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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その三十五

時計で時間を確かめた。十二時四〇分。飛行機は十四時〇〇分発だが、ビジネスクラスに加えて荷物がなしという状態なので、チェックインのリミットは十三時四〇分と踏んでくれ、というのが音声マニュアルの指示だった。

まだ一時間の猶予がある。タクシーを乗り継ぐだけのルートなので、いくら遠回りしても十分に間に合うはずだった。

最初、僕には確かに余裕があった。たとえば、梅田の喫茶店で探偵を待った晩などとは、比べようもなかった。二十分が経過した頃、思い立って、航空券と一緒に同封された一枚の紙切れを開いた。偽造パスポートの仲介人の連絡先が記された紙だった。

思わず、息をのんだ。住所にも電話番号にも見覚えがあったが、とくに名前は忘れようもなかった。「ナオミ」である。

ターミナルビル全体がかげろうのように揺らめきだした。偶然の一致か、とつぶやいたが、それにしては出来すぎている。もしかして、ナオミという人物は実在しており、偽装パスポートで荒稼ぎしているのか。いいや、住所も電話番号もウソであることは確認ずみだ。では、ひょっとするとカタミには、僕の知らないブラック・ジョークの趣味があって、もう一段どこかで僕を脅かす仕掛けを用意してるのか。違う。この期に及んで、何の仕掛けがあるというのだ。

一億五千万円を巻き付けた体はどくどくと脈打ち、僕はどんな小さな望みも逃すまいとして、目を見開き耳をそばだてた。だが事態はあまりに明白に思えた。今まで気がつかないのが不思議なくらいに、明白だった。

振り返ればカタミは、二十億円の持ち主ということを知って僕に声をかけた。僕は彼の持ち出す儲け話に乗っかり、三億円の投資で三十億円を荒稼ぎして、カタミたちに四億五千万円を分け与えた。だがそのあとでは、彼らに三十億円の借金をつくって実質十億円を儲けさせた。さらには今朝の十億円の借金によって、七億円近くを儲けさせたことになる。

収支決算はどうなったか。

カタミたちは、合計にして二十一億五千万円を手に入れた。しかもこのうち、税金の対象となるのは、はじめの利益四億五千万円でしかない。一方の僕はといえば、二十億プラス三十億の合計五十億円のカネの中から、彼らへ四億五千万円を支払い、さらに借金四十億円を差っ引かれる。残りは五億五千万円となるが、これが終わりではない。税金があるのだ。短期土地譲渡税として十二億円近くもっていかれるから、僕の勘定はなんとマイナス六億円以上になってしまう。要するに、カタミたちは僕から暴利をむさぼり、僕を丸裸に、いや借金漬けにしたのだ。

僕にははっきりとみえてきた。トランクを引いた旅行者、話に興じている見送りの人、カウンターで笑みを浮かべるスタッフ。誰もが網膜上にぼんやりと浮かぶだけだったが、彼らのうごめきのはるか高みに、くっきりと鎮座するものがあった。カタミのとりすました顔である。

くりっとした瞳、厚く柔らかくうるおった下唇、そして格闘家のような太い首が、そろって札束の輪で神々しく飾られて僕を見下していた。その顔は、ゼロの行進を引き連れた巨額な数字で圧倒的に守られており、どこからどう射抜いても傷つくことのないまま、うっすらと嘲笑を返すのだった。

「簡単でしたよ、あなた」

彼から一瞥を受けた僕は、自分の背後にぞろぞろと同類たちの揺れ動く気配を感じた。誰もがカタミをつうじてつながり、カタミの手の上で踊ったのではないか。

ムネオカと組んで四億円を二十億円に膨らませた奇術部のOB。その二十億円を手にした僕。僕から二億円を借りたオオハラ理事長。理事長が雇った探偵。

そういえば、探偵の寡婦だって同類ではないか。彼女が異様にがめついというのはカタミから聞いた話にすぎず、ひょっとすると二十億円の遺産さえ知らされてないかもしれない。僕が手渡した二十億円は、そっくりそのままカタミに渡った可能性がある。なにしろ、探偵の死を単独でみとったのはカタミなのだ。

「一生懸命に助けようとなさった、と聞きました」と僕が言うと、カタミはいわくありげに答えていた。「ま、どっちにしても助からなかった気がしますがね」 探偵ののどに手を突っ込んだ彼は、食パンをとりだすふりして奥へと突っ込み、人工呼吸を装って口を塞いだのでないか。

おそらく彼は探偵の胸ポケットをまさぐり、金庫の鍵を取りだす一方で、探偵のスケジュール帳を的確な判断で戻した。そうやって僕の二十億円をせしめただけでなく、僕をさらなる窮地へと追い込み、今朝また十億円を手にすることができたというわけだ。

みごとである。ここまで餌食にされれば、「どうぞ勝手に」と言いたいほどだ。だが、勝手にされてならないものが、僕にはまだあった。横にたたずむミヨと、もうじき目の前に現れるはずのクミコだ。なにしろ僕は彼女たちのためにこそ、カタミの仕組んだ罠へと飛び込んだのである。

クミコはきっと間に合う。そう僕は判断した。カタミは決して自分の汚れを残す男ではない。僕らがこのまま出国できず、警察の取り調べを受けて罪を認めた場合には、彼の名前があちこちに出てきてしまう。だからカタミは、是非とも僕らをマニラ行きの飛行機に乗せるだろう。府警の上層部にもつうじた彼のことだ。それくらいの段取りは、すでにつけたのではないか。

クミコさえ来てくれればよい。僕は血色の闇に落とされた気分で、彼女に最後の最後での救済を託した。ク・ミ・コ。意地らしく滑稽で、どこまでも謎めいた女。そう心でつぶやいたとき、胸騒ぎが襲った。確かに彼女は、謎めいている。想像もできないような何かを秘めている。

僕はみる間に、いてもたってもいられなくなり、宙を踏むようにして近くの電話まで走った。受話器を上げてメモ帳のページをめくり、カタミの自宅にダイヤルした。

「タダイマ、留守ニシテオリマス。ゴ用ノ方ハぴーっトイウ発信音ノアトデ・・・」

留守か、居留守か。あるいは、車で移動中かもしれない。自動車電話の番号を押して、受話器を耳に押し当てた僕は茫然とした。誰かが電話を取り、くぐもった声とあやしい息づかいを伝えたのだ。

とろける脳を描くには、図抜けた想像力が要る。でもカタミとクミコのキスシーンなら、思い浮かべるのに難しくなかった。

ばかな、と首を振って受話器を置いた僕だが、もう一度ダイヤルして耳をそば立てた。今度は呼び出し音が響くだけで、応答がない。

ばかな、とふたたび首を振った。根拠がないばかりか、カタミには何の得もない結末じゃないか。脳のとろけるような快感を別にすれば、である。

僕は電話をかけつづけた。きっと悪魔に向かって「あかんべえ」をする形相だったろう。いや、「あかんべえ」をされた悪魔の形相だったかもしれない。電話に出てくれ、話したいことがある。カタミ、クミコ、聞いてくれ、と心で叫んだ。

夢だ。僕はその瞬間、目をしばたいた。なんとカタミとクミコが、こちらに向かって走ってくるではないか。

カタミはゴアテックスのジャンパーを着こんだまるまるとした姿で、クミコはコートも重ね着のワンピースも脱ぎ捨てた(でも、どこで?)軽装で、出発ロビーの入り口を駆け抜け、出発便カウンターめがけて走ってきた。

カタミは角刈りの額にしわを寄せ、息苦しそうに口をもぐもぐさせていた。あとにつづくクミコは、鬼の形相で切れ長の目を光らせ、人差し指と中指でカタミの背中を断続的に突いていた。ふたりともせっぱ詰まった、ただならぬ妖気を発して、ロビーいっぱいにガニ股の靴音を響かせた。

わずか十数秒の駆けっこだった。受話器を握ったままで唖然とする僕と壁際に立ちつづけるミヨとの間に、彼らは飛び込んできた。

「おら、おら、おら」

どすのきいたクミコの声がカタミのうしろから上がった。

「飛びや!」

クミコは激昂していた。

「飛ばんかい!」

耳をつんざく轟音が炸裂した。その瞬間、カタミは競泳選手のように両手を上げて飛んだ。ふわっと宙に浮いたと思いきや、床にヘッド・スライディングしたのである。

「おら、おら、おら」

クミコは殺気だったまま、カタミの上に飛び乗った。白タイルの床に伸びる男は、血まみれの顔を横にして口を歪めていた。その歪んだ口の中に手を入れたクミコは、何かをつまみ出した。ピンクと黄色の毛玉が二つ。どちらも血の混じった唾液に浸かり、糸を垂らしていた。いかにも不潔なものをつまむ仕草で、彼女は僕の真横にあったゴミ箱まで歩いてきた。

出発ロビーに散らばる人々は、誰もがかたずを飲んで彼女の挙動を見守っていた。糸の垂れた毛玉がゴミ箱へと落ちると、彼らはとりあえずほっと息をついた。

このときクミコがスカートのポケットからすうっと取りだした品物に、気をとめたひとはいなかった。毛玉を捨てた手がゆっくりと宙を漂って注目を集める間、彼女は反対の手でさりげなくそれをゴミ箱に捨てた。

「お待たせ」 彼女は肩で息を弾ませて、僕の方を振り向いた。うってかわった晴れ晴れとした表情だ。「チェックインしに、いこ」

ひとが動きはじめてひそひそ声が飛び交う中、僕らはミヨを間にはさんで、出発便カウンターに並んだ。うしろを振り返ると、カタミのまわりに人垣ができている。

「迫力満点だったよ」

僕は賞賛の目でクミコをみた。

「あいつ。うちのこと、昔から食い物にしよって。許せんかった」 そう言う彼女は、憑き物がとれたようにすっきりとしてみえた。「最後の最後に、こらしめたったわ。ムネオカの残したピストルが役に立った」

圧倒されて沈黙した僕だが、どうにか言葉を返した。

「ムネオカに教わった奇術も、だろ?」

「みてたの?」

驚くクミコをみつめて、僕はゆっくりと頷いた。彼女は奇術と同じ要領で、人前で凶器を始末したのだ。つまり、今朝キャットフードを抱えるときにふところへ隠したものを、そして先ほど、カタミの背中を突く前にポケットにしまい込んだものを、巧みに処分したのである。

「それにしてもピストルなんか、今まで家のどこに隠してたの?」

「あとで飛行機に乗ったら、教えたる」

いわくありげな答え方だったが、楽しい空の旅がはじまると質問を忘れてしまった。

もっとも、忘れなかった別の問いがある。今日まで彼女に尋ねるのをためらってきた疑問である。

カタミの口に、どうやって毛玉が二つも入ったのか?


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