脱文脈化を思考するについて


「脱文脈化」の語が肯定的な意味合いでも用いられることは稀である。いかなる事象を研究対象にするにせよ、学的取り組みがまずもって着手すべきは、当該事象をそれが置かれた「文脈」のうちに位置づけることだとされてきた。「脱文脈化」は、この手続きを怠ったことへの非難の表現であり、研究成果の信頼性に対する深刻な挑戦の別名として用いられてきたのである。しかし、はたして「文脈」は、ソレとして容易に特定可能なものとして、私たちの面前に与えられていると言えるであろうか。当該事象と直接・間接に関わる人々の活動を仔細に追えば、「文脈」がむしろ、そうでなければ無秩序に散乱している諸要素(ヒト・モノ・情報)を相互に関連付けようとする不断の試みの結果として、不安定ながらもその輪郭を浮かびあがらせているに過ぎないことが、見えてくるはずである。すなわち「文脈」は、当該事象に外在するというよりも、当該事象のただ中で、絶えず生成されなおされ続けているのだといえるだろう。そして、「文脈」が人々の活動に支えられたものである以上、「文脈化」の過程で排除された要素の逆流や、異質な要素の突然の侵入、「文脈」を構成する要素の別の「文脈」への転移といった危機(あるいは機会)に、人々はたえず晒され続けるに違いないのである。この意味で「脱文脈化」は、研究手続き上の瑕疵の別名というよりも、それ自体に学的眼差しを向けられるべき対象と捉えなければならない。しかし、本研究において私たちは、「脱文脈化」を、いかなる意味でも評定することを目的としていない。「脱文脈化」を忌避すべきものとして批判したり(たとえば商品化やグローバル化の名で)、新時代を予兆するものとして称揚したり(ハイブリッド化や越境の名で)することは、かえって「脱文脈化」の過程の遍在性や恒常性、そしてそのあらわれの多様性や個別性から、私たちの目を逸らさせることになろう。本研究の課題は、「市場」や「公共圏」、「医療」や「儀礼」、「美的経験」や「宗教経験」など様々なラベルで切り取られてきた無数の現場で、「文脈化」と「脱文脈化」がどのような鬩ぎ合いを繰り広げているのかを追跡し、それらが人文社会科学の理論にどのような再構成を迫るのかを、できる限り正確に把握することにある。