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Pulp Fiction


バブル・ザ・バブル

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その三十三

「かなり容疑が濃厚ってことになりますね」 カタミはいつもどおり、こともなげに告げた。「あなた方は、いわゆる任意同行、任意出頭ってやつの申し入れを受けてるわけです」

そう言われてもぴんとこない。

「簡単ですよ。どうかあなた方の意志で警察署に出向いてください、とお願いされてるのです」

「それがそんなに、ヤバイことなんですか?」

僕は先ほど青い毛玉が当たったサッシをみやりながら、受話器に耳をそば立てた。すぐ横では、こたつにうづくまるクミコと、クミコに寄り添うミヨと、ミヨの隣りにやってきたミォが、いずれもじっと宙をみている。

「ううん。必ずしもそうとかぎりませんが、お話を聞くかぎりは逮捕まで時間の問題という気がします。あなたが先か、クミコさんが先かはわかりませんが」

静まりかえった冬の夜、背中に氷の板を突然当てられた気がした。

「では、どうすればいいんでしょう」

僕は一人ごつとも助言を仰ぐともつかない口調で、カタミから「簡単ですよ」のひと言が出るのを待った。でもそのひと言は、今回にかぎってなかなか出てこなかった。

「警察ってすごいんですね」

不適切な発言とはわかったが、カタミの言葉を引き出すために何であれ口にしてみた。

「そうですね」

間違いなく彼の言葉が返ってきた。警察を賛美するからでなく、助言を授けるための枕詞だ。

「僕があなたならこうしますね」 受話器の向こうから淀みない声が流れた。「あなたはすでに、探偵の半端仕事のために三十億円の借金をした。つまり、この先、三十億円を返済しなくてはいけません。でも幸いにして、いまならまだ納税の前だから、土地で儲けたカネがそっくり手元にあるわけでしょ。だから一石二鳥の手をとるんです」

え? カタミは言葉を失した僕を正気づけるように、ゆっくりと発音した。

「国外に逃亡するんです」

「え?」

「簡単ですよ。パスポートはもってますか? 三人とも」

クミコが代筆で署名したミヨのパスポート写真が、なぜか瞼に浮かんだ。

「もってますけど」 僕は絶叫する思いで訊いた。「そんな時間がありますか? 明日の朝にも警察が迎えに来るかも知れないんです」

「時間はないでしょう。でも、おカネならあるでしょう」

まるで天気予報を読み上げるように言う。

「おカネだって、ありません。明日は休日で銀行が休みだから、下ろせないんです」

クミコたちの姿がゆらゆらと揺れはじめる中、僕は懸命に空の一点を見据えて応えた。

「だから、一石二鳥と表現したんですよ」

カタミは自信満々の物言いで、イッセキニチョーという音を小気味よく震わせた。

「あなたは今ならまだ、正真正銘の大金持ちです」

「でもそのカネ、下ろせないんですって」と言い終わる前に、僕にも「一石二鳥」の意味がわかった。

「お金に困ったひとを、助けるひとがいるんです」

僕はこの言葉を、ほとんどカタミと一緒に合唱していた。

「いいですか、よくお聞きなさい」 合唱を制するかのように、彼があらたまって言った。「明日の朝、ひとを遣いにやらせます。新聞の集金人が来ても、追い返さないでください。その男は困ったあなた方に、現金を届けます。あなた、クミコさん、ミヨさんの三人にそれぞれ一億ずつ、合計三億円です。かわりにあなたは、九億円の借用証書を書いてください」

「でも」 僕は知りたかった。「万札で三万枚。どうやって海外に持ち出すんですか?」

「ストックングにくるんで、上から下まで全身に巻き付ければいいんです。幸いに真冬だし、大人一人に一億円はいけますよ。ミヨちゃんは小さいから五千万、あなたは大きいから一億五千万、ちょっと重いけど頑張るんですね」

「どこに飛んで行けばいいんです?」

半信半疑のまま、飛行機に乗せられた気分で僕は訊いた。

「いい質問です。ようやくその気になってきましたね」

カタミは一瞬、上ずった声を発した。僕はいまだ知らない彼の素顔を少しのぞいた気がしたが、すぐにいつもの冷静な会話に引き戻された。

「飛行機の手配をしましょう。切符は三億円と一緒に送り届けます。あたらしい借用証書もつけますので、もう一つ署名と捺印がいりますね。大丈夫。この時期、たいていの飛行機はあいているものです。行き先は私にまかせてもらえますか?」

否、と言える立場ではなかった。

「それに」、と気を揉ませる間を入れて、カタミはつづけた。「あたらしいパスポートが必要になるでしょう」

「でも、昨年に発行されたばかりですよ」

「日本を出るときではなくて、日本に来るときのパスポートです」 カタミは声をひそめた。「つまり、別の国籍、別の名前のパスポートですよ」

くらくらとめまいがした。

カタミとの距離が一瞬にして広がり、彼はもう手の届かない人間として、僕の反対側から最終案内のアナウンスをはじめた。

「あたらしいパスポートのために、現地で連絡をとるべきひとの名前と電話番号も、あわせてお届けしましょう」 彼は品格をおとすことなく、語りつづけた。「言い値は国によって違いますが、ひとり一千万円もしません。あたらしいパスポートを受け取ったら、日本人のパスポートをもう一度使って、いよいよその国に入るんです。できたら、パスポートをつくってくれたひとに、行き先の国で連絡をとるべきひとを教えてもらうといいですよ。日本のパスポートは値よく売れますからね」

受話器からろうろうと流れる声に、僕はもはや耳を傾けてはいなかった。いや、本当はそれまで以上に真剣に、一句一句を頭に刻み込んでいった。僕が聞いたのは、カタミという人間の助言ではない。国外逃亡者のための、音声マニュアルだった。

「最後にもう一つ。自筆で委任状をつくってください。抵当権を設定するための委任状です。われわれは借金の担保として、あの一千坪の貸し地をとりたいんです。債権者としての優位を、税務署に対して確保するためです。いいですか? いまからその文章を口で伝えますよ」

長い電話を終えた僕は、即刻マニュアルを実行に移した。

まず委任状を書いてからミヨを寝かすと、クミコにストッキングを総動員させて、聞いたとおりの札入れをふたりでつくった。細長いストッキングにミシンの縫い目を横に入れ、その一つ一つに入り口をつけた。一足につき百万円のポケットが左右の足に五つずつ出来て、つまりは一千万円の入れ物に仕上がった。

ミヨのストッキングを動員しても足りない十足分については、明日着るスカートやズボンの裏側に縫いつけるべく、別途用意を調えた。

すでに深夜の十二時。でもここからが勝負だった。音声マニュアルにしたがって、イメージ・トレーニングを繰り返すのだ。

「おそらくお宅のまわりには、警官が一人か二人、張り込んでるでしょう。あなた方三人はほとんど着の身着のままの格好で、素知らぬふりして空港へ向かうしかない。できたら、あなたがミオちゃんの手を引き、クミコさんはひとりだけで、同時に家を出るべきです。まずは、尾行の人数を確認。次に、別々の方向にタクシーを拾うこと。尾行をまかなくてはいけません。しかも、尾行は援軍が駆けつける前に、まいてしまう必要があります。わかりますか? なあに、簡単です。イメージ・トレーニングを繰り返すのです」

決して簡単ではなかった。イメージは微に入り細に入りつくられていたので、一夜漬けが大変だった。

「違う!」

「ご免。うち、アホやさかい」

これまで何百回と反復してきた儀式だったが、クミコはいつもと違った。彼女は落ちくぼんだ目を異様に輝かせて、果敢にこちらをにらみ返してきた。

すべてが変わろうとしている。僕はしんしんと更ける夜の底で、そう感じずにはいられなかった。巨額な預金を失うだけでない。これまでの身分や名前や国籍をなくすだけでもない。何か決定的なものが、変わりかけていた。


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