に黄海道の白翎島で島民が漂着した清商人を殺害した事件(1884年5月)に関する交渉を検討している。ここでは事件の処理自体は水陸貿易章程に言及しないで行なわれたこと、清船保護のために白翎島などに清の官員を派遣したいとする清側提案には朝鮮側が取り合おうとしなかったことを明らかにしている。
 第三に、清商人が朝鮮商人に商品を売って、代金の支払いを延取引にしたが、支払いを受けず欠損を生じた欠銭問題、清商店において発生した盗難問題の処理をめぐる交渉を検討している。この欠銭問題や盗難問題については、統理交渉通商事務衙門は取り決めがないことや、現実的に解決困難であることを主張して、最後まで清算や補償をしなかったことを明らかにしている。
 結論では、以上の各章を要約するとともに、第一編・第二編としてのまとめ、全体としてのまとめ、及び今後の課題を記している。
 第一編に関しては、統理交渉交渉通商事務衙門の特徴として、次の点を指摘している。それは、(1)同衙門の性格は、朝鮮従来の伝統的な側面と新しい側面が絡み合った、複雑で多面的ものであった、(2)このような複雑で多面的な特徴は衙門の外交政策にも現れており、相手国や主張の場によって論理と方法を使い分けながら、朝鮮の自主と現実的な利益を可能な限り追求するための外交政策をしたたかに展開した、の三点である。
 第二編に関しては、本論文の対象とした時期における朝鮮の対清外交の特徴として、次の点を指摘している。それは、(1)水陸貿易章程を皮切りに朝鮮関係の諸側面を「章程」という形式で規定していく作業を進めた、(2)朝鮮側の自己主張の展開方法は、朝清関係の特殊性と他国との関係に表れる普遍性とを関連づけるものであった、(3)朝鮮の対清外交には様々な場があり、朝鮮はそれぞれの場において最も適切な方法を展開した、の三点である。
 以上を受けて、全体としてのまとめを、次のように述べている。開港期朝鮮における外交体制の主要素は、対清関係の改編、対日外交の刷新、欧米諸国との外交関係の成立、朝鮮政府内の外交行政執行体制整備の四点である。この外交体制形成過程に見られる特徴は、「模索期」という言葉で端的に表すことができる。この時期の模索を通じて、朝鮮外交の幅は徐々に収斂されていくことになる。「模索期」の朝鮮外交が持っていた多様な姿を、実態に即して示したことが、本論文の最大の意義である。
今後の課題としては、(1)検討期間を甲申政変後まで延長する必要があること、(2)甲申政変後に設置された内務府が一部の外交政策も担当したという説もあるので、内務府との関係を含めて統理交渉通商事務衙門の朝鮮政府における位置づけを把握すること、(3)財政体制の問題が甲申政変後にどのように展開していくのかを明らかにする必要があること、の三点を挙げている。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の第1の成果は、「事大」「交隣」業務から成る朝鮮旧来の外交体制を前提として、日朝修好条規の締結、朝清商民水陸貿易章程を起点とする朝清関係の改編、欧米諸国との外交関係成立を経て、これらに対応する形で統理交渉通商事務衙門を中心とした外交体制へと移行していった過程を、その複雑な実態に即して、詳細に明らかにしたことである。
 第2の成果は、統理交渉通商事務衙門の構成員を分析し、外交業務に関連した対内政策、財源確保のための財政政策を検討することによって、朝鮮政府の一部として他の官庁とも有機的に結びついていたこと、新しい面を持つとともに伝統的な政治体制・財政体制に基盤を置いた面もあったことを明らかにしたことである。外交と内政との関連を把握する方法を重視したことによって得られた貴重な成果と言うことができる。
 第3の成果は、対清外交の展開過程における朝鮮側の論理、自己主張の方法が多様であり、朝清関係が様々な側面からなっていたことを、詳細に明らかにしたことによって、この時期はもちろん、甲申政変後の時期についても朝清関係を動態的に把握することの重要性を提示するのに成功していることである。
 第4の成果は、以上の成果を生んだ基礎として、現状では利用可能な史料を博捜し、難解な内容をよく解読・分析していることである。その実証の緻密性は高く評価できる。
 本論文の問題点は、第1に、時期が甲申政変以前に限定されているため、日清戦争以前の朝鮮外交の展開過程とその特徴を見通すことが充分にはできていない点である。
 第2に、統理交渉通商事務衙門と清の総理各国事務衙門との比較、新外交体制成立の標識としての職業的外交官の形成や国際法受容の検討などを通じて、分析を深める余地が残されていることである。
 しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2009年2月18日

 2009年1月27日、学位論文提出者酒井裕美氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「開港期朝鮮における外交体制の形成―統理交渉通商事務衙門とその対清外交を中心に―」に基づき、審査委員から疑問点について逐一説明を求めたのに対し、酒井裕美氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は酒井裕美氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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