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Thomas Nastの世界

Thomas Nastの世界では、19世紀アメリカを代表する政治風刺画家トマス・ナスト(1840-1902)の図像を紹介します。これらの図像は、19世紀後半、広く読まれていた絵入り新聞、Harper's Weeklyに掲載されていたものです。日本でも、本の友社からHarper's Weeklyの復刻版が刊行され、いくつかの大学図書館では利用可能になっています。日本の歴史学では、図像を使った歴史研究はいまだ発展途上ですが、ここでは科研費プロジェクトの研究成果として、ナストの風刺画コレクションを広く公開し、研究者や学生・院生のみなさんに図像の利用を促し、新しい図像を用いた歴史研究の地平が切り拓かれることを期待しています。


Thomas Nast(1840~1902)
トマス・ナストは、19世紀アメリカを代表するドイツ系の政治風刺画家です。今ではクリスマスには欠くことのできない、太ったサンタクロースをアメリカ社会に定着させたのもナストですし、アンクル・サムやミス・コロンビア、共和党の象や民主党のロバのロゴ、タマニー・タイガーや通貨インフレの縫いぐるみ赤ちゃん(Rag Baby)など彼が創り出し、あるいは使うことで有名になった政治表象は、数限りありません。19世紀最大の諷刺漫画家オノレ・ドーミエ(1808~1879)の作品群が、フランスの革命と共和主義の激動と混乱のなかから誕生したように、ナストの作品もまた南北戦争とその後の再建政治の時代の社会背景を抜きには考察することはできません。詳細は、ぜひ立教アメリカン・スタディーズ37号に掲載されている拙論「政治風刺画家トマス・ナストのライフヒストリー」をご覧下さい。




年譜 
1840―9月27日Thomas Nast生まれる。生地はドイツのランドー。
1846―この夏、ナストと母は、アメリカのニューヨーク市へ移住する。
1848―ドイツで革命。
1850―父,Joseph Nastもバイエルン軍をやめ、アメリカの家族と合流。
1853―ナストはGleascn's Pictorialのコッシュートを模写して、教師に誉められる。
1853~1857―ナストは、この間Theodore Kaufmann(ドイツの歴史画家)や、Alfred Fredericks(イラストレーター兼人物・風景画家)に師事し、絵描き修行を始める。 フレデリクスの勧めで、National Academy of Designに入学。
1858-1859―ナストは、Thomas Cummingsのもとで絵の勉強。ニューヨークのギャラリーをまわり、名画を模写して修行。アルバイトをしていたBryan Gallery of Christian Artも含まれた。

1856―9月に最初の絵をFrank Leslieユs Illustrated Weeklyに発表。父の死。ナストは、正社員に昇格し、Sol Eytingeのともに働きながら勉強。
1859―3/19にHarper's Weekly に最初の絵が掲載される。フレデリクスの推薦。11月には、ナストはSol EytingeとNew York Illustrated Newsで働く。
1860―ナストは、著名な伝記作家であるJames Partonの従姉妹であるSarah Edwardsと二月に婚約。 ナストは、2/15に米国を発ち英国へ。ボクシング世界選手権Heenan対Sayersの取材のため。ナストは、6月にロンドンを発ち、ジェノアとシシリーへガリバルディの赤シャツ隊に参加するため。こ のときの絵が、NY Illustrated News, Illustrated London News, Le Monde Illustreに掲載される。10月には、ナポリでガリバルディと一緒。11月にはナポリを発ち、ローマ、フロレンス、ミラノ、ジェノアへ。その際に、祖国ドイツとスイスに立ち寄り、生まれ故郷のランドーを訪れる。

1861―1/19に、ロンドンを発ちニューヨークへ。2/1にNY到着。NY Illustrated News で仕事再開。ナストはニューヨークとフィラデルフィアで、リンカーンのレセプション(2/19)と、ワシントンでの就任式(3/4)を取材。このときは、NY Illustrated News のため。Harper's Weekly はWinslow Homerを派遣。Sarah Edwardsと9月に結婚。
1862―春には、Leslie's誌に復帰。夏から、Harper's Weekly で仕事開始。Harper社の美術スタッフとなる。Charles Parsonsが社長。ナスト家に、長女Julia(7/1)が誕生。
1863―ナストの最初の象徴的な作品『クリスマス・イブ』と『キャンプを訪れたサンタクロース』を『ハーパーズ・ウィークリー』誌に掲載。
1864―リンカーンの再選キャンペーンに一役買う。9/3掲載の『南部との妥協』と『シカゴ綱領』は国民を奮い立たせる。
1865―長男、Thomas, Jrが4/28に生まれる。
1866-68―ジョンソン大統領の諷刺画。『ハーパーズ・ウィークリー』誌の編集者になったWilliam Curtisと衝突。ジョンソン大統領やサムナー議員、シュルツ議員ら共和党議員を笑いものにする諷刺画をめぐって。
1867―『ニューヨーク市の政府』(2/9)によって、ナストの個人的な公職任用改革にむけた戦いが始まる。マグローリン社の子供向け本の挿し絵を描く(1869年末から1870年にかけて:David R.LockeのSwingin Round the Circle、Mary Mapes DodgeのHans Brinkerや、Charles DickensのChristmas Story of Goblins)年末12月から翌年2月にかけて、ニューヨークでGrand Caricaturamaという展示会を開催、その後三月から四月までボストンでも開催。11/2のHarper's Bazarに諷刺画。
1868―1月にナストは、チャールズ・ディケンズの名誉をたたえる出版晩餐会に出席。68年は大統領選挙(共和党グラントと民主党シーモア)であり、ナストはグラントの大統領選向けキャ ンペーンを開始。ナストは、ダニエル・デフォーの『ロビンソー・クルーソー』、Oliver OpticのOur Standard Bearer, The Life of General Ulysses S. Grant, David Ross LockeのEkkoes from Kentuckyに挿し絵を描く。ナスト家に、次女のSarah Edith(7/2)誕生。
1869―ニューヨークのユニオン・リーグ・クラブによりナストに感謝状。ナストのツイードリングに対する撲滅キャンペーン開始。ウォール街では「暗黒の金曜日」。ローマのカトリック公会議が教皇の不謬性を宣言し、ナストは反カトリック・キャンペーンへ。

1871―ナストの妻と子供達は、ツイード・リンク側からの攻撃を避けるため、ニュージャージーのモリスタウンに移住。HW誌にナストの傑作The Tammany Tiger Loose(11/11)が掲載される。ニューヨーク市の市政選挙でツイードリング敗北(11月)。ボス・ツイードが起訴される。(12月)    ナストは、Henry Pullen のMiss Columbiaユs Public SchoolとThe Fight at Dame Europa's Schoolに挿し絵を描く。ナストの四番目の子ども、Mabel(12/5)が生まれる。
1871―1875―Nast's Illustrated Almanacがハーパー社から創刊。
1872―大統領選挙の年(共和党グラントvs民主党とLiberal Republicanのグリーリー)に、グラント再選に向け精力的なキャンペーン。メディアではハーパーズのナストvsレスリー誌のMorgan によるキャンペーン合戦が展開。グラントは再選を果たすが、過労から利き腕の具合が悪くなる。
1873―ナストは、ハーパー社と異例の終身の専属契約を結び、固定給プラス諷刺画一枚ごとに追加給の契約結ぶ。3月から6月までヨーロッパ訪問。ディケンズのPickwick Papers(ハーパー社)の挿し絵を描く。11月から翌年5月まで講演旅行。 この年、連邦議員を巻き込むクレディ・モビリェ事件が起きる。経済面では、「1873年のパニック」が起き、73年から78年まで不況が続く。
1876―大統領選挙の年(共和党のヘイズvs民主党のティルデン)。共和党候補のためにキャンペーン。Mark ValeのHumpty Dumptyのイラストを手がける。
1877―再建政治の終焉。連邦軍が南部より撤退。大規模な鉄道ストを鎮圧するために連邦軍投入。ナストのパトロンであり支援者であったフレチャー・ハーパーの死(5/29) .ナストの諷刺画The Millenium('The Tiger and the Lamb Lie Together')(11/3)が共和党により激賞される。しかし、George William Curtisに反対される。3月にPuckの最初の記事。
1878―ナストは家族とともにヨーロッパ旅行。(7-9月)Ludlow Street Jailでツイード獄死。(4/12)
1879―陸海軍の将校がナストに感謝状。(2/15) ナストはブレインの中国人排斥政策を批判。(3/8)HW誌の編集部は、民主・共和両党の政治マシーンを批判する。ナストの五番目の子ども、Cyril生まれる(8/28)。
1880―大統領選挙の年(共和党のガーフィールドvs民主党のハンコック)。ナストは共和党の党綱領を支持するが、ガーフィールド本人に関しては腐敗していると考えていたため、言及は避けた。この年から、ナストの諷刺画が変わる。それまでの木版に代わって、photo-chemical engravingになったことで、それまで木版に筆で描いていたものが、紙にペンとインクで描く手法に大転換。それゆえ、全体に絵の線が細くなり、線より色彩を強調するスタイルへと変化する。 共和党内の派閥抗争が激化(Concling のStalwartsとブレイン率いるHalf-Breeds間)。結局、ガーフィールドの意向により、1881年にブレイン側が優勢にたつ。
1881―ガーフィールド大統領が自称Stalwartのギトーにより暗殺される。(7/2)
1882―「スタールート」郵政スキャンダル発覚。6月には、イタリアのガリバルディ死去。 排華移民法制定の年にあたり、中国人移民テーマの図像多数。
1883―ナストは、グラントとウォードにカネを注ぎ込むが、84年5月には失敗。 ナストが英国訪問(5月)。10月にはカナダ訪問。しかし、その後肺炎にかかり、フロリダで治療。
1884―2月に仕事復帰。復帰後最初の諷刺画が3/1号に掲載される。大統領選挙の年(共和党ブレインvs民主党クリーブランド)。大統領選のキャンペーンで、ナストは共和党候補のブレイン支持に反対し、ハーパー誌の同僚を説得し、ナストとハーパー誌はクリーブランドを支持することになる。キャンペーン期間中の構図は、ナストのハーパー誌と『パック』が民主党支持、『ジ ャッジ』他が共和党支持。独立共和党Independent
Republican(Mugwump)がHenry Harperの自宅で会合を催し、カーチスが議長となり、ブレイン反対、改革派の候補を支持することを決議し、民主党がクリーブランドを候補者にすることに影響を与え、最終的に彼が選出されることに寄与した。
1885―グラント元大統領死去。(7/23)
1886―ナストはハーパー誌をやめる。(固定給は継続された)ナストは、自分のクリスマス絵本とツイードリング批判本の出版に向け準備(1890年にクリスマス本だけ出版。)ヘイマーケット事件がシカゴで起きる(5/1)。元アーサー大統領死去(11/18)。
1887―ナストはこの年講演旅行で全米各地を回る。(コロラド州デンバーから、オレゴン州ポートランドまで)

1888―大統領選挙の年(共和党ハリソンvs民主党クリーブランド)。ナストはクリーブランドを支持し、キャンペーン活動。New York Daily Graphicで仕事をし、資金は民主党全国委員会から受けていた。この選挙で 初めて、支持した候補が敗北。The Complete Works of Josh BliiingsとThe President's Message by G. Cleveland のイラストを担当。 息子のいる英国に旅行(11~12月)。88年から91年にかけて、シカゴで出版されているAmericaに絵を描く。
1889―ナストはTime のために絵を描く。ハーパー誌は経営難に陥る。Rufus ShapleyのSolid for Mulhoolyの挿し絵担当。
1890-1891―ナストは、ニューヨークで出版されていたIllustrated Americanに絵を描く。 ナストも経済的に行き詰まり、モリスタウンの邸宅を抵当に入れる。ハーパー誌で、Nast's Christmas Drawings for the Human
Raceを出版。ナストは、Once a Week誌(のちにCollierユs Weekly)に時々イラストを載せる。また、Chicago Inter-Ocean に絵を載せたり、Edgar FawcettのA New York Familyにイラスト
1892―ナストは、New York Gazetteで働く。 ナストは債権者となりモリスタウンの邸宅を抵当に再び入れる。大統領選挙の年(共和党ハリソンvs民主党クリーブランド)。共和党から資金を得て、ハリソン再選のためキャンペーン活動。しかし、敗北(落選候補支持は二度目)。 夏に、Gazette誌の名前をNast's Weeklyに変更するが、翌年には廃刊。 1893―ナストは、New York Recorderで働く。
1894―ヨーロッパを訪問。イラストを描くように要請がある。
1894―1895―絵画Peace In Union(イリノイ州ガリーナ:グラント縁の地)
1895―絵画Saving the Flag / St.Nicholas (St.Nicholas Club, New York) この年6月から翌年2月までハーパー誌で仕事復帰。
1895―1896―絵画:The Immortal Light of Genius
1896―ナストは、The Insurance Observerで1902年まで働く。ハーパー社はJ.P.Morganから資金調達。
1898―ナストは、New York Evening Postで、1901年まで働く。米西戦争勃発。
1900―共和党マキンリー大統領、副大統領にセオドア・ローズベルト。
1901―絵画:Santa Claus (Oyster Bay, New York セオドア・ローズベルトのため) ナストのサンタクロース関係のイラストはLeslie 誌に掲載。マッキンリー暗殺により、ローズベルト大統領へ。
1902―ローズベルトにより三月、エクアドルの領事に任命される。ナストは、その年の12月1日黄熱病にかかり、12月7日死去。
ハーパー社は、ナスト死去の三年前に倒産。モーガンに引き継がれ,1916年まで存続。


 
Thomas Nast Cartoon Collection
1857~1899年までの43年間分のHarper's Weekly、総頁42,880頁のなかに含まれるナストの風刺画を年度ごとに収集したコレクションです。(調整中、近日公開)

1859 1860 1861 1862 1863 1864 1865 1866 1867 1868 1869 1870
1871 1872 1873 1874 1875 1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882
1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894
1895 1896
 

関連サイト

HarpWeek

Thomas Nast Collection (Princeton Univ. Digital Library)

Works of Thomas Nast
(Son of the South)

The Thomas Nast Collection (John Gellman)

Macculloch Hall Historical Museum

 

 

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