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博士論文審査要旨

論文題目:現代トルコにおける民主政治とイスラーム政党―ムスリム社会の政教関係をめぐる一考察―
著者:澤江 史子 (SAWAE, Fumiko)
論文審査委員:内藤正典、児玉谷史朗、ジョナサン・ルイス

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1.本論文の構成
本論文は、トルコ共和国における憲法原則の世俗主義(laiklik)とイスラーム復興運動の相克の歴史を通じて、イスラーム政党の結党と解党が同国の民主化にいかなる意義をもつのかを解明したものである。
 本論文の構成は以下のとおりである。

序章
1.問題の所在
2.政治的なイスラーム復興運動をめぐる概念の問題
3.政教関係論の史的展開と内包される諸問題
(1)西洋諸国における政教関係の多様性と概念の歴史性
(2)啓蒙主義的バイアス
(3)非西洋世界への適用をめぐる問題
4.「イスラーム的政教一致」論の問題群
(1)西洋的概念のアナロジーの陥穽
(2)「イスラーム国家」論の近代性
5.現代の政治的イスラーム復興運動の条件
(1)近代国民国家の拘束と体制との関係
(2)「対象化されたムスリム意識」と反省的主体としてのイスラーム復興勢力

第一部:世俗主義体制のなかのイスラーム政党
第一章:世俗主義体制の成立とイスラーム:イスラーム復興をめぐる相克の原点
1. はじめに
2. 世俗主義体制とは何か
(1)オスマン帝国末期の近代化改革
(2)世俗主義のイデオロギーと体制
3. 民主化後の世俗主義体制
(1)複数政党制導入とイスラーム復興
(2)世俗主義の体制と勢力
4. 現代トルコにおけるイスラーム復興の形成要因
 :イスラーム的制度とアクターたち
(1)オスマン的イスラーム国家
(2)シェイヒュル・イスラームから宗務庁へ
(3)ウラマーの絶滅とイスラーム的知の断絶
(4)宗務庁の両義性
(5)イスラーム復興の基盤としてのタリーカとジェマート
5.「トルコ的ムスリム政治」空間の成立
第二章:イスラーム政党の成立と初期条件
1. はじめに
2. 国民秩序党の結成
3. 「ミッリー・ギョリュシュ」のイスラーム的ヴィジョン
(1)「ミッリー・ギョリュシュ」の基本精神
(2)「他者」としての「フリーメーソン」:愛国と正義の代表者としての自己認識
4. 党の組織と動員
5. 大国民議会での活動
6. おわりに

第二部:自由化・民主化の時代のイスラーム政党
第三章:周縁化される世俗主義:1980年代以降の政軍関係とイスラーム政策
1.はじめに
2.軍事政権の「トルコ・イスラーム総合」イデオロギー採用
(1)クーデターの背景と軍事政権の目的
(2)国民統合政策の中のイスラーム
3.民政移管後の政軍関係の制度的側面
4.オザル政権下でのイスラーム政策
(1)「イスラームの主流化」
(2)「新オスマン主義」外交
5.世俗主義の周縁化
(1)冷戦の終焉と「イスラーム」の外交的重要性の増大
(2)世俗主義体制の権威の低下
6.おわりに

第四章:政権政党への道:イスラーム復興とイスラーム政党の両義的関係
1.はじめに
2.オザル・モデルとの競合
(1)オザル政権下での新しい政治経済状況
(2)「公正な体制」論の採用
(3)反体制的イメージ刷新の試み
3.新しい動員の形態
4.政権政党の経験とその影響
5.新世代幹部の台頭
6.おわりに

第五章:福祉党連立政権の政策
1.はじめに
2.経済・財政政策
(1)福祉党の現状認識
(2)「財源パック」と「プール・システム」
3.外交政策とD8
(1)D8の基本目的とミッリー・ギョリュシュ
(2)D8の展望:グローバリゼーションと世界経済の将来を視野に
4.おわりに

第六章:「2月28日キャンペーン」の分析:トルコ的民主主義の限界
1.はじめに
2.「2月28日キャンペーン」
(1)「2月28日キャンペーン」の政治力学
(2)福祉党解党判決に見る世俗主義体制の論理
3.「2月28日キャンペーン」のなかのゆらぎ
(1)福祉党から美徳党へ:反省とリセット
(2)世俗主義体制のゆらぎ
4.ぶれる対立構図

終章

付録1:1982年憲法(抄訳)
付録2:トルコの選挙制度と政党
付録3:主要政党のプロフィール
付録4:主要政党の系譜
付録5:主要政党得票率(1987-1999)
付録6:「公正な体制」
付録7:「2月28日キャンペーン」年表
付録8:1997年2月28日国家安全保障会議(MGK)決議要旨
付録9:共和国検事総長による福祉党起訴理由

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2.本論文の概要
 冒頭の序章において、著者は1980年代以降に中東・イスラーム世界で急速に高まったイスラーム復興運動と民主主義との関係を概括している。イスラームにおける聖俗不可分の観念は、政教分離に対立するがゆえに、西欧世界では、イスラームが民主主義と相容れない根拠とされてきた。これに対して、著者は、小杉泰の「思想の市場メカニズム」論を手がかりに、ウラマーによるイスラーム法解釈といえども、結局は民衆の多数の支持を得たものが権威として定着する構造をもつことに注目し、民意を反映させる独自のメカニズムを有することを指摘する。
第一部では、現代トルコにおけるイスラーム復興勢力とイスラーム政党を規定する条件を具体的に検討し、トルコで最初のイスラーム政党がいかなる理念を掲げ、どのような人々により結成されたのかを検討している。
第一章では、ある政党をイスラーム政党と規定する側の世俗主義体制とその思想的基盤とはいかなるものであるのかを明らかにした。トルコにおいては、世俗主義が政治体制のみならず公的領域のすべてを非宗教化することを意味している。世俗化は西洋化と同義として扱われ、世俗主義体制の確立によってのみ文明化を実現しうるという啓蒙主義が、1923年の建国当初から、強固な体制イデオロギーとして機能していた。そして、公的領域のすべてにわたって、非イスラーム化を達成するためには、国家権力の行使によって宗教を管理・統制するような体制が樹立されたことを指摘している。しかし、イスラームは教会制度を持たないゆえに、明示的に国家から切り離すことが難しい。政教分離は、通常、国家と宗教の相互不干渉を意味するが、トルコでは、国家は宗教を管理し、宗教による政治への侵犯は拒絶するという一方的なものになる結果を招いたと著者は指摘する。
建国後25年余りの間、権威主義的な一党制(共和人民党)が続き、その後1950年代に複数政党制に移行した後も、軍部、憲法裁判所および共和国検察庁などが世俗主義体制の維持のために実力行使を繰り返した。こうした国家権力による強権的な世俗化政策の結果、法体系はおおむね世俗化され、法学と神学とがいったい不可分であるイスラーム学の伝統を継承することも困難となった。だが、皮肉なことに、その後のトルコにおけるイスラーム復興勢力は、世俗主義体制の教育制度から出現したのである。イスラーム復興勢力の側も、世俗国家の枠組みの中で、いかにしてトルコをイスラーム的理念に依拠しながら発展させ、オスマン帝国の栄光を再興できるのかという課題を自らに与え続けることによって、世俗主義と対峙してきた。それにより、イスラーム復興勢力が、自らをトルコ共和国において近代化を志向する運動として規定し続けてきたことを本章では明らかにしている。
 第二章では、1970年に結成された最初のイスラーム政党の国民秩序党とその後継である国民救済党の党綱領と、党幹部や支持基盤の分析に当てられている。これらの政党は、いずれもネジメッティン・エルバカンに率いられていた。彼は、ミッリー・ギョリュシュ(ムスリム共同体の視座)という甚だ抽象的ではあるが、ムスリムにとってはウンマ(イスラーム共同体)の統一性を含意するイスラーム的ヴィジョンを掲げたのである。言い換えれば、トルコ国民がムスリムでありつつ、イスラーム的に公正な社会として発展することを志向したのである。
具体的には、世俗主義体制は、宗教の否定、すなわち無神論に通じる反イスラーム的体制であり、既得権益を享受してきた財閥は外国資本の下請けと化して、国民の大多数を搾取していると批判し、地域格差や階級格差を縮減するために、国内各地の中小企業の振興による国産技術の開発とそれに依拠した産業化を提唱した。また、国民精神の発展のために、公教育におけるイスラーム教育の導入を主張した。外交においては、反西洋的立場からムスリム諸国との同盟関係の強化を主張した。著者は、この時期のイスラーム政党を牽引した主体が、伝統的イスラーム指導者層ではなく、テクノクラートとして国家の発展に務めるエリートであり、支持層が中小企業の経営者や地方中小都市の宗教保守層であったことに注目している。
 第二部では、1980年の軍事クーデターにより政党政治が一時停止に追い込まれ、その後、80年代後半から新たに復活した諸政党のもとで、イスラーム政党が、いかにして政治イデオロギーを変質させ、世俗主義体制との共存を図ったのかを分析する。とりわけ、祖国党のオザル政権下での開放経済政策は、高度成長と激しいインフレーションによって、一方では、経済活動の自由が政治的自由をもたらしたものの、反面、貧富の格差の拡大によって、イスラーム的公正を希求するイスラーム復興運動の興隆を招いた。ここで著者は、世俗主義体制とイスラーム政党の対立の構図が80年代以降大きな変化を迎えたことを明らかにしている。経済の自由化、国営企業の民営化路線が、従来、建国以来の諸原則に拘束されてきたトルコ社会において、イスラーム復興を含めた価値の自由化を実現したというのである。
 第三章では、1980年の軍事クーデターの後、労働運動や学生運動の激化を懸念した軍事政権が、イスラームをトルコ民族性と並べて国民アイデンティティに再度取り込みを図り、世俗主義を修正したことを指摘する。その結果、民政移管後のトルコではイスラーム実践がより自由となり、イスラーム復興の現象が経済から文化まで他領域で見られたことを明らかにした。民政移管後、祖国党(中道右派)政権を率いたオザル首相は、世界銀行での勤務経験をもち、トルコの国家計画長長官を務めたテクノクラートであった。彼は、しばしば政治的パフォーマンスのなかで敬虔なムスリムであることをアピールし、そのことが有能なテクノクラート出身の政治指導者であることとは矛盾しないという新しいムスリム政治家イメージを打ち出した。また、世俗的主義を支持する知識人の中にも、宗教的実践についてもそれが民主化や自由化に逆行しない限り、当然の権利として保障されるべきだとして、権威主義的な世俗主義体制を批判する傾向が現れたのも80年代後半の特徴であると著者は指摘する。一方、1980年代後半に登場したイスラーム政党である福祉党は、エルバカンに率いられ、イスラーム的公正の実現という従来のスローガンを掲げていたために、オザルの新しい政治手法と競わなければならなかった。
 第四章では、イスラーム政党としての福祉党が90年代に入ってその戦略を転換したことを明らかにしている。第一に、建国以来イスラーム的政治組織に付与されてきた反動、反体制、そして軍部に敵対的というイメージを払拭し、第二に、支持基盤拡大のために草の根動員型の組織を作り、都市の貧困層居住地区を中心に、生活者の視点に立った行政への働きかけを実践した点である。こうして福祉党は1994年の地方選挙でイスタンブルやアンカラなど大都市部で圧勝した。福祉党市政は、急激に肥大化し、インフラ整備の追いつかない大都市において、市民の日常生活環境の改善など目に見える成果を収め、1995年の国政選挙でも大国民議会において第一党となった。福祉党は、内政のみならず、国際政治や国際経済の専門家をリクルートすることによって、対外的にも革新性を持つイスラーム政党であることを示そうとしていくのである。
 第五章では、1996年に誕生した福祉党連立政権(福祉党と中道右派の正道党)の、財政政策と外交政策に焦点を当て、党首ネジメッティン・エルバカンが掲げたミッリー・ギョリュシュの理念が、二つの政策においていかに実践されたかを検討している。ここでは、福祉党政権がイランなどを含むD8(発展途上国8カ国連合)会議を主導し、軍部との摩擦を覚悟のうえで独自の外交路線を打ち出した点に独自色がある点を明らかにした。しかし同時に、アメリカとの関係悪化を回避しようと図ったため、冷戦後の国際秩序のなかで、トルコがいかなるイニシアティブをとろうとしたのかが、結局は不明確なままに終わったという指摘は興味深い。
第六章では、イスラーム復興勢力に対する事実上の弾圧である「2月28日キャンペーン」までの過程を分析し、軍部を中心とする世俗主義体制の支持勢力が、福祉党連立政権を崩壊させた経緯を明らかにした。2月28日とは、陸海空三軍およびジャンダルマ(治安警察軍)の長と大統領、首相等から構成される国家安全評議会が、事実上、エルバカン首相の退陣を迫った密室のクーデタ発生の日付(1997年2月28日)である。著者は、「2月28日キャンペーン」を1980年代以降、軍部自身が厳格な世俗主義を放棄し、国民アイデンティティの基盤としてイスラームを利用してきた路線を再度修正し、共和国建国当初の世俗主義に戻す決意の表明であったと評価する。
 他方で、福祉党政権の追放は、世俗主義体制を擁護する勢力にとっても、大きな困難を伴うものであった。共和国当初の世俗主義への回帰を唱導したにもかかわらず、イスラーム復興が世界的規模で進行した1990年代において、それは容易ではなかった。国民のなかにイスラーム政党支持者が増加しているという事実を前に、軍部は世俗主義の守護者としての立場を貫こうとする姿勢と、国民の離反を恐れる消極的姿勢とのあいだで揺れ動いたのである。同時に、EU加盟問題が現実の政策課題となった90年代において、加盟の条件である民主化と基本的人権の確立に反するイスラーム政党への弾圧を正当化する根拠が、外在的要因によって崩れていたことを指摘している。
 終章において、著者は、トルコ社会において、イスラーム政党の台頭が民主化への期待と並行していたことに注目し、ムスリム社会における政教関係について、より根源的な解釈を提示する。すなわち、聖俗分離の観念をもたないイスラーム社会は、「聖」が支配する政教一致の社会ではなく、あくまでイスラーム的規範に「従うべき」俗人的社会であり、したがって俗人的社会の一つのアクターであるイスラーム政党もまた、「聖」的優位性を主張することはできないというのである。こう解釈することによって、イスラーム復興運動は、ムスリムたる民衆が民意の反映を要求するという意味での民主化運動として可視化されるのであり、トルコのような世俗主義体制の国家においては、いわば上からの政教分離要求に対抗する、下からの民主化要求という性格を強めていくというのである。トルコにおけるイスラーム政党の変遷を分析することを通じて、著者は、イスラーム世界の各国におけるイスラーム復興運動と民主化および自由化の関係を解明していく可能性を示して論文を締めくくっている。

3.本論文の成果と問題点
本論文は、イスラーム世界における世俗主義とイスラーム主義との相克をもっとも先鋭な形で体現してきたトルコ共和国を例に、ムスリム社会における政教関係と民主主義との関係を解明することを目的としている。方法論の点において特筆すべき点は、西欧近代的な概念や政教関係規範に基づいてイスラーム復興運動を「問題」として取り上げる方法を批判的に検討した点にある。アメリカにおける一部のプロテンスタントが掲げたfundamentalismのアナロジーにすぎない「イスラーム原理主義」概念はもとより、国家と教会の分離を本旨とする世俗主義もまた、近代以降に西欧世界で創出されたものであって、そのためこれらを無批判にイスラームに適応することの問題性を明らかにした。イスラーム復興運動が、実際には運動の舞台となる国家の政治・経済・社会的条件や、他の政治社会勢力との権力関係によって規定されるという関係論的視座に立って分析することにより、「原理主義」などの概念によっては説明することができないイスラーム政党による民主化要求、社会的公正の実現が何故可能となったのかを説得的に解明した。
具体的には、1970年代以降に結党と解党を繰り返してきたイスラーム政党の活動に焦点を当て、世俗主義を護持する立場の国軍、憲法裁判所および世俗主義政党との関係、冷戦の終焉以降の国際関係の変化、経済政策などを視野に入れつつ、イスラーム的価値にのっとった社会的公正の実現を志向する勢力として、いかにして形成されていったのかを実証的に分析した点は高く評価できる。
国家と教会を分離させる世俗主義を制度として実現することが民主主義の根幹をなすという西欧諸国の発想は、聖俗分離の観念をもたないムスリムにとっては理解しがたい。そのため、ムスリム社会において世俗主義を定着させるためには、最も世俗的な組織である軍部による政治介入を含む強権的な世俗化政策に依存せざるをえない。それゆえ世俗主義自体が強権的体制と表裏一体をなし、市民社会の成熟と民主化を阻害するドグマとなることを本論文は説得的に実証している。現代の政治学では、リベラリズムや多文化主義の名の下に文化や価値の多様性を一方で説きながらも、他方では近代西洋が経験した世俗化を異文化に対して迫るという側面が見過ごされがちであった。ムスリム社会の世俗化を民主化や自由化の条件とみなす政治学の世俗的な政教関係規範について再考の必要性を説く本研究は、イスラーム世界と西欧世界との緊張関係が高まる今日において、きわめて重要な意味をもっている。
他方で、本研究がイスラーム世界の人々が、国民国家建設や国民化教育を通じて国民意識の醸成や西洋的な知の内面化という「近代化」をも経験しており、イスラーム復興運動もまた、このような近代化の条件に束縛されている点を重視している。そのため復興運動が、世俗主義体制との軋轢を経験しながら、民主主義や個人の自由の擁護を内在化させ、トルコの民主化を担うアクターとして成熟していく過程を解明し、単純に西洋近代に反対する勢力としてのイスラーム復興勢力という二項対立的な理解を克服し、イスラーム復興運動の解釈に新たな光を当てた。この点で、本研究は世俗主義を必要条件としない民主政治の可能性を示唆するものであり、今後の国際政治学や国際関係論においても、新たな地平を拓くことを期待させるものである。
 一方、本研究をトルコにおける政教関係の展開という面からみると、論文が1997年の福祉党解党までで終わっているため、その後、2002年の総選挙で、後継のイスラーム政党である公正発展党が圧勝し単独与党政権を維持している現状に対する分析がなされなかった点が問題として残る。著者が提起した、世俗主義体制との関係によるイスラーム政党の構造的変容は、現在の公正発展党政権において、より鮮明に表出しているからである。また、イスラーム復興運動の世界的規模で興隆を考えるとき、国民国家を超越するイスラーム共同体理念の現実化が、湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争という過去十年余のアメリカによる軍事行動によって急速に増強されたことは否定すべくもない。本論文が国民国家の内なるイスラーム復興に焦点を当てたために、このような国際的なイスラーム復興運動との関連が背景に退いた感は否めない。
 ただし以上の問題点に関しては、筆者も十分に自覚しており、本論文の意義をいささかも減ずるものではない。よって審査員一同は、本論文を学位請求論文にふさわしい学術的水準をもつものと評価し、澤江史子氏に、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。

最終試験の結果の要旨

2005年1月12日

2004年11月19日、学位請求論文提出者澤江史子氏についての最終試験を行った。本試験においては、審査員が提出論文『現代トルコにおける民主政治とイスラーム政党-ムスリム社会の政教関係をめぐる一考察-』について、逐一疑問点について説明を求めたのに対し、澤江史子氏はいずれも十分な説明を与えた。以上により、審査委員一同は、澤江史子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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