Pulp Fiction
バブル・ザ・バブル « « 表紙へ «« 前へもどる その三十四 休日の朝九時半。チャイムが鳴って受話器を取ると、『明星新聞』を名乗る男が出た。僕は前夜に用意した古新聞の束を脇に抱えると、できるだけ平然を装って玄関へと駆けつけた。立っていたのは、大きな集金カバンを下げた二十代の真面目な風貌の青年だった。 でも、さすがにカタミの筋から送られた男だ。彼は扉を閉めるなりカバンを開けて、袋詰めの札束をぽんぽんと床板に放り出した。放り終えてから航空券と思わしき薄手の封筒を添えると、最後に大封筒を取りだし、記憶にあたらしい書面を僕の目の前に並べた。借用証書と領収書がセットになったあの書面である。 前回同様にどれもゼロが八つ並んでいたが、今回は頭の数字が「二」から「一」に変わっている。つまり、一枚につき一億円が記されている。書類は全部で十組の二〇枚。男からボールペンを受け取り、矢継ぎ早に署名をしはじめた僕は、航空券三枚に一億円の値がついているのに気づいた。 男はすでにそのとき、朱肉の蓋を開けてこちらに差し出していた。僕は返済期限も貸主の名も読む余裕がないままに、押印を二十回繰り返した。押印するごとに、男が出来上がった書類を取り上げ、空っぽのカバンにしまった。最後に床板に置いた僕の委任状を入れると、彼は古新聞の束を素早く押し込んでカバンを閉じた。 「悪うました」 押印を終えた僕が顔を上げるよりも早く、男はカバンを脇に抱え、頭を深く下げていた。きびすを返して引き戸に手を掛けた彼は、すでに先日の二人組同様に、僕のことなどつゆ知らぬ顔をしていたはずだ。 とき遅しとはいえ、僕は袋の中の札束を確認し、航空券に目をとおした。フィリピン航空のビジネスクラスの券が三枚入っていた。出発地はもちろん大阪伊丹空港で、行き先はマニラだった。 「あんた、急がにゃ」 クミコが意外な素早さでそばに寄って来た。ストッキングの束と一緒にスカートとズボンを両腕に下げた彼女は、その場にしゃがんで札入れ作業をはじめた。 「大丈夫だね?」 作業に加わった僕は、イメージ・トレーニングの最終確認をした。 ゼロ。タク・タク・タク。 イチ。タク・デン・デ・デン・デン・タク・タク。 早口言葉が好きなクミコのために、特別にあつらえた労作だった。 「ゼロ」と「イチ」は、それぞれ尾行警官の人数をあらわす。「タク」はタクシーに乗ること。「デン」は電車に乗ること。そして「デ」は、「ほとんど電車に乗る」という意味である。 「ゼロ。タク・タク・タク。イチ。タク・デン・デ・デン・デン・タク・タク」 クミコはこの句がよほど気に入ったらしく、作業の最中にもさかんに口ずさんだ。 「ゼロ。タク・タク・タク。イチ。タク・デン・デ・デン・デン・タク・タク」 彼女は娘と自分の体にストッキングを巻き、それをシャツとスカートで覆い、さらにワンピースを重ね着したが、その間ずっと暗唱をやめなかった。 最後に三人して薄手のコートを羽織ると、僕が言った。 「行こうか」 「待って、待ってや」 彼女はどた足で廊下を駆けて台所に入った。何かよほど大切なものだろう、と思う間もなく玄関に戻ってきた。片腕にキャットフードの大袋を抱えて、もう片腕はコートの下に突っ込んでいる。 「一ヶ月分てとこか」 クミコが大袋を開ける間、僕は細く開いたサッシの向こうに目をやった。黒土の庭に、黒猫ミォがすまして坐っている。どうやっても連れて行ってもらえないことを、承知しているらしい。やはりプライドが高い。 あの木に上ることも、二度とないはずだ。僕はケヤキを一瞥してからミォに目で別れを告げると、ミヨの手を引いて玄関に降りた。 「ゼロ。タク・タク・タク。イチ。タク・デン・デ・デン・デン・タク・タク」 くれぐれも小声でと注意したが、クミコの暗唱は刑事たちの耳に入らないか心配するほど勢いがよかった。 小さな門を閉めて路地に出たとき、早くも電柱の影に、張り込み中らしい男一人をみつけた。三人で表通りに出た際に振り返ると、男は位置を変えている。やはり、張り込みだ。 僕は全神経を張りめぐらせて、ゆっくりと大通りに向かった。途中二度ほど立ち止まり、ミヨの服を直すふりして前後左右に素早く視線を配った。それらしい男は先ほどの一人だけで、一定の距離をとってあとをつけてくる。 二人目、三人目の張り込みはいないのか。大通りに出るとさらに警戒して、停車中の車や歩道橋の人影を目で追った。いない。張り込みは一人だけだ。 人数確認を終えた僕は、即刻タクシーを止めながら、クミコに叫んだ。 「あの男だ。茶色のオーヴァーを着た太っちょ。いいかい。よく見ておくんだ」 クミコはさりげなく目をやったあと、暗唱を再開してタクシーに乗り込んだ。 「ゼロ。タク・タク・タク。イチ。タク・デン・デ・デン・デン・タク・タク」 「すぐに乗り換えるんだぞ。いいね」 ドアが閉まると、彼女の唇が動き、運転手に行き先を告げているのがわかった。 問題は茶色のオーヴァーがどう動くかだ。予想したように、彼は走りすぎるタクシーに駆け寄ったあと、手帳を取りだしてナンバーをメモした。次に、眉間にしわを寄せた険しい顔で僕を振り返った。僕とクミコのどちらを尾行するか、思案中らしい。 警察署に連絡する時間を与えないために、僕はすぐさま後続のタクシーを止めて、ミヨと乗り込んだ。 「石切」 運転手に、近場の鉄道駅の名を告げた。急行が止まる駅であり、僕は大学に出かけるたびにそこで乗り降りする。 走り出したタクシーの窓から振り返ると、案の定、張り込みの男は僕を追うべくタクシーを止めていた。それから十分後、支払いを済ませてミヨの手を引き下車した僕は、男が後続のタクシーから降りるのを確認した。 駅の改札をくぐりホームに出ると、さっそく急行が来た。登美ヶ丘に行く電車だ。僕はミヨを連れて乗り込み、ドアのすぐ横に並んで立った。 発車して間もなく、ゆっくりした仕草であたりを見まわすと、茶色のオーヴァーは隣のドアにもたれて窓外をながめている。ちらりちらり目をやるごとに、男と視線が合いはじめた。僕はなるたけ視線を避けるために、伏し目がちに頭を動かすことにした。 急行が最初の駅に停まった。下車するのでは、という男の警戒がぴりぴりと伝わってきた。簡単には降りるまい。僕は決意した。 一つ目、二つ目の停車駅が過ぎても、僕は動かなかった。登美ヶ丘まであと二つとなったとき、そろそろよかろう、と判断した。男はきっと、僕が登美ヶ丘に行くと踏んでいる。 「学園前」 ドアが開いて、駅名のアナウンスが響いた。乗客が乗り降りしても、僕は知らぬふりを決め込んだ。発車のベルが鳴った。いよいよドアが閉まろうと動いたとき、僕はミヨを抱きかかえてホームに飛び降りた。 背後で扉が途中でとまり、再度開くのがわかった。きっと茶色のオーヴァーが、あとを追って飛び降りたのだ。僕は電車に目をやり、窓ガラスに反射する彼の姿を確認すると、ミヨを抱きかかえたまま何くわぬ顔で先を歩いた。そしてもう一度ドアが閉まろうとしたとき、前方の車両に飛び込んだ。 今度は扉の動きが中途で止まることはなかった。後方を振り返ると、ホームに置き去りにされた男が外からドアを叩いている。やった。僕は笑いをかみ殺し、昨夜からの一句を口ずさんだ。 「イチ。タク・デン・デ・デン・デン・タク・タク」 尾行一名の場合のイメージ・トレーニングどおりに、前半の「タク・デン・デ・デン」を実行したのである。残るは、「デン・タク・タク」だけになった。 登美ヶ丘で急行を降りると、ミヨの手を引いてホーム反対側に来た電車に乗り込んだ。次に、この電車も一駅だけで降りて、駅前からタクシーを拾った。さらに、東大阪市の国道一七〇号線で別のタクシーに乗り換えてから、いよいよ伊丹に向かった。 こうして最後の「デン・タク・タク」を成し遂げた僕は、ミヨと一緒に空港のトイレに入った。ふたりの重ね着を取り去り、薄手のコートもゴミ箱に投げ入れて、かなりこざっぱりした気分になった。 出発便カウンターの近くまで行ったが、クミコはまだ来ていない。ともかく、あとはミヨと並んで待つだけだった。クミコには尾行が付かなかった。だから、「ゼロ。タク・タク・タク」、つまりはタクシーを三度乗り継いで到着するはずだ。 » » 次を読む |