ワークショップ記録


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第六回 芸術の脱文脈化(久保 哲司)

T. ベンヤミンにおける〈アウラ〉の用法

「ドストエフスキーの『白痴』」(1921年発表)
「ゲーテの『親和力』」(1921-22年成立、24-25年発表)
「〈イラスト入り新聞〉には異議なし」(1925年成立)
「覚書および資料(『パサージュ論』)」(1927-1940年成立)
「薬物実験の記録」(1927-1934年成立)
「カール・クラウス」(1931年発表)
「批評家の使命」(1931年成立)
「写真小史」(1931年発表)
「占星術について」(1932年頃成立)
「複製技術時代の芸術作品」(初稿1935年成立、第2稿1935-36年成立、フランス語訳1936年発表、第3稿1936-39年成立)
1938年12月9日付、テーオドーア・W・アドルノ宛ての手紙
「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(1940年発表)
1940年5月7日付、テーオドーア・W・アドルノ宛ての手紙

これらの文章において、アウラという言葉はさまざまなニュアンスで用いられている。最も有名なのは「複製技術時代の芸術作品」におけるアウラ概念。芸術作品のアウラは、対象の性質だけに帰属するのではない。対象と受容者のかかわりにおいて、作用史=受容史のなかで形成される。「事物の権威、その伝統的な重み」(「複製技術時代の芸術作品〔第2稿〕」久保哲司訳、『ベンヤミン・コレクション1』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、第2版第8刷2008年、590ページ)近代的な意味での〈芸術〉の権威といってもよい。

U. アウラ論・複製論研究史概観(デートレフ・シェトカーによりつつ)

Walter Benjamin: Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit. Kommentar von Detlev Schöttker. Frankfurt am Main: Suhrkamp 2007


第1期:「芸術の政治化」(ベンヤミン)か「自律的芸術」(アドルノ)か

「これがファシズムが進めている政治の耽美主義化(Ästhetisierung〔美的知覚化〕)の実情である。このファシズムに対してコミュニズムは、芸術の政治化をもって答えるのだ。」(「複製技術時代の芸術作品」629ページ)

ベンヤミンによるこの芸術の政治化の要請は、芸術は直接に政治的プロパガンダを目指すべきだという意味ではなく、当時ベンヤミンが交友を結んでいたブレヒトの芸術観に従って、現実の状況について読者や観客に考えさせるようにし、それによって現実変革の道を探る芸術を目指すべきだということ。こうした芸術の政治化の要請に、そしてベンヤミンのアウラ論に、最初に、しかも激しく疑義を唱えたのは当然ながらアドルノ。ベンヤミンによれば、アウラ的な芸術には、呪術や魔術や宗教の儀式的性格が引き継がれているが、そうした性格を芸術作品の核心とみなすことにアドルノは反発し、自律的な芸術作品の核心には、そうした「魔術的なものと絡み合った形で、自由のしるし」(アドルノ、1936年3月18日付、ベンヤミン宛ての手紙)があるとしている。

複製論の最後の文の「ファシズムによる政治の耽美主義化」という表現は、1970年代から盛んになったファシズム美学の研究に重要な示唆を与えた。


第2期:芸術史・文化史的観点からの研究

アウラ概念の歴史、ベンヤミンの著作全体のなかでのアウラ概念の意味、ベンヤミンの論と従来の美学との関係の考察、当時の美術史学との関係など。

Tetsuji Kubo: Das Ende der schönen Kunst. Zu Walter Benjamins Medientheorie. In: Josef Fürnkäs / Peter Richter / Ralf Schnell / Shigeru Yoshijima(Hrsg.): Das Verstehen von Hören und Sehen. Aspekte der Medienästhetik. Bielefeld:Aisthesis 1993, S. 39-51.

「美は仮象ではなく、他の何かのための被いでもない。美そのものは仮象ではなく、あくまでも本質なのであって、ただし、被われてある場合にのみ本質的に自己自身と同一であり続ける、そのような本質なのである。(中略)被いも被われた対象も美ではなく、美とはその被いのうちに存在する対象を謂う。」(「ゲーテの『親和力』」浅井健二郎訳、『ベンヤミン・コレクション1』171-172ページ)

伝統的な美学は、本質と仮象を区別し、美とは本質を被う仮象であると考えた。それに対しベンヤミンは、被いは、美に必然的なものであるとする。この被いを、作用史ないし受容史的な視点から捉えなおしたものが、アウラにほかならない。

「美しい仮象の意義は、知覚の、いまや終わりに近づいている時代〔=アウラ的知覚の時代〕に深く基礎づけられている。それに対応する教説は、その最終的なヴァージョン〔まとめ方〕をドイツ観念論においてもった。しかしこのヴァージョンには、すでにエピゴーネンめいた調子がある。美とは仮象である――ある理念の感覚的な現われ、もしくは、真なるものの感覚的な現われ――というドイツ観念論〔ヘーゲル〕の有名な定式は、古代の定式を荒っぽくしているだけでなく、後者の経験の基盤を放棄してしまっている。この経験の基盤は、アウラのうちに存する。『被いも被われた対象も美ではなく、美とはその被いのうちに存在する対象を謂う』――これが古代の美学の精髄である。美しいものは、被い(これはアウラにほかならない)をとおして現れる〔scheinen仮象をもつ〕。美しいものが現れる〔仮象をもつ〕のをやめるところでは、それは美しくあることをやめる。」(「複製技術時代の芸術作品」第2稿注10のおそらく初期形と思われる草稿、 GSVII, S. 667)

映画理論・映画史研究においては、ベンヤミンのアウラ論にたいする異論がかなり強く出された。


第3期:イメージ論的研究

アヴァンギャルド運動におけるイメージ、映画のイメージに関するベンヤミンの思考は、近年の芸術論・イメージ論にさまざまに示唆を与えている。論点としては触覚性、空間、速度、視覚における無意識的なもの、ミッキー・マウスやチャップリンのような形象の文化的機能、最近の芸術運動における複製の意味、など。



V. アウラ論とベンヤミンの歴史認識の方法

Axel Honneth: Kommunikative Erschließung der Vergangenheit. Zum Zusammenhang von Anthropologie und Geschichtsphilosophie bei Walter Benjamin. In: ders.: Die zerrissene Welt des Sozialen. Sozialphilosophische Aufsätze.Erweiterte Neuausgabe. Frankfurt am Main: Suhrkamp 1999

ホネットは、ベンヤミンについてたくさんの研究がなされているが、哲学あるいは社会学の研究の発展に対しては、ベンヤミンの理論は何ら見るべき影響を与えていない、としている。ベンヤミンの〈アウラ〉を中心とする議論は、(哲学・社会学はともかく)今日の文学・芸術研究において、どういう理論的意義をもちうるだろうか。

「あの書物〔パサージュ論〕の主題が19世紀における芸術の運命だとすれば、この運命が私たちにとって何か言うべきものをもっている理由はひとえに、この運命がある時計仕掛けのチクタクという音のなかに含まれていて、この時計の刻限を告げる音がようやく私たちの耳に届いてきたからなのです。私が言いたいのは、私たちの耳に芸術の運命の刻限が鳴ったのであり、この刻限の徴(しるし)を、私は一連のとりあえずの考察に定着しましたが、その表題は『複製技術時代の芸術作品』といいます。」(強調はベンヤミンによる)(1935年10月16日付、ホルクハイマー宛ての手紙)

19世紀における芸術の運命は、アウラ的な芸術の終わりが見えてきた現在のわれわれによってはじめて認識される。「複製技術時代の芸術作品」の原題„Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit“は直訳すれば、「その(=芸術作品の)技術的複製可能性の時代の芸術作品」、あるいは「それ(=芸術作品)の技術的複製が可能となった時代の芸術作品」ということ。ブルクハルト・リントナーが指摘しているように(Burkhardt Lindner: „Das Kunstwerk imZeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit“. In: Ders. (Hg.): Benjamin-Handbuch. Stuttgart / Weimar: Metzler 2006, S. 233)、ベンヤミンは世界史において写真や映画や蓄音機などの(機械的な)複製技術が登場した時代、という意味での「複製技術時代」ということを問題にしているのではなく、「芸術作品が(機械)技術的に複製可能となった時代」ということを問題にしている。芸術の歴史において、芸術作品の技術的複製がまだ可能でなかった時代と、それが可能になった時代がある。一般的な世界史においてではなく、芸術の歴史において、複製技術の登場は、決定的な切れ目を作り出す。複製技術というメルクマールを取ると、芸術の歴史にそういう刻み目が入れられる。ベンヤミンは歴史認識において、過去を固定したものとして捉えることを戒めた。

「歴史の見方におけるコペルニクス的転換とはこうである。従来は、〈かつて在ったもの〉が固定点と見なされ、現在がこの固定したものへと認識を手さぐりしながら導こうと努めるのだ、とされてきた。いまやこの関係は逆転されるべきであり、かつて在ったものが弁証法的転換へと、目覚めた意識の侵入へと化すべきなのだ。」(『パサージュ論』K1, 2)

「過ぎ去ったものがその光を現在のものに投射するのでも、また現在のものがその光を過ぎ去ったものに投げかけるのでもない。そうではなく、イメージのなかでこそ、かつて在ったものは、この今と閃光のごとく一緒になり、ひとつの状況布置と化す。言い換えれば、イメージは静止状態における弁証法である。」(『パサージュ論』N2a, 3)

「過ぎ去った事柄を歴史的なものとして明確に言表するとは、それを〈実際にあった通りに〉認識することではなく、危機の瞬間にひらめくような想起を捉えることを謂う。」(「歴史の概念について」浅井健二郎訳、『ベンヤミン・コレクション1』649ページ)

「かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる。〔中略〕私たちに先行したどの世代ともひとしく、私たちにもかすかなメシア的な力が付与されており、過去にはこの力の働きを要求する権利があるのだ。」(「歴史の概念について」646ページ)

われわれは、ベンヤミンのこうした思考を、メシアニズムとか救済という観念を共有することなしに、われわれの歴史認識の方法として受け入れることができるか。また、そうした弁証法的イメージは、具体的にはどのような記述となるのか。

「この見事な著作に対する方法的な異議を少しだけ述べておこう。『芸術家の天才が大きければ大きいほど』と著者〔ジゼル・フロイント〕は書いている、『その作品は、同時代の社会の諸傾向をよりよく反映する。しかも、まさに芸術家が行なう形式付与のオリジナリティによって』(『十九世紀フランスの写真』)。この文で疑問に思われるのは、ある作品の芸術的射程を、作品が成立した時代の社会構造と関連させて画定しようとしていることではない。疑問に思われるのはひとえに、この社会構造が決定的なありようで、つねに同じ様相で現れると想定されていることである。ほんとうは社会構造の様相は、その社会構造を振り返って眺めるさまざまな時代とともに変わってゆくであろう。したがって、ある芸術作品の意味を、作品が成立した時代の社会構造を顧慮しつつ定義するということは、〔フロイントが言っているのとは異なり〕むしろこういうことになる――芸術作品がもっている、それが成立した時代からきわめて遠くきわめて異質な時代に対して、それが成立した時代への通路を開いてやる能力を、作品の作用史から規定すること。」(「パリ書簡〈II〉」久保哲司訳、『ベンヤミン・コレクション5』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、2010年、597-598ページ)



W. アウラの現在

ベンヤミンのアウラ論の内容は今日から見てどうか。現代においてアウラが消滅しつつある、というベンヤミンのテーゼは、アドルノをはじめとする人々によって基本的には承認されつつ、部分的に異論・反論が唱えられている、といってよいだろう。

「複製技術時代の/芸術作品に関して/あなたは間違った/ベンヤミン//もろもろのオリジナルは秘密であり続ける/永遠にアウラ的なのだ」(Alfred Andersch: An Walter Benjamin. In: Walter Benjamin 1892-1940. Bearb. von Rolf Tiedemann u. a. [Marbacher Magazin 55], Marbach: Deutsche Schillergesellschaft 31991, S. 324)

アウラ的な芸術観はしぶとく生き延びている。ペーター・ビュルガーの言うように、〈制度〉芸術は、アヴァンギャルド運動ののちも存続している(ペーター・ビュルガー『アヴァンギャルドの理論』浅井健二郎訳、ありな書房、1987年 / Peter Bürger:Zur Kritik der idealistischen Ästhetik. Frankfurt am Main: Suhrkamp 1983)。

あまり問われていないこと:ベンヤミンは、大衆には「対象をごく近くに像で、いやむしろ模像で、複製で、所有したいという欲求」(「複製技術時代の芸術作品」593ページ)がある、と言っており、これがアウラを消滅させる、主体の側の理由であるのだが、このような傾向はほんとうにあるのだろうか(ベンヤミンはそこで論拠をほとんど挙げていない)。リントナーは「イメージへの飢えBildhunger」(S. 234)と言っている。



X. 〈アクチュアル化〉もしくは〈脱文脈化〉の問題

ふつうわれわれは過去のものを、しかるべき文脈のなかで、ベンヤミンの複製論の言葉でいえば「伝統」のなかで理解しなければならないと考える。

「複製技術は――一般論としてこう定式化できよう――複製される対象を伝統の領域から引き離す。複製技術は複製を数多く作り出すことによって、複製の対象となるものをこれまでとは違って一回限り出現させるのではなく、大量に出現させる。そして複製技術は複製に、それぞれの状況になかにいる受け手のほうへ近づいてゆく可能性を与え、それによって、複製される対象をアクチュアルなものにする。」(「複製技術時代の芸術作品」590ページ)

ここでベンヤミンは対象のアクチュアル化、脱文脈化をポジティヴに捉えている。ただし、それは各人が対象を勝手に、恣意的に解釈してよいということではないにちがいない。

「過去から切り離された人や階級は、自分を歴史のなかに位置づけることのできた人や階級よりもはるかに、人や階級として選び行動することの自由を制限されている。これが、なぜ過去の芸術のすべてが今や政治的な問題となってしまったかの唯一の理由である」(ジョン・バージャー『イメージ』伊藤俊治訳、パルコ出版、1991年第5刷、44ページ)

「写真はアジェにおいて、歴史のプロセス〔過程=訴訟〕の証拠物件となりはじめる。このことが写真の隠れた政治的意義となる。こうした写真はすでに、一定の意味で受け取られることを求めている。心の赴くままに観想をめぐらすことは、それらにはもはやふさわしくない。それらは見る者を不安にする。見る者は、それらに近づくにはある一定の道を探さなくてはならないと感じる。(中略)写真には説明文が不可欠となった。」(「複製技術時代の芸術作品」600ページ)



その他の参考文献

●Josef Fürnkäs: Aura. In: Benjamins Begriffe. Hg. von Michael Opitz und Erdmut Wizisla. Bd. 1. Frankfurt am Main:Suhrkamp 2000, S. 95-146.
●Peter M. Spangenberg: Aura. In: Ästhetische Grundbegriffe. Bd. 1. Stuttgart / Weimar: Metzler 2000, S. 286-307.



議論

久保氏はまず、ベンヤミンにおけるアウラが、対象と受容者による作用史の中で形成されるものであることを指摘し、ベンヤミンによるアウラの用法、及びその研究史を詳細に検討した。その上で、複製による対象のアクチュアル化に注目することで、ベンヤミンのアウラを通して芸術の脱文脈化を明らかにした。質疑応答では、まず弁証法的イメージ、作用史、アウラの相互関係について確認があった(安川氏)。ついで、ベンヤミンの「商品のアウラ論」の位置づけ、及びアウラ論と歴史哲学に共通するベンヤミンに固有の「距離」観に関する質問とコメント(大杉氏)、アウラと作用史における作品の自己展開に関して質問が出た(安川氏)。また、伝統的解釈による対象理解から離れてその都度意味付けを与える、アクチュアル化の解釈についての質問があった(深田氏)。さらに、ライブよりも、同時配信の動画をコメント付きで視聴する経験にこそ現代的アウラがあるとするイベントの紹介や、ベンヤミンが自ら書いたもの自体が発するアウラとの距離について質問が出るなど(兼松氏)、ベンヤミンのアウラ概念が脱文脈化を思考する上で重要な概念であることが示された。


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第五回 リアリズム再考(井川 ちとせ)

Poor old realism. Out of date and second-rate. Squashed in between the freshness of romanticism and the newness of modernism, it is truly the tasteless spam in the sandwich of literary and cultural history.―Rachel Bowlby, forward, Adventures in Realism, ed. Matthew Beaumont, xi.

絶えず移ろう万華鏡のような印象を伴う意識のスクリーンが、あたかもパリンプセストの上に個々の人物によって客観的に観察される現実の物事ばかりでなく、直感されるもの、無意識の領域とつながるものを含めて、半影の部分にかすかに残る過去の印象を映し出す―合衆国地方裁判所判事ウールジー


T. 発展史観的文学史と正典化

●Edwardians と Georgians
●リアリズムとモダニズム/意識の流れ
●The New Age (1907-1922)とブルームズベリー・グループ


Arnold Bennett (1867-1931)

長編フィクション

A Man from the North (1898), The Old Wives Tale (1908), Clayhanger (1910), HildaLessways (1911), The Pretty Lady (1918), Lord Raingo (1926),Imperial Palace (1930)

ノンフィクション

How to Become an Author (1903), How to Live on Twenty-Four Hours a Day (1908)

戯曲

What the Public Wants (1909) → 2011@the Mint Theater Company in NY


情報相Lord Beaverbrookに請われて入省(1918年5月〜終戦)< The Pretty Lady (4月)
聴取者の “favourite neglected classics?”Open Book. BBC Radio 4, London, 31 May, 2010.
Margaret Drabble: “People would appreciate a family saga even, or especially when twitter-length pieces are in

fashion.”
2004年よりChurnet Valley Booksが7タイトルを出版


Virginia Woolf (1882-1941)

Jacob’s Room (1922), Mrs. Dalloway (1925), To the Lighthouse (1927), The Waves (1931) “Mr. Bennett and Mrs. Brown” (November 1923)

「ウェルズ氏、ベネット氏、ゴールズワージー氏を私はエドワーディアンと呼び、フォースター氏、ロレンス氏、ストレイチー氏、ジョイス氏、そしてエリオット氏をジョージアンと呼ぶことにします。」「1910年12月頃を境に human character が変わった」「ほとんど自動的に彼女についての小説を誰かに書かせるブラウン夫人がいる」



U. よくできた壷と作者の死

伝記批評・印象批評からNew Criticismへ

「意図に関する誤謬」・「感情に関する誤謬」
I. A. Richards, The Principles of Literary Criticism (1925)
Cleanth Brooks, The Well Wrought Urn: Studies in the Structure of Poetry (1947)
海賊版・翻案物・著作権切れ・TVドラマ化
できそこないの壷



V. 「現実」と「表象」の「問題」

読者反応理論

cf) Stanley Fish (1938-)

「解釈共同体」=「素養ある読者」


社会史からの批判

cf) Jonathan Rose

… “Because he’s so real” … While the first wave of modernist critics was dismissing. Dickens as a melodramatic caricaturist, working people were reading his novels as documentaries, employing the same frame that their grandparents had applied to Bunyan…. As a general rule, however, Dickens’s universe was solid enough and familiar enough to provide a common frame of reality for all social classes. (113-114)

N.B.: John Bunyan, The Pilgrim’s Progress (1678. 84)


実作者David Lodge (1935-)とバフチン(1895−1975)の類型学

cf) David Lodge, After Bakhtin: Essays on Fiction and Criticism (1990)

●「作者の直接的な言葉」
●「再現された言葉」作中人物の言葉の直接的な引用、「絵画様式」の間接話法
●「二重の方向性をもつ言葉」世界に存在する何かを指示するばかりでなく別の話し手の発話行為をも指示する言葉。



その他の参考文献

●Beaumont, Matthew. ed. Adventures in Realism. Malden: Blackwell, 2007.
●Poovey, Mary. Genres of the Credit Economy: Mediating Value in Eighteenth- and NineteenthCentury Britain. Chicago: U of Chicago P, 2008.
●Rose, Jonathan. The Intellectual Life of the British Working Classes. 2001. New Haven: Yale UP,2010.



議論

井川氏は、Arnold Bennettの作品群の受容と評価を再検討することで、リアリズム小説がイギリス文学史において周辺化されていく過程と文脈を浮かびあげた。質疑応答では、リアリズムの再文脈化と再評価の方向性について確認があり(大杉氏)、発表者から、リアリズム概念そのものの再検討、および、リアリズムが当時の解釈共同体(読者)と取り結んでいた関係性への注視が必要不可欠との視点が、改めて提示された。また、バロック文学の評価の変転を通して文学論の補足も行われた(久保氏)。一方、「できそこないのツボ」をめぐる解釈、及び批評のラディカルさに関する発表者の認識についての確認がなされた(深澤氏)。さらに映画「戦艦ポチョムキン」に対する、シュミッツとベンヤミンによる評価の違いについて紹介があり、リアリズムをめぐる論争の多面性が提示された(久保氏)。


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第四回 脱文脈化と「政治神学」の概念(深澤 英隆)

T. はじめに

これまでの関心

近代宗教学と脱文脈化の問題:近代宗教学の脱文脈化・普遍宗教論的志向性


80~90年代における再文脈化の議論

宗教経験論」の例 普遍的「宗教」「経験」概念への批判

再文脈化論の落とし穴:図と地の二分法と単純な二項関係論。図となるもの(ex.生きられた経験とその固有の表現)の解消


参考資料について

留学中にはじめて「ドイツ神秘主義」の概念の国民主義的と由来と、ナチ・イデオロギーによる「解釈的同化」のひろがりを実感。→19世紀末以来の反キリスト教的「新異教主義」宗教運動およびその表象世界に宗教史的関心が移行。またファシズムによる宗教的プレファシズムの「拒否」への関心 「宗教的政治」と「政治的宗教」との並行と背反という問題

 

本報告の意図

「政治神学」という定位困難な概念の、「脱文脈化」の語による輪郭づけの試み



U. 脱文脈化と宗教

脱文脈化のアスペクト

a. 事態における前文脈化/(文脈化)/脱文脈化/再文脈化
b. 視座における前文脈化/(文脈化)/脱文脈化/再文脈化

→三者の不断の変転と、「同時性」
→事態とそれを見ること両者の共軛性
→図/地はintentionalityの不可避の構制


「宗教」と呼ばれるものと脱文脈化の位相


宗教の何らかの契機と伝統との関係
 

前文脈化:仮構の直接性や合致社会

脱文脈化:シンクレティズム、シンボルの移植・転移等

再文脈化:伝統復興。伝統の創造等


宗教の主題化における文脈性の問題

宗教概念による図(宗教)と地(非宗教)との切り分け

近代宗教学による宗教の諸要素の脱文脈化と「宗教学的宗教」の創造

宗教研究の「再文脈化」の要請(図/地の切り分けの温存)

宗教の「脱文脈化作用」の問題
近代宗教研究の脱文脈化の文化的機能の問題(脱文脈化=脱神学化/還元主義的文脈化への「抵抗」)


V. C・シュミットにおける「政治神学」の概念と脱文脈化

1) C・シュミット(1888-1985)という問題

言及されながら、実際に読まれることの少ない法学者・政治思想家

●博学晦渋かつ論争的な、特異なテクスト群
・「非常事態」「決断」「独裁」「敵/味方」等の不穏な主題群を通じて展開される真正の「反平和の思想」
●ナチスと並行し、ナチスに迎合し、ナチスに切り捨てられた過去:「保守革命論者」系の思想的扱いの難しさ
●「神学的」主題/概念使用の扱いにくさ、その「文脈化」の困難さ
●再評価のひとつの根拠:宗教の再公共化の動向のなかで、政治神学の語と概念に折々、言及がなされる


2)「政治神学」の概念

政治神学の概念

●一般には、政治と宗教との交錯が問題となるとき言及されることば(cf.雑誌Political Theology, Equinox 1999-)
●戦後神学のなかでは、ある種の政治的決断を選択する神学の意味もある(政治的立場はさまざま。多くはむしろマルクス主義に親和的)。cf. 深井
●概念としてのきしみと喚起力:政教分離や近代神学の脱政治化の潮流のなかで
●政治宗教概念のもっとも影響力ある源泉であるシュミットの『政治神学』。その両義性、理解しにくさ。「脱文脈化」を補助概念としてみる。


3) シュミットの著作期

ワイマル共和国以前

法学,国家学の専門論文のほか、表現主義詩注解など。カトリック的終末論の思想傾向が強い

ワイマル共和国期

『政治的ロマン主義』(1919)、『独裁』(1921)、『政治神学』(1922)、『現代議会主義の精神史的状況』(1923)、『政治的なるものの概念』(1927)、『合法性と正当性』(1932)等。

ナチ政権時代

排斥以前は、『法律学的思惟の三種類』(1934)、ほか、ナチ政権に迎合した種々のテクスト。排斥後は国際法やホッブス論等

第二次大戦後

『獄中記』(1950)、『政治神学II』(1970)など


4) シュミットの主題群

・原モチーフとしての近代批判、自由主義批判、ロマン主義的相対主義批判、討議的民主主義批判、終末観、根本悪と戦争状態
・原モチーフの反映としての政治的なるものの概念


5) シュミットの『政治神学』の主題と構成

『政治神学??主権論四章』

第1章 「主権の定義」

主権・非常事態・決断(者)の概念の提示ののち、法学・法思想史的考察

第2章「主権における法と判断」

ケルゼン、ヴェーバー、カウフマンら同時代の主権論の検討と批判。ホッブスに即した決断(者)概念の重要性の議論

第3章 「政治神学」

国家学の概念と神学との関係、「主権概念の社会学」の議論、社会構造と世界像と一致の問題,世界像の歴史的変容の跡付け

第4章 「反革命の国家哲学」

ドゥ・メーストル、ボナール、とりわけドノソ・コルテスの政治思想の検討

シュミット『政治神学』の両義性(別紙参照)
 →主権論と歴史的政治神学論の断絶
 →「世俗化された神学概念」の意味するもの
 →「概念の社会学」というデタッチした視点と有神論的パトスの併存
 →世俗化の逆転か、奇跡神学の世俗化の要請か

6) シュミットと同時代カトリシズムの「文脈」

・第一次大戦後のカトリシズム復興 中央党の重要性とプロテスタンティズムに代わる「秩序原理」の理念のインパクト
・初期シュミットにおける教会の、国家秩序のモデルとしての重視。
・破門と教会との疎遠化 自然法思想批判、教会に代えて、国家(神話)の前景化
・コルテスとの対比 コルテスの有神論的確信、人間の恩寵による変容可能性、教皇至上主義 ←いずれもシュミットのコルテス受容から脱落
・カトリック陣営へのシュミットの影響力とカトリックの「世俗化」というシュミットへの批判

7) シュミットと脱文脈化の諸相

カトリック信者にとって「脱文脈化されざるもの」としてのカトリック(教会)

シュミットは、神学的世界像の世俗化(脱有神論化)と神学的概念の世俗化脱文脈化)の双方を示唆 →「概念の社会学」としての政治神学

非常事態と決断と独裁の主題群とコルテスらの有神論的国家・国法論との再結合=シュミットは、世俗化=政治概念の神学的由来の忘却を言い、それがまた主権と決意性の忘却化をも意味すると考え、前者の再考と「類比」から、後者=政治の世俗化を押し戻そうとする(再文脈化)

シュミットはニヒリストかカトリックかという古典的問い→シュミットの政治神学は、政治と有神論との構造的類比・並行性を語る。その政治モデルも形式的には有神論的。他方で救済論や教会との関係論は欠如。シュミットにおけるカトリシズムの脱文脈化と再文脈化の共存と交錯



参考文献

●Dahlheimer, Manfred(1998), Carl Schmitt und der deutsche Katholizismus 1888-1936, Paderborn: Schoningh.
●Jay, Marin(1993), Force Fields, London etc.: Routledge(今井道夫他訳『力の場』法政大学出版会、1996)
●古賀敬太(1999)『カール・シュミットとカトリシズム』(創文社)
●深井智朗(2000)『政治神学再考』聖学院大学出版会
●Mehling, Reinhald(2009), Carl Schmitt: Aufstieg und Fall. Eine Biographie Munchen: Beck.
●Schmitt, Carl(1922), Politische Theologie, Munchen/Leipzig(=長尾龍一訳「政治神学」、長尾編『カール・シュミット著作集 T』、慈学社、2007)
●------ (1923), Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentalismus,Munchen/Leipzig.(=樋口陽一訳「現代議会の精神史的状況」同上)
●------ (1932), Der Begriff des Politischen, Munchen/Leipzig: Duncker &Humblot.(菅野喜八郎訳「政治的なるものの概念」、同上)



議論

深澤氏は、近代宗教学における文脈の問題、及び文脈をめぐる用語の整理をした上で、カール・シュミットの「政治神学」を再文脈化という語にひきつけつつ理解を試みた。会場からは、まずヴァルター・ベンヤミンの「ドイツ悲劇の根源」や「ゲーテの『親和力』」を引き合いに出しながら、「主権者」や「決断」について補足が行われた(久保氏)。次いで、事前資料と発表からの発想として、図像及び視覚表象と再文脈化の可能性が示唆された(安川氏)。さらに、シュミットにとってのカトリックの位置づけに関する質問、及びフレドリック・ジェイムソンの「消滅する媒介者」とフェルキッシュを比較する視点が出た(大杉氏)。大学院生からは、用語の整理と関連して、シュミットと神学の関係と、発表者とシュミットのテキストの関係との類似性について質問が出た。さらに、愚直にテキストに向かうという発表者に対し、そうした研究姿勢とシュミットの真意を問う作業との差異について確認する質問が出た(井川氏)。


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第三回 ヴァーチャル・インタラクション?――もしくはインタラクションの曖昧(安川 一)

資料


議論

安川氏は、事前資料で議論した私の経験とコンピューターとのインタラクションの事例を参照しつつ、イメージ図を含んだパワーポイントを通して、様々なことが生じている中で、その一部であるフォーカルなイベントを結び付けてゆくことで生成される文脈について問題化した。  会場からは、まず、事前資料でインタラクションにおけるヒト信仰の呪縛を捨て去ることを提唱しているが、そうしたヒト信仰をなぜ受け入れているのかというヒト信仰の機制についての質問(大杉氏)が出た。次いで、質問はパラレルワールドに関して集中した。特に、そこに含意されている同時性とダラダラと続く経験におけるリニア性という、意味ある経験によって産出される主体の時間性についての質問(井川氏)、ライプニッツの可能世界論との違いといった用語の定義についての質問(古茂田氏)、また、参加大学院生からも仮説/仮設、舞台裏との違いについての質問が相次いだ。


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第二回 問題関心共有のためのリレー講義(大杉 高司)

T.これまでの研究:「脱/文脈化」に引きつけて

1.クレオール論

1)背景

ポストコロニアル論における異種混淆性≒脱文脈化の礼賛(クレオール主義、クレオリテ、アプロプリエーション、ミミクリー、越境etc.)

2)問題意識

複数性を統御する主体の反復、ポストコロニアルな世界像の画一性、ディアスポラ知識人の自画像の投影、結論先取り(=包摂)と排除の暴力

3)議論

無為の共同性(ナンシー)、非同一的なるものの凝集力(アドルノ)、静止状態の弁証法(ベンヤミン)?を地べたに這いつくばって追跡。
→「この人を見よ!」的スタンスから、脱/文脈化の「日常性」へ

4)余白

学問の手法としての近代的リフレクシヴィティ(a laギデンズ)から、自生的脱/文脈化の追跡へ→T‐2‐3)

文献

●「黒い処女の魅惑」『異文化の共存』所収(1997岩波)
●『無為のクレオール』(1999岩波)
●「非同一性による共同性へ/において」『人類学的実践の再構築』所収(2001世界思想社)


2.アイロニー論

1)背景

キューバにおけるドル経済と宗教、ポスト(or後期)社会主義における啓蒙主義的歴史認識の支配、時間的・空間的文脈の内/外の境界画定

2)問題意識

人類学における二つの理論的方向性の分裂生成、「埋没」と「距離化」の同時性・二重性(=アイロニー)を語る言語の貧困

3)議論

(1)マルクスの労働価値論/価値形態論の捩じれの「反転」としての儀礼実践(二重性の複数的あり方)
(2)ごっこ遊び理論=論理階型縫合論(ベイトソン)、フレーム分析(ゴフマン)への迂回から人類学の伝統的対象再訪
(3)アイロニー(脱/文脈化)のモードの複数性の確認
(4)解説者ではなく翻訳者としての人類学者

4)余白

対象との垂直的関係から水平的関係へ→ラトゥールらのANTと近接U‐1‐4)But 垂直性のモードの水平的比較

文献

●「神々の〈物質化〉−あるいはキューバのマルクス」『シンコペーション−ラティー/カリビアンの文化実践』(2003エディマン)
●「提起再論:ポストコロニアル論は人類学にとって自殺行為だった」『くにたち人類学研究』(2008)
●「〈アイロニー〉の翻訳−ポスト・ユートピアが人類学に教えること」『ポスト・ユートピアの人類学』所収(2008人文書院)


3.フェティシズム論

1)背景

サンテリーアの儀礼実践における神々の「物質化」→T‐2‐3)‐(1)、唯物論(政治)と物神崇拝(宗教)の相互排他的文脈化と境界侵犯(脱文脈化)の反復性、サンテリーアをめぐる二つのマスター・ナラティブ(統治技術知と民俗学)の支配=政治と宗教の対立の入れ子的反復

2)問題意識

政治を宗教に回収するか(カリスマ論、政治文化論、イデオロギー分析、いわば文脈化論)、宗教を政治に回収するか(政治的道具主義、イメージ戦略、イデオロギー操作、いわば脱文脈化論)の二者択一の貧困

3)議論

(1)もうひとつの脱文脈化(論文では脱領域化つまりロシアコネクション)が浮かびあげるガストン=アグエロの脱文脈化(境界侵犯)の文脈依存性。
(2)ガストン=アグエロ(cum レーニン・エンゲルス)という文脈(地)が浮かびあげるマスター・ナラティブの物神崇拝(a la フロイド)(図)の脱/文脈化

4)余白

「パリ−北米−キューバ」ネットワークと「スイス−ロシア−キューバ」ネットワーク。物神崇拝(という脱/文脈化)の複数性。ボーダー・フェティシズム(スパイヤー)。ラトゥールの時間認識の相対化→U−2−1)。

文献

上記「神々の〈物質化〉」に加え、
●「〈信〉のゆくえ−冷戦後キューバの宗教復興」『季刊民族学』(2003)
●「ある不完全性の歴史−二〇世紀キューバにおける精神と物質の時間」『文化人類学』(2004)
●「キューバ革命の『近代』−『恥ずかしがらない』唯物論からの眺め」『文化としての社会主義(仮題)』(2010出版予定:「唯物論と物神崇拝−ガストン=アグエロという忘却の穴から」として口頭発表)



U.これからの研究のヒント

1. B・ラトゥールのActor Network Theory(ANT):科学人類学

1)社会的ネットワーク論からの継承

カテゴリー=文脈*破壊的スーパー実証主義but…*階級、政治的帰属、教育、親族、エスニシティー、ジェンダー、イデオロギーetc.

2)ヒト以外の、モノ(ex空気ポンプ)、自然(ホタテ貝)、制度、知識のアクタント(メディエーター)としての地位に注目
3)社会/自然の分断(=純化)の拒否

ただし社会構築主義ではない→キャロンへ

4)垂直的(天下り的)分析から水平的ネットワークの追跡(→P・ブルデュー批判)

諸事実がネットワークに支えられて「自明の事実」ないし「真実」として存在させられていることを明るみに出す=ブラックボックスを開ける

2.B・ラトゥールの問題点

1)時間認識の特異性=脱/文脈化の特異性

「ラムセスU世は結核で死んだのか?」(Latour2000:247)未来の不確定性の先取りと現在知の不安定化(マッハ=ボグダーノフと類似cf.レーニン=フィデル=アグエロにおける「先取りされた確定的未来へ漸近していく現在」)
→cf.アイロニーの翻訳の議論

2)普遍理論、ネットワークの単一性、美学=型の複数性に対する配慮の不在、垂直的思考の偏在への無関心→脱/文脈化の複数性へ

→U‐4

3.M・キャロンのANT:市場の経済人類学

1)経済学の遂行性

「ホモ・エコノミクスはたしかに存在する。しかしそれは非−歴史的な現実ではない。ホモ・エコノミクスは人間存在の隠された本性を描写するものではない。それは構成プロセスの結果なのである」(Callon 1998:22)

2)フレーミング/オーバーフローイング=脱/文脈化の恒常性

合意に達するためのフレーミングの不可欠性→フレーミングの宿命的不完全性→オーバ・フローイングの必然性→絶えざる再フレーミング
ex.)車の売買、臓器売買、工場への投資、特許

「社会学はこの抽象的エイジェント(ホモ・エコノミクス)に、少しばかりの魂−彼らに欠けている人生や温かさといったもの−を与えようとして、価値やら文化、規範や情熱といった諸々の概念を動員する。しかし、経済的エージェントを豊かにしてやる(enrich)必要などない。…私たちが社会学に期待するのは…彼の単純さや平板さ(poverty)への深い理解なのである。」(ibid. : 50)→D・ミラーとの論争

4.M・ストラザーン:ネットワーク比較の人類学(名付けby大杉)

1)ネットワークには長さがある:ネットワークを「切る」ことの重要性

社会科学がハイビリディティ概念に逃げ込むことへの痛烈な批判。「人間が直面している課題は、人間関係を維持することというよりは、…関係性に制限をもうけることである」(Strathern 1999:529)
ex.)C型肝炎ウイルスの知的所有権、婚資の支払い

2)フレームの内/外の関係の複数性(Strathern 2002)

ex)特許におけるinternalized exteriorityと、新生殖医療に関するカナダ王立委員会報告書のinternal exteriority/external interiority

3)ネットワークの「美学Aesthetics」のLateralな「比較」

→T‐2‐3)‐(3)
ex.)パプア・ニューギニアにおけるブタ、米国冷凍胚訴訟(Strathern 1999:45-63,138-159)
cf. Analise Riles The Network Inside Out



参考文献

●Callon, Michel ed. 1998 The Laws of the Markets. Blackwell Publishers.
●ラトゥール、ブルーノ2008『虚構の「近代」』新評社。
●Latour, Bruno 2000 On the Partial Existence of Existing and Nonexisting Objects. In Lorraine Daston ed. Biographies of Scientific Objects. The University of Chicago Press.
●------2005 Reassembling the Social: An Introduction to Actor-Network-Theory. Oxford University Press.
●Strathern, Marilyn 1996 Cutting the Network. The Journal of Royal Anthropological Institute. 2(3):517-535.
●------1999 Property, Substance and Effect: Anthropological Essays on Persons and Things. The Athlone Press.
●------2002 Externalities in Comparative Guise. Economy and Society 31(2):250-267.



議論

大杉氏は事前資料と当日配布レジュメを通して、これまでの自らの研究の変遷を辿りつつ、どのように「脱文脈化を思考する」作業の必然性に至ったのかを説明した。その上で、今後、「脱文脈化を思考する」ために共有すべきと考えられる理論的枠組みを提示した。会場からは、脱文脈化という概念の用法をめぐる質問(深澤氏)、ラトゥールのホッブズ解釈の是非といった質問(古茂田氏)が相次ぎ、参加大学院生からも質問が出た。また、ベンヤミンのイメージの弁証法と、翻訳論及び歴史哲学論(久保氏)、表象分析の行き詰まりに対する文学理論における情動論的転回との関連でコメント(井川氏)が出た。さらに、次回発表者である安川氏からはフレーム概念の実体化の陥穽にかんがみ、フレーミングとして遂行的に捉えなおすことが脱文脈化を捉える上で有効との指摘があった。

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