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博士論文審査要旨

論文題目:Rabindranath Tagore and Visva-Bharati; Position of Visva-Bharati in Modern Educational Movement in Twentieth Century
著者:スニパ・デヴ (Sunipa Dev)
論文審査委員:足羽與志子、谷口晋吉、臼田雅之、関啓子

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                          平成17年7月13日

 本論文は、著者がダッカ大学在学中から開始したラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore 1861-1941)研究を本学博士課程において展開させ、結実した成果である。
 タゴールは、ベンガル州西部の片田舎シャーンティニケータン(Shantiniketan)に学園「ヴィシュヴァ・バーラティ(Visva-Bharati 1901—)」を経営することによって、その後の生の実践を現実の世界と結びつけた。詩人、作曲家、芸術家、思想家、実践教育者、ベンガル文化再建者等の肩書きのどの一つをもっても代表することができない、全体的、総合的、ルネッサンス的存在がその最大の特徴であるともいえるタゴールであるが、本論文の目的は、彼の思想が一つの具体的な実践として現れた学園、ヴィシュヴァ・バーラティに焦点をあて、タゴールの思想、またそれを巡る現実社会との対立齟齬を、タゴールの内面から読み解くことである。
 著者は、膨大なタゴール研究のなかでも著者の関心に近い主要な先行研究を整理した上で、改めて、ベンガル語と英語で書かれたタゴールの著作、日記、書簡集等の資料に加え、当時のインド内外の新聞記事や論評にいたるまでを丹念にあたり、そこから主要箇所を拾い出すことで著者の視角を浮き上がらせる方法をとる。加えて、日本およびヨーロッパ滞在時のタゴールを巡る反応や、ヴィシュヴァ・バーラティにいまも住み続ける、タゴールを知る当時の学生へのインタヴューもあわせて、より多面的なタゴール理解を可能にし、本論に厚みをもたせている。 
 本論文は社会的・歴史的背景の記述と分析を加えながらも、あくまでタゴール自身の語り口からヴィシュヴァ・バーラティを通じたタゴールの思想の再構築をめざす研究であり、文化社会研究、ベンガル研究、近代教育思想等の領域にまたがる内容と議論なっている。


【本論文の構成】
本論文は次のような構成となっている。

Acknowledgement
1, Introduction
2, Position of Visva-Bharati in Twentieth Century
3, Rabindranath Tagore and Visva-Bharati
4, Western Scholars on Rabindranath and Tagore’s Living Students on Rabindranath
5, Visva-Bharati and Japan
6, Conclusion
7, Bibliorgraphy

【本論文の内容要旨と各章の評価】 
第1章Introduction
 導入部である本章では、本論文の背景となるタゴールの生い立ちと彼の思想を代表する基本概念の説明を行ったあと、主要なタゴール研究の要約と傾向の分析を加えながら、本論文の位置づけと目的を明示する。さらに本論執筆のための文献調査およびフィールド調査の方法と期間をのべ、タゴールに与えられた様々なイメージを払拭し、「真」のタゴールのイメージを描き出すという意欲を強調する。ベンガル語を精神的な支柱としたタゴールの思想が、英語に翻訳された書き物の分析だけでは不十分であり、彼のベンガル語の書き物こそにタゴールの心の吐露があるという。

第2章Position of Visva- Bharati in Twentieth Century
 著者はこの章でタゴールの教育思想の特徴を簡潔に整理する。本章は2節から構成される。第1節は、タゴールが、20世紀初頭にベンガル州西部の片田舎に生徒5名、教師5名という小さな学園(Brahmacharyashram:ヒンドゥー教による人間の一生である、学生期、家住期、林住期、遊行期の4期の一つ、学生期をさす。後のVisva-Bharati)を築き教育活動を始めた背景を明らかにする。この時期のインドは教育を受けたごく少数の中間層と圧倒的多数の無教育な農民階級に分かれていた。この時代の中間層は植民地統治の「皮膚と血はインド人でも、趣味、意見、道徳、知性においてはイギリス人」をつくる必要から生まれ、大衆の発展とは切り離され、植民地支配者の意思に従う存在であった。彼等は支配者の言語(英語)・西洋文化を受容し、母語・自国文化への無関心を特徴とした。このなかでタゴールは、自らの必要性、伝統、言語に基づき、独立した人格を育成する為の教育の必要性を痛感した。これは、彼にとっては、一方で、中間層が主導する民族主義政治活動が過激化と大衆蔑視の傾向を持ち、かつ独自の創造的な社会経済建設の構想を持ち得ないことに対する批判であり、他方で、英国植民地支配に対する根本的な批判を行いうる人材を養成するという意図を持つものであった。タゴールの教育活動は、一方的に支配者の文化として西洋文化を否定するのではなく、東洋と西洋の相互理解を目指す理想主義・世界主義に深く根付いていたがゆえに、同時代の民族主義的知識階級からは、非現実的・空想的と非難された。以上が著者の主たる論点である。
第2節では、著者はタゴールの教育思想・愛国主義の核心について述べる。タゴールの愛国主義は全人類の文化の調和・人道主義という彼の大原則に従う非暴力的なものであり、愛国主義の名の下に相手の文明を全面的に否定することに反対した。彼の愛国主義は、植民地支配者が経済や政治権力のみならずインドの人々の精神を支配することに対してインド本来の文化をもって抵抗することを目指した。しかし、同時に英国の排斥は全人類の相互理解・世界主義によって補われるべきであると考えた。彼の教育活動はまさにこれを実践するものであった。彼は宗教差別や盲目的な民族主義をもっとも嫌った。著者は、彼の学園における教育には、国内の後進的な大衆への奉仕(農村開発、成人学級の実践)と国際主義が組み込まれていたことを指摘する。
 タゴールはインド古代教育方法を、「隠者の住む森の中心は導師。彼の人生の目標は人道・人類愛を得ること。学舎(ashram)の教えの中心はこの導師の生き生きとした鋭敏な精神に触れ母国の魂を受け取ること」と捉え、その隠者の森を新しいインドの大衆のための学園として再生させようとした。そこでは学生は自分で考え、想像力を豊かにし、喜びを得ることが期待された。著者は、この教育を通してタゴールは将来のインド国民を育てようとした、と結論づける。本章は教育論を通じてタゴールの思想の基幹を的確に要約することに成功している。
 
第3章Rabindranath Tagore and Visva-Bharati
 本章はタゴールの教育活動を論じる本論文にとっては、まさに中核を構成する重要な部分である。本章の構成はかなり破格である。考えられる構成としては、ヴィシュヴァ・バーラティの発達を通時的に叙述していくか、同時代の世界の新教育運動との比較研究を展開するか、あるいはタゴールの彼の著作を読み解くことによって彼の教育思想を分析するなどがあろう。しかし、著者はそのいずれの方法にもよらない。著者はこの学園を先行する雛形のない試みとして位置づけているため、同時代の新教育運動の一環として論じることには関心を向けない。また、学園の発達史はこれまでの研究でほぼ全容が明らかにされているから、新しい事実を掘り起こすことは難しい。タゴールの著作の分析はまだ再検討の余地があるように思われるが、教育思想家ではなく、あくまで教育の実践家としてタゴールを把握したい著者の意図からは逸れることになる。そこで結果的に著者が選択したのは、学園の制度史とタゴールの教育思想の接線をたどっていくことであった。タゴールの学園の精神を詩人の内面に即して捉え、それがいかに制度として結実し、さらに受容されていったかが、広い視野から検討され、教育家タゴールの核心を浮かび上がらせることに成功している。
 ガンディーと同じように、徹底的に農村インドの自立を志向し、同時にそこを東洋と西洋との対話の場とするタゴールの思想と実践が明らかにされている。しかし、それは根底的な植民地主義批判を意味し、同時にナショナリズムの狭隘さを批判するから、民族運動が展開される植民地では、その存立基盤がないに等しかった。その状況下での理想の学園つくりの困難さが鮮明に描かれ、結果的に詩人タゴールが現実と真正面から渡り合った軌跡を明らかにしている。
 結論部分では、著者はそれまでとは一転して、伝統を脱構築する試みがふたたび伝統に捕捉されてしまうある種の文化の力学をタゴールは認知していなかったと述べる。これはいささか唐突の感を免れない。著者はこの視角からのタゴール思想の再検討が可能であるという興味ある指摘をおこなっているが、本章での議論からこの結論が導き出される過程の議論が欠落しているのは惜しまれる。

第4章Western Scholars on Rabindranath and Tagore’s Living Students on Rabindranath
 タゴールは生涯を通じて、ヨーロッパやアジアへの旅と滞在を繰り返した。とくにノーベル文学賞受賞(1913)以降は各地で熱烈な歓迎を受けた。タゴールは海外で自らの思想を確信すると同時に、訪問先には鮮烈な影響を与えていった。
 第4章は2節に分かれる。第1節では、1901年から1941年におけるインド国外の、特にヨーロッパの研究者との交流、西欧の教育家によるタゴールとヴィシュヴァ・バーラティをめぐる見解、彼に対する評価が記述される。とくに当時の教育思想家・実践家である、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)とポール・ゲヒーブ(Paul Geheeb)の二人が考察される。両者とも実験的に新しい学園を創設した点でも、また、哲学、宗教から文学や芸術さらには農学にまでおよぶ広い知識の持ち主であった点でも、タゴールと共通していた。とくにゲヒーブはタゴールとの直接の交流があり、タゴールの実践と同一線上にある「森の学園」をつくったところが共通している。
 しかし、著者の関心はこの二人の新教育的な教育理論、カリキュラム、教授法等とタゴールのそれとの類似点でもなく、タゴールの教育思想や理論の継承具合でもない。著者の関心はもっぱらこの二人にとってタゴールはどのような存在として映っていたかを読み解くことにある。その結果として、一教育実践者として個人のレベルに踏み分けていくと、タゴールの東洋神秘性が取り払われ、アジアやヨーロッパに区分けられない教育思想の共振が読みとれることを著者は示した。
 後半では、現在も存命のタゴールの生徒や関係者4人にインタヴューを行い、それぞれの心に生き生きと残るタゴール像を聞き出している。著者に語られたタゴールの教えや思い出は4人のその後の生き方に反映されており、著者はこの4人をタゴールの「生きている著作」であるとする。タゴールの理想は元生徒の学園についての思いの語りに「再生産」される。タゴールの教育の時を経た成果が「実証」される存命者の生き方に焦点をあてることは、タゴール研究にユニークな視点を与える。
 しかし、前半と後半につながりを見ることは難しく、あえて同じ章にする説得性はうすいといわざるをえない。しかし、タゴールと同時代に生きた西欧の実践教育家とタゴールの教育実践を受けた人の著作や証言からタゴールの実践思想を浮かび上がらせることには成功している。 

第5章 Visva-Bharati and Japan
 本章では、二つのことが述べられている。まず、ヴィシュヴァ・バーラティを訪れその期間の違いはあっても住み着いていった複数の日本人のヴィシュヴァ・バーラティへの貢献やインドでの軌跡をたどる。そこには東洋に理想を求める岡倉天心をはじめ芸術家や思想家、学者が集うほか、茶道や華道、武術、工芸などの教師や庭師や大工までもが行き来し、活発な文化交流が行われた。著者はタゴールが日本独自の文化や歴史に強く引きつけられながらも、偏狭なアジア主義やナショナリズムは避け、誠実な暮らしや丹念な手仕事を尊ぶ日本人をヴィシュヴァ・バーラティに長く受け入れていく様子を描きながら、タゴールの思想が伺える日本との幅広い交流をタゴール側にたって読み解くことを行う。これは岡倉天心等の日本側の観点のみから理解されていたインド遍歴に新しい視角を加えている点において評価できる。
 もう一点は、日本を4回(1916, 1917, 1928, 1929)にわたって訪問したタゴールは日本の知識人の熱狂的な歓迎を受けるが、講演会やインタヴューでの彼の主張が知識人の間に両極端の反応と議論まきおこしていった過程を詳述する。タゴールは日本の文化の特性を褒め称えながらも、西欧文明の模倣、軍国主義化、アジアへの侵略を鋭く批判し、より普遍的な人道主義を求めるが、日本を頂点においたアジア主義とナショナリズム、それを支える軍国主義へと急速に突き進む日本においてはタゴールの批判と理想が、植民地支配に下ったインドからの消極的で軟弱な精神論と見なされた。著者は一次資料に基づく日本の社会・政治状況分析にが踏み込まないが、インドという文脈を離れて、西欧列強との緊張関係にあるアジアにタゴールをおいた場合にいっそう明瞭になるタゴールの思想の特異性を、日本訪問についてのインド側の記述をつうじて抽出することに成功している。

6章 Conclusion
 著者は本論文全体の目的と論点を再度明らかにする。タゴールが半生をかけた学園は、タゴールの思想の本質が教育・平和・発展を問題の核として実現された場であり、タゴールが現実ときりむすんでいった実践の場であることを結論づける。タゴールの教え子の一人がアマルティヤ・センの母親であることが、いかにタゴールの思想が現代に通じるものがあるかを示すとして、論文は終わる。

【本論文全体の評価と問題点】
 ベンガルにおけるタゴール研究は途切れることなく、高度な成熟を見せているが、著者の論文は、タゴールの生き方の根幹に触れるところで、彼が教育に取り組むその内的必然性を明らかにしたところに特色がある。加えて、タゴールのインド国内での教育事業と日本と欧州という国際的文脈での評価により、その思想を現実とのきり結びにおいて、具体性を持って浮き彫りにすることは、この論文ならではの貢献と評価できる。 
 著者は社会科学と文学の両方の手法の間で揺れ動きながらも、タゴールの言葉をもって語らせるという立場を揺るがせない。その一つ一つの論点は膨大な著述の精査により何らかの典拠に裏付けられている。その典拠の多くは、ベンガル語で書かれたタゴールの著述、同時代文献、研究書であり、著者による英訳により非ベンガル語圏の読者に接近が可能になった。
 本論を教育思想の研究と限定して読み解くことは本論の目的を評価したことにはならない。なぜなら著者の関心はカリキュラムや教授法といった後進の研究者や実践家が学びとりたいことがらではなく、タゴールという人となり、それも、一方ではその人ならではの思想の沸き立ちとこだわりへと常に回帰していくからだ。本論は、ベンガルの近現代史研究、アジア主義とナショナリズム研究、日本とインドの文化交流史、反植民地運動研究、それぞれの分野にタゴールを通じて触れていきながらも、その一つのテーマに収斂することなく、あくまでもタゴールという人物の内側からこうしたテーマへの彼のアプローチを主軸におく。まさにこの手法が、総合的存在としてのタゴールを書ききることを可能にしている。
 しかし、論文は次のような問題をふくむ。1,極めて禁欲的に文献に語らせるという叙述方法が一貫して取られたために、その取捨選択の内に著者の思考が託されているとはいえ、著者自身の議論を組み立てることが十分ではない。2,タゴールの教育実践は当時のインドをはじめとする東西の国々で唯一単独の試みであったのかは疑問が残る。インド内の同時代にあったさまざまな教育実践とのかかわり、世界の同時代の新教育運動との関連を探っていけば、さらに開かれた問題提起の可能性がある。また、シュタイナーとゲヒーブまで言及しているため、論文に新教育運動との比較が導入され、思想家・実践家の比較においても教育の内実にもっと踏み込むならば、いっそう議論に説得力があった。3,タゴールの思想は急進的なナショナリズムの母胎であったインド中間層の思想にどれほどの親和性があったのか、明確な議論と位置づけが必要だった。この議論は日本での両義的なタゴール評価や、文明の東西を超えたタゴールの思想の普遍性への分析に十分な説得力も持たせるためにも役立ったはずである。
 このように問題とすべき点はあるが、著者のタゴール観は一貫していて生彩に富み、随所に注目すべき観点がある。タゴールの言葉をもって語るという手法が最後まで貫かれており、独自なタゴール研究となっている本論は、タゴール思想の真髄を解明し、その味読を可能にした貴重な労作と位置づけることができる。

【結論】
審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したものと認め、スニパ・デヴ氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2005年7月13日

 平成17年6月16日、学位論文提出者スニパ・デヴ氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文“Rabindranath Tagore and Visva-Bharati; Position of Visva-Bharati in Modern Educational Movement in Twentieth Century”に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、スニパ・デヴ氏はいずれも充分な説明を与えた。
以上により、審査委員一同はスニパ・デヴ氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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